米国のコロナ禍対応能力5

米国のコロナ禍対応に戻ります。
気候風土の違いや遺伝子的特性や伝播経路の違い等複雑ですから一概に比較しきれないのですが、現実に置かれた似た環境下・クルーズ船対応は一種の実験装置のような環境状況下でしたので、置かれた環境条件(船内構造や人数が米国3500人対日本3711人で、豪華クルーズ船の場合、裕福度と年齢構成健康度がほぼ同じでしょう。
高齢者でもクルーズ船参加するだけの積極性のある一定の健康人である点も同じです。
こういう場合、双方条件差がほぼないので比較検討するには好事例が続いたものです。
政府や受け入れ地域、国の対応の巧拙,総合判断が適切か否かですので、具体的やり方のケチを付けあっても仕方ないので、本来は結果を見るべきでしょう。
5頃から日本政府批判したい勢力から、致死率は日本がアジアでものすごく高いという変な主張が出始めました。
致死率と陽性反応者中の死亡率ですので、検査数を増やせば症状の軽い人を大量検査する→致死率が下がるのは当然です。
体制相違を前提にするより10万人あたりの死亡者数を見るのが検査体制の相違に関係せずに誤差の少ない方法です。
あるいは、コロナで死亡したかどうか微妙な事例の見分け方にもよるので・・健康体でコロナにかかって入院死亡の場合はっきりしますが、もともと糖尿病等の重病患者でいつ死んでもおかしくない人が、最後にコロナにかかって抵抗力なく数日で死亡した場合コロナで死んだのかどうかの意見が分かれるでしょう。
医療インフラの乏しい国では、コロナか普通の肺炎か不明のまま死んでいく人もいるでしょうし、コロナで病院満杯のために一般の病気の治療が遅れてその社会の死亡数全体が上がることもあります。
こういう誤差を無くすには、その国や地域の過去4〜5年の平均死亡数と今年の同月間の死亡数が有意に上がっているかの差=超過死亡数で見るのが、最も正確という意見もあります。
情報統制している国でも、死亡を隠すのは難しいので、その意味でも死亡数統計の比較が分かり良いということです。
そこで「グランドプリンセス号の感染者死者数」が日本寄港のダイヤモンドプリンセスに比べてどうであったかを知りたくて「グランドプリンセス号の感染者死者数」検索しても7月3日現在では当初の報道ばかりで結果・感染数や死者の数字がどうなったかの資料はでません。
米国政府の統計の中には細かい分類が出ているのでしょうが、(日本も厚労省統計の中に、クルーズ船乗客の感染者と死亡者数が出ている)グランドプリンセスに限定せずに米国クルーズ船客・感染・死者数のキーワードで総合的牽策をしてみましたが結果は同じです。
米国公式統計中には、グランドプリンセス関連の感染者,死者数が出ているのでしょうが、(日本を批判してきた手前多分都合が悪いので)米メデイアが報じなくなったし、日本の米国特派員も米国基準を振りかざして、本国日本で散々日本の対応批判していたことから、お粗末な米国対応はバツが悪いから現地で独自の調査していない・現地報道がなければそのままになっているのでしょうか?
米国内統計に入ってクルーズ船・グランドプリンセス号のデータだけ抽出して比較するのがプロの仕事であり日本政府批判者のすることでしょう。
クルーズ船同士の個別データ紹介が全くない以上・国別トータルで見るしかないでしょう。
米国のトータル成績は目を覆うばかりの惨状で連日報道されているので今更紹介するまでもないでしょうが、いまでは常識ですが数年以上経つとどういう状態だったか忘れてしまいますので、念のため現時点での国際比較を記しておきます。
死者数で見れば日本の120倍超の結果です。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html

新型コロナウイルス感染症の現在の状況と厚生労働省の対応について(令和2年9月18日版)
9月18日現在の新型コロナウイルス感染症に関する状況及び厚生労働省の対応についてお知らせします。
国内での新型コロナウイルス感染症の感染者は77,494例、死亡者は1,482名となりました。
また、入院治療等を要する者は6,115名、退院又は療養解除となった者は69,899名となりました。
4.国外の発生状況について
・9月18日15:00現在、日本国外で新型コロナウイルス関連の肺炎と診断されている症例及び死亡例の数は以下のとおり
(表の一部のみコピー)

