日本の学会では、個々人(法人を含む)の人格批判ではなく「日本民族全体の品格を貶める運動は名誉毀損にならない」としていたので、結果的に、「日本批判し放題」法理論を提供してきました。
ただし法理論がどうであれ、「相手民族を事あるごとにこき下ろしていて」民族間感情ががうまくいくかは別問題です。
これに対する反発が在特会批判として勢いを増したのです。
このあとで市川教授の論文を紹介しますが、憲法上規制が可能かどうかと、規制強化が民族和解に有益かどうかは別問題という意見の通りでしょう。
以下米国憲法判例を紹介するように「集団に対する名誉毀損を問題にしない」判例法理の確立は、公民権運動等のためには集団誹謗を不問にする方が運動に有利とする基礎的考えがあったようです。
以下紹介論文一部の先行引用です。
「同様の状況に置かれていたユダヤ系アメリカ人についても、とくにその知識人層において、集団に対する名誉毀損の規制は利益よりも危険のほうが大きい、という認識が主流になっていた。」
人権とか憲法学といっても党派的利益の都合に合わせて議論してきたことがわかります。
憲法学をこき下ろす立場から言えば、憲法学なんて政治的イデオロギーを学問らしく装っている政治論争に過ぎないと、20年あまり前に事務所にいた修習生が自信を持って話していました。
今更「朝鮮民族批判だけ許されない」とは言いたいがあからさまに言いにくい状態・・どのように修正すべきか百家争鳴状態・憲法学会でもまだ定説のない状態と言えるでしょうか。
そこで日本民族に対する誹謗中傷が良くて「在日批判だけ許さない」論理として「少数民族批判を許さない」・ヘイトとしたようですが、そうであればちょっと論理が粗雑かもしれませんが、国際世界で日本民族は多数派ではない→「国連での日本批判はヘイトにならないか」の疑問が起きます。
極論すれば、いわゆる被害者ビジネス・・・ヘイトになるか否かの基準は、「被害を訴える方は何を言っても良い」というものではないでしょうが、・・天皇の拡大顔写真に竹槍を突き刺すようなデモ行進をするなど・・・いくら激しくてもこれらに対するヘイト・憎悪表現批判が聞こえてきません。
今後ヘイト論議が深まると「少数派は何をしても良いか?」の議論も俎上に登るべきでしょう。
素人の私が「ああだこうだと考える」よりも、この辺でヘイト規制に関するプロ・憲法論の状況を知っておく必要がありそうです。
まず言論の自由の本家、アメリカではどうなっているでしょうか?
日本の憲法学界論文はアメリカ判例を下敷きにした議論が多かったので、理解の前提としてアメリカの連邦最高裁判例の変遷〜現状を以下の論文引用により紹介しておきます。
結果的にヘイト規制を認めないというのがアメリカ憲法判例の現状ですが、テーマ自体に歴史的文脈」とあるようにこアメリカの結論は公民権運動保護の特殊性による・・(「日本では公民権運動などの保護すべき対象がないので認めるべき?」といいたいけど今は言わない?)と言うのが筆者の意見のようです。
論文は長文のため以下は、要約整理やつまみ食い的引用ですから、気になる方は以下引用先に入って直接お読みください。
https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2014-03.pdf
アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈
──90年代の規制論争における公民権運動の「継承」
キ ー ワ ード :
ヘイトスピーチ、公民権運動、表現の自由、リベラル、批判的人種理論
明戸隆浩 大阪経済法科大学 アジア太平洋研究センター
内容は膨大ですので、項目的に列挙し要約的な引用をしています。
1. 問題と背景
2.アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈
2-1 先行研究の検討
2-2 ヘイトスピーチ規制に関する連邦最高裁の判例の変遷
① 1942年のチャプリンスキー判決→喧嘩言葉に表現の自由を認めない判例
② 1952年のボハネ判決→「集団に対する名誉毀損(group libel)」の論理
に依拠してヘイトスピーチ規制を根拠づける・・「集団にも適用可能だとした」リー ディング・ケース
③ 1969年のブランデンバーグ判決は クー・クラックス・クラン(KKK)が集会で十字架を燃やし(23)、扇動的発言を行ったことが、州法に基づいて違法とされたことの合憲性である。
連邦最高裁の判断は、州法を修正第1条に照らして違憲とし、KKKの指導者の有罪判決を破棄するというものだった。KKKという典型的な差別主義者の差別扇動さえ修正第1条の保護を受けるという、現在につながる流れが成立した瞬間である。
そしてこうした判断は1977年のスコーキー事件をめぐる判決でも基本的に踏襲されることになる。そこではホロコースト生存者が多く居住するスコーキー村周辺でのネオナチのデモが条例違反とされたことの合憲性が争われたが、連邦最高裁の判断は、やはり条例を違憲とし、ネオナチのデモの権利を支持するものだった(24)。
その後もこうした傾向は変わることがなく、むしろそれは
④ 1992年のRAV判決によってさらに強化されることになる。
このケースは、ミネソタ州セントポール市の白人家庭が大多数を占める住宅地で、白人少年RAV等が、黒人家庭の住居敷地に侵入し十字架を燃やしたことに対するものである(25)。セントポール市の「偏見を動機とした犯罪に関する条例」にはこうした十字架を燃やす行為を規制する条項が含まれており、RAV等の行為に対してもこの条項が適用されたが、RAV等はこの条例が表現の自由を定めた憲法に違反すると主張して争った。
これに対して州最高裁はこの条例を合憲としたが、連邦最高裁は州最高裁の判断を覆し、同条例が喧嘩言葉一般ではなく一部の喧嘩言葉のみを対象としている点で表現の内容に踏み込んでおり、修正第一条に反するとした。
この判決はヘイトスピーチに対する規制を限りなく狭める方向に働き、以後アメリカではヘイトスピーチは事実上規制できないという状況が成立することになる
2-3 転換点としての公民権運動
・・・・・1960年代以降にアメリカで「表現の自由」の原則が厳格に適用されるようになったのは、公民権運動の過程において「表現の自由」が運動を後押しする重要な理念となっていたことが大きい(26)。
ブライシュによれば、当時のアフリカ系アメリカ人や公民権運動の活動家にとって、名誉毀損に対する規制はむしろ障害となると認識されていたという。実際60年代には、公民権運動の運動家の発言がとくに南部の諸州においてたびたび名誉毀損で有罪とされ、その度に連邦最高裁が「表現の自由」の原則に基づいてそれを覆す、ということが生じていた。また、同様の状況に置かれていたユダヤ系アメリカ人についても、とくにその知識人層において、集団に対する名誉毀損の規制は利益よりも危険のほうが大きい、という認識が主流になっていた。
「表現の自由」の原則はマイノリティの利益を守るためにこそ必要だという考え方が、アメリカ社会において次第に普及していったのである(27)