行為能力制度と資格の発達1

人としての資格・権利能力は、体の大きさや、性別、体格や頭脳、運動能力による差をつけられませんが、弁護士は国家の決めた試験に合格し訓練を経て弁護士会に登録して弁護士になります。
東大生も東大入試に合格して入学手続きして学籍登録して初めて東大生です。
このように全て、職業につく資格は能力差によって違いが生じますが、これは権利能力の差ではなく、人間としての同じ土台の上での行為能力の差になります。
民法では基本法ですので細かくは決めていませんが、権利の主体であっても赤ちゃんは自分でその権利を享受するための能力がありません。
このように考えていくと一定年齢まで自分で権利を守れない定型的場合を想定してその保護者が必要として行為能力制度設定をしたものと思われます。
ひとつには年齢による画一保護・未成年制度であり、もう一つは年齢を問わない無能力者制度(是非弁別能力欠如)です。
無能力制度は精神病にかこつけた人権侵害がありうるので、専門医の診断が要件になっています。
専門医も聖域化してくると悲惨な事件が起きます。
精神病院の人権侵害事件では、宇都宮病院事件が著名で詳細はウイキペデイアにでています。

1983年4月、食事の内容に不満を漏らした入院患者が看護職員に金属パイプで約20分にわたって乱打され、約4時間後に死亡した。また同年12月にも、見舞いに来た知人に病院の現状を訴えた別の患者が、職員らに殴られ翌日に急死した[2]。
1983年(昭和58年)、宇都宮病院に不法収容されていたA氏が、東京大学医学部附属病院精神科病棟を訪れ、宇都宮病院の内情を暴露し、告発する意志があることを伝えると、東大病院精神病棟内に「宇都宮病院問題担当班」を設置し、弁護士や日本社会党と協力し、朝日新聞社宇都宮支部とも情報交換を行う[23]。A氏の証言がきっかけとなり、入院患者2人について、殺人事件が立証されることになる
精神科病院ゆえの閉鎖病棟や閉鎖性により、上記の実態や患者死亡事件は公にならなかったが、事件の翌年1984年3月14日に、朝日新聞朝刊によって報道され、日本の世論の大きな注目を集め、国会でも精神障害者の人権保障の面から、日本国政府の対応が糾された[3]。地方公共団体の行政(都道府県)による病院監査も不十分であったため、実態の把握ができなかったこと、精神科病院の管理者を筆頭に、病院職員には倫理的な思考能力が欠落していたこと、日本社会の精神科医療に対する理解が、著しく不足していたことも背景としてある[34]。さらに、宇都宮病院には「必要悪」としての社会的存在意義が生じていた。宇都宮病院では、対応困難と見なされた患者を積極的に受け入れ、収容施設の様相を呈していた[37]。
家族間の人間関係の悪化により、措置入院させられてしまう場合もある。前述したA氏は、兄B氏によって措置入院させられてしまった[38]。A氏は、宇都宮病院を告発して民事訴訟を起こしており、1998年10月時点で第1審裁判が続いていた[39]が、2013年11月に死去した[40]。A氏は晩年まで宇都宮病院の廃院を訴えて活動していた。

このあと精神病棟の閉鎖性が改善され、千葉県弁護士会では先進的医療を進めていた病院の見学会を司法修習生対象に長年継続してきました。
今はその延長で、研修先病院を医療観察法制定後千葉県で受け皿主力になっている病院に変え(選択制ですが)研修を継続しています。
この20年前頃から意思能力に問題があるために資産等を守り人間として尊厳ある待遇を受ける必要がある人の大多数が、認知症患者に変わり家族の受け止め方も大きく変わりました。
意思能力に問題がある場合でも、ある程度の能力があるが健全な判断能力に欠ける場合に対する保護は準禁治産宣告でしたが、私が弁護士になった頃には準禁治産者として浪費者のほか瘖唖者などが定型として例示されていましたが、(耳が聞こえなくとも十分な判断力のある方がいます)昭和50年代頃から心身障害の名称を例示せず実質判断で決めるようになっています。

