最貧国ほど貧富格差が激しくなる傾向があるのは、有力者が利権収入を得た場合、全体の嵩上げまで出来ずに街全体が貧民街のように貧しくみすぼらしい中に自分の館だけ外国からの輸入品で完成させて一点豪華主義にする傾向が有るからでしょう。
街全体のかさ上げが出来ないので、自分だけで自家用ジェットを持ったりプール付きの邸宅を持つくらいしか出来なかったことが、国内格差の象徴みたいになってしまったように思われます。
30年ほど前まではインフラ全体を輸入することができなかった制約の結果、後進国と先進国とでは町のたたずまいが格段に違っていたのが、海外旅行の楽しみでもありました。
・・中国の改革解放後10年ほど経過した頃に北京へ行ったときは、まだロバが藁を満載した荷車を引いて歩いている風景が有りましたし、昔からの四合院もあちこちに残っていました。
走っているトラックは、我が国で言えば戦争前の古い型のごついものばかりでした。
南方の広州郊外を旅したときには、水路に突き出した厠(まさにかわやです)があちこちに有り、水たまりにはアヒルが泳ぎ水牛中心の水田でした。
その数年前にタイへ旅行したときには、ホテル前の船着き場から船便であちこちを巡るのが普通で、大きな建物と言えば、ホテルや日系デパート、王宮や有名寺院が中心でした。
・・・ここ数十年では中国(上海や北京など)もタイのバンコク・アラブ首長国も皆同じような高層ビルの林立した街・・世界中が似たような市街風景になっています。
それにしても日本の場合、何故支配者が庶民と隔絶した豪奢な生活をしたことがないのでしょうか?
武家政権になってからのことは、質素倹約・質実剛健を旨とする武士の精神が長年日本の精神構造を形作って来たと説明することが可能ですが、質素、簡潔さに美意識を見いだす傾向はそれ以前からの精神構造のようですから(だから武士のモラルにもなれたのです)それは何故か?ということです。
欧米や中国の美意識を足し算の美学とすれば、我が国は俳句に象徴されるように引き算の美学です。
京都の紅葉を見に行くと、京都の庭園の美しさは白砂と白い塀があって、庭園の一隅に一本だけ枝を張っている真っ赤の紅葉の枝振りの決まり方に有って、量に価値が有るのではありません。
和食も量が有ると言えば有りますが、それぞれ一点一点は厳選された逸品を少しずつ出されるのが特徴です。
量にこだわるのは田舎者・田舎料理というランク付けです。
(この点、東福寺は紅葉は量で勝負してるキライ・・決まった枝ブリを愛でるのではなく、量を楽しむだけならばどこの山でも植林すれば出来ます)
カステラでも何でも外国から入って来た嗜好品でも原産地よりも立派なものになっていますし、明治に入って来たに過ぎない歴史の浅い肉食でも、今や日本産の和牛が世界の名品になっています。
日本人は今でも量よりは質の良いものが好きで良いもの・ブランドものには金をかける習慣ですが、長年の歴史がこうした国民性を作り出し、「舶来もの」と言えば超高級品を意味していたのです。
グローバル化によって汎用品を外国で生産して逆輸入するようになると、千年単位で馴染んで来た舶来品の意味が変わってしまいました。
この20年くらい前からは、生活用品に限っては「国産」が品質保証の代名詞になっています。