異民族直接支配→植民地支配でない?

レーニンの帝国主義論では資本主義の最終段階では植民地獲得のために列強間の帝国主義戦争が不可避と言うようですが、中国を見ればわかるように共産主義国家でも市場は必要でしょう。
共産主義だろうが資本主義だろうが、現近代社会では原始的(直接的)物々交換はあり得ないので貨幣利用は不可避です。
ソ連人も洋服を着るし本も読む、暖房用の石炭石油を燃やすしストーブや建物(建築業者)も必要ですし、強大な戦車群を擁していましたが、これらは分業なくして成り立ちません。
分業あるところに商品交換が不可避ですので、生産者は少しでも多く生産したいし媒介者・商人も必須です。
交換あるところに市場(築地市場のような物理的な場でなく為替取引のような実質的意味)が成立するのですから、顧客獲得競争が起きるのは必然です。
その販路が国内だけか国外に販路が広がっているかいないか(国際競争力の有無)によって資本主義の必然と名付けて非難しているだけのことではないでしょうか?
いわば「国外との交易が悪」と言う結果ですが、この論理を応用して中国やロシアは、異民族を直接支配にすれば国内市場であって植民地支配ではないというロジックに頼ってきたようです。
ソ連は内部に百とも言われる異民族を抱える他、第二次世界大戦後東欧諸国を支配下に置くとコメコンという経済共同体を組織して事実上自国市場に取り込みました。
民族数に関して1989年ソ連国勢調査がウキペデイア(本日現在)に出ているので見ると民族構成項目に民族別人口が出てますが、数えて見ると民族名が60まで出ていてそれ以外は「その他」となっています。
言語面の論文がみつかったので以下引用します。
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/46/shiokawa/shiokawa1.html</b交換あるところに市場(築地市場のような物理的な場でなく為替取引のような実質的意味)が成立するのですから、顧客獲得競争が起きるのは必然です。

ソ連言語政策史再考
Copyright (C) 1999 by Slavic Research Center,Hokkaido University.
本論に先立って、ソ連の民族政策-その一環としての言語政策-への視点について簡単に述べておきたい。
ソ連の民族政策-その一環としての言語政策-への視点について簡単に述べておきたい。
ソ連が「帝国」の一種だという指摘は、かつては政権によって強く否定され、ごく少数の人によって提起される異論という性格を帯びていたが、ペレストロイカおよびソ連解体以降、急速に広まり、むしろ通説と化した。
・・・・ソヴェト政権は諸民族の平等や民族自決の原理を掲げ、特定民族の優越性ではなく全人類的普遍性に基礎をおく理念によって自己を正統化した政権だった。
もちろん、現実の力関係としてはロシア人が圧倒的優位に立っていたが、建前の世界では、他の諸民族とロシア人とは平等とされ、いくつかの民族には名目にもせよ「主権国家」が与えられた。
象徴的なこととして、ソ連の正式名称「ソヴェト社会主義共和国連邦」には「ロシア」を示唆するような地名・民族名が含まれず、理論的には地上のどこにでも当てはまるような呼称となっていた。
そしてまた、ソヴェト政権は、少なくとも公的な建前としては、ロシア以外の民族文化・言語の振興政策や、かつて「後進的」とされていた諸民族に対するアファーマティヴ・アクション(積極的格差是正措置)的な政策をとっていた。
そうした理念と現実とが著しく乖離していたことは、今日、誰もが認めるところだが、そこから、単純にその建前は空疎な虚言だったと片づけるのでは、その特異性が明らかにならない。
・・・ロシア語は正規に「国家語」「公用語」という法的位置づけを与えられることはなかったが、共通語となることは暗黙に当然視されていた。
レーニンは、少数民族に民族自決権を与えれば彼らはそれを行使しないだろうと期待したが(19)、それと同様に、ロシア語の法的押しつけをやめれば自然にロシア語が普及し、共通語になるだろうと想定していたのである
(3) スターリン時代
政策転換の第三の要素として、共通語としてのロシア語の強調がある。
1920年代から30年代前半にかけては、前述のように、ロシア語を特に押しつけなくても自然に広まるだろうとの楽観論が支配的だったが、その楽観論が破れたとき、法的な義務化の発想が登場した。ロシア語教育義務化に関する1938年3月13日の党中央委員会・人民委員会議共同決定がそれを代表する(36