運動の成果

旧民法第11条の改正
1979(昭和54)年までは、ろう者は「準禁治産者(心神耗弱・浪費癖のため、家庭裁判所から禁治産者に準ずる旨の宣告を受けた者。法律の定める重要な財産上の行為についてのみ保佐人の同意を要した。)」と見なされ、住宅ローンの利用や家業を継ぐことも出来ませんでした。連盟の粘り強い運動の結果、1979(昭和54)年に改正されました。

現行民法は以下の通りです。

第十一条 精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、保佐開始の審判をすることができる。ただし、第七条に規定する原因がある者については、この限りでない。

行為能力制度と法の下の平等の関係について
法の下の平等という意味は、結果平等を保障するのではなく同じ能力なら、家柄身分性別等によって差をつけるのが不平等として許さないというだけです。

憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

政争と粛清3(大躍進政策・モンゴル人等の大虐殺)

頭のいい人・秀才から見れば訳のわからない?人を抹殺しないで、グダグダした言い分を根気よく聞いて「納得」の上で進めないと内政はうまく行きません。
民進党の野田元総理が堅い支持基盤を持っているのは見るかに愚直・言葉にならない気持ちを近いしてくれそうな風貌(具体的に知らない大多数にとっては内容もそうだろうという安心感)によるでしょう。
私の持論ですが、秀才が政治運営するのは無理があります。
秀才?理念先行の集団が政権を取ると面倒な利害調整を端折って党内抗争で勝った方が独裁→計画経済=国民に対する問答無用の強制→抵抗勢力・集団・少数民族に対してはまとめてシベリヤへ強制移住・権力内部では猜疑心の再生産になって終わりのない個別政敵粛清に行き着いたものです。
ポルポト政権の大虐殺も中華人民共和国政府がモンゴル族や満州族、チベット族を大量抹殺したのも説得の手間を省く同じ流れでしょう。
チベット族の民族抹殺政策はインドに亡命したダライ・ラマの抵抗によって世界に知られていて、以下紹介する大躍進政策失敗に関するウィキペデイアの解説にもチベット族関係が出ていますが、モンゴル・満州族等に関しては記述がありません・・外部に逃亡しようのない内陸部の満州族やモンゴル族の大量虐殺はもっとひどかったのにまだ一般化していませんが、そのうち一般化して来るでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/によると以下の通り(引用文献名が地道な調査報告でない点が実態そのものか単なる主張に類するものかどうか頼りないですが、)人口の6割も被害を受けていると書かれています。
(追記10月19日日経朝刊6pの中外時報欄に「楊海英静岡大学教授らの研究によれば内モンゴルで文革中に『モンゴル人のジェノサイド』が起きた。ただその実情を伝える情報は中国の内側では封印されている」してとさりげなく触れているように徐々に大手新聞も扱うようになってきました。)

「内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴル-じんみんかくめいとう-しゅくせいじけん)とは、1966年から1976年にかけて、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1
1949年に中華人民共和国が建国されると、内モンゴル自治区には漢民族の大量移住が行われ自治区内におけるモンゴル人の人口比率は大幅に減少した。1960年代になり中ソ対立が顕在化すると「内外モンゴルの統一」を口実にソ連の介入を招きかねない内モンゴルの自治は徹底的な弾圧を受けることとなる。1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[2]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは内人党分子とされたモンゴル人が弾圧された。
こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。
1966年から1976年にかけて中国政府は内モンゴル自治区(南モンゴル)、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、甘粛省、東北三省(満洲)に先住していたモンゴル人に対して「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで70万から80万人を投獄し、5万人から十数万人を殺害した[1][3][4]。これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[4]。」

