日本が征韓論を退けて自重していると更に図に乗って江華島沖事件が発生し、日本の抗議に驚いて初めて今度はぺこぺこ外交に転じました。
ぺこぺこ外交の鬱憤晴らしに、名目上の属国から実行支配政策に転じた清朝派遣軍閥の袁世凱と組んだクーデター事件・・壬午事変(1882)がおきます。
江華島沖事件とその後の壬午事変については「日本対中朝対立の始まり2と根深さ」
Published June 20, 2013」以下で書きました。
朝鮮族は昔から相手が強いかどうかだけが基準の国ですから、武力で叶わないと知るとぺこぺこし始めますが、韓国旧勢力は民度向上→国力充実よりは北朝鮮が将軍様の地位保全が最重要課題であるのと同様に自己保身が主要目的でした。
日本の主張するように民主化して国力が充実して王権が弱まるよりは、清朝であれ、ロシアであれどこかの属国に入っても地位を保障さえしてくれれば良いというの(事大主義)が基本精神でした。
それまでは、清朝の名目的な属国に過ぎませんでしたが、江華島事件後日本の近代化要求に対抗するため当初は清朝・袁世凱と組み袁世凱の軍を引き入れ直接支配下に入ります。
このクーデター事件では日本の大使館か公使館を襲撃したので,もしも清朝の支配下にあるとすれば清朝自身の賠償責任や責任者処罰など国際法上の責任追及が必要でした。
袁世凱は責任者処罰しないと実効支配の国際的責任を果たせないことから、壬午事変の朝鮮側の首謀者・国王の父の大院君を清朝領土に名目上拉致し、そこで客死させますが、自ら清朝の直接支配下に入った以上は王の父であろうとも上官である袁世凱による身柄拘束・譴責処分を受けるのは仕方がないことです。
こうした影での反日行動の繰り返しが日清戦争の切っ掛けとなり、日清戦争で清朝が敗北後は裏では今度はミンピがロシアと通じてロシアを引き入れてその属国になろうとしていたのが日露戦争の原因でした。
独立国である限り守旧派の抵抗が続きいつまでも埒があかないので、民度向上を目指す韓国内の愛国者の要望で、直接統治しない限り効果がないとなった・・日韓併合論に発展した経緯があります。
日本は韓国内愛国者の応援要望が強いので仕方なしに介入するようになったのですが、日国内でもそこまで肩入れすることに反対論がありました。
・・暗殺された伊藤博文は反対論者の中心でした・・業績不振企業の買収にはリスクがつきものです。
併合反対論はもちろん韓国内の旧体制護持派でしたので、伊藤博文暗殺者・安重根は、旧体制派の向けた刺客となるのか・・せっかく日本国内の併合反対派の中心人物の暗殺を計るのは、むしろ併合推進派の刺客だったのかよく分りません。
旧体制派の不安を除くために日本政府は,併合後も李氏王朝の王族を日本皇族並み待遇として、特権を失わないようにします。
併合後は周知のように日本は国内投資資金を朝鮮半島に優先して振り向け来たので順次の設立中の旧帝大も国内は一旦中止して先に朝鮮半島に作るなど日本国内の帝大設置が遅れます。
ちなみに旧帝大の設立順序は以下のとおりです。
1886年 東京 1897年 京都 1907年 東北 1911年 九州 1918年 北海道
1924年 京城 1928年 台北 1931年 大阪 1939年 名古屋
日本第二の大都会である大阪の帝大設置の方が植民地支配と非難されているソウルや台北より後になっているのには驚きませんか?
同様に各種資本投資に関してもその後は朝鮮半島優先政策が続きました。
この結果、敗戦当時は朝鮮半島に対する投資の方が国内投資よりは先端的なものが多くなっていたのです。
これほど資本や人材を入れ込んで来た日本に対して、日本が負けたとなると手のひらを返したように日本を何が何でも恨むばかりです。
・・真実は恨んでいるのではなく日本が戦争で負けて弱い立場になったと分れば「恨んでいる」と言えば何をしても何を要求しても日本が受入れるべきだと思っている国・民族です。
韓国にとっては日本が敗戦国になったという1点だけが言いがかりを着け続けるよりどころですので,戦争の当事者でもないのに靖国参拝に目の色変えて騒ぐし軍旗にもケチをつけるのです。
彼らの言う歴史認識というのも、この一点の認識・・敗戦国であることを忘れるなという1点にかかっています。
連合国/アメリカの対日怒りを如何に引き出すかに・・8月20日まで連載した「米軍占領政策1(虎の威を借る狐4)」トラの威を借る点に韓国の関心が集中しています。