合議制社会とリーダーシップ2

諸外国のまねが正しいとするのが学者等知識人・報道機関の専売特許ですが、その延長で今回の大地震に際して総理の指導力欠如を非難する報道が普通ですが、こうした非難は我が国の社会実態(ボトムアップ形式)に合わずおかしなものです。
非難している本人が指導者に自分の意見を無視して一方的なことをされたら不愉快に思う・・事前相談がなかったと言うことが多いのですから、矛盾した主張をしていることが多いのです。
我が国の意見・・政治決定に対する殆どの反対理由が内容の当否ではなく、菅総理の決定(例えば御前崎原発の停止要請)は唐突だとか事前の根回しがなかった(これでも政治家か?素人っぽい政権だなどの批判)ことを理由とするのですから、指導者の決定に従う諸外国の指導基準を持ってくる論法と合っていないのです。
ここ約1周間の報道では、東電の資料が漸く公開されてみるとせっかく始めた海水注入について,政府に事前相談がなかったことだけを理由に一時中断させられたと言う東電の説明が出てきました。
またちょっと前からナマ臭い話から距離を置くべき(民主党出身の)参議院議長が、公式に管総理の責任を追及する論を張っていましたが、その理由として諫早湾問題は彼の選挙区の問題であるにも関わらず、管総理が事前連絡もなく諫早湾問題の上告を断念したと言うことが気に障っているらしいです。
彼の信念や政治的内容の妥当性よりは、事前連絡がなかったことが主要な理由で敵に回ったりする社会ですから、こういう社会で政治家が指導力の発揮をするには,出過ぎず・・周りの様子を窺いながらホンのちょっと芽を出す程度がやっとです。
突出して自分の意見を発表したり指導力を発揮すると事前相談を受けなかった人はヘソを曲げるし,それが敵に回る大義名分になる社会です。
サミットに関する5月28日の報道でも、関係閣僚も知らない菅総理の突出した意見だとして批判していました。
マスコミが指導力のある政治家を求めるならば、菅発言内容の当否こそ批判の対象であって事前根回しのない発言かどうかを見出しに載せるべきではありません。
(内容に関する意見・論評を避けているのは、マスコミに論評能力・識見がないからでしょうか?)
マスコミにとって総理発言内容・・これから日本の進むべき方向への意見・・内容が支持出来るか出来ないかを明らかにして論陣を張るべきであって,もし支持出来る方向性ならば関係閣僚が総理の指導・指示に従って速やかに対応するように意見を書くべきです。
そのマスコミの意見と違うならば、それを主張すべきであって,これを全く言わないで・・内容の当否よりも根回しがあったか否かを批判のテーマにしているのはマスコミのあり方としても問題です。
根回しの有無にこだわっているマスコミが、一方で総理の指導力を求めているのもおかしな話です。
報道態度を総合するとマスコミの言う指導力とは、密室での根回し能力に帰するようです。
閣僚の合意を取り付けてから発表する方式・・閣僚は官僚が出来ると言うことしか同意しない・・こんなことの繰り返しを指導力と言うマスコミはどうかしています。
これでは新たな時代に迅速に適応するには無理があって国際社会のスピードに追いついて行けないので,この根回し社会からの転換こそが求められているのではないでしょうか?
このために橋本内閣以来,総理権限の強化が進められて来ました。
また行政指導・事前協議の方式から決別して、許認可要件を透明化して先ず実行して行き,司法の場で事後に決着を付ける方式にかなり前から変わっています。
この次に書いて行きますが、我が国の歴史に根付いていた根回し・合議制社会は会社制度の発達で事実上・・トップダウン方式に変容を遂げているのですが、政治の世界でも徐々に根回しに頼る方式を縮小して行くべきだと思っています。
ところで、脱原発その他の大きな政治決断は既得権益が絡むので、ボトムアップ形式では新たな方向への転換が遅くなり、国際社会の動向に遅れますので,指導力が必要ですが、危機管理能力は指導力の問題ではなく事前準備の問題です。
ここをマスコミや世間が誤解して何か大事件があると大統領や総理の危機管理能力が問われたり賞賛されたりしていますが,大きな間違いです。
たとえば、国境侵犯事件が起きた場合、直ちにスクランブル発進して、相手が抵抗したらその次にどうするかについては,予めマニュアルを作り訓練しておいたか否か・・すなわち現場対応力にかかってきます。
危機即応力は大統領や総理の力量とは何の関係もなく、日頃から訓練した現場指揮官の能力です。
何も用意しておかないで総理が一々指示してそれからどの飛行機が出て行くかなど決めてから飛行機に燃料を入れて発進していたのでは間に合いません。
原発危機に際しても手際良くやるには、根回し・・10年単位の時間をかけた手順整備と訓練が必要ですから、これがなかったとすればいきなりの指示しかなく,丁寧な根回しなどやっているヒマがないのは当然です。
要するに危機管理とはトキの政権の問題ではなく歴代政権の積み上げの問題であって,トキの政権の能力を問うようなものではないのです。
原発対応の巧拙は、菅内閣以前の政府や東電が事前に練り上げていた危機管理システムが正しく機能したか否かに帰することになります。
事前に用意していた危機管理システムが機能していれば,格好付けだけのために現地視察して既に決まっている手順を前提に格好よく号令していれば、次々と結果が出て指導力があったと賞賛されることになります。
政治家に本来必要とされている指導力は長期的ビジョンを示してこれに向けて関係機関を指揮して行くことですが,本来の指導力に関係ない短期的処理能力をマスコミは指導力と宣伝していて、本来必要な指導力を発揮しようとすると根回しがないと批判していることになります。