内政を底上げするには根気よく民度をあげるしかない・「急がば回れ」の諺通りですが、民度アップは強制・恐怖政治では無理ですし・・平和な社会でしか民度が上がりませんから(現在のシリアのように日々生命の危険にさらされていると大人も自己啓発できないだけでなく、次世代の教育すらできません)、暴動や革命による社会の混乱は生活水準・民度アップの目的には反したマイナスの結果を生みます。
受け皿になる社会実態の変化がない以上社会を権力で変えようがないのですから、中国のように何回王朝が倒れても同じ政治形態をとってきたのは実態に即した知恵だったのです。
あたらしいスローガンで政権奪取しても、社会がその段階にない場合や社会が新しいステージに入っていても政治運営経験や能力がなくてその実現能力がない場合には、手っ取り早い政権維持のためにクロムウエルやジャコバンのようにエネルギーを政敵を粛清したり政敵駆逐が片付いて独裁体制が固まると今度はナポレンのように外延拡大に向けることになることを書いてきました。
イワン雷帝以来ロシアは外延拡張政策に突っ走ってきて、民生向上に向けるべき資源を民生に向けられなかったので西欧諸国と生活水準で大きな格差が生じていたことが革命を必要とする原動力であった筈ですが、ロシア革命後利害調整の必要な民政能力のない悲しさで、(レーニンも新経済政策・ネップをやったもののうまく行かず、「1歩前進二歩後退」などと失敗をごまかしていましたが)結果的に後継者は外延重視政策に切り替わって行くしかなかったと思われます。
その結果数千万の餓死者を出しながら穀物輸出をつづけ〜国民不満を抑えるためのスターリンの大粛清政治となり、国内では粛清が怖くて批判できず、民生は縮小均衡の螺旋状態に陥っていました。
この辺は毛沢東の何千万の餓死者を出したと言われる大躍進政策(政権奪取→毛沢東の党内基盤確立後民生向上に踏み出した点は正しかったのですが)とこれに続く文化大革命も同じです。
ウィキペデアによる本日現在の大躍進政策の記事です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

1957年11月6日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。毛沢東共産党主席はこれに触発され、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越す(後に「3年」に「修正」)という、壮大な計画を立案した
しかし、市場原理を無視して、一部の農工業生産指標のみにおいて3年間で米英を追い越すほどのノルマを人民に課し、ずさんな管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。
1959年の7月から8月にかけて、江西省の廬山における会議(廬山会議)において、共産党の要人・国防大臣彭徳懐元帥が大躍進政策の問題点を諫めた。この指摘に対して毛沢東は、労働者を搾取する制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否。彭徳懐は失脚させられた。この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。
また、需要や流通、輸出入やインフラストラクチャーなどを含めたマクロ経済やミクロ経済のメカニズムのみならず、生態系全体のシステムをも完全に無視し、単に数字上の生産目標達成のみを目的とした、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも甚大な被害を招いた。経済のシステムや自然はごく単純な合理思考で改造、操作できると考えてしまったのである。
大躍進政策によるチベットの惨状について
パンチェン・ラマは周恩来首相に改善を求めている[3]。
チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる[3]
また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで[3]、パンチェンラマは次のように書いている[3]。
この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(中略)チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった
政策の結末
毛沢東の主導による大増産キャンペーンが全国で行なわれた結果、生産量を増大させた地方・地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。そして各地の共産党幹部は目先の功を争い、毎年中央に「党の指導で、前年より更にこれだけ飛躍的に生産を拡大させた」と報告し、現実の生産量を過剰申告したり、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が中国全土で横行した。ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量とのギャップは年々広がる一方であった。そして中央政府は、地方から報告された生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。
「地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった」と周恩来に近かった関係者は証言する。飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。また都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている[8]
結局、大躍進政策は数千万人の餓死者を出す、惨憺たる大失敗に終わった。1959年、毛沢東は政策失敗を認めて国家主席を辞任し、実質的な権力を失う。あるデータでは大躍進政策による餓死者数は3,635万人であったという[9]。1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で、劉少奇国家主席は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。

アメリカの自治体4(自然発生的集落の未発達→内政経験未熟1)

