留学目的3(自己利益実現)

今では、経済環境変化のスピードが速いために、これに対する対応能力を磨くためには、(ついて行けない人を切り捨てるには?)再就職し易い社会にしないと切り捨てだけする訳には行きません。
そこで、我が国も人材流動性を高める必要性が出て来たと言う論理が幅を利かして、(この論理については異議がありますがこれについては後で書きます)他社でも通用するような資格制度が徐々に発達しています。
それでも日本企業は自己責任を徹底(これだと親の資金力の有無に比例してしまいます)せずに、奨学金を出してでも社内人材育成に励む傾向があるのは、資格を得たら他社に転職するような不義理な人はいないという信頼・・これも長い歴史・民族の一体感を反映しています。
人手不足の介護現場では介護資格をとるための補助金を出しているところが大分前からザラでしたし、最近では薬剤師不足に対応するために薬剤師試験の補助金まで出すところが多くなっている現状が6月14日の日経朝刊に出ています。
(こういうことはマスコミが取り上げる前から、我々弁護士が実務上関係するいろんな企業では普通でした)
ところで、資格社会化と言っても、いずれかと言えば末端的人材が中心で・・整備士やタマ掛け工や溶接工、ボイラーマン等々・・現場系(看護師や薬剤師やパイロット不足も給与が高いだけで、結局は現場人材不足です)の流動性が求められているに過ぎません。
総合判断を必要とする上級職務では、企業内で職務に必要な金融取引方面や経理方面の資格を有していても、少しばかり役に立つ程度に過ぎません。
職務が高級化すると社内での応用力が求められるので、経理部長が税理士資格を取得し、部長クラスがアメリカのMBA資格を取得したからと言うだけでは、給与アップ要因ですらないことがあります。
アメリカ流経営では資格重視の例としてMBAが幅を利かしていましたが、(MBA資格があれば車の運転免許のようにどこの企業でも経営者として通用する?)日本では大学で「畳の上の水練」のような経営学を習っただけで企業経営を直ぐにできるなど誰も考える人がいないのに、アメリカや中国などでは、まだMBA資格を持ってさえいれば直ぐに経営者になれないまでも重宝される社会です。
(社会構造が単純だから大学で教えたやり方で経営すれば、直ぐに成功するということでしょうか?)
中国等新興国では、急速な近代化に当たってアメリカで成功した運営モデルを学んで自国でそのまま運営すれば、直ぐに成功できる時期がいっときあったのかも知れません。
近代的経営がある程度定着した後は、大学で子供相手に教える程度の経営モデルを学んだ資格(修了書)が、そのまま社会で通用する筈がありません。
アメリカでもMBA資格は、一定のレベル(弁護士資格を取得した駆け出しが直ぐに役に立たないのと同様に)の理解力があるというだけで実際の経営トップになるには、実務での成功履歴等に基づいて階段を駆け上り、その実績に基づいてあちこちスカウトされて移動する社会になっています。
それにしても経営トップだった人がライバル企業トップにさえ転職することがあるのですから、日本では想像を絶した(日本的価値観からすればアンチ)モラル社会です。
中国人のように技術を教え込むとその技術を持って有利な転職先を見つけ転職してしまうような人材相手では、社内教育制度はなりたちません。
日本人の場合、アメリカによる焦土作戦で国土が荒廃していて住む家もなく、国民が飢えに苦しんでいる国家存亡の敗戦のときに、帰っても苦難が待ち受けているの知っていても、満州その他海外から陸続と帰国して来て、飢えて待っている妻子と苦難をともにしようとする人ばかりだった・・国を棄てるようなことをした人は皆無に近かったことが重要です。
日本人では自国発展願望が留学・先端技術取得等の主たる動機で、より良い就職目的の自己利益目的中心の中国人や、国外脱出願望手段としての韓国人留学生とは留学の成り立ちが違います。
国民性・・愛国心(もついでにあるでしょうが)より、利己的な目先利益中心の他国国民性との違いです。
中国現地企業で一生懸命中国人に技術を教えるとその技術を持って転職してしまうとも言われていますが、彼らが技術を学ぶのは企業のためではない・・自己利益実現中心だからであって、この辺に基礎的な違いがあります。

自己主張と大人の文化(草食系)

