自民族言語表現の重要性4(ハングル2)

通信使の日本蔑視態度に戻ります。
通信使がはじまった元はと言えば倭寇取り締まり期待と進んだ日本文化・技術導入期待にあったことによります。
ひらがなという民族固有文字普及による文化底上げ・進歩を自国に取り入れる目的(この結果ハングル文字準備機運が盛り上がりました)で始まったものですし、江戸時代の再開は、日本の再攻撃が怖いので「よしみ」を通じておくとも日本再朝鮮攻撃準備を探る目的でした。
本音を知られたくない・・「ペコペコしにきた」と思われたくないから余計尊大にしているしかなかったのでしょうが、日本から見ると尊大なばかりでバカな連中だくらいで見世物的に思われてきたようです。
日本での絵画表現は異国からカッコウの見世物が来たという扱いです。
朝鮮聘礼使淀城着来図の一部『鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮通信使』

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a8/Chosenjintsushinshi.png

 

 

この辺は今になると否定的研究をする人は少ないし、朝鮮に関しては本当のことが書けない・・(否定的意見を書くと反ヘイトスピーチ攻撃に引っかかる?自制)があって表面には出てきませんが、日本の実用的文物(水車等の動力利用や荷車その他)が日韓併合のころまで全く導入されていなかった結果から見て明らかでしょう。
韓国では独自の歴史教育がされていて反論が許されない状態で結果的に世界的に通用しない荒唐無稽な歴史教育が行われていると言われますが、そのやり方を日本国内教育に強制させようとする動きが急です。
上記図の解説も韓国寄り学者?によると肉食を知らない日本人が驚いたに過ぎない・・日本の方が遅れていたと言うすり替え解説になっていますが、絵の題名を見れば紛れもなく庭先に放し飼いしている鶏(犯罪の少ない日本社会の基礎レベル)を白昼公然と盗む公式使節のレベルの低さに驚く民衆の驚き・文化レベル差を表現したものというべきでしょう。
https://matome.naver.jp/odai/2136687169645192101による記事引用です。
学術論文ではなく、出典不明ですが一応の情報です。
「朝鮮半島の水車の歴史
1429 世宗11年12月3日 日本の水車が凄いと報告
1430 世宗12年9月27日 水車を造ろうとする
1431 世宗13年5月17日 「中国も日本も水車の利を得ているが我が朝鮮にはそれがない」
1431 世宗13年11月18日 日本と中国の水車の研究の記述が散見
1431 世宗13年12月25日 水車導入を試みる
1451 文宗元年11月18日 20年かけて水車の導入失敗
1488 成宗19年6月24日 水車導入の試み(成否不明)
1502 燕山君8年3月4日 水車導入の試み(成否不明)
1546 明宗元年2月1日 水車導入の試み。琉球(沖縄)と中国から福建式水車輸入
以後百年間水車の記述無し。
一方お隣り日本では、鉄砲伝来後3年目にはすでに量産体制。
1583 一方お隣り日本では、口径80㍉のファルコン砲を量産開始(大友宗麟)
1650 孝宗元年5月15日 水車導入の試み 30年記述無し。
一方お隣りの日本では、鉄砲量産10万丁
1679 肅宗5年3月3日 水車を造らせたと記述。そして70年記述無し
1740 英祖16年4月5日 水車など無くなりました『孝宗大王嘗頒遼瀋水車之制於外方, 今無見存者』
1740 英祖16年11月20日 水車を造らせたと記述(18世紀時点でわざわざ記録に残す程?)
1764 1763-64年の朝鮮通信使「日東壮遊歌」(淀城の水汲み水車の感想)
「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」と記述
1781 一方お隣り日本では、水車があまりにも増えすぎて治水工事のジャマなので、水車税を導入(田沼意次)
1795 正祖19年2月18日 水車之制について盛んに出てくる。つまりまだ試作中
1811 純祖11年3月30日 ここの記述で水車なんか必要なのか?と書かれており全く普及していない」
ところで、朝鮮通信使は、室町時代足利義満の時から始まっていて、秀吉の頃にもきています。
この後で紹介するハングル整備に精出した李氏朝鮮第4代世宗は技術面でも上記のとおり関心が高かったようです。
ウイキペデイアでは通信使について以下の通り紹介されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
「朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。」
室町時代の朝鮮通信使は、倭寇への禁圧対策を日本に要請することが当初の目的だった。
通信使の目的には日本の国情視察も含まれており、この時代のもっとも著名な記録は、1443年(正長元年・世宗25年)の使節で書状官をつとめた申叔舟が編纂した『海東諸国紀』である。この書は朝鮮の日本や琉球に対する外交の基礎情報となった
「文化面では、室町時代には平仮名、片仮名といった固有文字の存在に、江戸時代には京都、大坂、江戸といった都市の絢爛豪華さに驚いた。通信使の目的には日本の国情視察もあり、1428年(応永35年・世宗10年)の正使だった朴端生は、科学技術に関心の高かった世宗から日本の技術の調査を命じられていた。1471年(文明3年・成宗2年)に刊行された申叔舟の『海東諸国紀』によると、調査項目として倭寇の根拠地の特定、倭寇と守護大名、有力国人、土豪との関係、都市の状況、通貨政策など国力の観察、水車などの技術、仏典の扱いなど仏教の状況、交通事情をはじめ15項目があったという。『海東諸国紀』には日本の地図も収められており、江戸時代には日本でも同書の写本が流通した[38]。
以上のとおり通信使の記録による立派な本ができているのに、朝鮮社会でこれを活かせなかったのは何故でしょうか?