日本の場合、例えば青森の三内丸山遺跡はhttp://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/によれば、
「今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。」
「膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。
ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。」
とあるように、これだけ大規模な集落が営まれていた上に、遠隔地でしか取れないヒスイや黒曜石を交易によって入手していたことから見ても(石しか残っていないだけでその他の物品も当然交換していたでしょう)ということは当時すでに周辺諸集落どころか遠隔地とも円滑に交流していたと見るべきでしょう。
原始的集団同士の協調・折り合いさえつけられない・・アメリカではまだうまく解決する知恵がない状態が最近顕在化しています。
各人が言いたいことを言い、協調できない社会・・これを許せないと喧嘩(戦争)していられないから言いっ放しにしておく程度の知恵・・言論の自由論ですが、(アメリカの場合広大な原野にそれぞれ入植し近い集落でも数十キロ以上離れていれば、意見の違いを調整する必要性がなかったし、都市部では隣と付き合う必要がないから近所の人の意見など気にしないで済む面があります)これを多様性を許す社会と言い換えているように見えます。
アメリカが世界をまとめ切れないどころか、国内の近隣自治体間の協調さえできていません。
外敵のために作った国家でしかないから、星条旗(戦争)のために団結できるだけの関係です。
広域自治体ができないで失敗している状況を12日のコラムで引用紹介しましたが、もう一度一その部分だけ引用しますと以下の通りです。
http://www.clair.or.jp/j/forum/series/pdf/h18-1.pdf1

カリフォルニア州の地方自治体について
東海大学政治経済学部政治学科教授牧田 義輝氏
6 カウンティ政府と広域行政
・・・カリフォルニア州同様、アメリカには連合型の広域政府が一例としてない。1960・70 年代に犯罪、福祉、暴動、環境、人種差別問題が大都市問題として噴出したときこれらの問題を解決するために大都市圏総合広域政府の創設の提案が、全米で 100 例以上提案された。
しかし、この種の広域政府は実現していない。」

このようにカナダなどでは多数作られている連合型広域政府でさえ作られない理由は、地方自治体の自治権が強力であることに尽きる。カナダなどの場合、たとえば「トロント大都市圏自治体」の設置のように上位政府である州政府の議決で創設できるのに対し、アメリカの場合は大都市圏広域政府を作る場合に近郊自治体と中心大都市自治体の利害が不一致である場合(人種、経済格差、文化、環境などほとんどが利害対立しているが)住民投票において近郊の多数、中心都市の多数をそれぞれ要件とすることなどによってすべてが挫折したのである。

自然発生的集落から周辺との協調を経て発展してきた社会の場合には、周辺自治体との交流を経て生活習慣が似てくれば、価値観が似ているので必要に応じた話し合い解決の土壌があり、合併・広域化に違和感がありません。
また協調行動も容易ですが、何もない原野の先まで馬で走っていって、そこに国旗を立ててくればそこまで自分の領域と宣言し、まずは周辺を囲ってから内部に習慣の違う民族の移民を進めて集落を作り埋めていくやり方社会との違いです。
内政充実の結果周辺に信用が広がり自然に生活領域が広がって行く・・商売で言えば本店の人材・実力を蓄えてからの周辺支店網拡大の場合安定的です。
あるいは徐々に従業員を増やして行くと従業員が仮りに数千人になっても企業カラーが一体化しますが、大きな企業をM&Aで買収すると社風が10〜20年たっても違ったままになるのと同じです。
外延的伸長に対する関心で急膨張し縄張りだけの急拡大・・1時的に鳴り物入り進出・派手な宣伝で売り上げをあげても、地についていないと何かあると脆いものです。
内部充実を待たずに武力や資金力だけで領域を広げてきた結果、内部住民の福利に対する関心は2の次3の次の社会(自前文化が生まれない外延社会)のもろさがアメリカで出てきたのが治安悪化だと思われます。
アメリカの共和党は軍事力を背景にした外交だけあり、民主党は内政に関心があるがバラまきしか知らないと一般に言われています。
民主党が内政重視と言っても利害調整をしない豊富な資金力を背景したフードスタンプ配布条件の底上げや福祉中心ではまともな国政とは言えません。
今でも後進の地域大国では簡単に外敵に焦点を当てる政治に偏り勝ちなのは、民度が低くて内政充実能力が欠如しているのに対して、周辺國威圧による対外的成果を求める方が簡単だからです。
ロシアもピョートル大帝(領土拡張を重視する人にとっては素晴らしい帝王でしょうが)逆から見れば、国民生活充実・内的発展に使うべきエネルギー(民度が低くてこれにエネルギーを注いでもうまく行かないので)を外延拡張に使ってしまった君主とも言えます。
ロシアは正面の西と南へ(対トルコ)の進出では英仏に阻まれたので誰もいない裏のシベリアに向かうしかなかったのですが、シベリアの大規模な囲い込みに成功した結果、国民の生活向上に使うべき資源を巨大な領土経営資源としてどんどんつぎ込み、内部空洞化→ロシア革命になったものですから、見方によればもともと遅れていたロシア社会後進性維持の元凶になったような人物と評価できます。
今でも広すぎる領土を守るために中露国境だけでも何千キロとあって膨大な国境守備隊が張り付いていると言われます。
ロシア革命で民衆が本来求めていたのは、国土領域拡大や外国に対する主導権を持つことよりは国民の貧しさの克服(・その不満の蓄積)であり、いわばイワン雷帝以来歴代帝政が続けてきた外延的拡張政策の内政重視政策へ方針変更であるべきでした。
イワン雷帝の治績はhttps://jp.rbth.com/arts/2016/10/14/638545によれば以下の通りです。

