臣民とは2

正月特別コラムを終了して今日から12月29日まで書いたシリーズの続きに戻ります。
欧米では支配、被支配の階層隔絶が大きいので、経済面で見ても日本と違い格差が拡大する一方のようです。
日本の臣民は臣と民は相互互換性のある関係なので明治13年の旧刑法で国の民=「国民」という用語が採用されたものと思われます。
明治15年施行の旧刑法で法条文に「国民」という単語が取り入れられましたが明治憲法が発布された時に、憲法では臣民としたのでこれに合わせて旧刑法も「臣民」と改称したはずと思いますが、明治40年の現行刑法は以下の通り「国民」として記載していますが、これは明治40年施行時は臣民となっていたが敗戦後現行憲法に合わせて国民と変えた可能性があるでしょう。

明治四十年法律第四十五号
刑法
刑法別冊ノ通之ヲ定ム
此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
明治十三年第三十六号布告刑法ハ此法律施行ノ日ヨリ之ヲ廃止ス
(国民の国外犯)
第三条 この法律は、日本国外において次に掲げる罪を犯した日本国民に適用する。

例えば明治40年以降続いている現行刑法の3条は現在のネット検索では上記引用したように本日現在の条文しか出ないので、戦後改正されて「国民」という用語になったのか、40年現行法制定当時も「国民」であったのかを知ることができません。
これが戦前どうだったかを見るには、昭和8年版六法全書がたまたま我が家にあるので刑法を開いて見ると、3条の文章が文語体であるほかは「国民」という単語が「帝国臣民に之を適用ス」となっているほか全語同じです。
(漢文調が口語体に変わったのは平成になってからです)
これによれば、もしかしたら明治40年制定当時から明治憲法に合わせていたように思われますが、そうとすれば旧刑法も、明治憲法制定に合わせてほぼ同時に国民を臣民と変更していた可能性がありますが、旧刑法については、制定当時の条文しかネットに出ないので明治憲法制定によってどうなったかの変化が今の所私には不明です。
ところで、国民という概念が明治13年の旧刑法記載だけで、一般に知られていなかったのかといえば、日露講和条約反対の日比谷焼打事件の集会名は国民集会といったようですし、暴徒押しかけ先対象になっていた新聞社名が「国民新聞」と言うようですから、当時在野で「国民」という表現がすでに利用されていたようです。
国民という単語は日本国憲法制定時に創作された単語ではなくずっと前からあったようです。
もともと明治憲法で創作した?臣民という用語の方が我が国古来からの用例から見て無理があったように直感します。
敗戦→新憲法制定の必要性から、国民意識に合わせて是正されたと見るべきでしょう。
私のド素人的語感からいえば、現状のイメージでは「臣」とは支配者あるいは誰かの手足となって働く支配者側の人間であり、「民」とは権力との対で言えば領民・・権力集団の外側にいて支配される側の総称でしょう。
領民の中から権力機構内にいて権力者と主従関係にある状態の人、現在風にいえば従業員の内労働組合に入らない管理職が古代ではオミであり、天皇家直属の大豪族トップを「おおオミ・大臣」中小の豪族を中臣、小臣と言うのではないでしょうか?
江戸時代でいえば大名?小名、旗本、御家人であり、天皇家の朝臣は、江戸時代の直参旗本クラス?御家人や小者までいろいろですが、このように領民中権力機構内の人の中で権力に近いものが臣の系列であり、権力に関係ない支配されていた人を「民」というのではないでしょうか?
権力機構外の民の中にも経営者と従業員がいますが、それらはまとめて民ですし、民間の従業員を臣とは言いません。
今で言えば民間であり政治家で言えば野党です。
身分制がなくなり、今では国家直属の官僚・臣も自治体吏員・公務員も全員「民」であり民間人の子弟が官僚になり官僚が退官すると民間に戻る関係です。
政治家も与党の時はトップの総理大臣以下の各省大臣/政務官などのいわゆる高官ですし、野党になれば官職・戦後用語では公職を辞して在野に出るものの民心の支持次第でいつでも与党に入れ代われる仕組みです。
この点は明治体制下でも一君万民思想で四民平等にした結果天皇家・皇族以外は平等になった点は現在と同じですから、(戦前国会でも与野党の別があり政権交代がありました)臣民と2種類に分ける必要がなかった・・国民と簡明な単語ひとつで良かったことになります。
今でも「官民共同プロジェクト」とか、「官民あげて」「半官半民」というような表現をメデイアが好みますが、国営か民営かの基準をあえて戦前の「臣民」をちょっとお化粧直ししただけの「官民」という古い表現を使っている意識・現状が問題です。
政府の全く関与しない純粋民営ばかりでは、公益上必須のインフラを担当する企業がなくなると困るので、河川や港湾や空港新設や管理、教育や水道供給などは、早くから公営で行うのがどこの国でも普通でした。
これらも市場競争導入による効率化のために民営方式を何割かを導入する中間的経営が必要とされるようになり、これを半官半民とか官民共同の事業と言うようになっているのですが、公益的事業であることから、半官半民とか官民協働という必要があるかの疑問です。
「臣」同様に死語化すべき「官」の用語を今も何故使いたがるかの疑問です。
半官半民的共同事業体を表現する新たな造語能力が欠如しているのか?能力不足というより支配勢力には、今でも「臣民意識」を維持したい願望があるから時代即応の造語を作りたくないままになっているのではないでしょうか?
一時外来語借用の第三セクター大はやりでしたが、税を使う以上は役人の考える合理的目標や、公的な役割を無視できないという思想で事細かに官の立場で監督するために大方の第三セクターは火の車・税の無駄使いに終わっている印象です。