日本では、津波・原発事故に限らず何かの事故が発生しても背後にいる同胞を守る意識が強烈ですから、自己保身のために先に逃げ出すような職業人は、末端に至るまで多分殆どいない筈です。
一人一人は弱い存在ですが、何かの組織構成員となると俄然人が変わったようになって
職業意識の鬼となって身命を賭して頑張る意識があります。
特別な組織ではなくともデパート店員でも地下鉄でも職業人である以上は、何かが起これば乗客や客を先に逃がすなどの意識が強くなるようです。
消防署員でなくとも一般職の公務員でも今回の津波では、自分の危険を顧みずに必死に頑張っています。
この点は若者が草食系化しても変わらないので、この意識がある限りイザとなれば強い国民であることは古代から将来にかけても変わらないでしょう。
江戸時代300年近く太平の世が続いていても、イザとなれば勇猛果敢な戦闘力を示して長州では幕末の四国連合艦隊の租借地確保を阻止しています。
長州藩は四国戦争で完敗しますが、高杉晋作らの決死の交渉によって英仏を中心とする四国連合艦隊が租借地確保を阻止されたのは、イザとなれば死を恐れない勇猛な精神力と我が国の過去の勇猛果敢な事績が考慮されたことは想像に難くありません。
そこが香港割譲を余儀なくされた中国との歴史の違いです。
草食系化とは弱体化のことと誤解されている向きがありますが、そうではなく、むやみに粗野な行動をしない・・日本人がスマート化した意味に捉えるべきでしょう。
生活水準の向上・スマート化に関連して弁護士業界を取り巻く状況・・我が国が進んで行くであろう社会の変遷を少し紹介しておきます。
我々の弁護士業界は合格者激増政策・・参入増による危機を迎えていることについては、ご承知のとおりですが、これは我が国社会の高度な特質を誤って米英その他全世界の進行方向と同視したことに原因があると私は考えています。
我が国以外の世界全部では、生活水準が上がって来るとアメリカ並みの訴訟社会になるというのが知識人の一般的意見です。
しかし、わが国の場合、逆に敗戦後の混乱時を除けば治安が良くなる・・お互い謙譲の美徳の社会で気配りその他社会のソフト化が進む一方です。
生活水準が上がると権利主張が高まるのではなく、明からさまな権利主張を控えるようになるのが我が国文化人・上級生活者の心得です。
日本の知識人は自分の目で現実で社会を見る能力がなく、西洋の歴史を真似して御託宣を述べているキライがあって誤るのです。
我が国では「金持ち喧嘩せず」の精神で、大きな声で自己主張をがなり立てるのは、みっともないとする文化があり、何かあると少しでも損しないように大きな声でがなり立てるのは・・昔から最底辺層のすることです。
力が強くなれば大きな声で要求するようになるのは未成熟なギャングエイジ・世代から若者世代がすることで、大人のとるべき行動ではありません。
日本語で「おとなしい」と文字を打つと「大人しい」と変換されるのは、大人は騒がない・・わが国の常識があるからでしょう。
大人の方がギャングエイジ=児童、あるいは中学・高校生よりも社会的な力が大きいことは常識で争いがないことでしょうから、自分の力(社会的力を含めて)を頼って乱暴に主張することは、本当の力のある人の行動ではないことを意味しています。
この文化に従って日本国民は生活水準が向上して力を持つと、これに比例して大人しくなり、上品になる傾向が次世代の若者に出たのが、ソフト化・草食系でしょう。

