元々我が国では源氏や平氏と言っても武士集団の棟梁として担がれる貴種でしかなく、自前の直轄領地・直轄軍は微々たるものでしたし、頼朝も義経も自前の軍を持っていませんし、足利政権も直属軍事力の少なさで参ってしまったのです。
直属軍事力の増強に努めた戦国大名でも自国領内を直接支配していたのではなく、国人層と言われる小豪族を通じての間接的支配でしかなかったのです。
上杉謙信の映画など見ても分るように、あるいは信長自身が尾張国内で頭角を現して行く様子でも分りますが、小豪族がその都度あちらについたりこちらについたりして(きっちりした主従関係がないのですから当たり前です)それぞれの閉鎖された国内の主導権争いが展開されて行きます。(離合集散)
戦国大名の能力は、物語を見ていると戦上手だけが(この方が面白いので)クローズアップされますが、実際にはその前提たる諸豪族の統合力・・多数派形成・人心収攬・政治力に多くがかかっていたのです。
この延長できたのが、最近まで採用されていた衆議院の中選挙区制と県単位の政治です。
県政は県知事の権力は総理と議会の関係に比較すると大きいのですが、それでも地元政治家の意見を無視しては何も進みません。
古代の国司が地元有力者の郡司達に実権を握られていくのと似ています。
小選挙区制になると政治的熟練・訓練が不要になって、熟練度よりはマスコミ受けが良いかどうかなどイメージ先行になって行きます。
一般に何々チルドレンと揶揄されるようになったのは、こうした未熟練政治家が輩出した現象を言い当てています。
戦国末になってくると一定地域内・国内統一が出来上がり、国境線にいる小豪族以外はまさか他所の國の大名についたり出来ませんから、一定の主従関係類似の安定関係になって行きます。
国境線付近以外の真ん中の小豪族が隣国大名と通じたりしたら、たちまち血祭りに上げられるだけですから、主家・・と言っても域内盟主・・覇者程度・・の関係滅亡を見越した時しか敵につくことはあり得ませんが、国境線の小豪族の場合、逆に先に攻めて来た方になびかないと全滅の憂き目にあってしまいます。
以前下克上について書いたことがありますが、本来の主従関係で家来が主君を裏切って討つなどと言うことは滅多になく、殆どは域内諸豪族間の力関係で不本意ながら主従類似の同盟軍にならざるを得なかった状態下で、敵方に寝返ると言うのが殆どです。
長篠の合戦の引き金になった長篠城は、三河衆の奥平だったかがこの論理で、一時武田方についていたのが信玄没後の落ち目を見て今度は徳川方に着いたことによって、勝頼から報復攻撃を受けたのが始まりです。
話を戻しますと、何十万石の領地を貰って赴任してもその何十万石が全部自分の収入ではなく、在地小豪族の収入の合計でしかないので、そこをうまくやって行かないと戦国大名と言えどもやって行けません。
合戦で勝って大名を滅ぼして、その地域が支配下に入っても、収入面で見ると、滅ぼした相手の直轄領地と一緒に滅んだ有力武将の領地だけが勝った方の支配地になるだけです。、その他の全地元豪族を追い出してしまうことは不可能です。
首をはねた有力武将の内部もいくつかの小豪族をつかねているだけですから、その直轄領地は僅かでしかありません。
12/27/04「農分離3(外様 ・戦国大名の場合)兼業農家の歴史1」以下のコラムで書いたことがありますが、小豪族は地元農業の主体(半農半士)でもあるので、それを根こそぎ追い出すことは不可能だったのです。
この理は、アメリカに負けた日本で、天皇権力がマッカーサーに取って代わられただけで、連合軍司令部は日本の官僚機構をそのまま使うしかなかったのと同様です。
むしろ占領地に残った元敵方の軍事力を(将棋の駒のように)自分に仕官させて有効利用して行くのが普通でした。
肥後の國の一部の領地を貰った佐々成政が、国人層との折り合いに失敗して失脚してしまった例がそうですし(加藤清正や細川家はうまくやりました)、土佐の大守として赴任した山内一豊が、長宗我部の遺臣・・結局は地方豪族・国人層の扱いに苦しんだのも同じです。
山内一豊が関ヶ原の功績で土佐23万石を貰っても、彼ら地元豪族の集合収入ですから、山内家自体の直接収入をどう計るかの悩みで最後まできたのです。
土佐の高知城へ行けば分りますが、23万石の大々名の天守閣と言っても内装はきゃしゃな造りで、(民家園並みです)如何に財政が苦しかったかが分るような印象です。
(天守閣にまで居住部分があるのは大したものだとも言えますが・・・)
現在の大手企業でもそうですが、内部に入ると一人が何百人何千人に直接号令するのではなく、一人が5〜6人に意思表示してこれを受けたものがそれぞれ更に5〜6人に伝えて行く・・・多層な意思伝達段階があって成り立っています。
号令一下形式ではなく重層的支配関係が我が国の民族的特徴です。
このように縣(アガタ)は、古代においても大和政権成立時に既にかなり服従度の高くなっていた地方豪族・地域を意味していた直轄支配地であるものの、中国のように中央集権的に直接支配をすることが出来ず、徳川家のように地元豪族に治めさせる必要があった地域ですから、中国の縣とは本質が違います。
支配構造の比較的強い地域を中国の制度に倣って縣・アガタと言い、支配下の豪族をアガタ主(中国の知事・・刺史と比べて「主」ですから地元定着性が強い)と解釈すれば、同時期に地域別にアガタヌシがいたり、服属したばかりで独立性の高い地域に国造がいたりした並立関係の理解が可能です。