臣民とは1

例えば明治40年以降続いている現行刑法の3条は現在のネット検索では昨日引用したように本日現在の条文しか出ないので、戦後改正されて「国民」という用語になったのか、40年現行法制定当時も「国民」であったのかを知ることができません。
これが戦前どうだったかを見るには、昭和8年版六法全書がたまたま我が家にあるので刑法を開いて見ると、3条の文章が文語体であるほかは「国民」という単語が「帝国臣民に之を適用ス」となっているほか全語同じです。
(漢文調が口語体に変わったのは平成になってからです)
これによれば、もしかしたら明治40年制定当時から明治憲法に合わせていたように思われますが、そうとすれば旧刑法も、明治憲法制定に合わせてほぼ同時に国民を臣民と変更していた可能性がありますが、旧刑法については、制定当時の条文しかネットに出ないので明治憲法制定によってどうなったかの変化が今の所私には不明です。
ところで、国民という概念が明治13年の旧刑法記載だけで、一般に知られていなかったのかといえば、日露講和条約反対の日比谷焼打事件の集会名は国民集会といったようですし、暴徒押しかけ先対象になっていた新聞社名が「国民新聞」と言うようですから、当時在野で「国民」という表現がすでに利用されていたようです。
ですから、国民という単語は日本国憲法制定時に創作された単語ではなくずっと前からあったのです。
もともと明治憲法で創作した?臣民という用語の方が我が国古来からの用例から見て無理があったように直感します。
敗戦→新憲法制定の必要性から、国民意識に合わせて是正されたと見るべきでしょう。
私のド素人的語感からいえば、「臣」とは支配者あるいは誰かの手足となって働く支配者側の人間であり、「民」とは権力との対で言えば領民・・権力集団の外側にいて支配される側の総称でしょう。
領民の中から権力機構内にいて権力者と主従関係にある状態の人、現在風にいえば従業員の内労働組合に入らない管理職がオミ・・天皇家直属の大豪族トップを「おおオミ・大臣」中小の豪族を中臣、小臣と言い、江戸時代でいえば大名?小名、旗本、御家人であり、天皇家の朝臣は、江戸時代の直参旗本クラス?御家人や小者までいろいろですが、このように領民中権力機構に関係ない人を「民」というのではないでしょうか?
権力機構外の民の中にも経営者と従業員がいますが、それらはまとめて民です。
言葉の意味では単純な「たみ」でいいのですが、日本人は漢字にした時に二字熟語にしないと落ち着かない国民性ですので「民」に何をくっつけるかの違いでしょう。
皇族以外は臣民というのは一応当たり前過ぎですが、臣民を合わせた二字熟語をなんというかの問題で抵抗権に魅力を感じるグループは人民といい、その他の人は「日本国の民なのだから国民」千葉県の人は千葉県民というようにこれが普通になってきたのでしょう。
県民の中で、県の役人とその他をあえて分ける必要を感じないのが現実です。
明治以降の一君万民思想で天皇(皇族)以外は全部「臣であり民である」と分ける必要がなく、単位に日本国の民=日本国民とすれば単純だったと思いますし、憲法で「臣民の権利義務」などと書く必要がなかったのです。