ちょっと前まではソ連の東欧諸国支配の仕組み・コメコンとセットになった軍事組織ワルシャワ条約機構は大人の常識でしたが、ソ連崩壊後30年近く経過して歴史の彼方になったので念のために紹介しておきます。
ソ連が第二次世界大戦後占領した衛星国?支配の名称・・コメコンに関してはウイキペデイアによれば以下の通りです。

第二次世界大戦後に、アメリカ合衆国政府が行ったマーシャル・プランに対抗して設立された。
成立から1954年の第4回総会までの期間は、ソ連を中心とした外国貿易推進機関の性格が強く、加盟東欧諸国からソ連が一方的に利益を搾取していると批判されていたが、1956年の東欧動乱をきっかけに、ソ連は東欧諸国との経済関係の再構築に取り組んだ。
当初加盟国は、ソビエト連邦、ポーランド、チェコスロバキア[1]、ハンガリー、ルーマニア[2]、ブルガリアの6ヶ国。ひと月遅れてアルバニア[3]が加盟した。その後、1950年に東ドイツ、1962年にモンゴル、1972年にキューバ、1978年にベトナムが加盟した。一方1962年にはアルバニアが事実上脱退。最終的に加盟国は10ヶ国になった。
この他に、ユーゴスラビアが準加盟国、フィンランド、イラク、メキシコが非社会主義協力国、その他にもアンゴラ、エチオピア、南イエメン、モザンビーク、ラオスがオブザーバーの地位にあった。また中華人民共和国、北朝鮮もオブザーバーを送っていたが、中華人民共和国は中ソ対立の影響により、北朝鮮はチュチェ(主体)思想に基づいた独自の社会主義路線を取ったことにより、両国ともに62年を最後に会議に参加しなくなった[4]。
1989年の冷戦終結に伴って東欧革命が始まり、1991年6月に解散した。

異民族と価値観分裂2→横断的価値共通

新興国ではそれまで裸足で歩いていたような庶民が徐々に大手企業の工員・・準中間層に育って来ると、何千人の工場に僅かしかいない大卒幹部に憧れて子供に学歴をつけさせる動きが始まります。
こうして韓国でも中国でも膨大な大卒が生まれているのですが、幹部の必要性が急膨張する訳がないので中韓共に大卒の就職難・・中国で有名な蟻族が生まれるようになります。
取り残された内陸部と成長した沿海部の格差よりは、大卒の不満の方が社会不安のマグマとして大きいように見えます。
生産技術の単純化により未熟練労働者でも物を作れる→先進国では工場の海外移転で中間層や管理職がその分不要になって行く・・他方で大卒の中で研究員や金融等にレベルアップ出来るのはホンの一握りですから、先進国、中進国、新興国を問わず、世界中で大卒過剰時代の到来・これがチュニジアその他世界中で不満層の拡大・・混乱の芽になっています。
格差社会とは言い得て妙ですが、グロ−バリズムによって先進国では潤う人材はホンの一握りであって、20世紀の中間層の多くはグロ−バリズムによる恩恵がないどころか、逆に無用化してふるい落とされる対象にされてきました。
従来中国の急激な発展が生み出す格差危機到来をマスコミが指摘していましたが、新興国ではせっかく苦労して子供を大学にやったのに上流階層へアップする夢が実現できないだけに比べて、先進国では既存の地位からの脱落ですからより打撃が大きかったことになります。
アップルの大成功を見れば分りますが、アメリカ人自体の関与は全世界従業員の内でホンの僅かです。
20世紀に隆盛を誇ったGEの家電等製造を中心としていたときの国内製造業従業員数と比較すれば明らかです。
変化に比例して流れ作業向け人員や中間管理職も大幅に減ってます。
日本の場合欧米や中韓と違い、エリートはゴルフなどをして遊んでいる階級ではなく率先して働く社会ですから、海外工場や店舗進出すると、現地指導要員等の需要や国際的マネジメント需要などがあって、むしろ管理職候補が足りないくらいで国際化進展によるダメージは殆どありません。
(追記ですが、偶然今日の日経夕刊トップに管理職の中途採用枠を大量に増やしている→不足状況が出ています)
今朝か昨日の日経新聞では、クルマの黒字増加は、輸出台数が減っても高級車輸出にシフトしているからだと言う解説が出ていました。
同じクルマでも高級車にシフトすると熟練工の需要比率が上がります。
農産品も高級化して輸出品になって来ると熟練の技が必要です。
大卒というだけで高給を得ていたエリートの地位低下の激しいのはエリートと人民の階級差を前提とする欧米社会のことで、このの受け売りで「格差社会反対」と言っても、日本ではみんな幸せに働いているのでピンと来ないのです。
PC(政治禁句)が何故広がったか?国際資本がグローバル化を進めるには異民族混合雇用が必須・これの批判を封じる必要、ヘイトスピーチ等として厳しく批判し、マスコミ等が「ヘイト」として洪水のような批判をしては、政治生命を抹殺する必要があったからです。