上記紹介したとおり、何百年も水車作りに挑戦しても実用品を作れない結果を見ると民度レベルが数千年遅れている可能性もあります。
本当のことを報告できない社会体制・・本当のことをいうと失脚のリスクが高いので気心の知れた仲間内でしか話せない窒息社会は・・英邁な君主・世宗の次の時代あたりから出来上がっていたのでしょう。
今の韓国政治家が表向き大言壮語しながら、裏で国内事情を説明して「何とかしてくれ」と頼む常套手段が昔から行われていたのです。
韓国は通貨危機再来を恐れて、日本に必死になってスワップ協定を頼みながら、国内では「日本が困っているから助けてやった」と説明していたらしいですから、日本は朴政権による慰安婦攻撃以来、表面で日本攻撃しながら裏でこっそり頼んでくるずるいやりかたに応じない姿勢に変わりました。
麻生副総理・財務大臣は再三「韓国が協定して欲しいならば検討する」という態度を明らかにした結果、韓国政府が日本を助けるためにスワップ協定をしてやったと国民に威張っていた手前、今更公式に日本に「お願い」できずに困っている状態です。
世界最大純債権国日本が何の必要があって韓国に相保証を求める必要があるのか・・世界中の人が聞けば呆れるような論理で自己満足して来たのが韓国政府であr民族レベルです。
慰安婦 や徴用工の問題も日韓条約で解決したのに、国民に説明・分配せずに日本から得た資金を政府の懐に入れてしまったことが基本的原因です。
このように韓国・朝鮮人は歴史が始まって以来、実際と天地逆転の政治行動をすることに日本人からすれば明々白々なことでも嘘を言い張ってシラを切り通す・「恥を知らない」民族です。
今年5月就任した文大統領は、日韓慰安婦合意を無効化するとは言えないまでも、「国民感情が・・」と「政府合意と国民は別」という二枚舌を使おうとしているのはその1変形です。
外来文化を受け入れて消化できるほどの独自文化がない民族では、外来文化そのものを丸ごと受け入れて自国文化のように思い込むしかない・・自国独自文化をモテない悲哀というべきでしょう。
韓国では孔子に始まって色々な中国や日本起源のものを何でも自国起源だと言い募る不思議さの基礎がここにあります。
日本が幕末から明治にかけて欧米の近代用語をすべて自国の漢字熟語に変換して置いたので、中国や韓国は(他民族言語を自民族語に変換した歴史経験がないので中韓民族には無理)そのまま利用出来たのでその流用で間に合う・自分で努力・創作する必要がなかったので英語圏に入らなくともなんとか現在社会がなり立っている状態です。
ただし韓国に限っては日本語のヒラカナに相当するハングルしかないので抽象的概念を利用した思考訓練には不向きといわれていますが、ハングルはひらがなのような完全な表音文字に過ぎないといえるか気になります。
韓国人の多くがひらがな思考で生きているって言われますが、ノー(脳)タリンは別として普通の知能の人がひらがなのようなもので表現した幼児が理解する程度の熟語レベルで物事を考える社会・・単純思考で現在の高度社会が成り立つのか?そんなことが可能かな?と言う疑問でしょう。
ハングルとはなにか?ですが、私は現在流通しているハングル自体を知りません。
李氏朝鮮第4代王の世宗の推進した「訓民正音」は(漢字の素養がないものに発音を教える記号)」「民を訓(おし)える正しい音」と言う意味らしいですから、これを元にして表音記号に過ぎないという説が普通に流布されているのかもしれません。
しかし、これは独自文字を持つことに反対する昨日紹介した諮問機関の反対を押し切るための政治的方便だったとも言えます。
そうとすれば、表面の公式意見としてはまさに発音記号でしかないのですが、他方で同音でいくつもの意味を持つので間違いやすいとも言われている実態とも合います。
上記政治的解決のための公式意見は政府を縛るかも知れませんが、言語は生きものですから、実態に合わせて解釈すべきで、額面通りに受けとると間違いのもとです。
漢字とひらかなの中間的なものであった上に、表音文字にしては、ハングルの文字数が多すぎるのはこのような背景がある結果でしょうか?
ちなみにパソコン用の文字数で言えば以下のようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB#.E3.83.8F.E3.83.B3.E3.82.B0.E3.83.AB.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E8.AA.A4.E8.A7.A3
「字母を組み合わせて作られる文字の理論上の組み合わせは11,172文字だが、実際に使用されるのはその半分以下である(1987年に韓国の国家標準となったコンピュータ用の文字セット(KS完成型、KS C 5601-1987)には日常の99%が表記できる範囲として2,350字しか含まれなかった)。」
上記を見るとひらがなの50音やアルファベットの数に比べ多すぎる・・そんなに多くの音の種類が世の中にあるのか不思議ですが、音をあらわすに過ぎないと言いながら実際にはある程度の意味も含んでいる(ひらがな文に漢字が少し入っているイメージ?)のではないでしょうか?
世宗の言った「訓民正音」論は反対派をおもんばかった政治的発言に過ぎないと見るべきでしょう。

