雇用喪失と移民増に対する米国の不満

NAFTA署名の92年当時といえば、1992年のEU発足と同時期ですから西欧が地域ブロック経済で米国に対抗するならば米国はこれに対する対抗心からもともと自分の裏庭と自負する北米地域で北米統一市場を企図した動きのように見えます。
もともとメキシコは米国にとっては、裏庭ともいうべきお膝元であり当時のメキシコ経済は近代工業製品輸出国ではなく工業製品を売りさばく市場そのものでしたから、米国はEUに対抗して米国の裏庭にあたる市場を囲い込み・支配独占を確かなものにする日本の高度成長期には意識に基づく政策だったと思われます。92年当時のメキシコの経済力を見るために当時から現在に至るGDPや貿易額推移を世界ネタ帳でGDPを見ておきます。
https://ecodb.net/country/MX/imf_gdp.html

メキシコの名目GDP(USドル)の推移

メキシコ輸出額の推移

上記両グラフによれば92年NAFTA署名〜94年発効以降を見ると、GDPや貿易量が急激に伸びています。
FTA・・貿易自由化の徹底は後発国(韓国や中国を含め)が先進国に追いつくには、後進国に有利な制度であったことがわかります。
19世紀型植民地支配は、被支配地域に工業生産を許さず先進国の輸出市場としか扱っていませんでしたが、戦後ほぼ独立してしまい植民地支配が出来なくなりました。
先進国間で戦後復興が終わり市場争奪戦が再開されると、(似たような生産ラインでの競争である以上)より安い賃金・安い地代等総合的低コスト地域に立地した方が同業者や競争国との価格競争に勝てるので、現地進出競争が始まりました。
日本の場合も中国が改革解放されると現地生産指導のコストをかけても、農産物等の価格が10〜20分の1の値段で仕入れできれば競争相手・同業者に勝てるので、中国現地に出向き日本人向き蔬菜づくりの現地指導に乗り出す競争が起きていました。
毒餃子事件で知られるように日本の食品メーカーは競って中国進出していましたし、食品は日常庶民の目につくので目立っていただけで、その他各種産業は中国から安く仕入れる競争時代が始まっていました。
米国とメキシコの関係もこれに似たようなものだったと推測できます。
米国としては市場囲い込みのつもり・EU理念に負けない市場一体化・もしかしたら北米全体をEU理念同様にアメリカ合衆国を拡大する意気込みもあったのでしょう?
その理念の事実上(EUのシェンゲン条約のように公文書ではっきりさせませんでしたが)人的移動の自由化も緩やかになる一方だった気分の実現として、米国企業が強者の論理で遠慮なく内国並みに自由自在に進出し、メキシコも中国のように進出企業に民族資本との合弁強制や知財移転要求などのイチャモンをつけずこれを受け入れていた状態を推測出来ます。

