家督相続人・法定相続人である限り廃除されなければ相続出来る・・戦後民法改正(現行法)では、従来の家の制度がなくなったとはいえ、身分・血縁関係で相続分が自動的に決まる点は同じで家督相続から均分相続に変った(廃除制度も旧規定と全く同じ)ことくらいです。
戦後家の制度が廃止されたと大きく宣伝されているものの、実際には先祖伝来の家産・・戸主ないし現在の所有者は半永久的な時間が経過・通過して行く一時点での預かり主に過ぎず、次世代に引き継いで行くべき・・管理者的意識を前提にしたものでした。
自然保護・環境問題には、子々孫々にまで受け継いで行く意識は重要ですが、ここでは相続・戸籍制度維持の必要性の観点から書いています。
現在でも生活に困っていない限り、相続して自分で耕さない遠い故郷の農地でも、あるいは無人になってしまった親の住んでいた家でも無駄だから直ぐに売ってしまおうとしない・・抵抗があるのは、先祖から受け継ぎ子孫に繋いで行く意識があるからです。
戦後民法でも遺言(特段の意思表示)がない限り法定相続どおりになってしまうことと、本来遺言で自由に処分出来るべきところ、家の制度・・先祖伝来の世襲財産価値を重く見る立場から、遺留分制度を設けることによって結果的に遺言の自由は原則として半分しかないことは戦前の民法と全く同じ規定です。
ただし、原則と例外の関係に関する規定の仕方から、先ずは遺言があればその通りに100%効力が生じるようにして、一定期間内に遺留分権利者が遺留分権を行使しない限り、遺言で決めた効力のままになってしまうとする規定の仕方によって遺言の効力が守られやすくなっていますので少し(結果は半分になるのですが)自由処分権に比重が置かれていたことになります。
この規定の仕方は、戦前の民法でも同じでした。
(原文の写真については法令全書で見られますので気になる方はご自分でご覧下さい)
いろんな制度があっても積極的に動いた人だけが実現出来るとすると実際に動く人は少ない・・裁判までしようとするとかなりのエネルギーが必要なことから、その権利・受益実現は限定されます。
次男らは全部遺言で貰った兄弟相手に裁判までしにくいので、遺言がそのまま100%効力を維持出来ることが多くなっていました。
争いが起きるのは、主に腹違いの兄弟がいる場合でした。
このように一定の権利が認められても、その実効性は法の規定の仕方によるところが大きいのです。
April 8, 2011「失踪宣告4」までのコラムで失踪宣告の申し立てまでする人は少ないと書いたのと同じことで、何を有効性の原則にするかで法の実際的効果はまるで違ってきます。
この後に書いて行く遺言の有効性に関しても、現行法のように原則的に全部有効としておくのか、一定の場合・・一定年齢以降や施設入居後は一律に無効としておくのかによって、実際上の効果がまるで違ってきます。
ですから、親族相続に関する戦後の大改正と言っても、観念だけで元々何の効果も持っていなかった家の制度をなくしたくらいで、経済的社会的変化を反映させると言う視点での変化は微温的だったことになります。
敗戦当時はまだ個人の能力次第の社会に殆ど変化してなくて、静的な世襲財産の価値・比重が大きい社会であったからでしょうか。
あるいはアメリカの外圧による仕方なしの改革であって、(何とか旧習を温存しようとする勢力の方が強く)明治維新のときのようにこれからの日本社会を積極的に合理化・変えて行こうとする意気込みが全くなかったからかもしれません。
この点では明治31年の民法は当時の社会実態よりはかなり進んでいたことが分ります。
民法典論争時の誰かの意見を読んだ記憶では、「今は進んでいるように見えても今後10年もすれば時代遅れになるのだから・・」と言う意見を読んだことがあります。
現状よりも大分進んだ法律であった分だけ相続意識の実態(子々孫々に承継して行く中継ぎ意識))に合わなかったので、前向き・自由処分の方法としての利用は少なく、(戦後になってもまだ)逆に戦後は世襲制維持のため・・・均分相続制に対する抵抗として長男に全部相続させる方向へ利用されていた程度だったのです。
意識が遅れていたからと言うよりは、その後の経済発展にも拘らず、なお社会全体に占める世襲財産の価値比重が大きかったことによります。
明治創業の世に知られる一代の成功者(財界に限らず政界でも同様でした)は今同様に能力だけで駆け上がった人が多かったので、直ぐに能力社会になると思っていた人が多かった・・これが明治民法の革新的制度の創設理由であった筈です。