自民族言語表現の重要性3(ハングル1)

李氏朝鮮第4代の世宗がハングル文字を整理し普及させようとした事跡をこの後で紹介しますが、そのトキ自前の言語文字を持つのは、漢文化の及ばない化外の地・非文化圏だと言う学者層による反論があったくらいです。
いわば、「自国文字を持たない方が文化度が進んでいる証(あかし」と言うのが朝鮮人知識層の基礎意識だったらしいです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%ABによれば以下の通りです。
「李氏朝鮮第4代王の世宗は、朝鮮固有の文字の創製を積極的に推し進めた。しかし、その事業は当初から事大主義的な保守派の反発を受けた。世宗が設立した諮問機関の集賢殿副提学だった崔萬理は1444年に上疏文で、「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただモンゴル・西夏・女真・日本・チベットのみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」「漢字(中国文字)こそ文字であり、民族固有の文字など有り得ない」と反対した。」
確かに中央文化から離れれば離れるほど、方言など独自性が強くなり固有文化色が強まる傾向があるのは事実ですが、そこには中央の文化をそのまま真似するのがの正しいとする確固とした思想があります。
日本でも、地方の駅ビル内店舗では首都圏と同じチエーン店が出店しているので興ざめすることがありますが、地元にとっては首都圏と同じ店があるのが自慢でしょう。
韓国では真似ばかりでは恥ずかしいという少しのテライもない・いわば開き直り文化が昔から定着していたというべきでしょう。
朝鮮通信使が江戸時代だけでも12回も日本に来ていて、日本の社会の実情を見て自国より進んだ社会生活のあり方を見ても全くこれを報告しないで逆に明や清朝の文化をそのまま受け入れている自分たちに比べて日本が如何に文化の遅れた国か!という報告や吹聴ばかりしていたと言われています。
以下のように室町時代の使節には、立派な報告書があるようですが、侮蔑意識が先にたって社会全般で学ぶ気持ちがなかったから宗主国清朝等にないものは(顔色を伺うのに汲々としていた結果)取り入れられない・・活かせなかったのでしょう。
この辺は明治維新当時、政権交代の連絡今後の徳川政権同様の国交を求める「国書」に「天皇」その他の文言があることを理由に受け取れないとスッタ揉んだの末に江華島沖事件に発展してようやく決着したのも、宗主国清朝に必死に義理立てしていた結果によるものでした。
冊封を受けている朝鮮としては、宗主国以外は全て「王」であるべきあって皇帝を意味する天皇という肩書きそのまま受け取れば宗主国清朝からどのような問責を受けるかも知れないという必死の立場があったからです。
この主張は戦後復活していて、今なお、天皇をあえて「日王」侮蔑的表現に固執しているのは、この歴史に由来します。
ましてその中にこれまで多数回の朝貢を受けてきたが・・今回幕府に変わって天皇の政府に変わったので今後も・・という案内が入っていたのですから、宗主国の目を盗んで2重外交をして来た疑いを受ける…・・一種の謀反の嫌疑ということで、李氏朝鮮としては必死だったのです。
日本としては琉球の朝貢と朝鮮の朝貢を同一視していた歴史があるし、実質的立場から見ても、秀吉による朝鮮征伐の後で(北方民族の圧力もあって)本国を守るために明軍が引き上げてしまった結果、後ろだてのいなくなった日本軍の再来襲を恐れていた朝鮮では、おりから北方から女真族・後の清朝が勢力を広げて来て、日本と挟み撃ちにあうのを極度に恐れていたこともあって、徳川時代に復活した通信使は主に日本の報復的再来襲を防ぐための敵情視察と懐柔にあったので外形上はご機嫌うかがい・内容実質は朝貢に似ていたことがあります。
