奥田愛基氏(SEALDs)とは?4(自己認識)

メデイア宣伝の虚構性に戻ります。
アルバイトして大学院の研究出来ないとは言えませんが、バイト主役では受け身の講義を受ける程度で単位をもらえる学部生と違い自発的な研究(・・まずは指導教授のもとでの地道なデータ収集のお手伝いその他の下積み修行)が必要な大学院生には通用しません。
なんとなく地味な研究などやる気がない・・始めっから逃げている印象を受けます。
8月12日紹介した19年3月の神奈川新聞https://www.kanaloco.jp/article/entry-155274.htmでは、

「今、都内で広告関連の仕事をしているそうです。」とあります。

アルバイトから脱して音楽系イベント企画して走り回るようになってれば、もはやアルバイトの域を超えているのではないでしょうか?
大学院は勉強したくて進学したのではなく、格好付けにメデイアが用意してくれた逃げ場だったに過ぎない・・進学後すぐに学業そっちのけにして自分の生きる道を探していた結果広告業なら生きていけると活路を見い出したということではないでしょうか?
天下の一橋大学がメデイアから依頼あれば、大学院生に必要とされる素質・レベル無視でなんら研究下地もない人材を無条件で入学させるのか?
大学の宣伝のために体育系別枠入学と同じ便法なのでしょうか?
学者世界がメデイアと持ちつ持たれつになっている現状が、浮き彫りになったような印象を受けますが?
津田大介氏の経歴でも、意味不明な客員教授等の肩書きがありましたが、メデイア会で有名になると年に何回か特別講義をしてもらう程度の仕事・事実上名称だけの資格を与える大学があるのかもしれません。
学者はメデイアに弱い・ジャーナリストは失言等でテレビ出演がなくなる→メデイアのゴリ押しで実力不相応の進学をしたが、指定推薦入学の問題点同様に進学と同時に大学院研究レベルについていけないで居場所をなくした現実・進学に際して不公正なコネが働いた可能性が高いことを示しています。
インタビュー引用続きです、

自分だって、政策に反対の声はあげているけど、コールしながら、『この問題は安倍政権が退陣したところで解決しないよなぁ』と、もやもや考えていたことだってたくさんあります。
これが現実でしょ。一人の人間がそこにいるんだから。色々な葛藤もありつつ行動してる。
最近のアーティストって『わからない』とか『言えない』ってことをそのまま歌詞にしてる人が結構いる。
日和ってるって見方もあるけど、俺はこういうリアルな気持ちを切り捨てずにいたいって思うんですよ。どっちか立場を明らかにしろってところから始めるんじゃなくて、決めなくていいからまずは考えていきたい。ていうか、いろいろと考えてることぐらいは共有してたい。
以下写真省略
だいたい、社会は複雑で、簡単にわかるわけないんです。すぐに日本の未来を変えられるとか、何かができるとはまったく思わない。
もやもやしていること、悩んでいること、わからないということだらけ。わからなくても、ダメでもいいんですよ。等身大で、だから考えるっていう場所を自分はつくっていきたい」
「THE M/ALL」は、そんなジャンルを横断するDJ役を、奥田さんが担うイベントだと言える。思い返せば…と少しだけ考えて、彼は言葉をつなぐ。
「国会前で自分がやっていたスピーチも、分解していけば『自分の言葉』はあんまりないと思うんですよ。誰かの言葉をつないで、つないで、これは俺の話だって語っていた。
まあカチッとしたスピーチをしてたというか『司会業』的な、国会前でみんなの話を聞いて、みんなの声を表現してもらってつないでいくっていう意識だったと思うんです・・・。