イギリスのEU離脱に対しては金融機関職員が自由に欧州へ出張出来ないのではないかと言う心配が頻りに報道されています。
ロンドンから金融機関が逃げるのではないかと言うのが一般的推測ですが、金融業者にとっては出入国の自由度に死活的重要性があることを表しているのでしょう。
アメリカは移民社会であり、しかも次々と入って来ることから、民族一体感に基づく共通価値が弱いことを書いて来ました。
最近PC(ヘイトスピーチなどの政治禁句)が何故批判されるようになったか・・・・アメリカでは、多民族社会のために民族的一体感に基づく正義感を縦割り的に見れば分裂しているとは言え、横断的に見ればある程度の最大公約数があるはずです。
その最大公約数としては、最近グロ−バリストによるPC(政治禁句)が行き過ぎていたことによる反発蓄積があるでしょう。
グローバル化による被害を受けているアメリカ国民大多数の不満は、民族縦割りではなく多民族横断的に起きていることに注目する必要があります。
ドンド入って来る新参者に職を奪われるのは白人だけではなく、ヒスパニックも黒人も既存住民に取っては共通の不満です。
雇用が失われる不安・・これが民族の壁を乗り越える民族横断的最大公約数になっているとみれば、トランプ旋風の原動力は少なくとも現にアメリカにいる人(・・この範囲は国籍のあるもの、グリ−ンカードのある者など細かく分かれますが)の雇用を守り幸福を考える政治をして欲しいと言うものだったのではないでしょうか?
この程度の主張・価値観の主張、括りならば、民族別の縦割りの壁乗り越えが可能です・・この最大公約数(マスコミの良いう人種差別キャンペインとは対局です)をトランプ氏が掌握したようにみえます。
トランプ氏の主張では、新たな正義が見え難い・・まだ見えないと書いて来ましたが、グローバリズム反対、雇用を守る点と言う公約数では、はっきりしているしその手始めに入国制限を始めたとすれば、一貫しています。
グロ−バリズは既にがっちりと国際秩序を形成してしまっているので、どうやってぶちこわして行くか・・成功するか失敗するかはすぐには分らない・・むしろ直線的成功はないと思って時間をかけて見守るしかないでしょう。
憲法論に戻りますと、今回の入国禁止措置が違憲か否かで司法の場で揉めていますが、戦時中に米国籍を持っていたのに日系と言うだけで強制収用したのは、文字どおり米国人の人権を侵害し違憲だったことになります。
憲法では国民の国籍離脱の自由があるだけであって、外国人をどう言う基準で受入れるかについては主権国家の裁量です。
憲法
第二十二条  何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
○2  何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
上記は、日本の憲法であって日本国籍を有する者の人権保障を書いたものであって、外国人が自由に出入りするのを日本政府が保障したものでないことは誰が考えても明らかでしょう。
そうとすれば、今回のアメリカの訴訟騒ぎは外国人の入国をどう言う基準で「認めるか拒否する」かですから、日本で言えば出入国管理法の違反運用を理由に裁決取り消しにはなっても、憲法違反がテーマになりません。
アメリカの憲法で外国人の入国自由権が保障されているなら別ですが、一般的には法にしたがって出入出来ると言う規定がある程度でしょう。
ところが、アメリカでは、これまで書いて来たように後で出来た大統領令が既存法に優越するとすれば、大統領令が既存法に反していると言う主張が出来ない・・法律違反の主張が出来ないことになるので、憲法違反しか法的には争えないことになります。
だから憲法違反で争っているのでしょうが、いくらアメリカでも外国人に入国の権利を憲法上無制限に認めているとは、到底想定出来ません。
これまでの差し止め決定は、立法の裁量範囲としても、特定国人だけ禁止するのは裁量範囲を越えていると言う論理なのでしょうか?
これに対しトラン政権では7カ国はオバマ政権のときから指定されていたと言う反論になっているのでしょう。
新規入国禁止だけではなくアメリカのグリーンカード保持者さえも再入国禁止されているようですから、海外出張していた人が再入国出来ない・・アメリカにいる家族と一生会えないと人権問題になる・・報道だけでは見えませんので見守るしかありません。
民主党系は憲法違反に持ち込みたいし、共和党系では「外国人には憲法上の権利がない」ここまでは立法?裁量の範囲内となるのでしょうか?