国・地域 感染者 死亡者
中国 85,255 4,634
香港 4,994 102
マカオ 46 0
日本 77,494 1,482
米国 6,674,411 197,633
カナダ 142,879 9,249
フランス 406,049 31,047
ドイツ 269,048 9,376

以上の通り米国の被害・悪い結果は他国をはるかに超えている・・・こういう適応能力の低い民族の対応ルールを基準に日本の対応を何故メデイアが批判できるのか?
日本企業発展の原動力は現場力にあると言われますが、米国その他リーダーシップ重視社会では現場力が低い感じです。
その分強力な司令塔が必要で、規制が及ばなくなると隙を突いて略奪が始まる社会です。
米国ミネソタ州での黒人殺害に抗議するデモが激しくなり警察力が引くとすぐに各地で略奪が行われたように、少数者・弱者被害に対する抗議行動で、多数の力を頼んで抵抗できないその場の商店に押し入る矛盾行為・・要は日頃の鬱憤晴らしの爆発でしかない現実を現しています。
米国流を称賛する立場では自粛を求めるのではなく政府が必要だと判断するなら責任を持って明確な規制をすべきだ・自粛や忖度に任せるのは、ずるいという主張が圧倒的です。
そうでしょうか?
何事でも権力による規制や命令がない限り、何をしても良いし、しなくても良いという無責任な諸外国とは違います。
自発的健康を管理能力の高い民族の場合、強制するよりは自発的行動を援助する政策の方がスムースです。
強制がない→補償不要はおかしいと言うのですが、損得にはいろんな態様があるので、画一的補償になじまない自粛効果に合わせて、補償する柔軟対応の方が現実的でしょう。
戦国時代の報酬も合戦後の論功行賞やっていたし、今の終身雇用制もそのやり方です。
先に何をくれるかはっきりさせるのが合理的なようですが、今回のコロナのように相手が見えない・対応策すら決まらない段階では無理があります。
自粛は各人の能力環境に応じた柔軟対応ですので、「努力は報われる」とお上を信用して行動する日本人気質に合っています。

利害調整不全6→(地域エゴ野放し1)