臣民によって適用法が違う場合には分類する必要がありますが、同じ法が適用されるならば、分類して法に書く必要がないでしょう。
臣民=皇族以外のものといいうことですが、そうとすれば民そのもの済むはずです。
民の中には大工も官僚も商人も漁民もいますが、あらゆる職種を羅列する必要がなくまとめて「民の権利義務」で良かったのです。
臣民・天皇直属の役人とその他の権利義務と書いても、臣と民で権利義務が変わるものではない・・どちらも日本国民であり同一の刑法民法の適用があります・高級官僚も庶民も皆家族法の対象ですし、買い物代金を支払う義務=民法の適用があり、殺人傷害等すれば刑法の同じく刑法対象です)ので2分類の必要がなかったのです。
これに対して人民は政府権力に対する対抗概念ですから、人民と官僚になる人は対立概念でありこれを含めてまとめる上位概念はありません。
支配されていた人民が抵抗権行使の結果、支配者になれば人民ではなくなるのですから、人民解放軍とか人民政府とかいうのは言語矛盾です。
臣民を今で言えば、官僚も総理大臣も皆国民であり、国民(国内に居住する人全員?形式的には国籍取得者)の中から、官僚や民間人に分かれる大元の上位概念です。
この結果官僚を辞職すれば在野ですし在野から官僚にもなれる、「臣と在野」は互換性をもっています。
法の適用は法の下の平等であって、官僚と一般国民との違いによって適用される刑法や民法に違いがありません。
明治憲法下でも高級官僚も一般の人も(家族法分野で言えば、婚姻や親子関係など)皆同じ法の適用がありましたので、明治憲法で臣民の権利義務とわざわざに分類したのは無用な分類だったことになります。
江戸時代までは、身分階層によって刑事法等の適用が違うことが多かったし婚姻制度も主君の許可がいるなど法適用が違っていたので武家諸法度、禁中、寺社など違ったルール適用を前提にしていましたので、その伝統に従って臣民と書いたのでしょうか?
我が国で「臣」の漢字を歴史的に見れば、天皇直属を大オミ・臣・・・でしたが、時代が下ると末端武家の従者も家人から家臣へと変わっていきます・・。
臣・・誰かに従う人・・サラリーマンといっても、勤務先は企業も中小企業〜個人事業主もあるように、天皇家・権力機構にに仕える豪族とその豪族に仕える人との違いが生じます。
古代王朝で言えば八色の姓」制定前には「オミ・臣」がありますが、八色の姓制定後従来貴族は全員朝臣(家の制度完成後に一般化された「家臣」同様に朝廷の「臣」いう点で同質表現)になり、その後は地方豪族にもオミが広がり、朝廷のカバネ制度と関係なく?武家の台頭後武家内の秩序・・主従関係を漢語的表現して、君臣というようになっていきます。
臣は一般的に権力機構に仕える従者に使い、民間の人に従うのは、色々な表現があったでしょうが、臣と言うようになったのは、権力の対象でしかなかった地下人・武士団が藤原氏など権力者の下請けをやるようになり〜武家自体が権力者になっていく過程で家人などと言っていた従者が家「臣」に昇格してきたような気がします。

臣民と人民の違い3(名目上の天皇大権)

