人としての資格・権利能力は、体の大きさや、性別、体格や頭脳、運動能力による差をつけられませんが、弁護士は国家の決めた試験に合格し訓練を経て弁護士会に登録して弁護士になります。
東大生も東大入試に合格して入学手続きして学籍登録して初めて東大生であり、銀行に就職して初めて銀行員です。
このように全て、職業につく資格は能力差によって違いが生じますが、これは権利能力の差ではなく、人間としての同じ土台の上での行為能力の差になります。
特殊法人のように法人になると(銀行や医療法人など)同時に特定業種を行う資格がいるのとは違います。
生まれる前に何の資格もいらないのが人間です。
法人と違い自然人に限って天賦人権説・生まれつき平等!とは言うものの、人にはそれこそ生まれつきの能力差があります。
能力差による区別(差別?)なしに世の中が回っていかないので、その合理化が必要になってこれは人間としての差でないと言うために、行為能力という概念が必要になったように思われます。
権利(享受」能力と行為(する」能力の分類が必要になったようです。
ベンツとトヨタカローラを比べて「車」と言う点では同じ価値だが、性能が違うから価値が違う・・「車の価値の差ではなく性能差です」と言うようなもので一種の詭弁っぽく聞こえます。
あいつは感じ悪いから誰も付き合わない・雇ってくれない・仕事ができないから、給与半額という場合でも、人間としては価値が平等だが能力が違うだけという言い方で何となくわかったような気になっているというより分かったフリしないと今の社会で生きていけない無言の圧力がありそうです。
これを車やミカンやリンゴと置き換えればどうでしょうか?
味が違う・見栄えがいいので値段に差がつくだけ・・・リンゴとしては価値が同じだと言えば詭弁じゃないのか?という疑問が湧いてきます。
種類としての分類として、同じ類や科、目に属するという分類上の同一性を言っているだけでないか?
人皆同じというのは犬や猫あるいはその他動植物と魚類貝類と岩石等に比べて人として共通性があるのはその通りですが、それ以上のことがあるのでしょうか?
人にも大きく分ければ男女、老若青少年乳幼児の差あり、病人健康者の違いあり、職種別や、善人悪人、無信心者と信心深い人、酔っ払いとシラフなど言い出せばキリがないほど無限の違いがあります。
人にも大きく分ければ男女、老若青少年乳幼児の差あり、病人健康者の違いあり、職種別や、善人悪人、無信心者と信心深い人、酔っ払いとシラフ、前科者など言い出せば無限の違いがあります。
衣類といえば皆同じだから一つで良いのはなく、夏冬物に始まり上着下着、作業着、部屋着やタウンジャケット、同じスーツでも生地やカットの善し悪し色柄の好み等々の多様なものがあってこそ文化的生活になります。
靴も一足あれば良いのではなく用途・洋服に合わせて色々履き替えるし、果物といえば皆同じなのでミカンだけあれば良い・・柿もりんごバナナも一切の選択肢不要・何事も一種類しかない単調な生活の方が良いわけがありません。
選択肢の多い都会生活に人が憧れる所以です。
人類の進歩?は、多様性の進化と言い換えても良いくらいです。
これを一旦全面否定して、「人皆同じ」とか「同じ地球に住むから仲良く」というのは、現実無視の意見・・意見というより「あっと驚かせる」程度の極論です。
日常的交流があるから競争や利害対立が起きるのであって、関係なければ争いも起きません。
(テロ行為は別として無関係な通行人にいきなり斬りかかるのはいわゆる狂人の類でしょう)
同じ地球にいるから競争が起きるのであって、もしも土星や火星に人がいても今のところ、地球人は土星人や火星の人と競争し争う気持ちがないでしょう。
どうせいつか死ぬのだから・と言い出したら、何もする意味がなくなってしまうのと同じです。
生きている以上より良い生活をしたくて生きているのであって「同じ人間だから」「どうせ死ぬ運命だから・・」と言って向上意欲を諦め悲惨な現実を受け入れるように説教するのは、あらゆる向上の道が閉ざされた究極の人(死刑執行が今日明日に迫っているなど努力による運命を変える可能性がない人)に対する最後の慰めでしかありません。
パラリンピックがもてはやされるのを見ると障害があっても、努力すればこんなことすらできるという向上意欲を刺激させ期待させる意味があるからでしょう。
これも一種の錯覚を利用したのであって、そんな恵まれた才能を有するアスリートは健常者障害者を通じてホンの数%いるかどうかでしょう。
運動神経+運動能力は千差万別であって、人類の一定率で分布しているので障害者や一時の病人であってもその中に一定率の能力のある人がいるはずですから、同じハンデイを抱えている人同士の中で誰が有能かを見るのは合理的です。
柔道やボクシングでは、早くから体重別の競技になっているし、子供の場合年齢別の学級があり、子供に重労働させてはいけないというのも原始的知恵です。
もっと言えば性別差が大きい(体力だけでなく好みの方向性も大きい)ので、男女別競技になっているのもその原理です。
これを同じハンデイを背負った障害者同士の国際競技に仕上げたのがパラリンピックということでしょう。
健常者で言えば、同じ能力があってもその日の体調によって、能力発揮できないことがあります。
たまたま体調不良の日に走っても調子が悪いような偶然に左右されるのを防ぐために
学業テスト等は一発勝負の比率を下げて、何回受験してもよく、その中の最高成績を基準にする制度もありますし、一定期間の平均成績によるというのがあっても良いのです。
過失がない方がいいのですが、100%過失のない者だけというのでは社会が回っていかないので、過失さえあれば厳しく処罰するのではなく、一定期間内の過失回数や軽い違反の繰り返しの累積で見るのが交通反則の点数制度です。
以上の通り、現在の科学技術では、行為能力と権利能力を峻別するのは論理のための論理として詭弁っぽいのですが、これも近い将来ではないものの未来的には峻別可能な領域に近づくかもしれないのでこの点の思いつきを明日書いて行きます。