日本からは1度も行かない仕組も朝貢の形式です。
冊封された王か天皇かの問題では、聖徳太子以来、「日出るところの天子」と自称して来た独立国としての長い歴史があり、これも日本は譲れません。
こんな訳でこじれにこじれて日本では征韓論が吹き出した原因です。
こじれにこじれていた結果、起きたのが江華島事件です。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
江華島事件 年月日:1875年9月20日から同22日 場所:江華島(朝鮮西部、黄海)
結果:永宗城砲台等の破壊の後、雲揚号の戦域離脱による戦闘終了。
日朝修好条規の締結。
戦力  日本                    李氏朝鮮
砲艦1隻                      陸上砲台
海兵隊
(士官・海兵・水夫あわせて約22名が上陸)      (約500名)
損害  戦死 1
戦傷 1                      戦死 35
捕虜 16
大小砲36門鹵獲
明治8年はまだ日本軍の近代化が始まったばかりのころでそれほど火砲系(大砲威力)の差がなかったと思われる上に、すぐに上陸作戦に移行→肉薄戦になると火力の近代化はほとんど意味をなさず兵士の気力と数の差が重要になるはずです。
ところが、水夫を含めてたったの22名の日本兵の上陸攻撃に対して500人の圧倒的兵力と自国民応援のある有利な状況下で迎え撃ちながら、自分からあっさりと負けてしまう朝鮮兵の弱さが不思議です。
しかも戦利品を確保するために4〜5名程度の水夫・兵などが翌日再上陸して大砲などを持ち帰ったというのですから、朝鮮兵が何をしていたのか?不思議な民族です。
上記数字を見ても分かるように22名が上陸して16名の捕虜を連れて船に戻っています。
時系列記録は 以下のとおりです。
午前07時43分 端艇二艘で乗り出し、同島に上陸しようとした時、第一砲台から発砲がある。上陸後八分間の激戦の後、東西北3方向から放火しながら急攻したため、城内守備兵は逃げ去り、同砲台を占拠する。
午前08時20分 喇叭にて退軍を命じ、総員東門の前に集合させ、人員を点検する。井上艦長も兵士の慰労のため上陸する。(日本側/負傷2名但し後に1名死亡)(朝鮮側/死者35名、捕虜16名、その他日本側にて、敵の負傷者及び婦人等の身柄を保護し、安全な場所へ誘導して解放する)
午前09時07分 城内に遺棄した大砲等の武器を戦利品として捕獲し、城内を焼き払う。
午後09時59分 戦利品の雲揚への積込みが完了する。
午後10時30分 島に上陸していた全兵士が雲揚に帰る。
【9月23日】 ─ 戦域の離脱 ─
午前11時00分 昨日積み残しの大砲を積み込み、同所を発艦する。
日支事変・中国大陸での陸戦でも日本の何十倍もの兵力の国府軍が開戦すると潰走するばかりで、日本軍は局地戦では最後まで負けてはいませんでした。
攻城戦を制するには城門・城壁を突破するには籠城軍の何倍もの兵力がないとむりと言われていますが・・。
秀吉軍が朝鮮半島ほぼ全土をあっという間に攻略できたことや、戦後北朝鮮軍が38度線を絵超えると抵抗らしい抵抗もなく短期間で半島ほぼ全域を占領できたことなどを見ると、中国や朝鮮では元々戦わずして逃げる民族です。
以下の絵が実際の砦と同じとは限りませんが、一応城塞になっているのに、誰も城門を守らずに逃げてしまったから船を漕ぐ?水夫を含めたたったの22名で攻略できたと思われます。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f5/Soldiers_from_the_Un%27y%C5%8D_attacking_the_Yeongjong_castle_on_a_Korean_island_%28woodblock_print%2C_1876%29.jpg