2、最初のツァーリ(皇帝)になった。
イワンは1547年、成人に達した日に戴冠した。イワン以前にはモスクワ・ルーシの支配者はすべて大公の称号を持っていたが、彼は初めて、ローマ皇帝「カエサル」の名に由来するツァーリ(皇帝)を名乗った。これは西欧の「皇帝」と同じく、その権力が直接、神に起源をもつとされている。
「5、戦争を行った。
イワン雷帝は、国土を拡大しようとして、治世の全期間にわたって戦争した。一方で彼はカザン、アストラハン・ハン国を粉砕して両国をロシアに併合した。彼の時代にヴォルガ川沿岸地方と沿ウラル地方がロシア国家に併合され、広大なシベリア各地の開発が始まった」

ロシア革命に戻りますと、実際に革命当初まず第一にやったのは対ドイツ戦からの離脱であり平和国家を目指したものでしたが、内政に手を出してみるとすぐにどうして良いか分からなくなってしまった印象です。
・・実は利害の錯綜する内政はスローガンだけでは何も進みません・・・実務経験のない革新系政治運動家→運動家であっても、批判してきただけで政治運営の経験がないのでどのように利害をさばいて良いか分からないので無理です・・。
日本の民主党や敗戦直後の片山内閣だけの責任ではありません。
建武の親政を断行した後醍醐天皇が失敗したのも同じことです。
日本の民主党や片山内閣が能力不足を隠すための粛清に走らなかったし、走らせなかった点が我が国の民度の高さです。