軍・警察とシビリアンの緊張関係2

クリスマスから話題が少しズレましたので,12月23日の続きに戻ります。
日本の軍・武士と家の子郎党の関係に戻しますと,落城・負け戦であったとは言え、みんなのために腹を切った元城主や奮戦した勇士を「戦犯」としてあしざまに言うのでは、バチが当たると言う意識の社会です。
アメリカによる日本支配に際しての「軍と国民」の離間政策はこれまで書いて来たように中世以来の歴史を持つ欧米での市民と民衆の分離意識からすれば,普通のことで民族分断を図る特別な悪意でやったものではないのかも知れません。
日本は欧米とは歴史はマ逆であるコトの理解不足が占領政策の基本的ミスであったことになります。
欧米的価値観(ナチスと国民の責任を切り分けるのと同様に)で日本でも軍部の暴走と言う切り分けると共に警察と国民との対立関係の強調・・特高警察が如何に酷かったかの大宣伝教育をしてきました。
アメリカが景気対策と人種差別政策の貫徹のために日本を戦争に引きずり込んだ真実の隠蔽工作をかねて,・・マスコミと教育界さえ支配すれば何でも出来る・・無知蒙昧な欧米民衆・ピープルレベルを前提にする政策でした。
この理解で,極東軍事裁判をやってしまった・・ロケット打ち上げ時の小さな角度失敗が宇宙に行けば大きな誤差になるように、今になると日米に大きなトゲを残してしまいました。
この誤りを少しでも早くアメリカが認めた方が双方にとって有効ですが(繰り返し書いているように日本人は韓国のように相手が謝ったからと言って調子に乗ることはありません),これを潔しとしない欧米発の(日本から見ればイチャモンに見える)中韓を手先に使った戦犯合祀非難問題です。
「軍部の暴走」と言う教育宣伝に私たち世代はどっぷり染まって育ちましたが,アメリカが日本を如何にして戦争に引きずり込もうかと狙っている状況下で・・何かとイチャモンつけては日本包囲網を狭めている状況下で,日本は粘り強く平和解決を求めながらも平行して国防体制を整えて行くのは政治の常道です。
国家の危機が迫れば,国防関係論客の影響力(幕末の海国兵談など)が高まり,政府も実務家を予め要所に配置して備えて行くしかない・・軍関係者の発言力が高まるのは幕末でも今のどこのクニでも同じです。
地震が頻発すれば,地震学者の発言が重視されるし、円相場が上下すればその道の発言力が高まります。
アメリカが日本に軍事圧力をかけ過ぎたから軍部の発言力が高まった・テロが頻発すれば独仏でも治安維持の成否が政権支持率に直結する→治安安定が政権の重要テーマになりひいては治安関係者の発言力が高まり予算も増えるのと原理が同じで現在と何ら変わりません。
日本がアメリカに軍事挑発したことはありません・挑発されていただけです。
アメリカのアメリカインデイアンに対する仕打ち見れば、アメリカの本性がすぐに分ります。
現在中国の違法な挑戦があると平和的に解決のために話し合いを進めたり,国際世論による中国暴発防止のための根回しをしながら、イザというときのためにアメリカの防衛協力を求め(この見返りとして日本もアメリカ軍に相応の協力が必要になります→集団自衛権問題)たり,人頼みだけなく,自分でもパトロールを増やすしかないから、海上保安庁や防衛予算が大幅増になってしまうし,国民の防衛意識も高まります。
軍部が力を持つから戦争になるクニもあるでしょうが,逆は真ならず・・と思われます。
江戸時代に武士の戦力よりは「文」が重視されたのは「四辺波穏やか」であったことによりますし,戦後貧弱な防衛費で間に合っていたのは強大な米軍のカサの下にあったからです。
このように周囲の変数関係を無視して「軍靴の音が聞こえる」と言っても始まりません。
中国の軍事挑戦にアメリカも危機感を持ったのか?次期大統領トランプ氏は軍を退役して10年経過していない人物を国防大臣に指名しました。
シビリアンコントロールのルール上、議会の特別承認がいるようです。
軍が支配権力の道具であって市民と対立して来た歴史を持つ欧米価値観では,相手国に対する非難も軍とあるいは権力と人民を分断するのが有力な手段になります。
