神は民族利益を超越したか?

法律相談者が、裁判の「勝ち負けに関係なく相手を裁判の場に引きずり出したい」と言い張る人がたまにいますが、こういう人は、神の審判・・御稜威をもらいたいという自然の声に導かれているのかもしれません。
あるいは野党系弁護士が、政治主張が通らない分野で、何かと訴訟を仕掛けるのは同じような信念があるのかもしれません。
しかし彼らは、負けると決まったように「不当判決」の看板を用意しているのはツヤ消しです。
神の意を求めたならば、勝った時だけ神の意を得たかのように騒ぎ、負けると判決をこき下ろすのではなく潔く結果を受け入れるべきでしょう。
孝謙天皇と弓削道鏡の世俗権力の結束がいかに強かろうとも、一たび宇佐八幡の御神託が降ればこれに従うしかない・・権力構造をひっくり返したのが民族精神です。
グローバル化しても異邦人(根っからの日本文化に浸った人以外)にはこうした精神土壌は理解不能でしょうし、これがゴーン氏の日本脱出劇につながったかもしれません。
彼にしてみればイスラム法で裁かれるなら結果を受け入れられるが、日本の「神」に裁かれるのは嫌だということでしょうが、「自民族の法が優れている」という理由で特定国に対する治外法権主張が許されないのが、国際社会の常識です。
「郷に入りては郷に従え」という日本古来の法が現在国際法の基本原理です。
この程度のことは高校生でも大方知っている法原理でしょうが、ゴーン氏が日本の法制度に従いたくなければ日本に入国しなければいいのであって、日本で経済活動しながら日本法を批判さえすれば日本法の適用を免れられると思い込んでいるとすれば、子供レベルの法常識もないことを満天下に晒したことになるでしょう。
フランスやレバノン政府が、日本の法制度は野蛮であるから自国民が日本で法を犯しても日本の裁判制度によって裁くのを許さないと言えるのでしょうか?
大和朝廷の神(天照大神系)は当初侵略者であり征服者の正当性を主張する一方的論理だったかもしれませんが、多数の土着神を抱え込んで行くうちにいつのまにか日本列島の支配的精神である「天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ」神の御心のままに行動すれば自ずと神の道に連なるというモラルを体得し得た神に昇華できたようです。