自民族言語表現の重要性2

日本人は自分や家族だけではなく、民族のために古代から働くのですが、中国などは違います。
この辺の事情については、最近では、民族意識より宗族意識優先の中国との比較でMay 24, 2017「民族文化の有無3(宗族血縁組織)」でも書きました。
漢詩・詞文が入ってくれば、日本語にあった和歌や連歌〜俳諧が発達する社会です。
中世禅宗も栄西・道元のような代表選手が少し行けばすぐに禅の精髄を取り入れて日本精神にしてしまうし、(中国では見る影もなく衰退しています・最近立派になっているのは日本人が故地を・・尊ぶ気持ちが強くて寄付・修復するからです)アメリカ発のジャズも実力者による日本公演回数が増えてくるなど日本が重要拠点になりつつあるようです。
イギリスで盛んであった競馬でさえも、デイープインパトの出現によって市場規模が格段に大きくなっています。
多種多様な分野で日本は古代から異民族文化(鑑真和上に限らず多くの渡来人や帰化人)をそのまま日本文化に溶けこませた上で日本独自文化に創り上げてきた特徴があります。
これが可能であったのは、日本に外来文化を受け入れるに足る固有の優れた文化がすでにあったからです。
往年の世界的スターが落ちぶれても、日本ではずっと地方公演を続けられる素地があるのと似ています。
鑑真和上に限らず令名の高い人材が生命を賭してまで日本に向かったのは、それだけ命がけでやって来る価値のある社会であったからです。
漢字の導入であれ、律令制であれ、仏教哲理であれ仏教美術であれ、丸ごと輸入して満足するのではなく、日本民族価値観に合うように変容して柔軟に取り入れる能力・・種子島の鉄砲であれ、幕末の西欧文化であれ、明治維新以降であれ、いろんな文物が入って来るとこれをヒントとして受け入れればすぐに自家製でやる能力を持っていたことがわかります。
幕末洋画の手法が入っても、わが国では遠近法その他の技法は取り入れますが日本伝統の日本画を捨てません。
7月16日に千葉市美術館で開催中の椿貞雄展を見てきましたが、彼と師の岸田劉生は晩年日本画の描く対象をなんとか洋画に取り入れられないかと模索?を試みているうちに師の劉生が先に亡くなり(劉生は日本画の岩絵具などの利用を試みていた?)、椿貞夫氏は最後まで油絵の具での日本的表現努力をしてきたが、うまくいかないまま終わった印象を受けました。
私の好みで言えば、椿氏が、墨絵等で(日本画の材料で)書いた子供らの絵や寝転んでいる・日常の絵がとても良かったです。
岸田劉生〜椿貞雄氏の苦労を見たので初めて知ったことですが、油絵は教会芸術から始まった結果かもしれませんが、額縁に入ったかしこまったポーズしか馴染まないのに対して日本画では日常描写では日本画の手法が優れている印象を受けました。
花鳥風月に始まり昔から動物や庶民の日常(動作)を描いてきた歴史があるからでしょうが、子供らが輪になって遊ぶ姿(子供の歌声が聞こえてくるような感じがしました)やスイカなどにかぶりついたり大人が昼寝する姿や寒山拾得図など日本画手法の良さが堪能できました。
このように明治以降の西洋の芸術を取り入れに際しても、洋画家でさえもいかにして日本の風土・文化意識に溶けこませるかに苦心してきたことが分かります。
李氏朝鮮では、宗主国の政治体制や儒学そのまま丸ごとの直輸入・・丸暗記能力でそれをしない日本を劣等生扱いしていたのは、自民族固有文化のない弱さの裏返しであることに気がつかないレベルの表明です。
民族意識の骨格である宗教でさえキリスト教国が進んでいるとなれば簡単に変えていく社会とは、民族独自の文化がない社会と同義でしょう。