報道では多くの州政府が意見書を出しているらしいですが、入国禁止措置が州経済活動にどれだけのマイナス影響を及ぼしているかの意見は、本来政治論であって憲法論とは関係のないことですが、政党色の強い裁判官には影響力があるのでしょうか。
憲法論はアメリカ人に任せるとして、トランプ氏の既存秩序への挑戦・・特に二国間協定の押しつけは日本に大きな影響があるので日本では大きな心配のタネです。
グローバル化からの脱却が始まると日本にも大きな影響がありますので、トランプ氏が国内経済や国際経済をどのように構想しているかが見えない不安ですが、それは追々発表して行く流れで見て行くしかありません。
一般の国内政治でも国際波及効果を無視出来ませんが、ましてグローバル化反対政策となれば国内外一体的解決が必須ですが、規模が大きい分に比例して反作用も大きくなり、困難・行きつ戻りつの紆余曲折が予想されます。
フランス革命、イギリス2度の革命・アメリカのボストン茶事件、明治維新でも、全て前もって筋書きが決まっていたことはありません。
フランス革命の例を見ても、いろんな体制変更があって落ち着くまで長期間を要していますから、5年や十年で落ちつかないからと言って必ずしも時代錯誤の運動とは言えません。
既存秩序を前提にすると部分的改善案の場合、提案者は起承転結全て論理的説明する必要がありますが、世界的な秩序転換が始まる場合には始めから何もかも整合的な説明を期待するのは無理があります。
5〜10年は先の見えない無秩序・混沌時代が続く覚悟・・日本がうまく生き抜いて行くには手探りの応用力が求められます。
混沌時代が来ると、過去の学習に得意な秀才ではどうして良いか不明で出番がなくなるので、エリートほど必死の反対をするしかないでしょうが、既存秩序をぶちこわそうとしている相手に既存秩序に矛盾すると批判していてもかみ合っていません。
この際大規模に既存秩序変革を選択するかどうかは裁判所ではなく選挙、民意で決めるべきです。
今回の選挙の洗礼を受けていない各州知事の意見の多数で決めるのでは、大統領戦の結果を無視することになりそうですが、アメリカ国民が決めることです。

大統領令5(民主主義制度と民度)

トランプ大統領の課税アップ宣言・その実行するための大統領令の国内法的側面に戻ります。
幾多の革命が課税を巡って起きたことで知られるとおり欧米では,課税権は議会の絶対に譲れない専権事項・・正義とおしえられて来ました。
我が国でも租税法律主義と言って行政府には課税権がありません。
フランス革命以降、法がない限り人権制約出来ない仕組みを持つことが近代国家と言えるための基本とおしえられて来ました・・これも先進国の共通価値観です。
憲法
十八条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第三十条  国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
関税引き上げによる究極の影響を受けるのは外国の輸出業者,・・例えばメキシコや中国ですので、国民相手ではなく対外行為だから国民の人権に関係ないからトランプ氏がイキナリ無茶出来るのだと思っている方が多いと思われますが,実は関税を納税するのはアメリカ国内輸入(業)者です。
以下のとおり,日本法で言えば関税納付義務者は輸入者・国民ないし内国企業ですし、この原理はどこのクニでも同じでしょう。
※消費税で考えれば分りますが、消費者が納めるべきと言ってもパンや牛乳を買った個々の消費者から具体的に徴収する方法がないので、業者が代わって納付義務を負うのが法の原則です。
輸出した外国人相手に「払え」と言っても(トヨタなどアメリカに進出している大手は別として外国に住んでいる個人的輸出業者相手に)取りようがありません。
輸入者に負担があると、喩えば国内企業からの仕入れ商品より1割安いから輸入している場合,関税で2割取られると仕入れが割高になるので結果的に輸入が減る結果、実質的輸出が減る・・対外標的の政治問題になっているのですが,法的には国民に対する課税強化です。
国民に対する課税強化が国会無視・・大統領令だけで決められるとすれば・課税法律主義の原理に正面から反します。
関税法(昭和二十九年四月二日法律第六十一号)
(納税義務者)
第六条  関税は、この法律又は関税定率法 その他関税に関する法律に別段の規定がある場合を除く外、貨物を輸入する者が、これを納める義務がある。」
実際の被害を受けるのは外国ですから、国民の反対がないと見込んでいる・・国内多数であれば何をして良いかの議論の一場面です。
july 16, 2013「民意に基づく政治4(大統領制と議院内閣制3)」前後で大統領制は選任手続を世襲から選挙にしただけでその後は一任支配を前提にした社会・・個々の政治テーマで民意を聞くとまとまらない社会に妥当する制度だと言うことを連載したことがあります。
日本では、法や憲法がないときから・・古代から何事もムラ社会では寄り合いで納得の上で決めて行く社会ですが,PC(きれいごととして)だけで民意重視必要と習っただけの社会・・実際の納得を前提にしていない社会では、合意形成が形式に流れ勝ちです。
