原発問題と統治行為理論(専門家の限界)3

法(国民意思)で決めた基準どおりに委任範囲の基準が策定されているか、運用テストされている否かは、事実認定・・司法分野です。
理論上司法の判断分野であっても、国民総意で許容範囲を決めて行くべき分野・・高度な妥当性判断になって来れば、いわゆる統治行為理論(司法の領域外)がミクロ的に妥当する分野であると思いますが、如何でしょうか?
車製造、製鉄現場の安全基準、エアバッグの製品その他完成品安全基準造りは、ミクロですが、高度過ぎてその基準造りが専門外の人が判断出来ない場合、その道のプロ集団(学会等)にお任せしているのが普通です。
(法は◯◯の基準に適合しなければならないと決めるだけで、その基準は政省令規則等で定めると言う法形式)
後になってみると過去の少数派意見の方が正しいことが分るかも知れないので、少数意見の弾圧は許されませんが、法的責任に関しては事故当時の科学水準で施行していれば後から見ればその水準が間違っていても(後から見て正しかった少数意見に従った行動をしていなくとも)行為者の故意・過失責任を認めないのが基本です。
今回の原発再稼働停止問題は、まだ事故が起きていないのですから、司法はその基準造り段階でその基準の是非について容喙出来るかが問題です。
事故が起きてから、過去の基準判断として、当時のオーソライズされた基準はこうだったと判定し、行為者がこの基準に従って行為したかを判定するのは司法の役割ですし、後講釈は、誰でも出来ると一般に言われているとおりで割合に簡単ですが、現在進行形のある学会や技術集団の術式にかんするABCD〜Xのどれが正しいかの論争に割って入って、司法権がBまたはDが正しいと判断するのは越権です。
意見の分かれる問題について(経済政策に付いて少数エコノミストの意見を採用するかどうかなど)その内どの意見を採用するかは、国民の信任を受けている政権の権限・その代わり結果について政治責任を負いますが、司法権は国民からこの種の選択権限を付与されていません。
専門家の一人でも危険率が高いと言っていれば、もっとも厳しいその数値によるべきだと法(国民の総意)で決まっていれば、規制委の基準よりも危険という意見があるかどうか調べるのは司法の分野でしょう。
原発の津波対策に関して今回の津波程度のリスクがあると主張していた学者がいたのに無視していたと言う批判が事故直後頃にマスコミでありましたが、法が単に「安全確保」と言う目的しか示しておらず、その具体化は政省令に委ねる場合、その意味するところは一人でも最悪事態を主張する意見があれば、この基準によって対処すべきという意味ではなく、多数意見または支配的意見で安全基準を策定すべきだと言う法意に解するべきでしょう。
一人でも反対したら駄目と言う基準を法(国民の総意)が示していると解釈すれば、誰か一人反対すればいろんな商品やサービスの製造販売出来ないと言うことになるので、結果的に何も出来ないでしょうから、事実上の禁止法になります。
建築基準であれ各種産業の労災防止の安全基準であれ、車やバギーやおもちゃや医薬品の製造基準であれ、関係者の一人でも危険性があると主張すれば製造販売が禁止になると言う法意であれば、事実上何も作れなくなるでしょうから、「安全確保」と言うだけの条文の意味は、関連学会や技術者の総合意見によると言う意味に解釈すべきです。
政治(国民総意)が原発設置基準を法定するに際して、各種安全に関する各種法律同様に「安全の確保を図る」程度の条文であったとすれば、基準策定当時の多数関係者が考える科学水準で決めたことに瑕疵はありません。
そうとすれば一人でも、大規模津波を想定する研究者がいたのに・・・と言って、原発の安全基準造りをマスコミが批判するのは間違っています。
今回の新たな設置基準が、福島の大被害を受けた結果基準をもっと厳しくしよう・・「もっとも危険を主張する意見による」べきと言う法基準が仮に新たに定立されていた場合には、一人でももっと厳しい違憲を主張する学者研究者がいたかどうかが司法判断の対象になります。
一人でも反対意見がいたら稼働させないと言う基準造りでは、稼働禁止を法(国民総意)で決めたのと事実上同じ(かぐや姫が不可能な結婚条件を出したのと同じ)効果になってしまいます。