大日本帝国憲法
告文
皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖・・・以下略

以上は大日本帝国憲法の告文の精神であり、独りよがりに過ぎないと冷笑する方もいるでしょう。
これは日本書紀に始まる神話の継承をことさら強調している大日本帝国憲法の絵空事に過ぎないとも言えますが、日本民族が連綿と継承してきた精神の文字による再確認だったとも言えます。
どちらが正しいかは不明ですが、私個人の印象的意見では日本の神様は各地土着の神を大事にしてきた歴史によって結果的に特定部族宗派の利害に偏らず公平無私の神様に昇華してきたように見えます。
この点キリスト教であれイスラム教であれ、存立基盤民族の生存をかけた戦いの旗印的役割が今尚強すぎることから、(キリストやイスラム教徒には不愉快な意見かもしれませんが・・)異教徒排撃精神が強いすぎる?点で真のグローバル宗教に昇華・脱皮できていないように見えます。
我々弁護士は一方の立場での勝利を目指して依頼者のために戦うのですが、それでも背後にある正義の基準を背負ってその限度で戦う精神が濃厚ですし、その点で弁護「士」であってアメリカ的弁護「屋」ではないという誇りを持って生きてきました。
最近、この基準に反するのではないかが弁護士倫理として厳しく問われるようになりつつあります。
アメリカでは民族人種対立的事件の裁判では、各民族から日系裁判官の裁判を希望する比率が高いと言われるようです。(正確な統計に基づくは不明)
そして「官」とは、この正義感に裏打ちされた職責・・「職を賭しても正義を守る気概を保持する人」をいうように精神面からは考えられます。
ちょっと横にそれましたが、大臣と官と一般公務員との関係に戻します。
日本国憲法は国民主権を謳っているものの一方では、各省大臣は天皇に「任命」された総理大臣(太政官)が任命し、その認証を天皇から受けた大臣が補助者・官僚を任命するという天皇の臣下系列の一貫的残存です。
平安時代にも摂関家・太政大臣の意向で左右大臣以下の人事(叙任)は決まっていたので、(平安末期に清盛が太政大臣になっていた時に源頼政の嘆きの歌を知って、官位をすぐに従三位に引きあげた故事を紹介しました)総理が各大臣を任命できて天皇がそれを認証するだけになったと言っても古代の天皇と実質はほぼ同じです。
現憲法と蘇我氏や摂関時代との違いは、太政大臣に当たる総理を民意で決めるところだけでしょうが、国民主権国家かどうかの原理では、そこにこそ重大な意味があり、それさえしっかり決まっていれば問題がないと言うことで、妥協が成立し日本国憲法は成立したと見るべきでしょうか。
今の日本では神の声=民意でしょう。
神の声=人類共通の人倫とすれば即ち法であり、世俗的表現をすれば価値観共有外交となるのでしょうか?
世界中で子供の頃から日本価値観を基本とするアニメ等に親しんで育ってきた世代が3〜40歳台になろうとしている状態です。
世界的に見れば世界で日本価値観を全面否定したい勢力は、国家民族的には韓国政府と韓国国民に限定されているようですし、ゴーン氏はこれに乗っかって日本の法制度=価値観を正面切って否定しようとしているようですが、上記国際的信用を背景に安倍政権が国際政治上築きあげた日本の国際的地位を理解できない無謀な主張のように見えますが・・。
さて、どこかの政府がゴーン氏の主張に理解を示すことができるのでしょうか?
と書いていたところ、フランス大統領マクロン氏が、ついに〇〇の突き上げに我慢しきれなくなくなったのか?日本の拘留や取り調べについて安倍総理との会談の際に?苦言を述べたことがあるとの言い訳がニュースに出てきました。
今は裁判中で拘留されていないし、取り調べも受けていないので、拘留が長く自白強要の危険があるとしても、それとゴーン氏が自白していないならば、今になって逃亡する必要がないし、拘留中にもしも自白していたとすればその効力を裁判で否定すればいいことで、国外に逃げだす必要がないので国外逃亡の正当化と関係ないことです。
論理関係のないことをマスメデイアは大きく報じていますが、流石に自国と制度が違うからといって日本での裁きを受けなくても良いとまでマクロン氏は言えないようです。

安倍首相に改善要請「何度も」=ゴーン被告処遇めぐり―仏大統領


【パリ時事】フランスのマクロン大統領は15日、レバノンへ逃亡中の日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告に関し、「勾留や取り調べ中の状況は満足できるものではないと思うと安倍(晋三)首相に何度も伝えた」と語り、処遇の改善を要請していたことを明らかにした。新年の記者会見で質問に答えた。
マクロン氏は「全てのフランス国民が、彼らの享受すべき公平さをもって扱われることを願う」と強調。一方でゴーン被告の逃亡については「コメントすることはない」と述べるにとどめた。