奥田氏が受賞したという国際平和映画祭(と言っても横浜でやっているだけのようですが)での受賞作の動画をネットで見ると、彼のこういう「わからなさ」をよく表現しているように見えます。
素人の感想ですが、3、11の地震津波に限らず今回のコロナ禍であれ、あんちょこにわかる物事など世の中にひとつもないという当たり前のことにやっと気がついた未熟な青年がモヤモヤした気持ちを雑然と映像化しただけのような映像ですが・・。
大学生になって見るとわからない事だらけと気がついた若者向け映像として評価をうけたのでしょうか?
年齢だけ成人しても社会経験皆無の未熟さ・何もわからない若者の不安をそのまま映像化しただけ物のようですが、これのどこに着目して左翼系が利用したのか不思議です。
もしかして不安を抱える若者に訴求するには不安を振り切って、一方の側で断定的に言い切ってくれれば、同じ不安を抱える若者の心をつかめると期待したのでしょうか?
もともと革新系は社会経験のない若者を非現実的スローガンで引き込む手法が基本でした。
彼・奥田氏にとって大手メデイアに利用されていた数年は足元がおぼつかない不安そのものだったのでしょうか?
インタビュアーは中々いいところを聞き出していますし、奥田氏もきちんと自分のレベルを自己分析しているところが今後を期待(潰されてしまわないで普通に生きていけるのかな?という程度ですが・・)できる印象です。
奥田さんが政治家の都合で捨て駒として捨てられて終わらない・・普通の人として能力相応にしたたかに生きていけることを期待したいような良きインタビューです。
政治の都合で使い回されて潰されなくて良かったね!

奥田愛基氏(SEALDs)とは?3(自己発見)

時代を超える発言ならまだしも、発言内容をもう一度引用しますが以下の通りです。
「8月21日の特別委員会において民主党の質問中に「そんなこと、どうでもいいじゃん」とやじを飛ばした自民党の安倍晋三に対して「どうでもいいなら総理をやめろ」「憲法を守れ」「戦争反対」「安倍は辞めろ」などラップ調で連呼した」
この程度のレベル・・内容のないことを(調子に乗って)発言した程度しか、若者の代表としてメデイアがこぞって取り上げる代表的語録として残っていないのに驚くばかりです。
国会で参考人として述べた意見を紹介してきました、これといった独自性がなく、街頭にどれだけ多くが出ているか、国民の多くが反対しているから反対という同義反復論が中心でその法案のどこがよくないかの内容主張がありません。
「反対だから反対」「だめなものはだめっ!」式の旧社会党の論法繰り返しです。
今の若者はもっとしっかりしている人の比率が高いと私は思っているのですが、もちろんこれは比率の問題でこの程度の煽りに満足する若者が皆無とは言いませんので社民党支持率が0、何%程度いるのと同じでしょうか。
安保法制国会周辺デモ隊が数マン人という発表ですが、1億数千万の人口比でいえば、数万人動員してもそれが国民の何%?という意見無視のままです。
千葉県でも弁護士の世界ではチラシ配布だったかネットか媒体に関する記憶がはっきりしませんが、「今日も〇〇デモに行って来ました」という写真付き報告がしょっちゅう出ていましたが、動員簡単な地域→首都圏人口比で見ても微々たるものです。
9月5日現在ネットで「首都圏人口」で打って見ると即時に3814万と出ます。
総理のヤジに対して脈絡のない発言をしてありがたがるごく少数集団が国会周辺に集まっているレベルなのか?
これといった見識もない若者が意味のないアジ演説をしてでも主催者が、いかにも皆感激しているかのようにこれにラップ調で唱和する演出で盛り上げる・・これを群衆やメデイアが根拠なく賞賛する・・自分で理解もしていない左翼言語を言いつらねて、メデイアの寵児になって行き(ボロが出ないうちに?)会の解散だけでなく短期間に引退させて体よく大学院に脱出させた印象を受けます。
過激発言で注目を引いた(メデイアが持ち上げただけ)?乗り越えネットの辛淑玉氏(日本研究者?としてドイツへ)や慰安婦騒動で居場所をなくした元朝日新聞記者(札幌の短大〜韓国の大学)もそうですが、メデイア界の寵児が、やり過ぎ・底の浅さで居場所をなくすと、メデイアはどんどん切り捨てる共に豊富なコネ利用で、大学をメデイア関連者の隠れ家?避難場所提供するのが流行っているようです。
奥田氏が本当に大学院で地道に何か研究しているのかの私のような疑問(違和感)を抱く人が多いらしく、その疑問に答える記事が出ています。
以下は奥田氏自身のインタビュー発言です。
https://www.huffingtonpost.jp/2018/04/14/okuda-aki_a_23411459/

NEWS2018年04月15日 11時33分 JST | 更新 2018年04月15日 13時16分 JST
石戸 諭
元SEALDs 奥田愛基、いま明かす「本音」と再出発への思い。
1年の沈黙破り、単独インタビューに応じた
奥田さんが「再起」の舞台に選んだのは「国会前」ではなく渋谷だった。5月26日、27日に「音楽×アート×社会をつなぐ都市型フェス」と銘打ったイベント「THE M/ALL」を開く。
「ASIAN KUNG-FU GENERATION」の後藤正文、「水曜日のカンパネラ」のコムアイといったミュージシャンが個人として参加することが既に発表されている。
彼は主催者の一員として、無料開催を目指すべくクラウドファウンディングを始めたり、参加するアーティストの交渉、イベントの企画作りに奔走していた。