淘汰と自己規制

ちなみに、江戸時代の底辺労働者(都会流入者)はエリートでも若いうちは住み込みが原則で、自分で独立して住まいを借りられるようになるのは番頭などの上位者として残れた人に限られます。
結果的に高齢化してからだけでした・・一定の地位になって初めて部屋住みを脱しうる仕組みは、今の相撲部屋がその原形をとどめているでしょうか?
ちなみに、当時のフリーターは長屋住まい・・身元保証付きの正規被雇用者だけがお屋敷等に住み込み就職出来たので、住み込みの出来る使用人は、労働者中の一種のエリート・・今の大手企業就職者に類するエリートでした。
江戸時代の長屋住まいの場合、東海道中膝栗毛の主人公弥次郎兵衛・喜多八がその代表選手で、江戸に流入した人は生涯独身が原則(竃さえなかったと言われています)で、仮に男女一緒になっても子供を持てないのが普通でした。
今ではマイホームを持てない人でも子供を持っているので、少子化の再来と言っても貧しいから子を持てない極限の時代・・経済原理による淘汰の時代ではありません。
社会保障の充実した現在は子を持ちたければ持てるのですから、再生産したい願望のある人は実現出来る点では、江戸時代とはかなり様相が違っています。
庶民にとってお金がないからお酒を飲めない時代から、庶民でもみんながお酒くらいは浴びるほど飲める時代が来ると庶民にも自主規制・自律心がないとアル中になってしまいます。
社会保障が充実すると、経済原理による歯止めがなくなるので社会思想として子沢山が良いか悪いかの思想の軸を決めて社会教育して行かないと、(アル中やニコチン中毒者の増加みたいに)いくらでも子供が生まれてしまいます。
江戸時代では、長屋の八っつあん熊さんみたいな底辺層でも生まれて来た以上は、生きて行く権利があるとしても再生産するまでは行き過ぎ・・とする思想が確立していたのでしょう。
この思想では一生独身で終わるか結婚しても子孫まで残さないのが普通・・優れた種だけが子孫を残せてそれ以外は子孫を残さない・・・これが本来動物的世界では合理的なのかも知れません。
ケイバ馬では種牡馬になれるのはホンの一握りで、(牛だって豚だって皆同じで)これを実践しています。
これは人為的な例ですが、人為の加わらない自然界でも各種動物が交尾相手を一生懸命選ぶようになっているのは優れた種を残したいからであって、その本質は変わりません。
せっかく必死になって選ぶ仕組みになっているのに、大学全入みたいにどんな劣った種でも劣った同士で子孫を残せるのでは、自然の掟として相手を選ぶ仕組みにした意味がないので、オス(もメスも)は下層から一定割合まで子孫を残せないような仕組み・自然の掟になっている筈です。
選ばれた種牡馬だけが、あるいは女王蜂だけが子孫を残せてその他は子孫を残せない仕組みはその原理を可視的に実現している極致と言うべきでしょう。
一夫多妻制・・あるいは我が国古代の通い婚(実家の経済力のある貴族だけの合理性ですが・・・)の仕組みをこの原理の一場面としてみれば、男女平等の理念に反するかどうかは本来関係のない問題です。
ただし、この考えは、男女間の経済社会格差がない完全対等を前提としているので、実際には男女平等に反する結果になっていました。
より多くの女性が子を産むためではなく女性の経済的地位の脆弱性に基づき花魁の身請けや、愛人を囲うのは、(彼女らは子を産みません)その病理現象の最たるものですが、この種の関係が中心になっていた江戸中期以降を見れば男尊女卑・・両性の本質的平等に反することなります。
上記病理現象を捨象して雌雄対等の社会があるとした場合・・仮に上から順に結婚出来て一定レベル以下が男女ともに結婚出来ないのが本来の動物的姿であるとした場合、1対1では子を生めない筈の女子が、第2第3夫人としてならば子を産めるだけオスよりは有利な制度となります。
比喩的に数字化すれば、男女一万人ずつの社会でその内5000人ずつしか結婚出来ない社会構造の場合、一夫多妻制度・・通い婚があると女性だけ6〜7000人まで結婚・再生産に参加出来る有利な社会と言えるでしょうか?
一夫多妻性といってもすべてのオスが多妻であったのではなく、よほど経済力のあるエリートだけですから、(江戸時代では大名家だけだったでしょう)人口比ではほんのわずかです。
その実質は優秀なオスがより多くの子孫を残せるように、子を産む性の女性がより多く子を産むチャンスがあるようにした女性の特権でもあったでしょう。
上記の例で言えば、オスの種付け出来る数を上位5000人にとどめる自然原理があったとしても実際には6〜7000人分の子孫を確保出来ていることになっています。
人権・・いろんな権利の中でも子孫を残せるか否かは、すべて権利の上位にある(他の権利を犠牲にしても実現したいもの・・カマキリなどは交尾した後でメスに食べられてしまうほどですし、母親はすべてを犠牲にしても子を守ります)とすれば、女性の方がより多くのチャンスがあるシステムでは女性の方が優位な制度だったのです。
現在の一夫一婦制は、その実質は大学の全入制度と同じで、最末端までオスメスともに子孫を残せるシステムを前提にしているので男女平等になっている・・・機械的平等・・どんな劣った種でも子孫を残せる機会を保障しているに過ぎません。
これはオスだけはなく、メスもこの恩恵を受けていて、最下位近くのオスに至るまで結婚出来るようになった結果、自然界の掟に委ねれば結婚出来ない筈の最下位近くの女性もそれなりに相手を見つけられるようになって人口が膨張してしまったのです。
飲酒喫煙等が経済原理による歯止めがなくなったように、すべての分野で経済原理の歯止めが利かなくなってくると自律性が庶民にも必要な時代です。
ところで、「15の春を泣かせるな!」と言うキャンペインで字もマトモに読めなくとも高校に全員は入れる時代が続きましたが、最近ではその先送り現象で新聞すらマトモに読めなくとも大学に入れる時代・・大学全入時代が来つつあります。
高校の場合は入学後出席を取ってある程度厳しいので字もマトモに読めない子は中退して行きますが、大学は入学してしまえばノーチェック・・野放図なので全員卒業して行きます。
大卒と言うだけでは、全員がマトモな就職ができなくなるのは当然です。
マスコミでは、大卒の就職率の低下が報道されていますが、大卒のレベルが下がっていると言うか大衆化が進んでいる以上は、就職先も大衆化・・・レベルダウンしなければ、ミスマッチになるのは当然です。
形式的な格差否定社会が実現出来ても、個体の能力差がある事実は変わらないのですから、全入時代が来ると、大卒の肩書きが一定年齢を表す程度の意味しかなくなりつつあるのですから「大卒の就職率」と言う括り方がおかしいことになります。
大卒にこだわりたいならば、どこそこの大卒の就職率とその推移として公表すべきでしょう。
そうすれば、大学間競争が活発になります。
この数字が明らかになっている法科大学院の場合、数%しか司法試験合格率のない大学院は(学生も集まらないし・・)閉鎖に追い込まれる方向です。
種の維持に話題を戻しますと人間だけが自然界のルールを無視して・・(自己規律を求めず)子供も持てないのは可哀想式に種の劣化に任せていると、その内牛馬や豚鶏の方が優れた種になって人間が使われる時代が来る恐れも出てきます???
こんな風に話が発展して行くと格差社会が正しいとする意見の方に漂流して行きそうですが、今のところそこまでの結論・意識がなくマ、思いつきコラムですのでどこへ漂着するのか今のところ分りません。

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