国民総意1と神威

大震災の猛威を見て、当時国民投票こそしていないものの、原子力発電は「やめてしまうしかないほど危険なものである・科学技術で100%安全確保できない」という国民認識が一般化していました。
いわゆる「総意」ですが、本当に重要なことは形式的な多数決ではなく総意によるのが正義というべきでしょうか?
弁護士会内や公共団体の各種委員会で議長または委員長がいろんな意見交換後議論の流れ・空気を読んで「ではこのような答申・議決でよろしいでしょうか?」などと取りまとめるのが99%以上といっても過言ではありません。
千葉県弁護士会の総会ではこの10数年以上前から政治的立場による意見対立が激しくなってきた結果か?議長により「この方向でいいですか?」的な取りまとめ方が通用しなくなって、対立の激しい総会決議等では毎回(賛成反対棄権何票等きっちり数えて)厳密な決を取っています。
日本国憲法制定は「国民総意」によるというのですが、どうやって「総意」を確認するのかしたのかが法的に問題になります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/八月革命説#大日本帝国憲法の改正と憲法改正限界説

「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名御璽
昭和二十一年十一月三日(以下略)」

私は、上記8月革命説を提起した宮沢憲法で勉強した世代ですが、その頃読んだ記憶ではルソーの意見を引用しながら、それでもないというような私の能力では理解困難な議論を書いていた記憶ですが、理解できなかったという記憶だけ残っています。
ちなみにルソーの「総意」とはウイキペデイアによれば以下の通りらしいです。

ルソー社会契約論において意思の総和だけでない正しい理念と言う意味(一般意思)で用いた(これをヴォロンテ・ジェネラールともいう)

上記を読み直しても多数決の程度ではない・国民投票で決めるべきでもない・意味不明ですが、私流の直感的理解では、民族意思を超能力的直感で実現する行為でしょうか?
日本国憲法制定時の国会の議論では、時間的条件として制定時の国民意思ではなく、民族の過去現在未来を通じた民族意思と言うようです。

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai1/sannkou4.pdf

【内閣法制局長官 真田秀夫君(昭和 54 年4月 19 日 衆・内閣委員会)】 天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくと書いてございます場合のその総意 というのは、一億何千万の国民の一人一人の、具体的な国民一人一人の意思というよう な意味ではなくて、いわゆる総意、いわゆる総体としての国民の意思ということでござ いますので、特定の人がその中に入っているとか入ってないとかいうようなことを実は 問題にしておる条文ではないというふうに考えられます。…先ほど申しましたように、 ここに言う総意というのは、いわゆる総体的な意思、一般的な国民の意思という意味で ございますので、証明しろとおっしゃっても、それはなかなか困難であろうと思います。 …いまの憲法ができますときに、これは帝国憲法の改正の形をとりましたけれども、当 時の帝国議会で衆知を集めていろいろ御検討になって、そして国民の総意はここにある のだというふうに制憲議会において御判断になった、それがこの条文の規定にあらわれ ておると、こういうふうに言わざるを得ないのだろうと思います。

総意」とは過去現在未来の民族意思と言うのですから、投票によって数字で(単純多数か、特別多数か、全国民一致か、成人だけに限定するかなどの議論以前の概念です。

自由民権運動の系譜2(メデイア)