原理主義の本籍(社会不満)3

一神教を前提にする欧米マスコミに毒されている・・受け売り体質の日本マスコミは、ずっと前から、頻りにスンニ派とシーア派の対立を前提に図式化して解説しています。
これに洗脳されて私もそう思ってきましたが、今回テーマに取り上げた機会に考えてみると宗教的な不満をかりに主張しているとしても言ってるだけではないかと思うようになりました。
これまでのイラン・イラク戦争や今回のイスラム国にしても、石油利権等に絡む紛争が中心であって、部族や居住区域や国境線で言えばどちらか問と言えば宗派の違いがあったでしょうが、モロに宗派の価値観対立に基づく戦争ではありませんでした。
アフガン内で長期化している権力闘争・・ゲリラ勢力間の主導権争いを宗派の対立に図式化しても意味がない筈です。
信玄と謙信の繰り返された合戦を、それぞれが信仰して来た宗派戦争と図式化するのが間違いであるのは誰も分るでしょう。
上杉謙信や武田信玄は領民の支持を引きつけるために毘沙門を信じたりして、宗教心を利用して来ただけです。
信長だって、乾坤一擲の桶狭間の決戦に向かうに際して、部下の勇気を鼓舞するために熱田神宮で祈願するそ振り?をしています。
1昨日、叡山と園城寺の山門と寺門の長期紛争を書きましたが、これは世俗の利権争いでしかなかったのと同様で、イスラム教国や部族同士の紛争を何でも、欧米式宗教戦争の経験に結びつけるのは誤りです。
欧米の宗教戦争は宗派の争いに領国支配権争いが加わったものですが、アラブの紛争は利権争いに団結するために宗派の違いを利用しているだけでしょう。
今回のイスラム国は、国や部族単位の争いでなく、イラク国内とシリアにまたがって領域支配を始めたので、如何にも宗派の違いのように見えますが、西欧による侵蝕に対する危機感を持った人が徒党を組む名分として宗教を利用しているだけのように見えます。
中国歴史で見ても社会に対する不満分子が中国清朝末期に太平天国の乱を起こしたりしていますが、彼らはキリスト教徒が不満を持つようになったのではなくキリスト教が当時の世相に対する不満分子の凝集剤になったに過ぎないと見るべきでしょう。
白蓮教の場合、白蓮教徒として元を追い出した明の朱元璋は政権奪取に成功すると危険思想として白蓮教を禁圧しています。
戦後、西洋の歴史図式を無理に日本の経験に結びつける歴史教育がはやっていたことをこのコラムのあちこちで批判してきましたが、アラブ諸国のテロその他で西欧的(進んだ)価値観に反抗する傾向を、極右とか、原理主義と表現して如何にも遅れた宗教意識によるかのような図式化は問題です。
仮にイスラム教内で宗派間戦争をしたがっていると言う西欧の理解が正しいならば、1度はイスラム教同士の宗派戦争をやりたいだけやり抜いて痛い目にあわないと分らないのではないでしょうか?
(もしも本当に宗派間闘争の原理主義闘争ならば、余計な介入しないで、やれるところまで(お互い疲れるまで)ヤラした方が結局は近道です。
最近原理主義運動やテロ活動が激しくなる原因に戻ります。
昨日から書いているように本当は宗教戦争ではなく正しいことかも知れませんが、価値観の押しつけが過ぎていることに対する単純な反発・あるいは世俗的不満の蓄積・・鬱憤晴らし行為に対して、どうやって大義名分・自己表現して良いか分らないことから、宗教の名を借りて騒いでいるように見えます。
テロ組織・「イスラム国」に参加しようとする日本人や欧米人が続出していますが、(4〜5日前に韓国人がイスラム国兵士になったと言う韓国政府発表があったようです)彼らは、元々のイスラム教徒ではありません。
要は強力な宗教意識による不満ではなく、その前にあちこちの社会に不満が内向している人がいて、不満を吸収する・・あるいは暴発するべき強力な磁場を求めてイスラム教徒に改宗して参加して行く状況になっていると言うべきでしょう。
(仮にイスラムの教義を守れと標榜していても宗教不満から始まっているのではなく、順序が逆です)