一橋大学大学院進学がどうなったかの関心で上記を読むと進学後(15年9月の国会意見陳述時4年生)わずか3年で、すでに政治学研究とどういう関係があるのか不明ですが・イベント系企画参加(どちらかというと下働きのアルバイト?程度から実社会経験を積むしかない)に活路を見出しているようです。
いかにも企画主催者のような?表現ですが、メデイアの寵児であったネームバリューを利用するために主催者の一人にしてもらっている可能性があり、世間から忘れられるとそいう利用価値も無くなりそうです。
メデイアによって作り上げられた虚像の利用価値が剥げ落ちたのちに、無料でないシビアーなビジネスとして成立するイベント企画力があるのか?です。
大学院進学後1〜2年時点でこのような活動に精出しているのを見ると彼の進学は、反安保法運動や総選挙作戦に彼を利用したのちに、捨て場として?政治家や文化人の予定した路線に放り込まれた疑いが濃厚です。
複雑怪奇な政治学の研究以前に誰でも知っている社会の仕組みがよく分からない状態で、メデイアの振り付けどおりの単純結論を言い切ることができていたに過ぎないことを告白しているように見えます。
人物でもない俳優が偉人の役をやって自分が偉人になったような錯覚・テレビ局の振りつけ通りに気の利いた切り口の意見を言うタレントが、自分がそういう能力がある思ってしまうような自己肥大していた危うい人生だったようです。
以下インタビュー内容です。

大学院で政治学を学ぶ一方、学費を稼ぐために編集や音楽フェス運営のアシスタントをした。そこで気がついたことがある。
「国会前デモのこととか、自分ことを何も知らない人たちと一緒に仕事をしました。いちスタッフとして扱ってくれて、まず機材を運ぶとか、荷物を詰め込むとか。そんなことから始まったんです。
関わっている仕事の環境がとても心地よくて『俺は生きていける』って思えたんですよね。

ようやく普通の若者のように能力相応に社会に一歩踏み出せた印象です..普通の人生を歩めるようになってよかったね!
以上は彼の人生を考えると、シミじみとよかった・変な組織の捨て駒に利用される関係から逃げ出せてよかったという印象です。