社会保障費は社会全体の経済力の範囲でしか出せない→保育所であれ、生活保護であれ、芸術やスポーツ振興〜科学振興であれ国全体で必要なものがいっぱいある・比喩的に言えば、数万種類の必要分野にそれぞれどの比率で資金や人材を分配すべきかのトータル判断をするのが政治というものです。
教育費予算に絞っても大学や高校小中学校の耐震補強工事費と学費補助の優先順位、保育所設置基準を緩めてより多くの保育所設置に舵を切るか等々何事も総合判断です。
こう言う政治判断に司法が介入するのは、司法権の乱用です。
設置基準を緩めたから事故が起きたのは国家の責任だと言うのは、政治判断に司法が優越するかのような結果になります。
よくある事例では、ガードレールがなくて車が転落したり、道路陥没で車が落ちて損害を被ったなどの国家賠償事件ですが、全部の崖や道路にガードレールを一斉に設置するのは無理があるので、通行量の少ないところはあと回しにするなど予算の許す範囲で順次工事していくのが普通です。
道路陥没などの通報があればすぐ現地急行して通報後通行禁止柵などを設ければ良いですが、滅多にない陥没事故のために大勢が常時待機できないので、駆けつけるまで一定時間がかかります。
この所要時間は予算次第・要員を増やし、出動待機場所の増減次第・予算配分によります。
人員不足のためにその作業が翌朝になったために陥没に気づかなかったオートバイの転落被害が起きた場合、道路管理者に責任があると言えるでしょうか?
予算に応じた配置人員で可能なことをしたが、間に合わず柵で囲う前に事故が起きたなら、それは予算配分問題..政治が決めるべき・・その分野の予算が少なすぎるかどうかは地域住民・・市町村議会が決めるべきことであり、司法がこれを「道路の瑕疵」として賠償を命じるのは行きすぎでしょう。
瑕疵には違いないですが、瑕疵を補修すべき予算配分の優先順位を決める権限は立法府にあるのです。
都内では電車ホームの転落防止柵設置が進んでいますが、これも予算次第で一気に設置できず順次工事中ですが、最後になってまだ設置していない駅で事故があった場合の責任も同じです。
国家や公共団体の予算優先順位を決めるのは、民意=議会・・政治分野です。
このトータル利害調整を「有司専制」で行うのでなく、民意に基づく合理的分配をするのが政治力であり調整力です。
〇〇反対・それを廃止することによってこれまであったサービスをなくすのか?
既存サービス受益者をどうするかという問題に対しては何も考える必要がない・再軍備反対→中ソが侵略してきたらどうするかについては答えない。
〇〇設置要求運動・その施設ができたらその後の運営費や維持費など、どうするという問いには答えない・・。
あらゆる主張を通せばその必要コストに応じて他の施策の比率を減らすしかないのですが、その点に関する意見はないし議論に応じない、自分の主張を実現したいだけという無責任主張が一般的に行われています。
はじめから他の主張団体との利害調整に応じる気持ちがない・・他のことはどうでもいいから自分の主張だけを通したいという主張になります。
自分の主張が通ればその分他の予算が減るという関係を敢えて無視している人・集団は、自己実現と利害相反する他の集団との利害調整拒否する政治団体と言い換えることができるでしょう。
素人の場合、自分は素人だから、要望を出すだけで、あとは政党が全体のバランスを考えて正式公約にするかどうかを決めればいいのじゃないかと言えますが、政党自体が全体予算バランス無視で
「この分だけ予算措置を求める・その結果他のどの部分の予算が削れるか知ったことでない」
と言うようになると国家運営を任せろと言う政党とは言えなくなります。
言い換えれば、今は少数政党で弱いから弱者の意見を尊重しろと主張していますが、唯我独尊ですから権力を握った場合、他の要望は受け入れないし利害調整する気もない、独裁政党になると宣言しているようなものです。
民主党政権は八ッ場ダム工事をやめるとした場合、その穴埋めをどうするかの意見がなくて結局続行に決まりましたが、結果からみるとやめる場合の総合判断による意見ではなかったことを露呈しました。
子供が南米に2週間の家族旅行したいと言っても家計や休暇期間・健康等の都合の事情等で親が国内旅行にしようと言っても聞き入れず、駄々をこねていたようなものです。
流石に民主党政権時代に原子力発電をやめるしかないとしても約30年(あるいは30年までにだったか?)かけて徐々に減らしていく・その間に風力や太陽光発電等を育てていくという基本方針が策定されましたが、社会運営に責任ある政党としては、「ある工事をやめるまたは何かを新設する」というからにその影響を総合的に判断して決めて行く必要があったことを示しています。
原発に戻しますと、民主党政権のやめる方向の決断はいかに工夫努力しても危険性を無くせないという国民意識を前提にしていたものです。
努力工夫次第で、100%安全になるという自信があれば、30年までに?やめる決断自体があり得ないことでした。
ということは太陽光等で補充できるようになるまでの間はリスクゼロではないが、恐る恐る・できるだけリスク軽減しながら運転して行きましょうという国民合意であり、今の各野党自身そのような意図であったことになります。
山奥に行った帰り道で崖崩れがあり、絶壁の上の道路幅が半分に削れてしまいその約1キロの区間を走破するのは危険極まりないものの、そのまま山に止まれば餓死するしかないときに「100%安全ではないが慎重に通り抜けましょう」というのと同じです。
夜中に数百メートル危険そうな路地があるときに、危険を冒しても変えるしかないこともありますし、企業経営でも一定のリスク承知で新興国進出して成功することがあります。

自由民権運動の系譜1

たとえば、板垣退助に対する批判論では以下に紹介するようなものがあります。
板垣に関するウイキペデイアの中に紹介されている板垣に対する評価です。

小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[22]
尾崎咢堂  「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた
谷干城  「板垣という男は困ったもんぢゃ。学問がないから人騒がせしたり大言する。人間は根本の学問が第一ぢゃ。フランス流の自由がなんぢゃ。口を開けばルソオの民約論に何と書いてあるという。実際読みもせずに偉そうにしゃべるとは一体あれや何ぢゃ?俺はあんな演説を聞くと胸糞が悪くなる」[18]