明治政府(薩長土肥の政権)は倒幕の大義名分として尊王を掲げて成立した経緯上、表面上天皇大権というだけのことで実質は実務を行う内閣の決めたことを儀式挙行する役者でしかない・これを考究して戦前の憲法学では天皇は政府の機関に過ぎないという天皇機関説が通説になっていました。
天皇機関説についてはOctober 31, 2018「明治憲法下の天皇制・・天皇機関説」シリーズで紹介しましたのでご覧ください。
天皇機関説が事件になった本質は、
「学問の世界で何を言ってても勝手だがこれがマスコミで流布されるようになると放置できない」
表向きの王政復古と違う・天皇大権を担いでいるにすぎない「明治政権の本質」を右翼やマスコミが騒いだことにあるでしょう。
天皇はお飾りにすぎない・・あまり本当のことを言われるといわゆる「ミもフタもない」という暗黙知で納得していく日本社会の流儀に反するということでしょう。
右翼とマスコミが騒ぎ、当時の野党・政友会だったかが取り上げて政局にしたので、「そんなことはどうでも良いじゃないか!と権力側で放っておけなくなった事件です。
卑近な私の例で言えば、高齢化の結果?間違うといけないので事務所の若手弁護士にいつも「これでいいか?」と聞きながら仕事しているのですが、それでも、私の方が先生と言われるのが普通です。
子供らにパソコンの扱いで聞くことが多いのですが、それでも子供らは目上の人として遇してくれますし、普通の人より「ものわかりが悪く」なっているので出かけた先のあちこちで色々聞きますが、高齢者をバカにしないで懇切に教えてくれます。
こういう時にバカはバカと言っていいのだと「何でこんなこともわからないのだ」バカにした態度を誰もとりません。
知っていてもあからさまな態度を取らないのが大人の知恵です。
ゲチスバーグ演説のピープルを人民と翻訳していたからと言って、日本のように同胞意識の強固な民族では実質的にも名目上も民が主権者になった後は臣民でないばかりか、人民でもないので、国民と言うのが実態に合っているのではないでしょうか?
欧米は基本的に階級社会ですので、人民の人民による人民のための・・という演説は耳あたりの良いスローガンにすぎないので、今も人民は人民のままで取り残され本当の主権者に成り切っていないので格差社会が進むばかりです。
中国などでは共産党が政権を握った後、現在に至っても立場の互換性のある社会になっていないので、民を表す単語を必要としていないのでしょうか?
元人民である共産党が政権を取っても、今度は自分らが支配者の階級に居座り共産党員以外の人民に対して国家運営権を引き渡さないままですから、草莽から立ち上がり古代に漢帝国を起こした劉邦や同じく庶民から出て明帝国を建国した朱元璋ら庶民出身者が庶民に主権を引き渡さずに前王朝同様の地位についたのと同じです。
「王侯相なんぞ種あらんや!」と言うのが、秦朝滅亡時の大混乱時の大標語で、結果的に漢楚攻防(項羽と劉邦)で知られる最終決戦を制したのは項羽より家柄では庶民出身の劉邦でした。
明の朱元璋も貧農の子に生まれついに天下統一して明朝の太祖になっているし日本の秀吉も草莽の出身ですが、庶民に主権を引き渡さなかった点では似たようなものです。
古代から庶民の出で天下統一に掛け上がる人は一定数いるのですが、それをもって人民主権や国民主権を実現したとは言いません。
中国の共産党政権も政権を握るまでは庶民出身者グループですが、政権を握ると人民に政権を解放しないでそのグループ・共産党独裁で回していく・絶対王政時代との違いは個人が世襲していかないという点だけです。
北朝鮮に至っては将軍様の世襲になってすでに3代目ですから古代王朝交替となんの違いもありません。
こういう国ではまだ人民主権どころの次元ではないのです。
日本の場合は皇族と民とは交代する余地がないことが古代から現在も同じですが、その代わりに天皇家が政権を実際に握る親政体制は昨日見たように1200年の藤原氏の摂関政治開始から崩壊し、日米戦で敗戦で名目上も明治体制に終わりを告げたので(象徴的)一君万民思想そのままで国民主権国家・社会が実現したことになります。
これが定着したのは、天皇家の実質が約一千年以上に亘って実質的主権者でなかったのに、明治維新時に薩長が政権奪取の名分として天皇家の権威を利用していたことによるもので、天皇大権とは名ばかりで利用されていた(天皇機関説が法学会の常識であった)天皇が実質権力を行使することがなかったので、現憲法は名目と実質を合わせた・・実態に戻しただけのことだからです。
戦後も象徴的な「一君」が残っているものの、統治権のない国事行為をするだけの象徴天皇制化=儀式担当の技芸専門化?によって、主権は元の人民→衣替した国民にあることになったのです。
儀式には雅楽がつきものですが、雅楽とこれに従って舞踊する伎芸員がいますが、天皇家はその役者になった・・歌舞伎で言えばその主役・・団十郎の世襲制みたいでその家柄に生まれたことで歌舞伎役者の子が幼い時から芸を仕込まれるのと同じです。
庶民向けの芸能主役では格落ちが過ぎるとすれば、能の仕舞い演者に擬すれば相応でしょうか?
能に凝っていた綱吉が、自分自身仕舞いを演じて側近に見せていたので、仕舞いであれば貴人が演じてもそれほど違和感がありません。
そういえば格式の高い会議・・大阪でのG7サミットのアトラクションとして、能狂言が行われたのは、このあたりにあるのでしょうか?
欧米の「法の下の平等」とは、「神の前の平等」と習いますが、日本では天皇神格化あるいは別格化・・国民とは言わないのは、この面でも共通しています。
このコラムはじめ頃に皇族は国籍法に言う国「民」ではないことを紹介したことがありますが、国民の間では法の下の平等が貫徹しているのに民法(例えば婚姻の自由も職業選択の自由もないし戸籍制度の適用も無い)その他の国法の適用・原則として憲法中の基本的人権の適用がない点を矛盾という人もいますが、皇族は国「民」でない以上当たり前のことです。
(皇族は民法によらず、皇室典範で婚姻や祭祀承継〜職業選択権も別に決めています)