合議制社会とリーダーシップ1

版籍奉還問題に話が大分それてしまいましたが、April 27, 2011「大字小字」2011-5-20「郡司6と国司」等で書きかけていた合意社会に戻ります。
我が国では古来から何事も合議で決めて行く社会でした。
寄り合い・・合議制の我が国では、各種組織や団体には責任者がいても村「長」や市「長」と言う概念がそもそもなかったと思われます。
せいぜい莊屋さんとか名主と言うだけで、村「長」として、何かを号令するような制度設計ではありません。
民主主義かどうかは選出方法に関するシステム論に過ぎませんから、ヒットラーも民主主義の産物ですし、社会主義国の場合、民主主義的選出でも1党独裁ですし、民主主義国の権化のようなアメリカ合衆国でも大統領の権限は強大です。
我が国は水田稲作農業社会でしたので指導者不在・不要でずっと来たので、諸外国とはまるで社会の成り立ち・歴史が違います。
稲作と小麦等畑作・牧畜等との大きな違いは、水田の場合では始まりは小さな谷津田に始まりその内千枚田も出来たでしょうが,戦後の大規模土木工事による土地改良までは,水田は平地でも曲がりくねった地形に合わせた小規模なものが基本であったことによるでしょう。
一望千里と言われる平野部中心になった今の大規模水田の場合でも、水田と水田には僅かに段差があって,一定グループごとに大規模用水からポンプでくみ上げて上(高い方)から順に水を引いて行くやり方は同じ(規模が反歩単位に変わっただけ)です。
ちなみに、大規模水田は(農機具の発達だけではなく)人力によらない大規模な用水工事が出来るようになって可能になったものです。
千葉の場合で言えば,マトモな川がないので遠く離れた利根川から、延々と巨大なパイプラインを引いて,九十九里浜方面まで潤しているのですが,こんなことは人力・スコップ・ツルハシ等で掘り下げて行く戦前にはとても構想すら出来ない大事業でした。
これだけ大量に水を引くには大きな井堰を造ることから必要ですが、昔は大川の本流自体にこんな大規模工事をする技術がなかったことになります。
こういう小刻みな農作業の場合、号令一下何千人が一斉に動くやり方はあり得ません。
最も人手のかかる田植え(機械化以前の千年単位続いた方法)でも、隣・・上の段と下の段の水田では(4〜5枚下になると)水の入り方で田植えの時期が違ってきます。
(戦後の土地改良前の小さな水田の場合直ぐに水がいっぱいになったので数日で5〜6枚の田に水が行き渡ったものですが,それでもその一団の水田所有者達だけが同じような時期に田植えするだけです。
当時(戦後の土地改良以前)は水田の規模が小さかったので,せいぜい家族にちょっと多くした程度の応援を得たグループで,それぞれ自分の水田で一斉に田植えするくらいです。
各農家のいくつかの水田自体が、早く水の入る場所とか遅く入る場所など分かれているので、これにあわせて順番に土を起こしたり・大分土が水に馴染んでから田植えして行けば良いので、一斉に農作業する必要がありません。
応援する方(臨時労働力)も1つの部落の内の農家ごとの田植え時期が少しづつずれているので順次応援に動ける仕組みでした。
これに比較して西洋等の見渡す限りの起伏のある一枚の畑(・・これは水を引かないので水平を保つ必要がないので可能なのです)の社会では一斉に何百人で農作業するのに適しています。
何事も一斉に大規模にやった方が規模の利益があるのは、万事共通ですから規模が大きければ大きいほど良いとする価値社会だったでしょう。
我が国の農作業をする単位は、家族労働に毛の生えたようなものが基本でしたし,水の管理と行っても数十戸単位くらいが適当な単位で戦後の機械化までやって来たので大きな単位は意味がないとする価値社会でした。
土地改良により耕地が大規模化しても、その代わり田植え機械やトラクターなどの機械化が進んだので今でも家族労働で間に合う点は同じですし、千葉の場合で言えば利根川から引いている両総用水からの引水作業も一定数の農家で1つのポンプを利用して順番に水を自分の田に水を引いて行く作業をしています。
戦闘集団もこうした細かい単位の積み重ねで大きくして行く仕組みでした。
刀や槍で戦う時代にはこれでちょうど合っていたのでしょう。
小さな集団で動く社会では,号令は必要がなく季節感やその周囲の空気で動けば自然に行動が一致する社会でずっと来たのです。
音楽の分野で見てもお琴や尺八の合奏あるいは雅楽では、お互いに気を合わせれば良いのであって指揮者が不要です。
小集団と小集団の意思疎通には阿吽の呼吸ばかりではうまく行きませんので気持ちの擦り合わせ・・合議の繰り返しが重視されてきました。
世界中(先進国しか知りませんが・・)で、我が国のように古代から現在まで何もかも合議制で来た民族がないように思えますが・・・。