「馬鹿の一つ覚えのよう丸暗記しか知らない・・」社会では、ヒントだけあれば時間をかけて独自文化に取りれて融合して行く能力のある社会の存在を理解できなかったと思われます。
日清〜日露戦争で日本が勝つと日本と一緒になりたがり、日本が敗戦すると今度は欧米価値観至上主義でアメリカ文化が良いとなると、これに合わせてスグに大量のキリスト教徒が生まれる社会・・乱暴(社会実態無視で)にアメリカ式に法制度を変えていく社会です。
民族文化の基本である文字でさえ、戦後すぐに漢字を廃止しハングル文字だけにしてしまいましたが、10年ほど前には国家の基本枠組みである?戸籍制度も廃止しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%BC%A2%E5%AD%97によると以下の通りです。
「1948年施行の「ハングル専用に関する法律」(略称: ハングル専用法)により、漢字廃止に法的根拠が付与される。「大韓民国の公文書はハングルで書く。ただし、当面の間、漢字をかっこに入れて使用することができる」が法律の全文だ・・・・
李承晩の時代には、小学校段階から漢字教育が行われたが、朴正煕は漢字廃止に傾斜を強め、1970年には漢字廃止宣言を発表、普通教育での漢字教育を全廃した。しかし言論界を中心に全廃への反対が強く、1972年には漢字廃止宣言を撤回し、漢文教育用基礎漢字(約1800字)[5]を定め、中学校及び高等学校の「漢文」の教育の一環として漢字教育を復活させた。が、あくまで選択科目であり、受験にもほとんど関係がなく、実社会でもほとんど使用されない漢字は、学生らの学習動機を呼び起こさなかった。また小学校での漢字教育は禁止され、児童に個人的に漢字を教えた小学校教員は、国策に協力しない者として懲戒免職などの重い処分を受けた。
1980年代半ばから、韓国の新聞・雑誌も、次第に漢字の使用頻度を落とし始めた。漢字教育をほとんど受けていないハングル世代が多数を占め、漢字を使用した出版物が売れなくなったためである。」
戸籍廃止だけではなく刑事制度も日本のように国情に応じた微温的改革ではなくアメリカ流にどんどん保釈する仕組みになっていることを2011-4-6「住民登録制度6(公示から管理へ)」で紹介したことがあります。
自国独自文化がないのでそれに対しするこだわりもないし、その時々の強い国の文化を丸ごと取り入れれば効率が良いという安易な発想・・一般に事大主義」と言われる文化背景はここにあります。
シンガポールなど多くの国では、近代文化を自国語に消化できないままで英語やフランス語を理解できるエリートしか理解できないまま独立を迎えました。
植民地時代の元エリート層がそのまま支配層になっている関係で、今でも英語を操れない限り言語能力がないと思い込んでいるから、日本人の殆どが英語を話せないのを知って、複雑思考のできない日本人か?と誤解する人がいる・と10年ほど前にどこかで読んだことがります。
「そう言う国がなぜ先進国になっているか分からない」と言う疑問だったとすれば、もう一息で元々の文化の有無に気がつく寸前まで来た・一歩進んだ意見になるかも知れませんが・・・・。
このように自民族固有の文化を知らないママ生きてきた民族にとっては、外来先端国の文化理解度が民族文化度を測る基準です。
この辺では漢文化を丸ごと暗記している自分の方が日本民族よりも偉いと5〜6百年間・・日露戦争の頃まで誤解してきた朝鮮人はもっと悲劇的です。