投票箱民主義と揶揄される所以です。
民族共同体意識の確立されていない社会で・・PC(きれいごと)流行批判を2月4日に紹介しましたが、形式的人権擁護論だけでは解決で来ません。
合意で政治をする・本当の意味の民主主義社会になり切れていない・投票箱民主主義社会の底の浅さが大統領令の乱用・・亡霊が出て来ることによって露呈します。
現在社会でしかも世界の指導国を任じていたアメリカで,こう言う専制的命令が(トランプ氏個人資質の問題ではなく,クリントン政権もそうでしたし)過去の積み上げた法令無視で自由自在・・専制君主並みに大統領令が出て来て・・しかもPC・偽善的表現を棄てて猛威を振るい始めた・・アメリカ社会の本音が出て来たことに驚いているのが世界の現状です。
本音と言うより、これが本当のレベルだったのです。
どんな立派な制度があってもそれを運用する能力・・構成員の多くが心の底からみんなの意見や気持を尊重するかどうかは民度次第と言うことでしょう。
「仏作って魂入れず」の状況です。
ナチスも、民主主義・ワイマール憲法下で委任立法制度の悪用で猛威を振るったものでしたし、ソ連のスターリンの独裁・恐怖政治も下部組織から順に持ち上がる形式主義を悪用したものでした。
大学自治会やその他組織で意見集約行為が形式に堕して一握りの活動家が私物化してしまったのは、構成員の未熟性に帰すると思われます。
大学生程度では、まだ自主運営するには十分成熟していないから「形式論・・多数決さえ取れば良い」だろうと反対論を無視することの繰り返しで誰も参加しなくなる・・反対者が減る一方でドンドン尖鋭化します。
学生自治会の場合参加しなければ良いのですが、逃げることが出来ない国民・・・これを国家規模で貫徹し収容所列島にしてしまったのがソ連の民主主義でした。
人民みんなが声を上げてデモ出来るわけではない・・政治に携わる人は、文字どおり声なき声を十分斟酌・忖度しながら政治をする度量が必要です。
アメリカで、歴代大統領が自制して来た大統領令の濫発をトランプ氏が始めた・・しかも過去に蓄積して来た人類の智恵・・各種国際合意全部について「ちゃぶ台返し」のように全面否定する選挙スローガンを掲げ、政権につくとそのまま実行し始めた・・しかも法的にこれにブレーキをかけるのは司法権しかないのでは驚きです。
司法権による救済は国内人権侵害対応しかしない・・国際合意・・国際的正義の破棄には何ら権限もないので、被害国としては押し止める力があるかどうかだけで、相手に抵抗する力がない場合、暴走しっぱなしになります。
これではまさに中国やロシアのやりたい放題の仲間入りです。
トランプ氏は、今後世界の指導国の地位・国際的に歴史上形成されて来た正義・・格好付けを放棄して横暴・・やりたい放題やると言う主義主張のようにみえますが・・。
これはアメリカ人(ピープル)レベル低く、いわゆるPC(政治禁句・きれいごと)政治について行けない・・疲れたことによります。
成金が上流社会に参加してみて複雑な礼儀作法に疲れ切った状態に似ています。
自由主義の本家グローバリズム・・金融等業務では成功している・・尤も恩恵を受けているアメリカとイギリスがそろって移民反対に転じた理由は、グローバル化成功しているからこそ早過ぎる進行速度について行けない一般国民の不満が大きくなったと見るべきです。
急激な高度成長する新興国で、ついて行けない階層とのギャップが大きくなるのが普通ですが、新興国では底辺層の工員等現場系の仕事から増える関係で恩恵を受ける層が厚く大きな社会問題になりません。
格差といっても農村に残っていて都市労働者になり損ねる不満とこれまで得ていた地位喪失の不満とは質が違います。
高度成長期に農村に取り残されて成長の恩恵にあずかれない不満に比べれば、既存の地位喪失・・失業や降格倒産の方がダメージの方が圧倒的に大きくなります。

大統領令4と法(異民族と価値観分裂1)

アメリカ国籍を持っているのに、日系人と言うだけで強制収容したり、クリントン政権の対日100%もの極端な差別課税を課すための行政命令?・・今回のアラブ7ヵ国人だけ標的の入国禁止令・・メキシコ国境に壁を作るなどの共通性をみると人種差別や対外行為・要は国内少数派相手ならば、法に基づかずに何でも出来るような大統領令制度が有効なクニって?近代法治国家と言えるかの疑問でこのシリーズを書いています。
フィリッピン大統領の犯人射殺命令に対しても、(これがフィリッピン社会に適合しているかどうかの判断は別として反対者さえ少なければ良いのかの基準ここでは書いています)犯罪集団が反対デモ出来ませんし、その支持者も少ないでしょう。 
反対さえ少なければ正義に反するかどうか無視して何をしても良いので社会が成り立つかの疑問です。
正義の基準と言うと何が正義か不明・・「アラブ人を収容所に入れることがテロを防ぐために正義」だと言う多数決が仮にあるとした場合、誰が正義を決めるのだと言う意見が出て来そうです。
喩えば、誰も疑わない正義→1+1=2が正しいときに、多数決で1+1=4にしたり、3+3を2にしたり出来るクニ・社会が成り立つのでしょうか?
