象徴天皇制と天皇制存続可能性について見ておくと、優秀な政治家でも一定年数経過すると社会の意識変化についていけなくなり、(長期安定政権で知られるドイツのメルケルもロシアのプーチンも流石に支持率が下がってきて政治生命が終わりに近づいた印象です)政権交代があるのですが、最終決定権を天皇家が持つようになると決定に対する政治責任が発生します。
優秀な政治家でも毎回うまく行く訳ではない(世論動向吸収巧者メルケル氏は難民急増に関する世論を読み違えた)ので、一定期間経過による政権交代の宿命が天皇制の寿命を縮めます。
発言力・最終決定権がない前提でこそ「天皇の無答責」で一貫してきたのです。
天皇家が主導権を発揮した承久の乱の後鳥羽上皇その他の上皇や、正中の変〜元弘の乱では後醍醐天皇が廃位されて島流しになっています・・。
このように具体的政治決定の主役になると、政治責任を取らないではすみません。
後水尾天皇の紫衣事件は、天皇の裁量で行ったから政治問題に発展したのです。
昨日紹介した通り、天皇家は応仁の乱以降経済力を失い即位の礼でさえ、有力大名の寄進がないとできない状態→寄進してくれる限度=儀式諸費用決定権がない状態になっていたのですから、儀式が華美すぎるかどうか(を決めるのは信長等の費用出し手です)の批判を受けない仕組みになっていたのです。
毛利氏や信長などが費用負担するようになって以来、天皇家は儀式担当(俳優のように担当するだけで、規模コストを決めるのは時の出資者・政権担当者)化していていろんな政治決定権がないからこそ天皇家の無答責が一般化し連綿とつづいてきたのです。
ちなみに戦国時代の天皇の実態について当時来日した西洋人記述は以下の通りです。
正親町天皇に関するウイキペデイア引用です。
イエズス会の宣教師は、日本には正親町天皇と織田信長の2人の統治者がいると報告書に記述した[7]。フランシスコ・ザビエルの後任である布教責任者のコスメ・デ・トーレスは、1570年(元亀元年)に、日本の権権分離を以下のように報告している[8]。
日本の世俗国家は、ふたつの権威、すなわちふたりの貴人首長によって分かたれている。ひとりは栄誉の授与にあたり、他は権威・行政・司法に関与する。どちらの貴人も〈みやこ〉に住んでいる。栄誉に関わる貴人は〈おう〉と呼ばれ、その職は世襲である。民びとは彼を偶像のひとつとしてあがめ、崇拝の対象としている。
当時から天皇は象徴であり政治決定権を持っていなかったのです。
敗戦時の東京裁判では実質決定権がなかったと言う理由で、天皇が被告にならなかったのもその事例です。
1月23日に、貨幣改鋳した奉行と新井白石の論争を書きましたが、明治維新は江戸時代に入って朱子学が浸透し実態よりも観念を重視する新井白石などの秀才が幅を利かす時期がありました。
実利重視の吉宗の登場によって、朱子学者は実務の反撃を受けて挫折してしまった不満をかこっていたことの裏返しの時代になって、専制君主が正しい・今の体制は間違っているという観念論によっていたように見えます。
結果、朱子学は具体政治になんら有用な機能を果たせずに空理空論を弄んでいただけですから、幕末動乱期にまともな役割を果たせていません。
幕末動乱期から明治にかけて世界情勢に適応できたのは、朱子学とは系列の違う各種文芸の発達(ジャポニズムとして西洋に逆影響を与えるなど)や適塾や、和算や天文学など実用学問の素養でした。
同様に幕藩体制批判の急先鋒・水戸学は御三家の中では冷や飯食い的不遇・今の野党評論家のように、何かと現体制を批判したいグループ同様でしたから、待望の幕藩体制が倒壊してみると明治政府からお声がかからないで終わりました。
むしろ賊軍であった旧幕臣の方が新政府で活躍しています。
水戸家では体制批判に特化していて実務能力がなく役に立つ人材がいなかったからでしょう。
水戸家出身の最後の将軍徳川慶喜も批判論は得意だったでしょうが、書生論でしかなかったのでいざ将軍になると、もみくちゃにされて終わりました。
学者とは数代前に時代に合わず変わってしまった社会体制を理想として、現在の体制を批判することを職業としている人のことでないか?とも言えそうです。
維新政府は、中国の専制支配体制を理想化して日本の国情無視の儒学者らの観念論による「尊皇攘夷論」に乗っていたために(薩長は倒幕大義名分として利用していただけですが、)攘夷論に気を使って「王政復古」を旗印にしていた関係もあって、当初二官八省制から始めたことを07/18/05「王政復古と3職」前後で官制の変化(廃藩置県等の地方制度も含め)として時系列で紹介したことがあります。
二官八省制度はあまりにも実務向きではないのでどんどん改組していき最後の総仕上げで明治憲法体制になったものです。
政府は王政復古の旗印を無くせないので、明治憲法の天皇制は実務決定は政治家が担当するが文書上は天皇の名において行うという分業を目指したように見えます。
明治憲法では天皇大権として、「これでもか足りないか!」と言うように書けるだけ精一杯書いた印象で羅列していますが、要は当時想定できる政府の権能を描いたものでしょう。
実際の運用では主任大臣の副署を要求するしかなかったのですし、天皇大権を羅列すればするほどすべての分野で形骸化して行く運命です。
明治憲法
第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
明治憲法でも主任大臣の連署が必要でした・・これが現憲法では主任大臣から内閣に変わっただけです。
(内閣制度が憲法制定前にありましたが、明治憲法上の制度になっていなかったからです)
この場合の副署は天皇自らの署名を求めるのは「畏れ多い」という古代からの「憚り」によるのではなく、実務政府の副署・・承認がないと効果がない江戸時代の禁中ご法度の継承・・逆の意味合いでしょう。
どういう有能な人でもすべての分野で実態にあった裁可する能力があるはずもないので、結果的に天皇の名においての権限乱用に結びつくようになります。
天皇の名を乱用するのを防ぐために、戦後の現憲法では実態に合わせて天皇大権の文言を全部削除して「象徴天皇」を明記し、国事行為のみを内閣の助言と承認で行うと明記しました。
これが上記引用した戦国時代に日本に来た西洋人の観察にも合致していたからです。
実質決定権がない状態に合わせた・・新憲法で象徴性を明記したので戦後初めて象徴天皇になったかのように誤解するムードが流布していますが、儀式専門になったのは上記イエズス会代表文書引用のとおりおよそ500年の歴史があるのです。