中朝・修正装置なしの体制2(漢承秦制の原則)

昨日法家の思想を紹介しましたが、中国古代に統一国家ができるまでは、多国間競争があったので統治能力や文化の高さを競う必要があったので百家争鳴・・いわゆる諸子百家の個性豊かな思想家が活躍したのですが、統一国家になると多様な意見が全面的に(焚書坑儒)禁止されて、専制君主の命令が正しいかどうかの基準によらず皇帝の命令どおりに職務を果たしたかどうかを基準にする・正しいかどうかの議論を許さない社会になりました。
以来、彼の地では中国王朝政治の基本原則として漢承秦制の原則が言われて清朝崩壊まで来たようです。
漢承秦制の原則については04/10/05「不平等条約改正に対する日本政府と清朝の違い(漢承秦制の思想と社会の停滞)」以下で何回か紹介しました。
上記で引用した中国人の論文では異民族支配化に入った時も異民族は中元の地の政治文化を尊重して政治体制は漢承秦制の原則により同じ制度枠組みでやってきたことと、19世紀以降の欧米の新文化が入ってもこの強固な枠組みを変えずに小手先の技術導入で済まそうとしたので、遅れて欧米文化に接したにもかからず国家体制まで変えた日本に清朝は遅れをとってしまったという論文です。
ここで論者が言わんとしていることは、中国は小手先の技術導入だけではなく秦朝以来の国家枠組み(基本思想そのもの)も変える必要があると言いたいようでした。
上記論文は2005年の「自由と正義」に掲載されていたものですから、当時は改革開放が進み国民が豊かになれば、国家体制も人権を尊重し自由化に向かうだろうという楽観的欧米意見の援護論文だったとも言えます。
その後習近平政権になって中華の栄光の復活・・2000年来の漢承秦制の原則・・欧米技術は専制支配支配の道具に使えば良いという思想に戻った(先祖帰り)ようです。
公務員の肩書き(〇〇弁室〇〇だったか?)で書いていたあの中国人学者の運命がどうなったか・・日本に来てしまったかな?気になるところです。
清朝末期に欧米に対抗するために体制変革を目指した変法自強運動を起こし西太后に潰された康有為の超小型版でしょうか?
康有為の漢詩があった記憶ですのでネット検索して見ました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/fusang09.htm

戊戌八月 國變 紀事

歴歴たり  維新の 夢,
分明たり  百日の 中。
莊嚴  宣室に 對し,
哀痛  桐宮に 起る。
禍水  中夏に 滔(みなぎ)り,
堯臺  聖躬を 悼む。
小臣  東海に 涙して,
帝を 望めば  杜鵑 紅し。

私感註釈

※戊戌八月國變紀事:戊戌変法政変の記事。 *康有為、梁啓超、譚嗣同 、また、張之洞に詩作あり。 ・戊戌:1898年光緒二十四年のこと。ここでは、戊戌の変法を指す。八月國變紀事:戊戌変法が挫折した八月の出来事。戊戌の変法とは、1898年(光緒二十四年)に宣布された変法維新(欧化、近代化の改革運動)の政治運動。その由来は、アヘン戦争後、国威の衰頽が顕在化し、やがて、日清戦争(中国側の呼称:甲午戰爭)後、日本の欧化の優越性を目の当たりにしすることで、自国の後進性の改革の必要性と、西欧列強の対清朝中国蚕食という現実に直面して、危機感を持った先覚者が、政治の改革と軍備の改善を図り、日本の明治維新後の政府と帝政をモデルにした救国改良運動にある。康有為や梁啓超がその中心であった。やがて、1898年(光緒24年)に光緒帝によって宣布された変法維新は、百三日後、西太后慈禧のためにあえなく挫折する。それ故「百日維新」とも称される。なお、この政変の失敗後康有為や梁啓超は日本へ亡命、他の譚嗣同、楊鋭ら6人は処刑された。

この政変をテーマにしたというか、西太后を主役にした猿之助演出のお芝居を20年以上前に見たことがあります。
藤間紫主演の凄みのある西太后に圧倒された記憶・・いまだにその表情が目に浮かびます。
https://weblog.hochi.co.jp/uchino/2009/03/post-684f.html

2009年3月29日 (日)
藤間紫さんの「西太后」
紫さん訃報で思い出すのは舞台「西太后」の初演(95年)です。記者になってまだ数年目の若造でした。
あの時の新橋演舞場の張りつめた空気を忘れることができません。まさに観客が身を乗り出し、固唾をのんで見入るような。完成度の高い舞台だけに流れる、研ぎ澄まされた空間でした。 初演時、紫さんはすでに70歳をこえておられたわけですが、その女傑ぶりは劇場の空間をまさに圧倒し、支配するものでした。

上記によると新橋演舞場で見たようです。
やはり、文字の上で歴史を知るのと舞台で見るのとでは、記憶に刷り込まれる内容・深さが違います。
東京地裁のついで(当時いつもそうしていましたので)に妻と一緒に観劇したものですが、何やかやと言っても今のみやこは東京ですので、気楽に文化の粋に触れられるのはありがたいことです。
話題がそれましたので専制支配体制に戻ります。
普通の国では国内専制権力を持っても、隣国との競争に負けると困るので周囲の反応を気にして矯正せざるを得なかったのですが、秦朝統一後の中国には周囲に競争相手がなく、お隣の関係で矯正されるチャンスがなく現在に至ったのが世界史的に見れば特異な点でしょう。
中国現在の領域を前提にまず南部から考えると、南部方面はヒマラヤや雲南の険阻な山地によって隔てられ、しかも山地の向こうはさらに山地中心の地形であって人口が少ないので、中国地域に成立している王朝がいかにデタラメをしていようとも、その王朝の存立を脅かすような大兵力を要する国ができませんでした。

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