李氏朝鮮時代の貨幣経済未発達と日本の土倉2

昨日の引用の続きです。
「李氏朝鮮後期の貨幣
1678年に許積・権大運などの建議によって戸曹・常平庁・賑恤庁・訓練都監に命じて常平通宝を鋳造するようにした。この貨幣は朝鮮末に新式貨幣が鋳造されるまでおよそ2世紀にわたって鋳造発行されたが、その間に鋳銭行政が紊乱したし、朝廷でも各官庁の財政窮乏を救済するために鋳造を許容したので、文武の各官庁でこれを鋳造した。
1866年に興宣大院君は景福宮改築のために当百銭を鋳造した。しかし当百銭は財政難を打開することができず、むしろ物価上昇と大院君の執権体制の危機をもたらした。結局1868年5月に崔益鉉の上疏で当百銭は通用が禁止された。1883年には開化政策に対する費用に充当する目的で当五銭を鋳造し、乱れた通貨政策を整備する目的で常設造弊機関である典圜局を設置した。しかし当五銭もまた名目貨幣価値が実際の流通価値より低かったし、物価も暴騰させた。そして1895年に当五銭もまた通用が禁止された。」
上記のとおり諸外国並みに貨幣発行を試みても社会実態が伴っていないのでその都度挫折していました。
貨幣がマトモニ利用されない社会・・現物しか信用出来ない社会では、紙幣など紙くず扱いでしかなかったでしょう。
1895年時点でさえも折角発行した貨幣を廃止するしかないような状態でしたから、紙幣発行などは夢のまた夢でした・・紙幣は日韓併合前に日本の第一銀行が進出して紙幣を発行したのが始まりです。
こうして見ると日韓併合前から事実上日本の制度がドンドン入っていたことが分ります。
このときからイキナリ近代的紙幣制度が入って行きます。
紙幣発行については以下のとおりです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE#.E6.A6.82.E8.A6.81
「日韓併合以前から、日本の国立銀行である第一銀行韓国総支店が、朝鮮での通貨として1902年から第一銀行券を流通させていた。大韓帝国時代の1909年には第一銀行にかわって中央銀行の韓国銀行が設立され、のち1911年に朝鮮銀行となった」
昨日の引用に戻ります。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88
商業
李氏朝鮮の商業活動は日常生活の必需品を物々交換する程度の経済体制が中心で、広汎な貨幣経済の発達は限定的であった。民間では一般的に場市(市場)を通じて商業活動が行われた。場市は、普通5日ごとに1回ずつ開かれ、農民・漁夫たちが集まって来て品物を交換した。このように期日を定めて市場が開かれたのは、各地方の商業的な発達がなかったためだ。」
「市での取引は、主に生産者と消費者との直接的な接触で成り立ったが、負褓商などの行商人も重要な役目を引き受けていた。これらは、その地方の産物以外の商品を樽が無いので重い甕などに商品を入れ、車が無いため背負子で背負って、苦労して各場市を歩き回りながら売り、同業者たちは中世ヨーロッパのギルド的な性格の同業組合を成していた。」
開化期の経済
「このように前近代的な社会・経済的秩序の中で日朝修好条規(江華島条約)を締結して資本主義各国に門戸を開放しなければならなくなると、すぐに彼らの商品市場・原料供給地に転落することにより、今までの封建的な経済体制は崩壊し、続いて社会に大きな混乱が起きて、次第に植民地への道を踏み出すようになった。」
これを救ったのが日本でした・・もしも日本が介入しなかったら、欧米による東南アジア並みの完全植民地支配下に転落していたでしょう。
ちなみに日韓併合前の朝鮮の産業構造は以下のとおりでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE#.E6.A6.82.E8.A6.81
「ハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートは、研究の結果、李氏朝鮮時代の経済規模は同時代の日本や中国と比べて小さく、当時の商人と後の時代の資本家とのつながりがほとんど無いため、資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、上記のような日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものであると発表している」
上記長々と引用しましたが、李氏朝鮮時代には何らの経済発展もなく、むしろ当初よりも退化して行った歴史のように見えます。
秦帝国成立には、燕が進出しその後方支配地になっていたようですが、その燕が秦に滅ぼされ、漢王朝成立後はその直轄支配を受けた外、中国王朝が代わる都度次々と支配されていましたが、その後高句麗が成立しこれが元の支配下に入った後に李氏朝鮮が成立(1392年)以来、初めて(外部の直接支配を受けない)安定長期支配が始まりました。
この結果、外部刺激の極小化による退化が始まったようです。
子供の頃に遊んだ記憶では、磁石にくっついた釘が次の釘を吸い付ける力があるのを見ると自分で磁力を持ったかのように見えるのと同じで、元の本当の磁力のあるものがなくなるとたちまち磁力をなくして行く社会です。
昨日も書きましたが、自分固有の文化力がないので、いつも外部刺激に頼るしかない・・外部刺激がなくなると元の原始社会に戻るしかないので、いつも支配者が欲しい社会です。
戦後アメリカ支配下になると直ぐにキリスト教徒が爆発的に増える・・今でも英語学習が全盛で自国を棄ててアメリカ移住が最大の願望社会になっていますし・・新支配層にオモネて前支配層をあしざまに罵る社会で節操・信義と言うものが育っていません。
日本の場合、白村江の敗戦・大化の改新以来の鎖国化によって独自文化発展を見たのですが、朝鮮では逆の現象が起きたようです。
この退化し切ったときに西洋文化が怒濤のように押し寄せたので、ワケが分らなくなっていたと見るのが妥当でしょう。
平安時代には既に源平の組織化された武士団がいましたし、鎌倉末期の文永の役(1274年)、2度目の弘安の役(1281年)の蒙古襲来時には国をあげて戦うべき武士がいましたが、その武士すらもまだ生まれていない状態を想像して下さい・・。
高句麗は世界通商国家であるモンゴルに征服されていましたので、日本より早く貨幣が入っていた筈ですが、日本では貨幣が入るとこれを利用した土倉〜金融業として経験を積み、社会全体が信用取引社会に発展していったのに対して、朝鮮ではモンゴル支配から脱すると先祖帰りを始めて・・退化して行く一方だったことになります。
日本にはモンゴル撃退・外敵と戦うべき兵力があっただけではなく、実務に携わる合理的実務家が既にいろんな分野で生まれていたのに対して、朝鮮半島ではまだこう言う実務家が生まれていなかった点が大きな違いです・・。
この差が拡大する一方で朝鮮族は明治維新の開化時代を迎えたので、右往左往するばかりでマトモに欧米列強に対応することが出来なかったのです。