民主主義社会・・自由な言論が際限ない対立を前提にするのではなく冷静な議論を経て結論が決まると挙国一致(企業で言えば企業)の方針が決まり、反対した方(一つの政策決定が自己利害に反する集団も決まればそれに従う)も実行に協力する社会を前提にしています。
経済活動場面・自由主義経済の場合→(見えざる神の手)市場による淘汰が行われ選ばれた企業が成長し、勝ち残った製品サービスが社会に行き渡る仕組みです。
商品の場合には市場規模が大きい場合順位1番から50〜100番までの多様な商品サービス並存可能ですし、多様なサービスが並存している方が消費者には便利です。
だから都会に人が集まるのです。
国家社会のルールや政策決定の場合、社会秩序そのものの決定ですので、商品のように並存可能というわけにはいかない・・・道路交通法でいえば、AB両地点のいずれに信号機設置すべきかどうかの議論でA地点だけと決まった場合、B地点派がA地点の信号設置に反対したんだからと信号無視して良いとなれば社会が混乱します。
制限速度や一方通行、駐車違反場所でも同じで、反対派だった人も決まった以上はそのルールを守るべきですので、集団別ルールが並存するのは不可能です。
民主主義とは統治の原理・統治ルール決定手続きに関するルールであり、自由な言論活動は一定期間内に一つの結論に収斂するための言論の自由です。
一定手続きで決まったこと(法)には反対派も従うことを予定していることになります。一旦決まったことを実行してみる不都合があるなどの修正変更の必要があるので、多数意見が決まったのちにも、少数意見者も「やはりこの方法の方が良い」と言い続ける言論の自由は残りますが、多数で決まったルールに従わない自由はありません。
すなわち民主主義とは意見・利害調整による意見一致を前提にした決定手続きをいうのであって、利害調整・意見一致できないで意見対立のまま終わることを予定していません。
民主主義であろうと、絶対主義であろうと自由主義であろうと一党独裁であろうとすべて社会は生命体同様の統一秩序を求めています。
一つの体で左足は横へ動く右足は前に動くというバラバラ行動は許されません。
幼児や小中学生レベルの場合、完全な自治運営が困難なように、言いたい意見を話し合いの結果合理的に収斂させる能力があってこそ自由な意見交換が成立します。
意見を言うなら議論の結果によっては相手の主張に従う度量が必要です。
年齢基準は年齢に応じてその比率が上がるだけであって、(小学3年生で5年生の能力ある子も2年生の能力しかない子もいます)大人になっても対話能力が育っていない人が一定率いるのですが、(私もそうかな?)そういう人は、自分の能力限界をわきまえて集会参加しても黙って聞いている・論争を聞いて最後にどちらが良いかの挙手をするだけで済ませば世の中が決まって行きます。
旧社会党の場合、議論にならない反対のための反対論(法案に関係ないキャンダル追求先行要求など)を繰り広げ、質疑打ち切りすると委員長不信任案や議長不信任案等を繰り出して最後は牛歩戦術や根拠ない不信任決議案提出で数時間でも採決を遅らせることで議決自体の妨害を図っていたので国民支持が離れました。
このような政治活動は技術革新の早い現在社会で、日本の国際適応を一国でも遅れさせる目的にしかならない・反日国家の意を受けた行動でないか?の疑念を抱かせるようになりました。
こういう疑念が一般化して来て・・革新的系政党支持率が低下一方になったのちは、地方自治体レベルでの抵抗戦術を始めたようです。
国政の場合2〜5%の支持率では何もできないのですが、地域特化し地域固有の問題が起きればその問題が続く限り、その地域限定で抵抗政党が圧倒的支持を得られるようになります。
数%支持でも特定問題・・例えば、放射性物質の特定市町村内廃棄貯蔵地問題が起きれば、その問題に限って過半の支持を得ることが可能です。
福島原発事故の結果、千葉県内で風向きの関係か?柏市中心に放射性物質の降下が多かった・・これの県内処理として原因企業である東電の広大な敷地がある千葉市内の臨海工業地帯・・広大な埋立地立地なので旧市街とかなり距離が開いている・近くに一般住宅街もない・・千葉市に白羽の矢がたったらしいのです。
これまで書いてきましたが、そもそも微量の放射能があった場合、どういう被害があるかの科学的意見を見たことがないのですが、宗教心のようにメデイアが恐怖心を煽り続けてきた結果だと思っていますが・・。
普段与党支持者でもこの問題に限っては、まず反対するしかないという宗教信念みたいな動きが起きます・・自治会等での議論を聴いていると風評被害がおきたらどうするんだ!式の反対で地元結束するようです。
原発問題もそうですが、「不可知な論争に持ち込んだ方が勝ち」というか、反対論者は対話にならないこの方式に頼ることが多いのです。
「〇〇があったらどうする」式の議論では、神ならぬ身、誰も「そんなことはあり得ない」と断言仕切れ無いので黙るしかない・・合理的対話が成り立ちません。
県内どこかで引き受けねばならないとなれば、被害の一番少なそうな場所に決めるしかないのですが、東京電力敷地が広大でしかも周辺と車で移動するほどの距離がある・・それ以上の適地がない・・しかし地元エゴに付き合わないと仕方ないので責任政党の与党系は「知事にかけあって努力する」というだけで腰が引けているので迫力がない・・不利です。
集会での議論を聞いていると「柏市のゴミを千葉市がなぜ引き受けねばならないか?」という一見尤もらしい議論で落ち着いて参加者が自己満足していたようです。
ちょっと考えれば無理筋の論理ですが、誰でも良識というか、良心があるので自分を誤魔化す目先の浅い論理が必要なのでしょう。