商業・交易社会とリーダーシップ

 

ところで、日本では有史以来農業が国の基本産業でした(白村江の敗戦以来原則的立場は鎖国状態・・自給自足を原則で来たことを繰り返し書きました・・このDNAが騒ぐので日本の企業は総合型自前主義にこだわって来たのです)から、利害調整・・世話役が幅を利かす社会であったのに対して、モンゴルや匈奴あるいは中央アジア等遊牧系あるいは商品交換社会では、昔から根回し・調節型よりは統率力・リーダーシップが求められていたのは、土地の痩せた地域では自給が不可能ですから、異民族との交換経済・・交易には途中の安全確保その他闘争が本質・必須だったからです。 
交換経済社会・・その前提として通商が必須ですが、気象変動の激しい砂漠の旅・あるいは海路でも瞬時の決断が集団の生死を決めますので、指導者の資質は根回しよりは果敢な決断力が必須の要件です。
日本のように合戦にあたっても軍議を開いてそこで大将が決断する仕組みでは、嵐の迫っている船は帆を下ろすのに間に合わずに嵐に呑まれてしまうでしょう。
商業社会の長かった国では、即断即決向きの国民性が出来上がっているのにたいし、農業社会経験が中心の我が国では出る杭は打たれるし、国民自身自分より優れた指導者の出現を好みません。
ですから優れた指導者の出現を望むには、国民自身の偏った平等意識を変えて行くしかないでしょう。
今後農業国・・食料生産国でも、国際商業活動に参加しない限り生き残れない時代ですから、世界中でどこの集団でも商品交換経済的決断・・リーダーシップが求められる時代になったのです。
リーダーの出現を求めるだけではなく、リーダーに委ねるように国民性自体を変えて行くしかありません。
我が国の企業がいくら技術が優れていると自慢していても、良いものさえ作れば良いと言う農業社会的発想では競争に負ける・・トータル提案力が要求されている時代で、韓国の原子力発電事業輸出にも負け続けているし、多分新幹線輸出でも大分遅れている中国にさえ遅れを取りそうになっているのです。
大リーガーの松井やイチローを見れば分るでしょうが、一定の技術がないと始まり(相手にされ)ませんが、かといって交渉能力・・エージェントがないとやって行けないのが現実です。
我が国では昔から「腕さえよければ良いのだ」と言う職人気質を尊ぶようなところがありますが、そんな偏狭な心や態度では国際競争を勝ち抜けません。