1ヶ月すると大統領の考えが変わって大統領令で1+1=6にしたり、3+3を5に変えたりする社会って持続可能でしょうか?
数学的合理的基準・・合理性無視の政治は出来ないとしても、「天賦不可譲の人権」思想を数学的正しさの必要性と同一視出来ないことも確かです。
何が人権でどう言う場合にどこまでの制約が許されるかの基準・正義は、民族ごとの歴史的経験・・積み重ねによるしかないと思われます。
この種の正義は共同体の長い期間を経た共通意識によるとすれば、共同体の理想型は価値観共有社会と言うべきです。
同じく国際正義も長年かけて合意形成されて来たものを当面の「正義」として尊重するしか秩序が保てません。
日本の場合で言えば、漸進的変化・・既存価値を認めた上で、(古いお祭りや、様式美がそのまま残って行く)新たな価値を積み上げて行くので社会が何千年も安定的に推移して来ました。
これが大災害時にも略奪に走らずじっと救援を待つ・・相互信頼社会が構築されている基礎構造です。
長年かけて形成された民族合意・国内秩序や国際合意・国際秩序が気にいらないからとイキナリ、否定・ちゃぶ台返しの主張は、国内的には民族共同体意識の否定・・国際的には既存国際秩序の否定を企図することになります。
既存秩序破壊を訴えるのは、漸進主義主張より激しい分(家の修理をしますと言うより、ビルを建て替えると言う方が夢があります)人目を引きつけますが、トランプ氏の主張は現秩序を破壊したあと何をするのかがもう1つはっきりしないことが問題です。
反政府運動や国際秩序挑戦者としてならば、(赤ちゃんは泣くだけで良い・・自分で解決策を示す必要がありません)不満をぶっつけるばかりでも意味がありますが、権力者である大統領になっても既存秩序破壊を主張し続けるだけでその先の展望を示さないのでは、自己のよって立つ共同体統合をぶちこわす自己矛盾行為となるリスクがあります。
トランプ氏の場合アメリカンファーストと言うだけで(政治家たるもの国益第1は当然で全く新味がない)国内外に対して移民排斥論以外に新しい方向性・・正義を示せていません。
移民排斥論も・・「家に閉じこもりましょう」と言う次元で、その後の国家運営の提案がありません。
移民排斥や二国間主義=管理貿易逆戻り政策は、その先にどのような国際秩序を構想しているのかがまるで見えていません。
何と書く「強い者が何をしても勝手」と言うルール不要の野獣の世界に戻るような印象を受けます。
もっとも政治はすぐに分らなくていいのですが・・新たな価値観の提示が出来ないままで既存秩序をぶっ壊すだけで終わると(鎖国も1つの政策ですが・・これが国益になることをきちんと説明出来ないと)、単なるストレス解消・・民衆騒動・・(赤ちゃんが泣きわめくだけのような)暴動を政治家が煽動しているだけになります。
高校生が不満だからと、校舎のガラスを割って歩いたり、授業が荒れて授業にならない→教育政策の見直し、赤ちゃんが泣く場合、ミルクやおむつの取り替えあるいは、どこか具合が悪いのかなど気が付く効果・・対策の必要性を訴える効果がありますが、為政者・権力者は自ら政策を立案する立場であり世間に訴える立場ではありません。
過去に積み重ねて来た正義感・生き方が間違っていると主張する場合、間違っている・・納得出来ないと騒ぐだけなら民衆暴動や子供が泣き叫ぶのと区別がつかない・・どうするかを提案すべきがリーダーの責任です。
移民を多く入れると経験して来た歴史の違う集団同士になるのですから、価値の分裂が起きるのを防げない・・来たばかりでものの考え方習慣の違う人と同胞意識がある訳がありません。
トランプ氏は、移民を制限することによって、共同体意識を時間をかけて築いて行く長期展望を考えているのかも知れません。
隣近所の人とは挨拶程度で良いのですが、他人と同居するとなれば、余程気が合わない限りイヤだと思うのが普通です。
これを無視して「寛容の精神で受入れましょう」と移民導入を煽って来たのが、いわゆるPCの流布強制であり欧米社会でした。
外国人が観光や商用で短期間だけ来る程度では許容範囲ですが、毎日一緒に暮らすとなれば、許容範囲を超えていると思う人が普通ではないでしょうか?