今でもロシアや中国批判はいつも国民から遊離しているとか国民を抑圧していると言うスタイルです。
欧米手法をそのまま信じて戦争責任・・慰安婦でも南京虐殺でも何でも軍の責任にすれば良い(自分に関係がない)からと、中韓の主張に便乗して分断を煽る文化人の間違いがその内明らかになる時期が来ます。
警察官も庶民を守る味方であって権力の手先と言うのは、左翼文化人が日本の歴史に無知で?あるいは目の前で行なわれているおまわりさんの仕事を見ないで、西欧の概念を持ち込んで空想して主張しているだけです。
お猿が出たとか鹿がいる,蛇がいる,食いつき亀がいる,大分前にサーカスのトラが逃げたと言ってお巡りさんが探している様子が報道されていましたが,トラでは警察手帳を見せても驚かないので,困ったでしょう。
おまわりさんの道案内は日常業務ですし,夫婦喧嘩の仲裁をさせられたり、何かと忙しいのが日本の警察であって,みんなのヨロズ困りごと相談・・解決に協力する仕事です。
犯罪者を取り締まるのもこの一貫で、要は町中で困った害虫・与太者も退治してくれる頼もしい役割です。
ストーカー被害その他新たな被害パターンが起きると先ずは警察へ相談に行くのが普通の行動です。
困ったら弁護士に行くべきであって市民抑圧装置と教えられていた警察に何故相談に行くのか?と不思議に思うほど学校教育以外の知識の源泉がなくて世間がよく分ってない若い頃には,学校教育そのまま刷り込まれていましたが,大人になって世間を良く知るようになると真逆の関係と分って来ました。
万分の1の確率でおまわりさんも(誰でも)間違うことがある・弁護士は滅多にない間違いを正すのに必要な役割であって,おまわりさんは原則として有り難い存在と言う常識が身に付いて来ました。
母親の健康管理や教育方法が意識が間違っている場合もあるので,子供の定期健康診断や学校など外部チェックも必要ですが,母親を子供の敵だと教育する必要はありません。
おまわりさんを邪魔扱いしたいのは町のダニだけであって,おまわりさんが来たら普通の人がこそこそと逃げ回るのでしょうか?
防犯カメラに反対するグル−プも市民を守るおまわりさんが邪魔になる一群でしょうか?
マイナンバー法反対論者は政府に自分の行動が知られるのがイヤだと言うのですが,別に悪いことをしていない限り,何故そんなに騒ぐのでしょうか?
プライバシー侵害を許すな!と言いますが,政府も警察も犯罪の嫌疑のあるときだけ綿密に防犯カメラなどチェックするだけであって,何にも事件のないときには自動的に消えて行くだけで誰も見ません。
事件の前後に居あわせた人は自分から進んで「あのときは◯◯していたら、こう言う音がして振り向いたら・・」と言う体験談を話すのが普通で,プライバシーだから言いたくないと言う人は滅多にいません。
その人の体験説明が合っているかどうかを防犯カメラでチェックしたら確かにその人が振り向いた様子が写っていることが確認されることもあります。
と言うことは事件前後の犯人の動きを見るために防犯カメラを警察がじっくり見たからと言って犯罪に関係のない人が腹を立てる人は滅多にいないと言うことです。
プライバシーを楯に反対する勢力は、実態に合わない被害意識を創作していることになります。
国民の意識が低いから自分たちエリートが教育してやる必要があると言う立場が基本でしょうか?
おまわりさんは本当は怖い存在・・権力の手先だ・・如何に怖いものかを学校でしっかり教えられて来たとおりに、自分たちエリートは国民に教えねばならないと言う使命感に燃えているように見えます。
我々若い頃には戦前教育を受けた人が殆どでしたから、昔の人は政府に騙されている・・昔の人は仕方がないと思い込まされて育ちましたが,戦後教育を受けた人が中心になった今になると,「学校であれだけ習ったのに身に付かないのは成績の悪い子だったに違いない・・やはりもっと教え込まねば・・」と言うエリーと意識そのままで運動している人が多いように見えます。