原理主義の本籍(1神教)2

西洋では長い宗教戦争の時代を経て漸く理性の力で信教の自由を相互に認めあって、殺し合いをやめることにしましたが、これは理性の力によるものであって、1つの価値観だけが正しいと言う基礎精神・心情はそう簡単に変わりません。
日本では権利だの革命だのと言う前の古代からお互いいろんな考え方があると言う意識でやって来た・・心底相手の違う考えを認める社会です。
私の場合、好き勝手な意見をこのコラムで書いている代わりに、読者が賛成してくれても、賛成してくれなくとも、私は気にしません・・好きなように読んでくれたら良いし、勿論読まなくとも良いのです。
2月17日に午前中の東京高裁事件を終えて、日比谷松本楼で妻と食事してから日生劇場で同性愛カップルをテーマにした(80年代にブロードウエー初演大ヒットしたとのことですが)・・のミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」を見てきましたが、「何で関係ない他人が他人の同性愛に反対するのか、アメリカ社会は窮屈な社会だなあ」と思いながら見てきました。
勿論ミュージカル自体は男性中心スタッフで、ダンスには「切れ」があって、楽しかったですよ!
「アメリカの思想は窮屈」と言えば、アメリカが自分が良いと思っている民主主義とか人権など、一定の価値観が良いとなればこれを世界に押し付けたがる点も、余計なお世話ではないでしょうか?
欧米では宗教戦争を漸くやめて〜市民革命を経て違った価値観を認めることにしたとは言え、考え方の基礎に一神教の価値観が残っているから今度は「民主的でないと行けない」と世界中に強制しようとしています。
他方、ソ連は共産主義が良いとなればこれを世界に広めようとしてコミンテルンを結成して布教?に努めた結果、いわゆる米ソ冷戦が起きました。
要は一神教の原理から逃れられず、どちらの生き方が良いかの決着を付けるためには戦争まであり得る前提でしたから、一種の第二次宗教戦争の意識で双方で頑張って来たことになります。
アラブ諸国では、1神教のままで、西洋のように宗派の違いによる宗教戦争の時代すらまだ経験していません。
ところで、イスラムの教えはダウ船の発達による商業活動の広がりにあわせて広がって行ったことを以前書いたことがありますが、(アラブの本拠地に比べてインドや湿潤な東南アジア諸国とは、気候風土が全く違いますので、硬直した教えでは広がらなかったと思われます)キリスト教のように異教徒に対してさえ排他性が少なく、寛容な宗教なので、ましてや宗派間のちょっとした違い程度で殺しあいの紛争が起きなかったのではないかと思われます。
この辺は日本人が宗派の論争にあまり価値を置かない・・一見無宗教のように見えるのと根が同じ・・通じ合えるのではないでしょうか?
日本人の場合、「郷に入りては郷に従え」と言うように「所変われば品変わる」と思うのが普通で、他所の国に行けば「へえーそんなこともあるの!」と違いに驚いて面白がるくらいが関の山で、気候風土の違う行った先で日本の価値観を押し付けたいと思う人はあまりいないのではないでしょうか?
日本列島は南北東西に長いので、行く場所ごとに気候が違えば同じ作も持つで作る時期順序も違うし、違った産業(山村から海岸に出れば漁業があるなど)作物があるので場所が違えば生き方が違うことが古代から自然に身に付いています。
行った先の気候にあった生活をするしかないのは当たり前のことで、現地社会に溶け込むように努力している・・目立たないことが生きる智恵ですから、移民先で日本人街を作りません。
このように考えるとイスラム教徒は意外に日本的価値観に近いかも知れません。
今原理主義が勢いを持って来たのは、あまりもキリスト教的価値観による侵蝕・押し付けに危機感を持った若者が出て来たことによるのでしょう。
日本であまりにも韓国・中国による激しい日本に対する攻撃に対して、一部日本人に嫌韓・嫌中感情が芽生えて来たのと同じ構図です。
これをマスコミは日本や先進国では極右とか極左と言い、アラブでは原理主義とレッテル貼りしているだけのように見えます。
アラブ諸国の騒乱をイスラム原理主義勢力によるとマスコミが定義付けしていますので、皆さんもそのように理解していると思いますが(私もこのテーマで書き始めるではマスコミの言うとおりに誤解していました)が、まだ内部宗派間対立による激しい戦争まではやっていません。
原理主義だとか極右・極左と相手を貶めるレッテル張りだけでは、モノゴトの本質が見えないことが分ってきました。