民主主義と利害調整力低下5

今も大手メデイアによる世論誘導が続いているというか一種の使命感を持っているように見えますが、メデイアが世論誘導というか、自説を世論に引き上げて社会を指導したがる傾向はほどほどにすべきと思うのですが・・。
社会の公器・・スマホ機器あるいは、フェイスブックのような役割で良いのであってこの機種を買うと一定方向のイデオロギーしか発信できない視聴できなくする必要がないでしょう。
ファーウエイの機種だと中国共産党の主張しか視聴できず、中国共産党の意向にあった意見しか発信できなくなる仕組みになればわかります。
テレビと言う機械は機械に過ぎない・電話機→携帯・スマホ同様の道具でしかないのに、割り当て電波が大手に寡占されているから自社の宣伝道具に使えると思い込んでいたのではないでしょうか?
少数派の権利向上は大手メデイアによって作られたブームや声高なデモ等の権利主張によるのではなく、シコシコと実績を積み、社会評価が自然に高まる着実な地位向上を待つことと市民の意識向上(例えば貧しい子供、あるいはアレルギーのある人に対する食物表示の配慮など)を待つことが堅実で健全だと思うのですが・・。
日本の在日韓国人を見ると、嫌韓運動に対して目立った反撃をせずにじっと我慢で実績を積む方向に徹しているように見えるのが偉いな!感心していますが・・。
しょっちゅう「自分は〇〇系人だから・LGBTだから差別されている」と言い募られると「〇〇系人だからって特に気にしていなかったがなあ」とか、「あなたがLGBTなんて知らんよ!」アレルギーだったなんて知らないよ!と言うと「気がつかないこと自体が無神経で許されない」「弱者は敏感だから言われる前に気遣いが必要」と再批判されると・・そんなややこしい人とは付き合いたくないねと不快感を抱いてしまう人が増え
そうです。
どこの出身でも、ベジタリアンでも、何教を信じていても勝手ですが、多数派でない時には、多数でないと遠慮して過ごす・・多数でないのに多数と同じ大きな顔をして振る舞えるようにしろと要求するのは行き過ぎです。
少数派(多くはよそ者ですが)は、遠慮するのは相応の理由がある・千年単位でその地域のインフラを築いてきた元からの住民と同じ権利がないのは当然だからです。
多数派は少数者の控えめな態度に安住するのではなく、遠慮しすぎていないかの配慮のキク住み良い社会にしていきたいものです。
そうは言っても権利として配慮を要求されるようになると、得心できない人が増えるでしょう。
欧米先進国ではメデイアの煽りで個人主張が大きくなりすぎて、しかも妥協しない傾向が強いのでメデイアに発言のチャンスを与えられない旧支配層というか民族主義的思考の保守層の反感を招くようになって社会の分断まで進み始め収拾がつかなくなってきたのではないでしょうか?
ネット時代到来により、大手メデイアが相手にしないいわゆるサイレントマジョリテイが大ネット利用による発言の場を得ました。