PeopleとCitizen5(市民の資格1)

西洋中世でのキリスト教の広がりとその反動としてのシチズン→シビリアンの成長に戻します。
ローマ崩壊後ガリア・ゲルマニアの地を支配したフランク族その他支配者が,支配地域が広がると武力だけではない合理的運営が必要になり,何らかのルールが必要・ルール強制の権威根拠を(日本のように各地習俗を汲み上げる面倒なことをせずに)先進地域のルールブックであったキリストの教えに求めたものと思われます。
1神教は支配者にとっては民意を一々聞き取る必要もないし構成諸部族の意見を無視出来る・・単純明快で支配者にとって便利です。
まして巨大なローマ帝国で普及していたとなれば権威も充分ですから、これと言った説明や納得を得る手間がいらない・・「こんなことも知らないのか!」とバカにすれば済みます。
韓国人は初対面で先ず学歴自慢をして相手を黙らせてしまうのが常道です。
我が国で言えば,内容妥当性議論の逃避・我が国でこれを適用すればどうなるかと言う具体的議論をすることなく留学経験をひけらかして,「欧米では・・」と言えば勝負がつくように思っている社会です。
そしてこの先進文化・ルールに精通している聖職者が支配的地位(第一部会)を占め・次にキリスト教文化をある程度体得している教養人が(野蛮人・バーバリズムから昇格して)「市民」第三部会員として優遇されます。
そしてこのルールを守らせるための強制力・軍事力となって軍事力も一体化します。
軍事力正当化の完成です。
我が国のイメージでは何故シビリアンの敵が「聖職者と軍」であったか分り難いですが,こうした支配体制構築の歴史によります。
中国文明はオリエント・メソポタミア文化の導入で始まったと言う私の仮説については、(すべてこのコラムは私の独断・偏見に基づいています)を、09/01/05中国の独自性とは?1(ペルシャの影響1)以下で連載し、その他、12/14/05「漢民族の広がり?4・東西移動から南北移動へ2」その他あちこちに書いています。
中国でも何かと周囲の民族を蛮族(南蛮・北狄・西戎・東夷)と言いたがり,(今では国名にまで恥ずかしげもなく中華と使うほど)違いにこだわるのは、何段階も隔絶した先進文化導入(自民族で足下から自然発生・段階的発達した文化でない)の歴史があると見れば符節が合います。
こう言う社会では被支配者との間で超越的分化格差があるので,専制支配が可能になります。
これが欧米のピープルとシチズンの分化の始まりであり,中国の士大夫層とその他の始まりです。
日本で漢民族伝来の漢字を読み書き出来る階層が長年エリート層を形成して来たのと同じですが、日本の場合直ぐに万葉仮名を工夫し庶民まで和歌に親しみ,さらにはひらがなを発明し・漢字仮名交じり文になって庶民に普及した・・漢字は文字として利用しただけで,思考内容は日本民族独自性の維持でした。
西欧では民族別思考温存ではなく文字文化も導入されたアルファベットそのままで、しかもルネッサンスが来るまでラテン語だけしか文字化(・事実上どの程度自民族言語が文字化され利用されていたか不明)されませんでした。
朝鮮半島では,15世紀年中頃からハングルがあったらしいのですが・文書は飽くまで漢文のままで、日本統治になって漸く公式認知された?のと比較すれば独自文化発達の違いが分ります。
どこでもいつでも最初の支配確立は武力によりますが,その次の支配はルールによらない裸の武力だけでは大変です・支配道具としてキリスト教が採用された以上は,被支配者にとっては軍とキリスト教が一体化したものに見えたでしょう。
最初は,未開人ではあるが教養を得た者だけを「市民」として特別扱いされ三部会員に昇格して現住民のエリートは満足していたのですが,その内硬直したキリスト教支配が鬱陶しくなると,軍と聖職者に対する抵抗勢力としてシビリアンが生まれて来たことになります。
カール大帝に関するウイキペデイアの記事からです。
「カール大帝(742年4月2日 – 814年1月28日)は、800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 – 814年)を号したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。
古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる[3]。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。」
西ローマ帝国継承者を勝手に号したこと・・古代ローマの輝かしい歴史・文化を理想として仰ぎ見ていたことが分ります。
そうなれば自然に思想・道徳その他善悪の基準導入になります。
その前からそう言う意識が定着していたからコソ「われこそが継承者である」との主張が出て来たことになります。