民主主義と利害調整力不全1

グランドプリンセス号がCDC命令どおりメキシコ行きの航路変更してサンフランシスコ沖に到着したのに、地元の反対で入港できず、4〜5日時間空費したことを紹介してきました。
4月頃には別のクルーズ船のフロリダ入港を巡って、フロリダ州政府がクルーズ船の入港を認めるとしても、フロリダ州民しか下船させない→州民以外の医療サービス提供拒否態度が紹介されています。
日本でも国策の最たるものである自衛隊基地設置(与那国島の設置)や装備(オスプレイやイージス・アショアなど)に関して地元自治体が同意しないと設置すらできないのが現状です。
たまたま河野防衛大臣によりイージスアショアの非効率性が明らかにされましたが、問題はそういう前向きの議論ではなく、地元の反対はその工事が国家存亡に関わる国策として有用であるか否かの議論に関係なく地元が少しでも負担になることは嫌!という意思表示が貫徹できる点にあります。
地上型迎撃装置の有効論でなく迎撃用に打ち上げたブースターが地元に落下したら怖いという次元の違う反対論でした。
リニアーの愛知県内工事に愛知県が同意しないことが2〜3日前に大ニュースになっていましたが、国家的大事業の場合、辺野古沖移設や自衛隊基地を含めほぼ全て公共工事を伴うので地元自治体が地元に不利益と考えれば拒否できるのが現状です。
日本だけでなく先進諸国では自己中心主義の権化みたいな主張が各地で噴出して、中央政府が利害調整ができなくなる姿が一般化してくると、逆にこのような国家運営に不満を抱く人が増えてきます。
格差問題〜人種差別問題などなどの各場面での対立が米国で目立つのは、民主主義・自己主張の行き過ぎにより、利害調整・社会統合が不可能になっている場面が表面化している姿と見るべきです。
民主主義とは自己(権利)地域・集団主張が先(表現の自由)にあって、意見相違(利害相克・調整)は公開の討議を経て止揚・統合されて行くのを理想とする社会です。
全体がどうなろうともそんなことは考えなくとも良い。
まずは自己(地域や集団)主張して行けば全体としての最適解は「思想の自由市場で(見えざる神の手で)決まっていく」という楽天的考えが基本のようです。
GPS操作を違法とした判例を紹介したことがありますが、弁護活動や最高裁判例も、電子機器のない時代に制定された人権擁護システムが、犯罪者が自由に電子機器や高速移動機関駆使して犯行をできるのに、捜査機関が電子機器を利用すると違法で許されないと言う奇妙な状況になっています。
以前犯人が逃走するのに民家敷地を横切って逃げると、警官がその敷地を横切って追跡すると違法になるのか?という比喩で書いたことがありますが、犯人追跡中は例外にしないとこういう変なことになります。
法制度が社会現実に追いついていない問題が今回のコロナ禍で続々と表面化しました。
従来非公式会話はズームで良いが公式の会議・・株主総会などズームやテレビ会議で開いても違法でないか等の疑問・・不便なことが大量に一挙に現実化しました。
いろんな会議は対面議論が原則ですが、災害等特殊事情下では、テレビ会議等が許されるとか、テレビ会議が許されるのを原則にして、電波不安定や機器の故障等による送受信が途絶した場合の効力は別に定めておけばいいのでしょうが、こうした各種問題点を先送りして来たツケが来たのです。
私の関係する日弁連選管委員会でも毎年のように問題になっていましたが、もしも訴訟になって委員会決議無効になると選挙がどうなる?という大事件になるのが怖くてこれまで先送りして来ました。
法律家には法匪と言う批判的名称がありますが、招来する結果の妥当性など問題にしない・・法令がそうなっている以上はそれを守るべきであるという形式論が普通です。
時代に合わない縛り・規則類は民間が無視しているし、警察も一々刑事事件にしないのでそのまま邪魔になっていないのですが、いざ屁理屈で争う人がいると不都合が表面化します。
結果が不当であれば、憲法や法令変更すべきであって、法律家は現行憲法や法令に違反してればその違法性を指摘すれば良いし、裁判所の職務はそこまでで犯罪捜査がどうあるべきかを判断すべき立場でないということでしょう。
ところがそう言う論者に限って憲法改正の議論すること自体に反対と言い、ちょっとした法令改廃でさえも国会審議に入ることすら反対という姿勢が顕著で政府の揚げ足取りに終始しているのが国会の現状で時代即応の改正が容易でないのが現実です。
原発反対運動や地元知事の不同意も設置稼働規則に適合しているかどうかであって、原発政策がどうあるべきかを裁判しているのではないというのが専門家の意見です。
ところが実際には、原発反対派が結束して全国的に訴訟しているのが現実・・日本中の原発訴訟弁護団はほぼ一つの中核的組織集団が地元別の弁護団を結成している・・地元別に構成員が入れ替わっていますが、中核人員はほぼ共通・・だけの実質全国規模の政治闘争の一環になっているし、与那国島基地設置反対運動や沖縄の普天間基地移転反対なども概ね特定運動家・・常連があちこちで運動しているイメージです。
もともと原発施設等の何がどの規則に違反しているかなど、普通の人に分かるはずもないので、いわゆるプロ運動家が初めっから反対するために規則のどこに違反があるかを見つけ出す方式のように見えます。
静岡県のリニア工事着工反対の根拠・・地下水脈がどうなる?という主張も、常識だけで分かるものではないので、まず反対したくてそういう問題があるかも?と見つけ出したということでしょう。
静岡県の主張は政府の有識者会議で水脈変更があるのか検討することになったようですから、同意しないと言えばいいだけのことを、格好つけでコレが心配と言っているような印象をうけます。