米国ミネソタでの黒人死亡事件に対して黒人に限定せずに白人も含めた各種各層の少数派が立ち上がったように見えますが、黒人のために立ち上がったというよりは、砂粒状の無限の少数者(それぞれ不満を抱いています)がこの機会に(便乗的に)集まって大規模デモになったように見えます。
ただ不満発散の場になったというだけでは、それで何かの政治目標を達成できるわけではない・・差別反対という程度の連帯でしかないので、格差による弱者連帯を表現する程度で、一定程度騒ぐだけ騒いで、鬱憤を晴らすところまですら行かない内に不完全燃焼で終わりです。
閉塞感・無力感が結果的に社会の分断・モヤモヤした不満感を誘い、何かきっかけがあればすぐ爆発するのを待っている社会になっている現状を明らかにしたのでしょうか?
災害があるとすぐに略奪に走る姿が米国では一般的で、人種差別反対目的である筈のこのデモでも略奪が見られましたが、要はストレスいっぱいの人がチャンスと見て集まり暴れたということでしょうか?
シアトルでは警察署周辺を占拠して、開放区みたいな宣言をしていたようですが、何のためのデモ→暴動に集まったのか意味不明になっていつの間にか沈静化しました。
これが格差(コロナ禍でも貧民階層に集中的に感染被害が出ているという風聞ですし)に苦しむ庶民の鬱憤ばらしに過ぎなかったのではないか?という私の短絡的感想を得た根拠です。
日本メデイア(多くは左翼系)は一見民主主義の名の下に政府批判するのですが、いつも「前もってこういう準備をしてこなかった責任」という論法ですので、結果的に「こなった場合心配」という反対論ばかりがはびこっているので、結果的に国家権力の事前チェック・介入場面を増やす一方です。
大手メデイアによる今回のクルーズ船対応批判も米国流儀の強制的権力機構の設置を求める運動を煽っていたもので現場力に期待する政府では頼りないと批判一方ですが、結果的に政府機構の巨大化を目ざす意見でではいつもの流れです。
米国の失敗に学ぶよりは、米国流の自己主張を民主主義のあるべき姿と賛美し、結果的に招来する分裂志向に対して割れ鍋を無理に綴じるための国家権力強大化を志向する傾向の主張が大手メデイアに多いのですが、彼らは基本的に戦後中ソの社会体制・・独裁政治を賛美してきたDNA・願望があるからこうなるのかな?と疑っています。
今回のコロナ騒動で世界の文化水準を見直してみる・・・米国が世界の警察官をやれなくなっただけでなく、総合的文化力で世界の理想社会でなくなっている現実を直視すべきトキが来たのではないでしょうか?
民主主義と利害調整は表裏一体ですので、これができない混沌よりは上からの断固たる命令・独裁権力への魅力度が高まります。
ポピュリズムの権化みたいなトランプ氏の言動が、ロシア、中国の独裁権力強化を後押していることになりそうです。