皇室典範
昭和二十二年法律第三号
皇室典範
第一章 皇位継承
第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
第二条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
第九条 天皇及び皇族は、養子をすることができない。
第十条 立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する。
第二十六条 天皇及び皇族の身分に関する事項は、これを皇統譜に登録する。

臣民と人民の違い2

臣民概念では、民から臣になる人もいるし臣が退官して民に戻る人もいます。
今で言えば官僚になる前は民ですし、官僚が退官するとまた民に戻ります。
これに対して人民という単語は、社会構成のなかで支配されている人々のことで、上記臣民で言えば「民」にあたる人を言うのですが、上記のような相互交流の余地がない階級区別を前提にしている観念です。
支配される存在だから人民というのであって、リンカーンのゲチスバーグ演説は支配者と被支配者の地位が交換される余地がなく支配されっぱなしだった人民・・・この仕組みが一般的だった時代に、リンカーンが

これまで支配されるだけのものと考えられてきた人民が政治も今後政治の主人公になれるしそうなるべき

という趣旨で演説したので、多くの期待を集めて歴史に残る名演説になったのでしょう。
これを一言で表現する熟語として人民主権.国民主権という標語が行き渡ったのですが、男女平等とか標語さえ唱えれば男女平等になるわけでないのが現実です。
個々人でいえば、東大合格とか甲子園優勝とかの標語を自室の壁に貼り付けてもその通りになるとは限りません。
多くはその実現が難しいからこその標語であることが多いのです。
ところで、企業が「工場労働者誰もが社長になる資格がある」と標語を工場に掲げて、幸いその通りに現場労働者から社長になった場合、その人はもはや労働者ではありません。
人民が現実に主権者になって支配されるばかりではなくなったのであれば「人民」という単語は今や過去の表現になっていることになります。
人民が主権者になったらもはや人民ではないので(青虫が羽化すれば青虫と言わないと同様)それに変わる新たな用語が必要なのに欧米ではまだそれが理念に止まり実現できていないので実現したのちの表現が生まれていないのでしょう。
日本の場合、朝廷は儀式等を主催する権威が残っていたものの藤原良房が自分の娘所生の道康親王を皇太子にするために恒貞皇太子の廃太子に成功した承和の変(842年)から良房を継いだ藤原基康による阿衡の紛議(887〜888年)・・これは即位した宇多天皇が前天皇の摂政であった基康に対して就任と同時に関白に任ずる詔勅を発したところその文言が気に入らないと職務放棄して朝廷を困らせたという(前代未聞)文字通りの紛議(今でいうサボタージュ)でした。
百官は藤原氏の権勢に恐れをなして、皆朝廷に参内できない状態だったのかな?
詔勅起案した官僚に責任を取らせるなど、権勢を見せつけたうえで事態収拾になったのですが、これによって天皇は藤原氏の言うがままにするしかない権勢を百官に広く見せつけたと言われます。
なんとなく始皇帝後を継いだ2代皇帝胡亥に対して、趙高が皇帝に優先する自己の権勢を誇示するために?あるいは自己に従わない高官をあぶり出すために、皇帝の眼前に鹿を引き出して、皇帝に向かって「珍しい馬を献上する・・」 といったので、皇帝が「鹿でないのか?」と聞き返すと趙高が「いやあれは馬です。そうだな!」と居並ぶ群臣に同意を求めて皇帝に恥をかかせるとともに、誰が自分の意見に反対するかをテストした故事・・バカの語源の一つの説として知られていますが・・。