異民族と一緒でも良いと覚悟を定めて移民して来た外国人自身が、一定数以上になって来ると◯◯人町など集団で居住するようになるのが普通であることを見れば、移民自体が気の合う仲間・・気持ちの通じる仲間を求めていることが分ります。
これが普通の人情であり、「異民族と仲良く暮らしましょう」と言うのは、やせ我慢・・無理があります。
よその人は他所の人のままで、一定の距離を置いてあっさりとつきあうのが大人の智恵です。
敢えてべたべたと同居する必要はありません。
民族的言えば、外国人が入って来ても一定期間限定の訪問者程度に限定しようとするのは1つの許された主張だと思います。
労働力獲得目的に異民族を多く入れることによる共同体意識拡散〜対立のマイナス(これは低賃金労働者導入だけの問題ではなく知的労働者の方が出身民族の価値観を身につけていることが多いために逆にリスクが高くなります)に気が付かないで来たのが欧米です。
あるいは気が付いていても金儲けの方を優先して敢えて無視して(特に民族差別を厳しく批判する)PCを事実上流布させて言論統制して来たトガメが出て来たとも言えます。
移民導入論者によって多様な人材が入れば多様な発想が可能になるメリットがしょっちゅう・・ダイバーシテイーなどと宣伝されますが、古くは遣唐使、南宋の朱子学や水墨画、禅宗、火縄銃、幕末欧米文化流入、明治維新でのお雇い外国人等々の歴史を見ても、鉄砲職人集団や学者集団や僧侶集団、画家音楽家などが大量に移民してくる必要がなかったことが明らかです。
日本の精神界に大きな影響を与えた仏教伝来でさえ、古くは来日したのは鑑真和上程度ですし、大量に人材導入した明治維新時の御雇外国人でも、各分野ごとにせいぜい1〜2名で、しかもあっという間に御引き取り願ったことが知られています。
全人口比で言えば10万人に1人2人程度の流入により違った角度からの意見を求め刺激を受けるのはわさびのように重要ですが、各分野で何万人・・合計人口の5%〜1割も入って来る必要がありません。
一定量以上になると自衛のために出身別に集団を作り固まる傾向(今は地域的に固まって住まなくとも通信手段の発達で別の形)があるので、却っていつまでも地元民と融合出来なくなるリスクが高まります。
アメリカも旧ユーゴスラビアのようなモザイク国家になりかけているのではないでしょうか?
これを抑制するために移民流入を抑制すること自体は政策判断の範囲内であって合理的であり、かつ主権行為ですし、これが何故憲法違反になるのかは(大統領令自体見ていないこととアメリカの憲法条文を知らないので)不明です。

エゴと共同体2(異民族問題)

自己中心者・・何でも反対する比率が人口比6%としても・刑事処罰や社会に批判があれば、自己抑制するので実際に反対運動したり犯罪実行する人がそのまた半分〜数%に減っていきます。
本心がどうかと言う核心部分は宣伝するかどうかによって大きな変化はないでしょうが、犯罪に踏み切るか、犯罪にならない道徳的部分における行動基準の何ミリかの幅についてマスコミの果たす役割が大きいことが分ります。
みんなが自宅前の道路掃除していることを賞讃するのか、掃除は役所がやるべきでバカなことをしているとマスコミが宣伝するかによって一般人の行動形態への影響が大きいことが確かです。
問題はこう言う外れモノが自分の意見として堂々と主張させる社会にして行くために(少数意見保護・・人権擁護になる?・・)学校で教育したりマスコミが強調する)が良いかどうかの問題です。
「ゴミを散らして歩く権利」・・「民族の違いを尊重し、少数意見としてドンドン主張するようにしましょう」と言う法教育の推進・・少数意見の尊重社会が実現するとすれば超余裕社会と言えますが・・?