谷干城とは板垣と同郷の士で、儒家の生まれで25歳で藩校の史学助教授となっている外、西南戦争では西郷軍の猛攻に対して寡兵よく熊本城を死守したことで知られている有能な軍人であり学習院長にもなっている教育者であり政治家です。
日本の革新系野党が空理空論に走る傾向があるのは、メデイア受けのよかった板垣の運動体の系譜を引く、企業経験や地方政治等の実務経験がないグループの弱点でしょう。
明治に戻れば板垣と大隈の違いでしょうか?
大隈重信は維新当時佐賀藩内の地方的人材で維新の英傑ではありませんでしたが、幕府崩壊による長崎奉行の仕事を佐賀藩が穴埋め的に担当したことで長崎で外交手腕を発揮し、中央から赴任した井上馨の目に止まり中央での活躍の場が与えられるとその都度外交手腕を発揮していた外、内政においても、何かある都度原則にとらわられず手腕を発揮して中央政界中枢に参画して行った経歴で実務能力に秀でた人材のようでした。
年末の給与支払いに困って旧来の太陰暦から太陽暦系に切り替えた大隈の蛮勇が有名ですが、その他混乱期に特定資金を状況によっては別の資金に振り向けて難局を切り抜けるなど柔軟性に富んだ人材だったようです。
大隈は14年政変での下野をチャンスに政党を結成したことによりその後の政治基盤を確保できて政治力を長続きせる方向に利用するなど(その後下野すると早稲田大学創立するなども含めて)社会変化に対応して生き抜く力の強い人でした。
板垣系・自由民権運動系はその後大隈と連立していわゆる「隈板内閣」として連立政権を組みましたが、利害調性的実務経験がない結果か?利害調整に最も遠い内相担当になって板垣の声望を一気に落としました。
「板垣死すとも自由は死せず」をもじって宮武外骨の『滑稽新聞』は、「自由は死んだのに板垣は生きている」と揶揄したとも書いています。
板垣系の真骨頂は啓蒙「運動」と政府批判することにあって国会開設後は目的を達したので隠居すべきだったと思われます。
最近流行語では発展的解消といって名称変更で組織存続することが多い・・民意実現を見届けるかのように政界に未練を残した・引退した社長が後継社長を監督したがるようなもので、却って恥を晒したことになります。
以後自由民権運動系・・メデイアを含めて各種運動体は実務政治能力がない不満分子の運動体というイメージが定着して行きます。
日露戦争の講和反対の大騒動や戦後のサンフランシスコ講和反対、日米安保反対等々、多くは現実無視の反対論でした。
これを賞賛する現在メデイア〜革新系野党は実務経験より空理空論というか、理念(と言えるかな?)重視傾向・要するに「運動」すること自体に生きがいを求める人たちになっていきます。
自由民権系は、国会で政治を決める民主主義というスローガンが達成された後は、どのような政策が良いかの政治テーマを提供できず、達成後は「民主主義を守れ」と言う運動体でしかなくなったようです。
戦前はまだ民選議会が完全でないと批判していれば良かったのですが、理想とする米国肝いりの現行憲法ができるとこれを守ることが自己目的化していき、平和憲法と民主主義を守るためには改憲反対・情報公開が必要という一点?集中になってきました。
情報公開の必要性も(産業機密を筆頭に)程度問題であることは世界の常識ですし、平和を守るためには一定の自衛力が必須であることも常識ですが、こういう具体論になると口をつぐみ議論に応じません。
政府は総合的に政策実現の責務があるので、情報公開さえすれば、外交や安全保障、経済政策その他万般の重要政策について関心がありませんというのでは責任政党とは言えないでしょう。
結局政権獲得を目的とせずに、反対運動することに意義があるかのように自己目的化していき、どういうデモを組織し、どれだけの人数がデモに参加したかが強調ネタを求める人たちに特化して継承されてきたようです。
自由民権系の弱点は実務・政治力の源泉である調整能力不足ですが、この閉塞打破のためにマイノリティ=社会の少数派・主に弱者に着目して社会の陰に埋もれていくマイノリティーに光をあてることに活路を求めるしかないようです。
マイノリティーに光をあてるのは映画等の芸術のテーマにすることは意味がありますが、政党がそれを主看板にするとマイノリティ支持者中心に限定されていくようになります。
例えば医療全般の予算を増やせという場合と特定疾患者を救済のための運動とでは支持母体の規模が違ってきます。
トマト特化、ワイン用ブドウ農家特化で利権を求めるより野菜・果実全般で政治活動する方が支持母体が大きくなるように、何かに特化すれば利害調整能力不要で一致しやすい代わりに、支持母体が小さく影響力が小さくなる関係です。
大きな組織・・野菜だけでなく農産物業界全部あるいは、食品業界全部と広げれば政治力が大きくなる代わりに今度は内部調整力が必要です。
政治というものは利害プラス同情心.正義感等で動くものとすれば、lGBT運動その他マイノリティ支援に特化すればするほど政党支持率は下がるしかない理屈です。
物事はバランスで成り立っています。
映画や芸術で「弱者を忘れないで!とアッピールする程度で意味がありますが、これに特化した政党が仮に政権政党になった場合、政権運営するには無理があります。
マイノリティー保護・生活保護基準を上げろ、母子家庭保護、保育所増設.最低賃金を引き上げろ式の主張・・バラマキ型の政党が、政権担当するとその資金をどうするか・どこかの予算を削るしかない・総合調整能力の現実にすぐ直面します。

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