皇帝の意見を支持した高官はその後全員処刑されたと言われます。
権勢を誇った君側の奸の代表として平家物語冒頭に出てくる第一人者ですから、尾ひれがつくのが普通・「この人ならこの程度のことをやりかねない」というのが事実に昇格している可能性の方が高いですが・・.
方広寺に秀頼が奉納した鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」に家康が難癖つけたのは、家康(金地院崇伝?)の発案でなくこの阿衡の紛議の故事に倣ったのでしょうか?
家康の場合、文字を分割してのこじつけですので、文字通りの難癖ですが、阿衡事件は古典の解釈論争によるので一応平安貴族らしい高度なテクニックを利用したものです。
日本での天皇家は君主と言っても、上記の通り800年代末から始まった摂関政治から保元平治の乱を経て武家政権に移っていき政治主導権を完全に失ってからでも800年以上経過しているので、天皇家だけ権力を握る仕組みが摂関家に移り、武家政権になると政権を握れるのが公卿(朝臣)だけでもなくなりました。
武士とはもともと農民層から戦闘専門家に分化してきたグループのことで、江戸時代でも戦国大名系家臣団の多くは半農半士・一朝事あれば一族郎党引き連れて駆けつける仕組みが普通でしたので、日常生活は庶民そのものでしたし、民情に通じている・・実務能力の高い集団でした。
ただし徳川家旗本限定では、知行地が遠くしかも細分化されていたので、(例えば千石の旗本でも、50石〜70石等々(例外でしょうが 一つの集落の農地が数名の旗本の数石何升単位の小さな知行地に分かれていた例が文献にでています。)バラバラに房総半島に知行地がある場合代変わりに一回行くのも大変)ですので、結果的に今の都民同様になっていたので幕末戦闘力はほとんどなくなっていた実態をSep 11, 2016 12:00 am欧米覇権終焉の開始2と、12/28/04(2004年)「兵農分離4(兵の強弱と日常生活)(コサック騎兵)」前後で連載したことがあります。
日本社会はこのように庶民・現場力の高い集団内での権力交代が可能になってからでも約800年経過です。
庶民も能力さえあれば政権担当できる社会・互換性のある社会になっていたので日本社会は観念論に走らず時代即応した着実な進展変化を遂げてこられたことになります。
明治新政府は、王政復古を旗印にして成立した政権である関係上表面上だけ古色蒼然たる主張をしてきたものの、政権掌握後は時間をおかず現実的政策を果敢に打ち出して後醍醐天皇のような天皇親政を採用せず実務官僚機構を整備して、古色蒼然たる平安朝以来の公卿堂上人を華族として棚上げし、実務は江戸時代の下級武士層・実務官僚が実権を握る体制を築き上げました。
廃藩置県で藩知事に横滑りした元の大名は短期間に罷免されて、中央から派遣される実務官僚が知事に入れ替えられた経緯も08/04/05「法の改正と政体書」07/18/05「明治以降の裁判所の設置2(3治政治体制)」前後で何回か紹介しました。
こういう大変革途上にあって制定した明治憲法では、表向き天皇大権とか臣民とはいうものの(神棚に棚上げした一君と(明治初期から逐次始まった士族等の階級名称廃止政策・・四民平等の徹底化で)万民思想が徹底してきたのですから、内実は戦後の国民主権体制と変わりません。