自民族言語表現の重要性1

楽団やプロスポーツでも選手の実力・層の厚さは重要ですが、軍師や監督の腕が悪いと負けるのと同じで・・日産の例を見ればあのままだったらイマでは潰れていたかも知れないし、シャープの例も同じです・・(もしかすると東芝も同じかな?)トップ層のレベルが低いと次がなくなる時代ではないかと思っています。 
アメリカが絶えざる人材流入が途絶えるようになると、発展が途絶える点では、唐滅亡以降西域から人材が流入しなくなってからパッタリと発展しなくなった中国歴史の運命を辿るのではないでしょうか。
我が国の場合、過去2000年間で見れば以下の通り、トップクラスの招聘を除けば中間層人材輸入の必要性がなかったのですが、今後必要とするAI系人材になると長年日本が適応してこられた経験で今後も大量の人材輸入しないでやって行けるかは不明です。
言わば、AI分野で国際的に通用するトップクラスの層が日本にも少数いるとした場合、これを支える二番手の高度人材層をどのくらい厚く養成できるかの見通し次第です。
私自身その方向性に全く鈍いことから、(自分の能力を基準にすれば)直感的にインドや中国系に層の厚さで押されそうな心配をしていますが・・杞憂であれば・・と祈るばかりです。
外来文明導入に関する過去2000年の成功体験が今後の展開にも役に立つかどうかは別として、日本の過去の歴史では以下の通りうまくやってきました。
明治維新で御雇い外国人が再任を期待していたのに任期が来るとみんな「結構です」と断られたのに驚いた逸話がありますが・・日本人はちょっと聞いたり技術の基礎を教えられれば,「ヒント」だけで,すぐに自家薬籠中の物にする素地があったからです。
種子島で火縄銃を売ったオランダ人がこれは高く売れると思って、次に商品用に一杯持って来たときには,日本ではその間にもっと性能の良いものが国産化されていたので商売し損ねたことが知られています。
もっと古代にさかのぼれば遣唐使を繰り返す必要がなかった・・仏教精神や隋唐の文化の精髄を誰かが持ち帰ってこれを周辺に広めるとみんなが思想原理を自己のものにする能力があったことによります。
だいぶ前に書いたと思いますが、このように何でも自民族の技術に変えていくようになったのには、民族レベルが古代から高いことがあります。
その最たるものが世界に例を見ない言語変換技術の発明でしょう。
古代から中世までの間、日本列島の文化吸収の唯一対象であった漢文化を咀嚼するのに漢字そのままを日本語読みする技術確立(ほぼ全ての漢字には訓読みがあります)の他に文法の違いまで克服し「日本語と全く文法の違う漢字文化をそのまま日本語読みする工夫」が成功していたことです。
いわゆる漢文の読み下し文・レ点等を利用した技法です。
このお陰で中国へ一人一人が留学しなくとも、留学僧がどっさりと文献を持って帰れば一定の教養のある国民みんながそれを読めた・・間に合ったことになっていたのです。
当時の留学僧の主要な仕事は如何に多量の文献・文物を入手して持ち帰るかが大きな仕事目標であったと言われます。
だからこそ最澄がわずかの滞在で帰国して天台宗を開けたのですが、空海のように本格的修行をしていないので、空海帰国後に密教の教えを請うしかなかった面でもあります。
http://www.kosaiji.org/hokke/tendai/saicho.htmによると以下の通りです。
最澄は弟子の義真(781-833)(後に初代天台座主)を通訳に連れ、空海とおなじ延暦23年(804)7月、遣唐副使の第二船に乗って出発した。
9月26日 約160km歩いて台州の臨海に到着。天台山に直行せずに大回りをしたのは、台州の滞在許可(ビザ)が必要だったからである。
11月5日 天台山巡礼を終えて臨海の龍興寺にもどる。ここで受学と日本に持ち帰る仏典書写に専念することになる。
最澄は8ヶ月の入唐期間のうち6ヶ月をこの台州に留まり、そのほとんどを龍興寺で過ごす。
2月20日には103部253巻(一説には230部460巻)もの写経を終えた。還学生(短期留学)の最澄にとって帰国船に乗るまでの期間は限られていた。それにも関わらずこれだけの成果を出した。これには陸淳が20人の写経生の動員に協力し、道邃和尚、行満和尚も資料の厳選と収集や僧侶を動員など好意的な協力を惜しまなかったのであろう。」
上記の通り天台山にいたのは1ヶ月間あまりだけですから、修行らしい修行をしていないでしょう。
空海の方は周知の通り、恵果和尚について修行して最高位・阿闍梨まで上り詰めてからの帰国でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
からの引用です
永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。
長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し[9]、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
・・・大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着。呉服町に東長寺を開基し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。」
・・・弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。」
明治維新当時も欧米留学者たちが、自己一人で情報一人占めすることなく欧米の社会事情や技術情報を日本語に翻訳して流布させたこと・・これをすぐに自前のものにしてしまえる層が暑かったことが、爆発的文明開花に成功できた原因です。

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