表現の自由(自己実現・自己統治)とは2

表現の自由は、自己実現・自己統治のためにあると言うだけで、社会との折り合いをどうつけるかは、各自別に考えなさい・制約原理は別に考える・・ここは「権利だけ」考えていると言うことでしょうか。
しかし基本的人権といっても相手のあることが多いので、好きなように主張していると喧嘩が絶えません。
制約原理と合体して同時に考えるようにしないと間違って「自己実現の権利は憲法以前の基本的人権であって法律でも制限できない」から「何を言っても自由だ」と誤解する人も出てきます。
「腹ふくるるワザ」になるのは、相手があって「言いたいことも言えない」前提で兼好法師が書いているのです。
昔から、言いたいことを言う権利があったでしょうが、相手が嫌な顔をするようなことを言うと楽しくないし相応の返礼があるから、セーブして会話を楽しむようにしているのが生きる知恵です。
宮沢憲法のように「国家以前の自然権」「天賦不可譲の人権」というだけでも「戦前と違う」という戦後の大変革時のスローガン的にはインパクトがあったでしょうが、世相が落ち着いてくると素朴すぎるので次世代学者がもうちょっと捻ったようです。
憲法以前に存在する自然権というキャッチフレーズとしては敗戦時に「なんでも国家が悪い」という占領政策の宣伝と合わせて相応のインパクトがありましたが、敗戦ショックが終わり社会が落ち着いてくるとスローガン的学問では納得できない人が増えてきます。
「人権」・自然権という「権利」とは、国家社会が公認して初めて言える概念でないかというあたり前の批判(私の個人的思いつきですが、この程の批判は起きるでしょう)が起きてきたのではないでしょうか。
素人的思いつきですが、「人権」という概念自体が、国法で認められて初めて「権利」に昇格するのですから人「権」という点で国家社会成立前の自然「権」という言語自体に言語的矛盾をはらんでいます。
例えばベンサム(1748-1832)の理論がそうです。
https://plaza.umin.ac.jp/kodama/rights/kanrin_presentation.htmlによれば以下の通りです

ベンタムの自然権論批判
–法実証主義者としてのベンタム– 京都大学 児玉聡

具体的には自然権論のどのような点が誤りなのでしょうか。第一に、ベ ンタムの考えでは、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は、 事実命題として考えた場合、意味を持ちません。というのは、「ある人がかく かくしかじかする法的権利を持つ」と言われた場合は、政府がその権利を保護 する措置を事実とっているかどうかを確かめることによって真偽を判断するこ とができますが、「自然権と称されるものの場合、そうした事実は存在しない– また、そのような自然権が存在していないと仮定したときにも存在するであろう事実しか存在していない」(III, p. 218)からです。そこで、進んで、ベン タムは、法的な権利に先立ち、政府による立法を拘束するとされる自然権は、 空想の産物でしかないと主張します。フランス人権宣言第二条にある「あらゆ る政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」 という主張に対して、ベンタムは次のようにはっきりと述べています。「自然権などというものはない。政府の設立に先行する権利などというものはない。 法的権利と対立し、対比される自然権などというものはない」(p. 500)。
3.3 したがって、自然権は合理的な議論の基礎になりえない
今述べたように、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は法 的権利の場合と同じように事実命題として考えるならば、無意味な命題になり ます。そして、このような性格を持つ自然権を根拠にした現行の法を批判した り立法の是非を論じたりすると、合理的な議論ができなくなるとベンタムは考 えました。