事後審査社会→訴訟と保険の発達2

入国審査その他行政の仕事は(ちょっとした届けで市役所に行ったら受け付けてくれないレベル)いい加減で良い・・不満な人は弁護士に頼んで裁判すればいいと言うのでは困ります。
現在の国際競争で言えば、製品不良率の多少・・歩留まり率こそが商品価値の差です。
発火事故のあったサムスン製スマホで言えば、「発火したら取り替えます」では誰も買わないでしょう。
アメリカ製造業衰退の基礎原因は相手国の不公正障壁によるのではなく、「後で司法救済を受ければ良い」と言う政治が象徴しているように良いものを努力して作る習慣がない・・「粗雑・粗悪品」で何が悪い・・クレームがあれば後で治せば良いと言う価値観・習慣によると見るべきです。
アメリカのベルトコンンベアー方式の発明は緻密作業に適応出来ない・民度レベルの開き直りであったことを書いて来ました。
この延長で、ドンドンと作業分化・簡略化が進み結果的に、未熟練工でも役に立つ・・新興国への工場移転に繋がったことも書いてきました。
これの道徳的裏付け・正義論が・・不良品前提の事後審査制度であり、この両輪が今のアメリカ経済斜陽化に繋がっていることを、Jan 22, 2017「新興国台頭と日本の進むべき道2」以来書いて来ました。
日本でも外車輸入が伸びているのにアメリカ車だけ負けている事実が国際競争力低下を物語っています。
大統領令が無茶苦茶でも兎も角出れば有効(ここではトランプ大統領令が無茶苦茶というのではなく一般の大統領令を書いています。)・・被害を受けた国民が後で裁判して救済を受けるしかない事後審査制度では、強い者勝ちの社会になります。
アメリカで警官による射殺事件が多いのは、犯罪者に射たれるのを待っていて、うたれたら相手を殺人犯で検挙してくれるのでは間に合わない・法の支配など待っていられない・・「早い者勝ち」の論理・・正義感があるからです。
アメリカ流の粗雑社会とセットの事後審査主義のあり方を世界が支持しているかと言えば、製品市場でアメリカ製品が負け続けている結果を見れば世界は粗悪品→事後審査よりは、事前に安全な検査したものを求めていることが分ります。
政府・大統領令が間違っていれば裁判すれば良いと言われても、戦時中に日系人は違法に?強制収用されても実際に裁判出来ませんでしたし、今回の入国禁止令でも対象になる7カ国出身米国人自身が抗議の動きすら(怖くて)出来ていません。
化粧品その他での被害者が1000人いても実際に裁判出来る人は滅多にいない・・この救済のために懲罰的損害賠償制度が発達しましたが、資力のない人が泣き寝入りするしかない現実を無視出来ません。
2月4日に移民概念の紹介でアメリカ法律事務所の移民制度の説明を紹介しましたが、その説明文には「移民手続に精通した弁護士に依頼しましょう」と言う案内が一杯出て来ます。
そうすれば「入国審査でのトラブルにすぐに対応します」と言う案内です。
と言うことは、弁護士次第で釈放されたり、されなかったりする社会・・日本では補助金その他いろんな申請するのに弁護士がついて行かなくとも、とおるべきものは通る・・間違いないのが前提です。
役所の窓口でダメだったものが弁護士を頼んでも、役所滅多にないミスがあったときだけですから、100に1も助からない・・99・9%の有罪率と同じ・・お上を信用している社会です。
アメリカでは弁護士を頼んでおけば、100のうち99助かる・・逆から言えば弁護士なしにうっかり空港にも行けない恐るべき社会です。
国民にとっては被害がしょっちゅうあって,その後に裁判出来るよりもお上にしっかりしてもらって、被害のない・少ない・・弁護士に頼む必要が少ない社会が良いのが日本人の意識・・正義感です。