民主主義と利害調整力不全4

メデイア界では識見を有するかの根拠もない若手タレントがズバリ歯切れよくいう事(多くはメデイアの振り付けに従って)そのものを目的にしたバラエテイ番組などが数10年前からかな?はやるようになっています。
メデイア界では「たかじんのそこまで言って委員会」「〇〇ズバっ!」という番組が続いていましたが、論旨明快を通り越してさらに露骨に一歩踏み出すのが喜ばれる時代がきていたのです。
いずれも内容のない思いつき的意見をテレビ局の振り付けどおりに話すパターンですが、こんな底の浅い番組のどこが面白いのか不思議ですが、この程度のことですごい頭の良い人と感心する人が多いからでしょうか?
今朝7月2日の日経新聞5p下欄の週刊誌広告・週刊文春には木村花さんテラスハウス、母が衝撃の告白「スタッフの指示通りにしただけなのになぜ娘がパッシングを受け死ななければならなかったのでしょうか?」という文字ですが、こんなことを文春が取り上げなくとも常識ではないでしょうか?
文春のインパクト・成功の秘訣はほぼ常識となっている虚構を何かのきっかけをつかんで衝撃的に暴くことかもしれませんが・・。
ネット発達によって特定問題について大手メデイアの選別を経ないで一定専門家が自分の考えや言葉できっちり解説するユーチューバーが出てきましたが、これはこれで偏りがあるというか一人で最後まで話す以上は一定の偏りがあるのは当然ですし、それが面白いのですからテレビのように一方的垂れ流しで選択権のない報道と違いネットの場合、自分で多様なユーチューバーを選んで聞き比べれば良いことです。
近代社会が理想とする積極的発言する社会は教養のある市民社会(相応の識見)を前提に、言いたい意見をモゴモゴ言わないではっきり主張することを前提にしていたと思われます。
大衆社会化が進み、冷静な議論より感情的反応によって即時⭕️❌反応するのに長けた人が発言力を持つようになると論理的裏付けに基づく冷静な議論が不可能になってきます。
ネット・スマホというツールによって思ったままアケスケにいう社会になった・底辺にまで表現拡散権を広げた結果、ネット炎上が多発するようになったのがその象徴でしょう。
市民革命によって生まれた落ち着いた議論のできる「市民」(新興産業の経営者・ブルジョワジー)による合理的な討論によってより良い意見を生み出していくことを前提にした19世紀社会の理想である憲法・・近代法の原理で行なっている矛盾が今回のコロナ禍で先送り仕切れない巨大な矛盾として立ち上がってきたと見るべきでしょう。
先進国では、何ごとも我慢する必要がないとして権利として主張し論争の種にすることが進んだ姿(意識高い系?)として褒めそやし持ち上げすぎたことによる弊害ではないでしょうか?
何となくモヤモヤしたさ社会に対する不満のはけ口を求める空気があって、それに迎合して根拠なく単純言語で言い切ってしまう。
生活保護基準を月額20万円に引き上げる!最低賃金を二千円に引き上げる、奨学金の支払い義務を全部チャラにするなど言い切ったが方が勝ちみたいな風潮が広がります。
いわゆるバラマキ型ですが、あらゆる分野に都合の良いことを言っても具体的対立関係がないので対象になったグループは喜ぶだけです。
高校大学保育園無償も出産者に一律50万円支給も芸術家支援「アパート家賃半額支給、消費税ゼロにします」「障害者支援」もお互い二択・・対立関係ではありません。
良いことづくめでトータル国家運営では矛盾ですが、個々の受益者にとっては(高校性の親と大学生の親の対立もなく、目先敵対関係が起きないので、自分の子どもの学費を無料にしてくれるなら投票しようかとなります。
対外政策その他従来型争点で公約をすると不利益を受ける対立が必ずある関係→対立グループの離反を招きますが、上記のような消費者向け口当たりの良いバラマキ主張は敵がありませんし、バラマキの言いたい放題です。
大規模政党になるには国家経営ビジョンを示す必要がありますが、さしあたり2〜4人程度の当選を目指すなら国家ビジョンまで必要がないでしょう。
良識のある人に限らず納税している人から見れば、その資金は誰が負担するの?という疑問に行き着きますが、非課税層を増やすとポピュリストの宣伝にまともに乗る人が増える関係になりそうです。
いわゆるポピュリストが登場し易い社会になってきたのが、大手メデイアやネット発達による結果です。
小泉元総理の次男?小泉進次郎氏が、デビュー直後から気の利いた発言でメデイア界の寵児になっていましたが、環境大臣に就任して責任ある立場になると、これまで連発していた気の利いた発言が内容実質に基づかないものだった(当たり前?)・メッキが剥がれてしまったイメージになりました。
メデイア受けのする発言は、バラエテイー番組のタレント的素養・・・振り付けどおり発言する能力があればできることが判明したことになります。
メデイアというのはそういう視聴者(底辺層は富士の裾野のように最大多数です)をターゲットにして情感に訴える報道をしてきたということです。
政治家もこの巨大層を重要票田とみなし始めたのです。
戦後からネット開始まではこの巨大層の支持を得るのは大手メデイアの誘導が威力を発揮していましたが、ネットの威力が高まると大手メデイアが意図する方向ばかりに政治誘導できなくなりました。
そのエポックになったのが朝日毎日を中心とする慰安婦報道に対する反撃だったでしょうか?