民族間の紛争の基礎は生活習慣・・結局は基礎的価値観の違いに起因することが多いのですが、文化人は民族間紛争を宗教の違いなど観念的な、信教の自由とか相手の価値観を認めましょうなどの言葉の遊びで満足しています。
いじめっ子がいると「その子も家庭環境に原因があって可哀相なのだから・・」と言う人がいますが・・だからと言って苛められている子供が泣き寝入りしろとなればおかしな論法です。
異民族との紛争は観念の違いから始まっているのではなく混在することにより日常生活の場でもめ事が起きているのです。
日常に還元すれば、◯◯人は汚いとか臭い、うるさい・・約束を守らない嘘つきが多い、まじめに働かない、犯罪者が多い・・顧客となれば一々コうるさいからイヤな客とか日常次元の争いです。
宗教とは民族ごとに違った生活習慣の集大成ですから、結局は宗教の違いでしょうが、相手の宗教尊重とは宗教儀式を妨害しない程度は良いとしても相手の生活習慣尊重となるとうまく行きません。
ソモソモ同一民族が何故同じ習慣・・価値観を持っているかと言うと、同じ場にいる限り同一習慣・ルールでないとギクシャクするから時間経過で住み着いた場所の習慣に馴染んで行き同化して行く(郷に入れては郷に従え)ことを表しています。
稲作社会で言えばみんなで水路維持の共同作業をしている場合、新住民も当然その作業に参加しないとうまく行きません。
民族の定義を書いたことがあるように思いますが、民族とは人種別ではなく同一価値観で生きている集団のことですから、異民族が同じ場所に長期間価値観の同化を拒否して存在すること自体民族の定義に反します。
同化しないまま何十年も違った価値観の人(掃除洗濯・食事・礼儀作法に始まって生き方が違うのですから)が混在するのでは、その地域での人間関係のストレスが高まる一方ですし、相互不信感が解消されることがありません。
少数意見尊重と言えば聞こえが良いですが、具体的になると難しいのが分ります。
生活習慣に根ざした意見・・家の廻りの掃除するかどうか・ゴミ分別に協力するか・・アパート・マンションの廊下に痰を吐くような行為になって来ると「俺は少数意見だから協力しないゴミを散らして歩き,廊下に痰を吐くのは勝手だ」と言う声を許容すべきかと問題設定すれば分ります。
そんなバカなことを言う訳がないでしょうが、「違った価値観→生活習慣を認めろ」と言うのはこう言う問題についてどの程度上位の問題ならば許容すべきかの程度問題になります。
来たばかりの人は習慣不明だから慣れるまで仕方ないと思っていますが、半永久的に違いを認めろ(新規居住者が地元に同化する努力が要らない)となると違ってきます。
極端に言えば混在するから生活習慣の違いで喧嘩になるからと中華街やコリアタウン・・イスラム教徒が多数を占める地域形成などを積極的に進めて行くと、目の中にゴミが入ったような国家になって行きます。
少数意見尊重は、民主的政治決定方式の問題であって、日常的に少数意見の人が何事でも強行実現する権利まで意味していません。
何かを決めるのには少数意見を尊重してどちらが合理的・より良いかについて議論を尽くすべきことであって、議論の結果決まった結果に従うことが前提になっています。
自分は少数意見だから最後まで従わなくとも良い・・地域で決まったことをしない・守らない権利があると言うのでは国家・共同体社会が成り立ちません。
自分は少数意見だから最後まで従わなくとも良い・・地域で決まったことをしない・守らない権利があると言うのでは国家・共同体社会が成り立ちません。
国会や地方議会で決まったことをなお「少数意見無視」と言うに留まらずマスコミが報道する意見が多数意見と言う思い込みの強い勢力が、「国民大多数の願いを無視する◯◯法反対」と騒ぐのは(多数かどうかは国民が決めることなのに、自分が多数意見だ自己主張している野路分で自分の腕が日本1と自慢しているボクサーのようなものです)論理的に無理があります。
宣伝力の大きい方が正しいみたいな今の言論状況・・マスコミ支配社会では、サイレントマジョリティー問題が重要です。
議会議決に至らない生活習慣的行為・・礼儀作法や生き方の違いになると多数の議論を経て決めていないのでその分強制力がないのですが、我慢を強いると逆に不満が蓄積するのでどこまで許容すべきかは難しい問題です。

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