日本では、訴えられるべき役所や企業の方が弁護士をつけて欲しいと言う逆の現象が起きています。
クレームを付けられている役所や企業の方が、正しいことをしている自信があるからです。
損害保険に弁護士保険が普及したのもこの延長で、業界として保険会社側だけ弁護士がつくよりは、被害者側にも弁護士がついた方が無茶言われないメリットがあります。
・・弁護士同士だと訴訟前の示談成立率が高くなるので、訴訟事件が減って却って保険会社の顧問弁護士に払うコストが低くなるメリットがある上に弁護士付き保険として割り増し保険料を取れるプラスがあります。
日本ではお上に対する不信感が低い上に役所や企業から説明されても理解し切れない人も、弁護士の論理的説明に納得する人が多いことにもよります。
ただ一定のモノ分りの悪い人、保険で弁護士料が出る・・お金の負担がないことから、「負けても良いから裁判してくれ」と言うモラルハザードもあって、これが最近弁護士にとって苦痛になっているようです(保険関係の弁護士の話)。
「お金が保険から出るから・・」と言われても、負けるに決まっている無茶な主張をしたくないので困るのです。
いくら保険が完備していても、強盗や殺人被害がない方が良い・・服部君事件でも分るように子供の訪問でも強盗と間違って銃で撃つような・不安に怯えて暮らしている・ピリピリした社会が理想ではありません。
自衛のために銃を所持なければならないとすれば、アメリカは法治国家ではあるが、法が行き渡らない・治安の悪いクニではないでしょうか?
道徳教育としては、何をしても後で捕まらなければ良い・・裁判で有罪にさえならなければ良いと言うことになりませんか?
裁判になっても腕利きの弁護士を頼めるかどうかによって結果も変わって来る社会って日本人からすれば不思議です。
賄賂や、コネで結果が変わるのとどう違うのか・・実質賭博行為でも公営競馬などなら犯罪ではないと言うのに似ています。
自助努力次第と言えば聞こえが良いですが、裁判する資力のない人には法が(あまねく)行き渡らない法治国家と言う表現は言語矛盾です。
日本は昔から厳しい法がなくとも、むやみに争わず自発的に道路や畑を綺麗にし,犯罪の少ない社会です。
アメリカの法治主義とは、法に頼るよりは各自が銃をもって自衛しろと言うことにつながります。
「法の支配」は権力から人民を守るためにあると言われて来ましたが、国民を守るための法秩序が実は頼りにならないとすれば,法制定権力・・政府への信頼が失われ・・ひいては共同体自体への信頼も失い・常時自分で銃を持っているしかなくなる・役所へ行くのに弁護士同行しないと不安な社会です。
どこの世界でも治安維持こそが権力維持の基礎と言われる所以で,治安を維持出来ない権力は国民の信を受けていないことと同義です。
屈強な護衛を連れて歩けば,目の見える範囲・・数十〜数百メートル四方に威令が行き届くでしょうが,見えないところであかんべエをされている人と,護衛が多くいらないし威張らないが,見えないところでも尊敬されている人ではどちらの方が威令が遠く,多くに届いているかの違いです。
この意味ではトランプ氏は何事もみんな自分でやらないと気が済まない・・一見華々しいですが,逆から見ると間接的に多くを動かす能力が不足している・・まだ組織化されていないだけか?ように見えます。
アメリカに限らず政府の仕事は多種多様・複雑ですから、目に見えないところで実直に働く人に支えられないと政治が回って行かなくなります。

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