臣民と人民の違い1

民衆・大衆と国民はどこかに違いがありそうです。
国民的英雄、国民体育大会など、国民葬などどこか国民代表的イメージですが、デモをしている民衆が5〜10万人いても一億国民代表とは言えないからでしょうか?
ゲテイスバーグ演説を信奉しているはずの米国ではすでに人民は支配される対象であるばかりではなく主権者になっているはずですが、そうはいってもそれは理念上のことであって事実としてはいわゆるエスタブリッシュメントと一般大衆の格差は広がる一方です。
男女平等といってもすぐにそうはならないのが現実社会です。
主権国家内には支配する側とされる側があるとしても、現在社会の理念では相互互換性があるので、例えば米国人の中には大統領や大統領側近や官僚も野党党首・党員も無関心な一般人も皆米国人です。
このように多様な分類可能であっても、それを統合する命名が米国人と言い日本人と言うのでしょう。
ただし、歴史的に日本人、韓国人、ドイツ人、フランスという用語には、人種名称とダブる利用が強かったので、いわゆる合衆国である米国人というだけでは人種特定に不向きなのでワザワザ何系米国人という紹介が今でも多い所以でしょう。
明治維新は、そもそも開国圧力とその反作用の攘夷論によって幕末騒乱の幕を開けた結果ですので、おのずから外国人の居留が進みます。
数日前に紹介した生麦事件は、英国政府関係者の被害ではなく横浜在住の商人かな?が川崎大師観光のために繰り出した女性を含む一行でした。
どこかで読んだ記憶ではこの当時外国人は2万人前後だったようですが、4〜5千万人口のうちわずか1〜2万でもそれまでのなんとなくの常識に基づく統治と違い、画一的法を制定するとなるとまず法適用の対象を決めることが先決問題になります。
そこで憲法以前に制定作業が進んでいた旧刑法や民法の草案作りで法の対象として外国人と日本人区別が必須になってきたと思われます。
13年成立、15年施行の旧刑法で国民という単語が使用されるようになっていたことを紹介しましたが、一回も施行されずに終わったいわゆるボワソナード民法内には人事編として日本人になる要件が記載されていたようです。
ただし同法では、国籍という単語ではなく日本人としての「分限」が決まるというな文言だったようで・・内容的には明治31〜2年の旧国籍法とほぼ同様に、男系出生と帰化の二本立ての基本要件は同じですが、・・まだ国籍という文言ができていなかったようです。
江戸時代の知行状を見ると加増土地の特定が「〇〇の庄の宮前何反歩」程度の特定に過ぎなかったことを紹介したことがありますが、明治に入っても人の把握も分限や分際が基本用語で明治憲法制定後付属法令・・不動産登記制度や戸籍関連制度の整備が進むにつれて、宮下、寺田、滝田、上田、橋本、橋爪とか川上等のアバウトな地名表示だけから地方制度整備により〇〇郡○村字何番地と細かく地番を付すように合理化が進んだことを明治の法整備シリーズで紹介してきました。
このように数字的表示の整備に合わせて人間の特定も住居地番特定と合わせて戸籍簿で管理できるようになってきたことにより、国内個々人は戸籍簿で管理し、外国人と日本人の区別は国籍法でけじめをつけたということになります。
ちなみにここ数年、長男長女次男等の区別表示が不要でないか等の動きが強まっているのも、記録進化の一環で今は両親名、生年月日の正確性が高くなった(適当な届け出だけでなく医師の出生証明添付など)も影響があるでしょう。
戸籍(当時家ごとの「籍」が整備されたので「戸籍」と言いますが)の整備が進むと国民が国家に登録されている籍=国家の籍があるかどうかで区分けする方がスッキリするので戸籍に対応するものとして国籍簿概念が登場して、明治31〜2年頃の現行民法制定施行と同時に「国籍法」が施行されて日本の姿を法的に整備する大枠が決まったように思われます。
家族関係の仕組み・家の制度は民法で決めるものですから(今も家族のあり方は民法所管です)民法が基本法で、戸籍法はそれを具体化する付属法ですが、国家所属者の登録は憲法から直接くるものですから、戸籍ではなく国籍として旧民法の分限ルールから切り離されて独立法になったものと思われます。
1800年代末頃には人種定義や民族定義では、外人との区別・厳密な特定不能というのが社会科学・特に法学分野で常識になっていたと思われ、結果的に国籍法ができて、日本国籍を有するものが日本人という定義(人種を正面にすえない定義)が生まれました。

旧国籍法
朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル国籍法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁
明治三十二年三月十五日
内閣総理大臣侯爵山縣有朋 内務大臣侯爵西郷従道
法律第六十六号
国籍法
第一条 子ハ出生ノ時其父カ日本人ナルトキハ之ヲ日本人トス其出生前ニ死亡シタル父カ死亡ノ時日本人ナリシトキ亦同シ
中略

いわゆる血統主義・これは現行国籍法もそのまま踏襲していますが、これによれば人種と同じようですが、帰化を認めざるを得なかったことから、他人種の日本人が存在することになり、国籍と人種とはほんのわずかですが一致しなくなりました。
こうして日本人の定義が決まりましたが、明治憲法下の日本人は皇族と臣民の2種類でした。
このような社会意識が定着してきて皇族以外の総称として日本国の民という「国民」概念が普及しはじめたように思われます。

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