ところで、西洋中世と聞けば,今の英独仏伊などの前身の王国がそのころからあってその下位に各地領主・後の貴族や騎士がいた社会であったかのように何となく想像してしまいますが,上記によると現在のいろんな国の前身である王国が出来たのは,カール大帝死後・843年以降であったことが分ります。
平安時代が、延暦13年(794年)から始まって、 816年 空海が高野山に道場(金剛峯寺)を開いています。
フランク王国分裂後仮に数十年〜5〜60年間の動乱を経た結果いろんなクニの分立が始まったとすれば,899年 に菅原道真が右大臣になっていますし、905年 紀貫之らが仮名序・真名序で書いた『古今和歌集』を撰進したころです。
フランス王国の例で見れば以下のとおりです。
「フランス王国(フランスおうこく、フランス語: Royaume de France)は、現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国にまで遡るが、一般には987年の西フランク王国におけるカロリング朝断絶とカペー朝成立後を「フランス王国」と呼んでいる。1789年のフランス革命まで800年間・・」
「カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール家)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれ、カペー朝(987年 – 1328年)が成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺のイル=ド=フランスを押さえるのみであったが・・」
フランス王国と言っても当初今のパリ周辺しか支配していなかったのです。
987年と言えば,日本では藤原兼家が986年に摂政に就いていて、995(長徳1)年には藤原道長が内覧の宣旨を受けています。
文化面では1001(長保3)年:清少納言の『枕草子』が完成し、1011年には紫式部の『源氏物語』が完成しています。
日本では遣隋使,遣唐使を派遣しましたが、明治の和魂洋才政策同様で合理的文化導入だけが目的で、国民のあるべきルール・生き方ではニッポン民族独自スタイルを貫徹していました。
我が国では専制支配(異論を許さない点では1神教支配と同じ)を前提とする科挙制や律令制・・区分田が国情に合わず根付かなかった経緯については、01/10/06「律令制の崩壊2(桓武天皇時代)」前後のコラムで連載しました。
24日にクリスマスの起源に関心を持って,書いているうちに話題がズレましたが,クリスマスを祝う風習は元々のキリストの宗教行事ではなく,いつのころかミトラとか言う別の宗教行事・あるいは習俗を取り入れたことに始まると言われます。
(そんな宗教があったかどうかすらはっきりしないのは、異教徒の習俗だったのを,沽券に関わるので何とかキリスト教に関係付けようとするからではないでしょうか?
これまで書いているように,キリスト教はガリア・ゲルマニアの習俗から発展したものではありません。
骨の髄までしみ込んだキリスト教意識・・キリスト教徒になり切れない者を異教徒として迫害に加担して来た歴史が邪魔をしていて、西洋では素直にゲルマニア・ケルト族の習俗だと認めるわけに行かないのでしょう。
田舎出身の人が東京生まれと虚偽経歴で生きて来た場合,生まれ故郷で覚えたことを「イヤ東京でも子供の頃にはこう言う習慣があった」と言い張っているようなものです。
儒教どっぷり度で日本に優っていることが自慢の韓国に至っては、(いわゆる韓国起源論の一種ですが・・)孔子が朝鮮半島出身と言い張っているのと50歩100歩ではないでしょうか?
外来のキリスト教を取り入れる前の現地民族・・本来自分たちの祖先の習俗そそのまま認めるとこれまで自分たちの宗教であると有り難がって来たメッキが剥げるのが怖いのではないでしょうか?
お祭りの原型がみるからに北欧向きですから,雪も滅多に降らないローマ時代からの習俗にこじつけるのは無理っぽい印象です・ただし地中海世界の習俗が北に行って今のように変化したと言う見方も出来ますのでいろんな意見があり得ます。
日本の神社仏閣は庶民が楽しむ行事中心・・今では観光名所・・いつも人集めの中心ですが,キリスト教と言うより西洋諸国でも,中世修道院に代表される陰気くさい教えの強制ばかりではなく,庶民が楽しめる要素が必要だったのです。
キリスト教の影響が,クリスマスを祝う以外になくなるとすれば,それはそれで信教「から」の自由の完成で目出たいことです。
今年は幸い3連休の中日ですし,信教の自由ではなく「信教からの自由」を満喫するつもりで仏教徒であり神社の信者でもある我が家では、信教とは関係なくクリスマスを今年も楽しみました。