民主主義と利害調整力不全3

民主党の政権を担った主な政治家は旧社会党以来の離合集散を繰り返した野党時代に国家全般の政治との整合無視で特定主張に特化してきた・・自己主張以外は何でも反対の経験しかなかったことが失速の原因でした。
その矛盾がすぐにあらわれたのが、ヤンバダムの問題でした。
野党時代には根拠なく反対さえしてれば一定の支持が得られたのですが、(どんな政治決定にも5〜10%の決定反対の立場・本当はその政策決定に反対でないが反対運動することによって保証金を引き上げたいなどいろんな思惑で普段政権党支持層でも自己利益のために社会党に応援を頼む人がいます)政権をとってみると全体ビジョンが必須(反対層数%の支持だけでは運営できません)になり破綻したのです。
まさか5〜10%の支持を頼りに政治をできません。
基礎的支持層が5〜10%しかないときに消費税反対等の大フィーバーを起こして大量得票をえて政権が転がり込んできた場合、その党のダムその他個別政策に対する支持が多かった訳ではないのですが、従来の反対派としては選挙に勝った以上反対を実行してほしいと期待するので板挟みで困ってしまいます。
経済利害の調整は簡単ですが、価値観相克になると討論による止揚はうまくいきません。
最近先進諸国では価値観にこだわる主張が増えてきたので民主主義の理念で合理的説得によって、より良い結論に至る・・価値観統合・利害調整に失敗し始めている姿が顕著です。
その原因は何か?ですが、どこに道路をつけるかなどの生活要求的意見相違は優先順位程度の問題ですので利害調整が簡単ですし、あるいは墓地等の嫌忌施設の場合相応の経済補償の上積みなどで合意可能です。
ところが、宗教や人種差別やLGBTあるいは日本で言えば嫌中嫌韓、慰安婦問題、その他欧米諸国でも民族感情や宗教論争に類する分野を政治テーマに持ってくるようになると生理的に受け入れにくい、見返り程度の穴埋め補償に馴染みません。
英国でEU離脱論が盛り上がってきて、外国人に職を奪われる・外国人が自由に入ってくるのは嫌だという議論が広がってしまうとEU離脱の経済損得の議論など吹っ飛んでしまい妥協の余地がなくなったのでしょう。
異民族との混在を嫌がる風潮が始まってからの議論では、合理的討論・説得程度で主義主張がころりと変わる訳がないので、白熱した討論をすること自体が相手に対する悪感情を煽る方向に働き対立を深刻化することになりかねません。
ヘーゲル的弁証法・・正反合の止揚が成立する余地のない分野の主張がゴロゴロ出てきて、これが表面化してきたことによって静かな議論による解決が不能になってきたというべきでしょう。
最近ヘイトスピーチ禁止の動きが出ていますが、そうせざるを得ないほど利害集団ごとの憎悪感情に基づく主張が増えてきたことよるものでしょう。
いわば、近代法が予定していた教養と財産のある合理的人間同士の対話の場合、「言って良いこと悪いことの区別」があって、「口に出さない文化」「礼儀」が保たれてきたのですが、(言いたいことがあってもモゴモゴして100分の1くらいしか発言しない文化・・)感情論むき出しで勝負してくる大衆社会化→大衆そのものの意見がストレートにツイッター等で発信されるようになってきたことが大きいように思われます。
旧態然としたある委員会で、弁護士委員だけでなく「この問題は外部(判事検事)委員の意見を特に伺いたいのですが・・」と水を向けても(よそのことにあまり言いたくないのか?)あちら立てこちら立てての立論を経た上で・・・そこはプロですので最後は自己の意見をきっちり発言してくれるのですが、ちょっと聞いていると何を言いたいのか分かりにくい発言から始める人が多いのが現状です。
途中のモゴモゴ的発言が十分に聞き取れていないこともあって、「結論として〇〇でいいのですか」と引き取ることが多いのですが・・。
ただし、上記は古すぎる委員会の特殊事例ですので、誤解のないように付言しますと公共団体での会議の場合は、もともと外部有識者100%の委員会でよそ者が発言する前提ですので初めから論旨明快・・一直線の意見が多い印象です。教養人がほんのちょっと本音を匂わせるだけで意向が通じる社会・・これの究極の姿が平安時代におこなわれていた和歌のやりとりでしょうか?

わが国では古くから露骨な表現は品がないと思われてきた歴史で、平安時代にはこれが極まった時代であったと言えるでしょうか?
和歌というと恋や心の内を吐露する歌ばかり紹介されていますが、政治家はいつも和歌に託して間接的婉曲的表現をしていたのです。
いつも例を引く源三位頼政の以下の歌はその一例です。
平家一門の栄華の陰でいつまでの四位のままで三位(殿上人)に上がれない気持ちを読んだところ、清盛が驚いてすぐに官位を三位に引き上げた故事が知られています。

のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな
— 『平家物語』 巻第四 「鵺」

明治以降言いたいことをいうのが正しいと教育されてきた効果が、上記公共団体での審議会や委員会での活発な議論になってきているのでしょうし、社外取締役が黙って出席しているだけの人は意味がないと言われるようになってきた状態です。
今後ネット会議になってくるとみんながうなづく程度の雰囲気では議論が進みませんので積極的・歯切れの良い発言でないと委員会に参加しているのかすら分からなくなってきます。
ここまでは相応の経験(他事業での成功者など)高度な識見を担保に選任されている以上は「職責を果たすべき」という意味で評価できるし必要な職責でしょう。

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