そこで天賦不可譲論・自然権論に代えて 「自己実現」「自己統治」と言われるようになった(私個人的推測です)のでしょうが、一見何かありがたいような意味ですが、(いつも書きますが「近代法の法理を守れ」とか意味不明言語を用いて思考停止を求めるのが戦後学問の特徴です)単なる言い換えの宿命で?もうひとつピンときません。
自己実現とは本来芸術家が内面を表現する行為としては、最も適した熟語のようなイメージですが、これとても(数世紀後でもいつか)社会が受け入れてこそ、芸術として評価されるものですし、どちらかといえば心理学にその本籍があるものでしょう。
これを社会(人間と人間の)関係をどう律するべきかの学問である法律学者がなぜ使うようになったのか意味不明ですが、法律学は相手のある学問・・人間と人間の関係を規定する学問であって、周囲の迷惑お構いなしに自己実現するのをどうやって規制するのが合理的かを模索することこそが法学ではないでしょうか。
「法」とは社会の人間関係のあり方を規定するための道具ですから、芸術家のように自己実現さえできれば、相手がどう思おうとどうでも良い関係ではありません。
会議や友人との食事でも言いたいことを言う権利があるからと話題の流れと噛み合わない場違いなことを言うと話が噛み合わなかったり相手を不愉快にさせるので次第に会議や食事会等からはずされるようになります。
衣装アクセサリーだって自己実現するのは勝手とはいえ、制服以外にも、レジャー用と事務職用の別があるなど相応のドレスコードがあります。
自己実現は自由としても相手のあることである結果、自由市場で弾かれるのを容認するというのが自由市場論でしょう。
その社会のためになる意見でもその社会を悪くする意見でもどんな意見であっても、政治参加することによって「自己統治できる」?という変な論理(私にはわかったようで分からない熟語?)ですが、憲法学者に言わせれば結果がどうであれ、意見をいう自由が先ずは必要・結果的に社会のためになることが多い(社会や周囲の人の嫌がることを言う人はおのづから遠ざけられる)だけという評価のようです。
表現の自由は自己の幸福追求の権利である以上、「所属する社会・集団をよりよくしたい」か「悪くしたい」かの価値評価を含めてはならない・・・その意見の結果社会がどうなろうと、「個人が政治意見を言いたいなら自由に言わせるべき」だ。
その意見が「国家・社会のためにする意図」あるいは「利敵行為目的」であろうがなかろうが「言いたいことを言える権利」・・国家の介入を禁止したいことに重点があるようです。
人権問題は国家と個人との決まり事であり、国家は思想に価値介入できないが、個々人は自分と意見の合わない人と無理に付き合う必要がないのですから、個々人がノーと言えないことまで言いだすと行き過ぎです。
(利敵目的・勤務先や所属組織の損失目的を仮に明らかにしても)「それを理由にして言論が制限されない」・・・それが支持されるかどうかは、言論の自由市場論で解決する・・別次元で考えるようです。
国連特別報告は、国家が直接検閲し禁止しているのではなく番組から降ろされる事例を書いていましたが、(反日を言えば支持されないので)結果的に「言いたいことが言えない社会」は表現の自由度が低いとなるのでしょうか。
表現の自由は、思想の自由市場が機能していることが前提ですから、言論の自由市場が寡占支配になったり、国家が介入したのでは、市場で売れないのは自由競争の結果ではなくなりますから、寡占の弊害除去と国家権力の介入を厳重に監視する必要があります。
従来国家からの距離だけに関心があって、寡占支配に意図的に目をつぶってきた弊害が出てきたように思われます。

表現の自由(自己実現・自己統治)とは1

民意による公権力=社会秩序と「距離を保つ」価値観であれば、いわゆる吉田調書のような「反日フィクション創造」に喜びを見い出して大喜びで大々的報道したい人が多いのもわかります。
メデイア界でこのような主張を英雄視する風潮・空気を読んで「公権力とは距離を保つ」と言えば格好いいとして、発言したのでしょうか?
「公権力とは距離を保つ」というのですが、全ての権力と距離を保つのではなく「公権力とは」と限定して距離を保つとしている意味が不気味です。
公に対する対語は私ですから「私権力」には「距離を保たない」と言う反語的意思表示でしょうか?
「公権力」とは、民意による正当性を付与された権力とすれば、「私権力」とは、民意による正当性を付与されていない・・・山賊やギャングが、民家に押し入って事実支配している状態・・マフィア的アウトロー権力を言うのでしょうか?
中国の共産党政権は民意による洗礼を受けていない・山賊(共産党私兵・人民軍は国家の兵ではなく共産党の私兵です)が国家を乗っ取った状態と言われていますが、「民意による「日本の政府・公権力とは距離を保つ」が、中国共産党政権には近づきたいと言う意味を含むのでしょうか?
7月9日に
「日本をより良くしたいと思うならば、国内の言論市場で先ずは勝負すべきです。」
と書き、その後カンヌ映画際に話題がそれましたが、元に戻ります。
私はいわゆる宮沢憲法で勉強した世代ですが、蒙昧な私は、自分に都合の良いように
「言論の自由、思想表現の自由が結果的に「その」社会発展に貢献するから重要」
という意味で理解してきましたが、最近そういう意見が(なくなった訳ではなさそうですが)背景に退いているようです。
旧ソ連に限らず中国その他の(人権無視の)独裁社会では、自由主義社会に遅れてしまうはず・・とメデイアでも一般的に言われている大方の刷り込みは、上記理解のもとで語られてきたと思います。
今朝の日経朝刊24pにもフランスの元文化相ラング氏との対談記事で、文化を大事にすると結果的にその国社会の発展に資するという添え言葉がありました。
「文化に投資するのは窓から金を投げ捨てるのではありません。それは大変に還元性の高い「投資」であり、世界にはすでに多くの実証例があります。」
と書いています。
文化に力を入れているフランスの元文化相らしい意見です。
我々個人も同じで、18年7月7日に上野東博の縄文展を見てきて感動し(後期も見に行く予定)ましたが、何千年も前の古代に高度・・・現代的に見て最先端センスでしかも精巧な器や櫛、土器等々がすでに製作されていたのを見ると「日本人は古代から手の込んだ「ものづくり」の好きな民族なのだなあ」と感動せずにいられませんでしたが、その背景にあるのはわが列島人(今の民族)が、かくも素晴らしい「ものづくり」続けていたのか?という感動であり民族の誇りです。
我々一人一人が一人で育ったのではなく「海よりも深い山よりも高いちちははの恩」というと古臭すぎるかもしれませんが、物心つく前から周囲の風のそよぎに始まって一言で言えば、民族の中で生きているのではないでしょうか?
芸術こそ他者無視でも「自己実現」に最適の分野ですが、それだけでは庶民に訴えるものがないからでしょうが、フランス文化相が「社会のために良いのだと付け足す」必要を感じたのでしょう。
いろんな基本的人権の中でも表現の自由は、とりわけ「受け手」があるものですから、聞いたら意見相違・・不満な不愉快になる人の存在が避けられません。
これに対して「言いたいことを言うのは勝手でしょう」と言うだけでは現実社会の支持を受けられないからではないでしょうか?
言いたいこというのは必要だがそれは「時と場所を選らんで言うものだ」という程度は子供だって知っています。
ところがいつの間にか?学問の世界では、表現の自由は「自己実現」のためにあるという意味が中心化して、ひいては国家社会の発展に資するという意味合いは否定されないようですが、副次効果的扱いに変わっているようです・・。
この扱いは昔から同じだったのにレベルの低い私は副次効果ばかりに印象が強く残っていたのかも知れません。
現在の主流的学説・・表現の自由で検索すると以下の通りで、社会のためになるのは二の次で、先ずは個人人格の発展に資するという主張が前面に出ています。
http://kenpou-jp.norio-de.com/hyogen/