ところが皮肉なもので、明治の大成功者自身が「児孫に美田を残さず」と伝えられる西郷隆盛を例外としてほとんどが成功すると自分の子孫に(財閥を筆頭に大中小の成功者・軍人官僚その他みんな親の築いた地位を残して行く方向へ進みました。
今でもそうですが自分の築いた(大小を問わず)資産や地位を出来るだけ自分の子供に残したい本能があるのは否定出来ないでしょう。
残すほどの資産がない人は、進学競争に明け暮れているのも、その本質は同じです。
明治中期以降社会秩序が固定すると世襲制が却って強化されて行ったので明治末頃から、人材の行き詰まりが出て来て第二次世界大戦へ突入すべく、我が国は窮屈な社会になって行った経過を以前書いたことがあります。
西郷隆盛は、西南の役で途中死亡したから「美田を残さず」の伝説が残っているのですが、彼が最後まで中央でいた場合どうなっていたかは分りません。
明治村にある西郷従道邸を見れば、西郷一族自身世襲の恩恵を受けていたことは明らかです。
明治後期以降は明治初めに創業し大成功した人達が財閥化し、その子孫が世襲の地位財産で良い思いをする時代に入って行ったので、遺言の自由化が進まなかったのは当然です。
米軍の空襲によって壊滅的被害を受けた戦後でも、元々の一文無しが創業出来るものではないので、親世代からの世襲の地位財産(仮に100分のⅠに減っていても資本と言えるもの)を利用して飛躍した人が多かったのです。
戦前の財閥企業がそのまま今でも大きな存在であることを見れば分りますが、財閥に限らず大中小の資本を持っていた人が戦後元の事業を再興拡大して行った点は同じです。
ただ、戦後は明治維新当時同様に旧秩序が解体されたので自由競争がし易くなり業者間の競争淘汰が進んだ点が明治末〜昭和前期までとは違って自由闊達な感じになりました。
更に戦後の大きな変革は、ホワイトカラー層の拡大充実があって、中間層の大量出現を見たことです。
中間層とは、能力だけが自分の主たる主たる資産で(だから進学熱が上がるのですが、これも形を変えた世襲化の思想です)世襲出来るほどの資産や地位を持たないけれどもある程度遺産があると言う意味ですから、これらの階層の相続が始まった昭和末頃からは世襲財産から解放されて個人財産化して来たのです。
ここにおいて初めて、遺言制度の改正が必要な時期になった・・制限的制度から積極的に利用し易い制度への変化が求められているようになったと私は考えています。
遺留分に関しては、07/18/03「遺留分13(民法75)(減殺請求権1)」前後のコラムで紹介していますが、もう一度条文だけ紹介しておきましょう。
第八章 遺留分
(遺留分の帰属及びその割合)
第千二十八条 兄弟姉妹以外の相続人は、遺留分として、次の各号に掲げる区分に応じてそれぞれ当該各号に定める割合に相当する額を受ける。
一 直系尊属のみが相続人である場合 被相続人の財産の三分の一
二 前号に掲げる場合以外の場合 被相続人の財産の二分の一
(遺留分の算定)
第千二十九条 遺留分は、被相続人が相続開始の時において有した財産の価額にその贈与した財産の価額を加えた額から債務の全額を控除して、これを算定する。
第千四十二条 減殺の請求権は、遺留分権利者が、相続の開始及び減殺すべき贈与又は遺贈があったことを知った時から一年間行使しないときは、時効によって消滅する。
相続開始の時から十年を経過したときも、同様とする。
上記の通り明治以降現行法まで法定相続を原則にしていて遺言があった時だけ法定相続を修正出来る仕組みですが、世襲制に親和性の高い農業や家業の比重が下がってきた昭和の終わり頃から中間層の相続が始まると相続した人も気楽に遺産を売却して換金化したいと思う人が増えますし、被相続人も自分で稼いで貯めたお金だから、好きな人にやりたいと思う人が増えてきます。
今では数百年前から受け継いで来た資産に頼って生活している人の比重が激減しています。
今の都会人の9割以上の人にとっては、自分の稼いだ分が自己の資産・あるいは自分の築いた能力が生活手段のほとんどを占めている筈です。
こういう時代になれば、自分で築いた地位や資産はその人が自由に処分するのを原則にする・・先祖から引き継いだ資産ではないので、子孫に残して行く義務もない・・遺言で決めて行くのを原則にし、(勿論子供に残したければ遺言で書けば良いのです)遺留分など認めず遺言しない人は遺産の受け手を決める権利を放棄した・・棄権したものとして国庫帰属にして行く方が合理的です。
遺言ですべて決めて行き法定相続人を認めない時代が来れば、血縁関係調査のための記録整備・戸籍簿は不要となります。
その代わり、遺言に関する規制も従来とは違った規制が必要になりますので、これを次回以降に書いて行きます。