グローバル社会とリーダーシップ

民主党がせっかく政権を獲得した以上は、従来と違った斬新な企画を打ち出してくれるかと期待していたのですが、既得権益の利害調整に手間取って何も出来ないで立ち往生しているのが現状です。
この体たらくを見ると、民主党は駄目・・無能だと落胆している向きが多いと思いますが、これはせっかく政権交代したのに、従来通り利害調整型で運営しているから(国民の多くが利害調整を期待しているままだから)何もできないで右往左往しているばかりになっているのです。
利害調整型で政治を続けるのを期待するなら、自民党の十八番・・得意な方法ですから、あえて民主党に変わる必要がなかったのです。
この立ち往生を打開する方法が見つからずに与野党一致して小沢氏をスケープゴートにしようとしているようですが、現在の民主党政権の立ち往生は小沢問題と何の関係もありません。
何の関係もないと言うのは言い過ぎとしても、国民の期待の多くは、海外競争に遅れを取りつつあるわが国の体制を立て直してほしいと言うことでしょう。
これがうまく行かないので企業流出が続き若者の就職機会が減少して困っているのですから、小沢氏の政治資金報告の虚偽記載を明らかにしても国民の多くが困っている問題の解決には何の関係もないどころか、党内抗争にうつつを抜かしている弊害の方が大きいと思います。
政治の手詰まりから目をそらすために党内抗争をやっているとしたら、政権政党として怠慢そのものです。
そもそも今の政治の停滞は小沢氏が邪魔をしているから起きているのではなく、指導力の欠如によるに過ぎないからです。
自民党が小沢問題を追及するのは民主党の最大勢力を追求して民主党執行部がこれに乗ってくれば民主党内がガタガタになることを狙っているに過ぎず、民主党の政策に協調するためではありません。
大阪城の外堀と埋めるような作戦です。
取捨選択型が必要とすれば、主要テーマについて与党がある分野を切り捨てようとすれば切り捨てられる方が野党に応援を頼む・・与野党の意見対立が必須ですので、与野党一致していて政治が停滞する筈がないのです。
小沢氏を切り捨てようとすることに与野党が一致していると言うことは、政策の違いで彼を切り捨てるのではなく、党内抗争や個人的恨み等の低次元で切り捨てたいと言うだけの動きでしかないことになります。

近代社会と親族の制度化2

 

民法の親族相続編は、このシリーズで書いているように社会保障の代替物として制度化・強化されて来たと見れば、時代精神・・社会のあるべき姿をそのまま反映する傾向があるので、社会意識の変革期には大改正を受けざるを得ません。
財産法関係と親族相続関係は別々の法律が合体した歴史があってこそ、(元々別ですから)価値観の大転換した戦後すぐに第4編5編だけを切り離して全面入れ替えの改正が出来たゆえんです。
ちなみに1〜3編の財産法関係は敗戦にも関連せずちょっとした条文の手直しが時々あっただけで、明治以来のまま現在に至っていて、(2005年4月施行の改正で文語体のカタカナまじり文が口語化されただけです)ここ数年漸く現在社会の取引実態に合わせて大改正しようとする気運が盛り上がって来て(内田貴東大教授が大学を辞めてこれに専念している状況で)改正試案が公表されて、債権者代位権制度や危険負担制度・瑕疵担保など分野別の改正に対する意見を弁護士会その他各分野に求めている段階です。
現行民法制定後約10年以上も経過していても財産法に関してはこんな程度です。
例えば民法で,「借りたものは期限が来たら返さねばならない」「ものを買ったら代金を払う」と言う規定は500年や1000年で変わることはないでしょう。

民法
(売買)
第五百五十五条  売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対してその代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。
(使用貸借)
第五百九十三条  使用貸借は、当事者の一方が無償で使用及び収益をした後に返還をすることを約して相手方からある物を受け取ることによって、その効力を生ずる。

「借りたら返す」「買えば代金を払う」原理自体をいじることなく,借りるにして(友人同士の貸し借りは民法の原理通りですが,高利貸しの場合などは貸金業法や利息制限法の規制があります)も買うにしても割賦販売その他多種多様な複雑な取引形態があるので,これを民法に取り込もうと言うだけで,言うならば民法を複雑化しようとする改正です。
ですから民法制定後110年もたっているのだからと言う理由で大きく変えようとはしているものの、身分法関係の戦後改革のような価値観の転換によるものではなく,技術的な要因によるものがほとんどです。

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