ひとつは自己実現の価値。
自己実現の価値とは、
表現活動を通じて個人の人格を発展させるという個人的な価値といわれていますが、人間的成長のために表現活動が大事であるという価値観であるといえます。
もうひとつは自己統治の価値。
表現活動によって国民が政治的意思決定に関与するという民主主義と密接不可分な、社会的な価値をいいます。
このような価値を支えるためには、
「思想・言論の自由市場」の形成が不可欠であるといわれています。

ネットに出ている憲法の解説では、表現の自由は個人の幸福追求權の一種?誰でもいいたいことを言えるのが(ストレスがなく?・・兼好法師流に言えば言いたいことも言えないのでは「腹ふくるるわざ」)であり、「自己統治」に必要で人間として生きていくための基本的権利であり、最重要だと言うようになっているようです。
政治参加権のことを「社会の一員として当然発言権がある」という私流の粗雑な理解?いわば社会参加論ではなく、「自己統治」と言うようです。
ちらっと説明を読むと、「政治参加するには、多様な情報を知る必要がある・だから表現の自由が必要」というような説明ですが、その程度の説明をするのに難解な「自己統治」というのか不明です。
要は、「表現の自由は社会発展に資する」とは言いたくない・・「何事も個人のためにある」という強調のために言い出してこれが格好いいということで定着してきたようです。
そう言いながらも社会のためになると憲法の解説者はつい口を滑らせるようです。
https://blog.goo.ne.jp/kodomogenki/e/7ddf217e3a7af1c482364e1eb34d335d

「自己統治ですが、これは、私たちの社会の大切な仕組みである、民主主義を支えるとても大切な価値です。
自己実現でも述べましたが、ひとりひとりが、社会に起きている事柄について、情報を集め、分析することで、社会がどうあるべきかについての意見を自己決定することができます。
政治家を選び、その政治家が、私たちの未来の社会を決めるのですから、その判断材料となる情報は、とても大切であることが分かりますよね。
表現の自由の中でも、この政治にかかわる情報は、一番手厚い保護を与えて行かねばならないと考えられています。」

「自己統治」とは、国家・民族のためになるからではなく、政治参加する個人の「権利」を尊重しようという側面強調のために考え出された・・いかに共同体利益を消し去るかの工夫のためにできた概念のようです。
何が何でも共同体・社会と個人は対立するべきものだという戦後の風潮がここに現れています。

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