社民党が今なお教条主義的体質をそのまま持っているのは、社会党解体?後その事務局〜地方組織や一般党員という運動体を引き継いだ遺産というべきでしょうか?
社民党に関するウイキペデイアの記事です。
社会民主党(しゃかいみんしゅとう、英: Social Democratic Party、略称: SDP[17]、SDPJ[18])は、日本の政党[7][12]。1996年1月に日本社会党が改称して発足した[1]、社会民主主義を掲げる政党である
旧社会党時代には成田闘争には一坪地主として党幹部自身が関与しましたが、現場で機動隊と直接対峙するような実力行使に関与しませんでした。
反対闘争を煽るだけで実力行使は、革マル、中核、社青同3派とその後の分裂で3派10流もと言われる過激系全学連系や京浜安保共闘(労働系運動体)などの別働隊に頼っていたようです。
※ 当時千葉地裁管轄事件だったので、成田事件の弁護をいくつか担当しましたが、そのうちの一つは、成田事件闘争団体の内ゲバ事件であり、その被告人は・今も年賀状の往来がありますが・・労働系運動家でしたが、何系の内部抗争事件だったのか詳細記憶がありません。
メデイアでは過激派学生運動と言われているものの、現場では労働系戦闘員?がかなり関与しているのだな!という印象記憶しか残っていません。
社青同に関する本日現在ウイキペデイアの記事抜粋です。
日本社会主義青年同盟(にほんしゃかいしゅぎせいねんどうめい)とは、青年を構成員とする青年政治同盟である。以前は日本社会党と支持協力関係を持っていた。
歴史
前身は日本社会党青年部。1959年10月開催の社会党第16回大会決定を受け、1960年初頭には社会党青年部を中心に日本社会主義青年同盟結成準備会が作られ、機関紙『社青同』(現、『青年の声』)第1号が1960年3月10日付で発行された。正式結成は1960年10月15日の第1回全国大会で、西風勲が初代委員長に選出された。結成の準備期間はちょうど安保闘争と「三池闘争」との巨大な高揚の時期であり、各地の社青同準備会は正式結成以前から社青同の旗を掲げて闘争に参加した。そのため、社青同は「安保と三池から生れた」といわれる。
政党との関係
日本民主青年同盟が「日本共産党のみちびきをうけ」ると自己の性格を規定しているのに対して、社青同にとっては旧日本社会党との関係は支持・協力関係であり、青年同盟でありながら政党から理論面や行動面での指導を直接に受ける関係にはない(これは「元々社青同が社会党支持者・党員で固められ、支援を前提とする団体であり、改めて『指導』を明言する必要がないからである」という見解もある)。
日本社会党は、社青同の運動にとってはあくまで階級的強化の対象であった。現在においても、社会民主党や新社会党が「護憲」のスローガンを掲げているのに対して、社青同は「改憲阻止」という言葉を用いるなど、政治的な争点となっている憲法をめぐる運動・考え方についてもスタンス、理論の相違がある。
青年共闘運動
職場・産別を超えた青年の学習と交流の場は、青年共闘運動として位置付けられている。
学生運動
東洋大学、中央大学、神戸大学、淑徳大学などが拠点校で、これらの班には数十名の同盟員が在籍していた。都学協には20を超える学生班が結集し、70年代中期には学生運動で民青、中核、革マルに次ぐ動員力を持つに至った。社会主義協会系の各種運動では、現在もこの時期に学生運動から育った活動家の姿をみることが多い。
・・・・・・学生運動全般の停滞は社青同にもおよび、80年代以降社青同学生運動は急速に衰退していった。学生層の変化にみあった方針を出せなかったこと、日本共産党や新左翼は学生運動から生まれたり学生運動を主要な基盤としたため組織全体で学生対策を図ったのに対して、社青同には学生運動は労働運動の添え物という意識が学生運動出身者も含めて強くあり、学生班の衰退に組織として危機感がなかったことなどが理由としてあげられよう。このため、90年代後半以降は学協としての活動は行われなくなった。現在も少数の学生同盟員は存在するが、学内での学生運動や社青同における学習活動ではなく、政党の選挙運動に埋没する傾向があり、存在感を発揮する運動は作れていない。
上記の通り私の学生時代に聞きなれた一大勢力であった社青同がいつの間にか消息不明になっていた理由がわかります。
ただし以上は社会的意味がなくなったというだけで、その道のプロ同士にとっては社青同から派生した解放派(武闘系?)に関しては、分裂による内ゲバの激しさで知られているようです。
(具体的事件に感心のある方は、社青同解放派でネット検索してご覧ください)
結果から見ると社青同解放派に限らず全学連諸派(中核、革マルに限らず学生運動ではないですが、連合赤軍を含め過激活動する諸団体)は世論支持を失う→過激主張化→世論支持離れ加速→常識派の組織離れ→過激主張一色→武闘路線内の主導権争い・内ゲバ凄惨化(あさま山荘事件など)→対外武闘路線をさらに強める繰り返し(よど号ハイジャック事件やテルアビブ空港乱射事件など)→世論支持皆無→勢力衰退を招いて行ったような印象です。
この数十年では門外漢から見れば政治目標不明の「単なる違法集団かな?」と思う人が多いのではないでしょうか?