健全財政論3(貨幣価値の維持1)

対外負債としてみれば税でも国債でも同じ効果であっても、借金・・国債となると税収とは違い、返すまでは債権者の意向を無視出来ないところが、権力者とその取り巻きの立場ではまるで違います。
国民主権国家になって政府と国民は理念上は一体化していると言っても、現実に権力行使する側に立つ官僚の意識が多分旧来(近代国家以前)の意識から切り替えが進んでいないのでしょう。
権力の威を借りて権威を保持することを本質とする官僚には、お金の使い道に一々国民の顔色・市場相場を窺わねばならない国債と一旦徴収すれば事実上自由に使える・・箇所付けで権威を振りかざせる税とでは大違いになるのでしょう。
ちなみに、官僚と公務員の違いですが、漢字が違うように元々の成り立ちが違います。
公務員・公僕観念は、国民主権国家成立後の(・・我が国で言えば戦後漸く生まれた)観念ですが、官僚は国民主権成立前から、君主や独裁者等の権力者に直接付き従ってその主人のために忠勤に励む側近・・直臣・お目見え以上の従者の謂いです。
彼らの権限の源泉は、主人の権限・威令に由来し、これに比例するので、仕える相手が君主から総理や大臣に変わっても旧来の意識が変わらないしまた従来の権限を手放したくないのは当然です。
租税法律主義が市民革命の結果決まり、支出については予算制度が出来て予算は国会の議決が必要となっても、ともかく実質的決定権限・官僚がさじ加減する権限を手放さない(ホンの一部に族議員が口はさめる程度)でこれまでやってきました。
対外的デフォルトの危険性に関しては、国債と税収の違いは、国民国家においてはこれまで繰り返し書いて来たように親が息子に生活費を強制的に入れさせる(税収)か借りた(国債)ことにしておくかの違いでしかありません。
親が死ねば息子は親の債務を相続しますが、同時に債権者でもあります。
上記次第で国民主権国家においては、政府が国債で資金源を得ようと税で得ようと国内資金に頼る限り対国外的立場は同じことであるばかりか、国民が政府の主人・オーナーになったのですから、国民からの借金があっても沽券にかかわることもありません。
(オーナー企業の場合、会社の資金需要に対してオーナー個人から増資として追加出資するか会社が借り入れにするかの違いですから、社員にとっては気にしないのが普通です)
国家財政資金が不足しているときにその財源を増税によるか国債によるかは対外経済的には同じですが、国内的には借りていると国民に頭が上がらないのを官僚が嫌がっていると思われますが、民主国家としてはむしろ国民の意向に従うのは良いことではないかと思いますが・・。
この意味で・民意次第である寄付や国債は民主的だと何回も書いていますし、事実上自由に使いたい官僚にとっては(国民こそオーナーとする意識に切り替えの進まない官僚に問題がありますが・・)逆の立場ですから面白くない資金源です。
増税と国債発行のどちらが、景気対策として優れているかの問題とすれば8月5日に書いたように増税よりは国債増発の方が内需拡大効果が大きいことは誰の目にも明らかです。
景気マイナス効果を無視して、ここでマスコミが何故増税路線を推進しようとしているかの疑問です。
景気を冷やしてでも増税しなければならない根拠について、合理的論拠を説明しないで前提事実・ブラックボックス化しているので、推測・憶測するしかありません。
憶測に頼るとすれば官僚の時代(8月7日に書いたように一種の智恵)遅れ(今や世界大企業でも社債等借金で投資している時代です)の財政健全化信仰に、マスコミが迎合しているのではないかと一応推測出来ます。
財政健全化路線の信仰が官僚精神にしみ込んで宗教(合理的検証不要と思い込むように)のようになっているのは、何故でしょうか?
1つには8月8日冒頭に書いたように被支配者から借金していたのでは、権力の威厳・沽券にかかわるという歴史が長く・官僚にはこの意識が骨の髄までしみ込んでいる(国民主権国家に切り替わっているのに)官僚は国民の公僕としての意識切り替えが遅れていることが大きいでしょう。
2つめには、この亜流ですが、税は法律で1回決めればその後何十年でも自動的に徴収出来る・・毎回国民の信を問う必要がない便利なものという観念もあるでしょう。
3つめの要因ですが、国民生活の維持安定のために経済官僚が貨幣価値の維持にも気を配るようになったことが上げられます。
江戸時代に入って、武士が刀槍を振り回す戦闘集団から経済官僚へ脱皮して行く過程で「経世済民」・・国民の生活安定を図ることこそが、自分で見いだした存在意義・・モラールの源泉になったからです。
武士は君命に命を投げ出しても従う関係ですが、元々は古代から続くムラ社会・・血族共同体を守るための自衛組織として発展して来た歴史があります。
君命に従うのもこの郷土防衛に合理的だからであって、元々は支配下領民は自分の一族という意識が濃厚です。
戦時が終わって平和時にると本来守るべきは領民の生活であって君命に従うのはその手段に過ぎなかった本質が現れたと言えます。
天満与力大塩平八郎の決起は、武・・支配地獲得のための戦闘ではなく、国民生活を守るという名分になっていたことを想起しても良いでしょう。
彼は主君のために命を惜しまなかったのではなく、経済=経世済民の実現のために命をかけて主君に反逆したのです。

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