軍・警察とシビリアンの緊張関係1

これまでシチズンとシビリアンの違い・・シビリアン意識は対キリスト教の思想圧迫と軍事支配に対する抵抗のために生まれて来た経過を書いて来ましたが,我が国ではシビリアンコントロールとは軍に対する言い方が普通です。
最早異端審判や魔女狩りの復活リスクは考えられなくなったので、市民にとって残った脅威は軍事支配=権力による人権侵害のリスクだけになって(数世紀経て)から、米軍支配のときに日本に入って来たからです。
憲法
第五章 内閣
第六十五条  行政権は、内閣に属する。
第六十六条  内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
○2  内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
○3  内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
上記の「文民」とはいわゆるシビリアンのことでシビリアンコントロールの原理の現れである説明されています。
ところで、日本では組織は家の子郎党・血族・同胞から始まった歴史があり,武士は自分達の集落や組織を守るために自然発生的に生まれたものであって,集落内の庶民を弾圧すべき暴力組織として対立した歴史がありません。
当然明治憲法も武士が政治に参画してはいけないという発想がありませんでした。
これを遅れた社会と見るか,周回進んでいると見るかの違いです。
家長・集団の長は家族や集団を守る責任はあっても,集団内の弱者を抑圧するためにあるのではありませんし、組織構成員も軍は自分を守ってくれるものと理解して来ました。
一族を守るための武士団ですから,戦いに敗れれば,城主が一族代表として腹を切り,城兵・一族の助命嘆願と引き換えにする習慣が生まれたのです。
野生の猿その他集団リーダーも,集団内の弱い者苛めをするためにあるのではなく逆に集団内の苛めの他の不協和音をなくし外からの脅威に役立つ能力が問われているのが普通です。
西洋で軍事力が市民と対抗関係になっていたのは,異民族支配で軍・支配権力と被支配者の乖離が進んでいる場合に生じる現象です。
ソモソモ支配道具として異民族発祥のキリスト教を利用していた点に問題があったのではないでしょうか?
学生時代に民法の講義だったかで,ローマは3度世界を支配したと聴いたことがあります。
曰く、1回目はローマ帝国による(地中海)世界支配?であり、これが滅んだ後の2回目はキリスト教支配であり,3回目はローマ法(ナポレン法典)・・現在の「法の支配」であると言うのです。
「西洋は異教のキリスト教に支配されていた被害地域である」とこのシリーズで私独自の意見を書いていまるのは、西洋はキリスト教のクニと思っている方にとっては違和感があるかも知れませんが,それほどどっぷり支配され尽くしていたと言うだけのことです。
ユダヤ教徒とキリスト教の関係はよく分りませんが,(全て私の思いつきですからそのつもりで・・)ユダ個人の裏切りが強調されますが不自然です・・キリスト教の母体・であることは動かない事実でしょう。
民族宗教から脱皮させて(ローマの版図に入った地中海世界への広がりに合わせて)普遍性を持たせたのがキリスト教(新約聖書)であるとしてみれば,元々地中海世界とは全く気候風土の違うゲルマニアの地に生きて来た諸民族が地中海地域の価値観強制でさえ鬱陶しいのに,もっと気候環境の違うメソポタミヤ地域限定版の旧約には)付き合い切れないと言う意味で忌避観を持たれているのかも知れません。
では軍が何故民族を守るための軍ではなく,市民抑圧機関になってしまったのでしょうか?
結果から見るとローマが当初市民が自ら兵役につく権利だったのが,いつの間にか義務化して行き最後は傭兵に頼るようになったことと,西欧諸国の近衛兵などの多くは北欧系人種・・兵の多くを傭兵が占めていた事実にヒントがありそうです。
フランス革命は当初第1〜2部会との部会別決議ではなく全体数での議決を求めたので、議決方法で対立して収拾がつかなくなり,いわゆる「テニスコートの誓い」(王権に従わない・実質反乱的行動開始)になりますが、三部会制の否定が当初の争点であり,王制否定ではなかったのです。
国王が,仲裁的に聖職者や貴族部会の第1〜2部会を第三部会に合流させる・議決権同等化を求めたのが革命運動の最初でした。
http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-022.htmlからの引用です。
「1789年6月17日、シェイエス(『第三身分とは何か』の著者)の提案で第三身分部会は自らを「国民議会」Assemblee nationale となのった。6月19日には第1身分が149票対137票で国民議会に合流を決議。第2身分は拒否、国王ルイ16世に援助を求める。翌日、国王は国民議会に議場の使用を認めず、議場を閉鎖したので、議会側は球戯場に集まり、有名な「球戯場の誓い」を決めた。結局国王が譲歩して第一と第二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅し、国民議会が憲法制定の場として確定した。 」
「 フランス国民議会は1789年7月9日に憲法制定国民議会(略称憲法制定議会) Assemblée Nationale Constituante と改称し、憲法の制定に着手した。国民議会の党派は王政派から立憲派、共和派までさまざまであったが、主力はこの段階ではミラボー、ラファイエットら立憲君主主義者であった。」
「1791年6月にはヴァレンヌ逃亡事件が起こり、オーストリアの革命干渉も始まって危機が深まり、この間、議会では革命派であるジャコバンクラブが分裂し、立憲王政派のフイヤン派と、共和政をめざすジロンド派がうまれた。まだこの段階では立憲王政派が優勢であったため、9月に1791年憲法が成立、立憲君主政体を成立させて、憲法制定国民議会は役割を終えて解散、代わって10月に立法議会が成立することとなる。」
「緒戦ではフランス革命軍はオーストリア・プロイセン軍に敗れ、外国軍がパリに迫る危機となった。そのためジロンド派内閣は辞職したが、全国から連盟兵(義勇兵)がパリに集結し、またパリ市民のサンキュロットと言われる下層民も蹶起してティユルリー宮殿の国王を襲撃するという8月10日事件(第二革命)が起き、立法議会は王権停止・・た」
こう言う経過で制憲議会設立当初は(イギリスを参考にした?)立憲君主制への改革目的だったのが、途中で国王夫妻がギロチンの露と消えるほど激しく変わってしまった契機は外国兵を引き入れる国王の計画がバレたことによります。
ベルバラで有名な恋人も北欧系青年将校との恋物語でしたし,バッキンガム宮殿の近衛兵の儀式も元はと言えば(体格が良く金髪で)格好いい北欧系近衛兵だったことによる名残です。
話が変わりますが、20年ほど前に台湾に行ったときに中山陵だったかで近衛兵の交代式を見たことがありますが,アジア人を卑下するようで心苦しいですが,バッキンガム宮殿の衛兵交代式ほど格好良くはありませんでした。
上記引用の続きです。
「革命干渉軍に対する革命防衛戦争が始まったことによって、軍隊の主体は中世的な傭兵に代わり、近代的な国民軍の形成をうながすことになった。」
この時点で漸く(今で言う外国人雇い兵)傭兵軍に頼るのをやめて国民・・自分たちを守るための軍が形成されたのですから,日本古代の防人とは千年以上の差があります。

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