原理主義の本籍(1神教)1

原理主義者の支配する「イスラム国」と言っても彼らのモットーは原理主義ですから、少しでも違う意見を全く認めない・・一切妥協出来ない以上は、内部対立の激化→引き締めは恐怖政治しかあり得ないので、長期的な統治は無理があって、(スターリンのような特殊人材が出るかどうか次第です)一定期間経過で内部からどうにもならなくなって行くのが目に見えています。
古来ジャコバンであれ、なんであれ恐怖政治が長く続いた例はありませんので、放っておけば自滅することをいじりまわして問題を大きくしているのが欧米の介入政策です。
ただし規模程度やタマタマ内部人材次第でスターリンのように長く続きますが、それでも放っておけばソ連のようにいつかは自壊します。
ソ連の恐怖政治はすごく長くて永久化したように見えましたが、結果から見ると革命後でも6〜70年しかなかったのですから、私のような高齢者になってみると「たったの70年もなかったのか!と言う感じになってきました。
我が国がアメリカに支配されている戦後の欺瞞秩序だって、いつの間にか70年もたつと無理(噓のほころびが目立つようになります)が出て来たので、安倍総理の70年談話内容がどうなるかを世界が固唾をのんでみているところです。
恐怖政治の寿命に戻しますと、もしも放っておいて長く続くものならば、ロシア革命後の白色テロや赤色テロに対する列強の介入・・シベリヤ出兵のように外野から介入してもどうなるものでもありません。
ロシア革命後のソ連の恐怖政治はスターリン死後急速に内部崩壊が始まって行ったのであり、介入によるものではありません。
(フランス革命に対する周辺国の介入も、何の効果もなく、却ってナポレオンが誕生しました)
北朝鮮はアメリカを中心とする敵視政策によってハリネズミのようになっているので、却って無茶な独裁体制が存続出来ていると見るのが普通でしょう。
ところで、世界中で左右を問わずに過激思想・・原理主義的主張や行動が増えて来た・・あるいは目立つようになって来たのは、イスラムで言えば世俗化の進行に不満を持つ少数者を生み出したことに原因があります。
詳しくは知りませんが、キリスト教の一派◯◯教徒のように自分たちだけで特定教義を信じて山奥で生活している分には無害ですから、偏狭な意見でも何でも放っておけば良いことです。
ベジタリアンであれ、◯◯愛好家であれそのグループが勝手に愛好してる分には何の害もありません。
(犬好きも猫好きもそれぞれが大会を開いて満足していれば良いことですが、喧嘩までする必要がありません)。
自分の考えや好みを他人に押しつけたがるおせっかいな人やグループが厄介です。
「山登りやスキーが楽しい」からと登山したくない人に、強制したり登山出来ない人を貶めたり迫害するようになると迷惑でしょう。
西洋系宗教関係者(日本の場合日蓮系・・折伏と言うおどろおどろしい用語を使います)は布教と称して、特定思想や行動様式を「これは良いぞ!」と押し付けたい傾向の人が多いからトラブルになります。
それだけならまだ良いのですが、考えや行動様式が違うからと他者に強制したくなるだけではなく、意見が違うことを理由に殺し合いまでしたくなる点が一神教徒の異常性です。
我が国で◯◯宗と言っても、佛教典の中のどのお経を中心に考えるか(華厳宗・法相蹴・真言宗・法華宗・・)と言う一種の学問系列的要素が濃厚です。
佛教は知識や文化の導入便宜として利用して来たことを書いてきましたが、宗派と言っても法学部、経済学部程度の違いでしかないことになります。
昔から高僧はいろんな宗派の寺院を渡り歩いていろんな勉強をして来たのは、(この勉強はこの寺院で・・)学問の場所と言う意識によります。
宗派対立で、人殺しまでしなくてはならないような意識はありません。
三井寺と叡山の「寺門山門」の争いは、宗教の争いと言うよりは世俗的利権争いと見るべきでしょう。
そもそも異教徒なる日本語は昔から存在しなくて、西洋語の翻訳として入って来たものではないでしょうか?

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