原発問題と統治行為理論(専門家の限界)2

モノゴトには、100%の安全などあり得ない・・各種公害や交通事故、新規医薬品や工作機械、ロボット・・物的製品に限らず経済政策や社会制度も大量のテストや治験を繰り返しても実際に使って、実施してみなければ分らないことを前提にしています。
金融も、従来この程度の与信基準で安全と思われていたのが相手の出方が変わってその基準では不正融資申請がすり抜けてしまうなどのことがしょっ中起こります。
このため医療事故その他がその当時の医療水準で行なわれた結果の事故か、当時の医療水準に達していなかった結果なのかが過失の判定基準になっています。
ガスボンベや髭剃り用のカミソリや玩具のような身近なものから始まって、化粧品、医薬品や新たな手術方法、車や電車、飛行機、大規模工場設備まで、100%安全な製品などありません・・実際利用した結果副作用が分るなど一定の事故がいつも起きています。
労働環境も同じです。
高名な科学者が、モノゴトは何も分っていないと言ったとか養老孟司だったか?書いているのを読んだ記憶があります。
もしもどんな簡単なことでも「100%安全」と言う科学者がいたら、本物の科学者とは言えないでしょう。
これらを製造物責任制度、医薬品被害や事故等が起きると労災事故、医療事故・交通事故・・自動車のリコール制度等として救済しながら製品事故や損害を少なくして行くのが世の中です。
マイナンバー法に始まる各種技術ソフト・医療手技(各種移植)手術・新技術も全て100%の安全など前もって分りません。
戦闘機などの事故が時々あってもそれは普通のことと思われていますが、オスプレイ配備になると危険だ危険だと反対していますが不思議な現象です。
ある程度リスク率が高くとも、新たな技術を導入して実際にやって行く中で徐々にリスク率を減らして行った方が良いことはいくらでもあります。
子供が学校へ行く途中交通事故に遭わないとは誰も言えないように、100%で安全でない限り反対と言うばかりでは、何も出来ない・・社会の進歩反対と同義になってしまいます。
何か新たなソフトや技術を開発すると「絶対危険性がないと言えるのか」と言う反対論をしたがる左翼系文化人やマスコミは敵国の回し者かと疑いをかけられる根拠です。
絶対危険性がないと言うモノゴトはあり得ないのですから、新規技術発展になんでも反対すると言う主張を「安全とか平和」と言う言葉に言い換えているに過ぎません。
心臓移植治療や何万回治験しても100%安全とは言えない・・「ある程度」安全性が確認出来れば、その後は利用しながら副作用その他改善して行く・・漸進的進歩に期待するしかないのが、医薬品や医療技術に限らず全ての新規科学技術共通の問題です。
自転車だって絶対転ばないかと言われれば100%安全と言い切れる業者はいないでしょう。
ただ原発被害は髭剃りで頬をけがしたり、化粧品で頬がかぶれる程度とは違い、一旦被害が起きると結果が大き過ぎるので、被害が出てから工夫して行く従来方式に馴染み難い点が大きな違いです。
とは言え、100%安全など、この世の中にあり得ないのですから、結局は何%程度安全なら稼働を認めるかの基準にかかって来ることが明らかです。
100%安全でない限り稼働を認めないと言う基準が仮に決まっているとしたら、結果的に稼働禁止法が出来たのと同じです。
元々世の中に100%安全な製品やソフト(ハッカーから守れる情報)などあり得ないのが前提ですから、どの程度のリスクを許容するかは、国民判断によるしかありません。
100%安全かどうかの理論・・事実認定の分野であれば司法権の分野ですが、1万回に1回の確率、10万回に1回の確率、20万回に1回の確率・・各製品やその技術の有用性とリスクの大きさを総合してどの程度なら許容すべきかは、国民総意で決めるべきことで、司法が上から目線で決めるべきことではありません。
医薬品で言えば何回治験を繰り返せば許容範囲と認めるか・・車の走行試験のあり方など全てそう言う理解で良いのではないでしょうか?

原発問題と統治行為理論(専門家の限界)1

話が変わりますが、全体の利益を考える必要がないかのような一方的主張を繰り返している印象(しか知りません)の農協系主張は、左翼系主張方式に親和性がありますから、政権党向きではありません。
将来的には自民党から離れて行くべき・・逆に責任政党を目指すならば、自民党が離れて行くべきではないでしょうか?
韓国や中国が、兎も角無茶苦茶要求して来るのと似たやり方・相手が引くまで言うだけ言えばよい・・思考方式に左翼系が染まっているようです。
日本人のやり方は何事も相手の立場を慮って言い過ぎない前提ですから、こちらが引いていれば相手が遠慮すると思っていると「こちらが引けば中韓はいくらでも圧して来る」ので、慰安婦問題のように大変なことに発展してしまいます。
相手(国民全般)にそこまで(正しいかどうかは別として相手がのめば良いと言うスタンスで一方的な主張ばかりだと)思われたら(ヤクザとは二度と付き合いたくないように)後がありません。
旧社会党は「無茶苦茶言っているだけではないか」と言う国民評価が定着して事実上壊滅的状態になりましたし、今や日本人の嫌韓感情は後戻り出来ないほどになっています。
弁護士会の各種委員会の行動様式は、行け行けドンドンの一方的なやり方ですから、その委員会に出掛けて行ってたった一人で敢えて「企業にも言い分がある・消費者をそこまで守る必要がない」「犯罪被害者にそこまで権利を認めるのは反対」「少年にそこまで権利を認めるのは反対」と反対論をぶつために消費者委員会や少年委員会や男女共同参画委員会などに参加する人は(お前は人権意識が低い・・と吊るし上げられるだけですから・・)皆無と言っていいでしょう。
◯◯の人権と言うテーマも一杯ありますが、理想的には、完全な主張をすれば良いのかも知れませんが、実現性がない・・社会が容認出来ないことまで、オタク化・純粋化した委員会では反対論がなく通ってしまう傾向・・主張するだけしてその半分でも通ればいいのだと言う気持ちがあるように思います。
消費者系は頑張っている面が多くありますが、企業側の立場を認めない・・消費者視点で突っ張って行けば、企業利益は別の団体が主張するから弁護士は気にする必要がないと言うスタンス・・要求をどこまで勝ち取るかの視点で頑張っているように見えます。
刑事手続での各種専門委員会の要求もほぼ同様です。
こう言う委員会に入って「そんな無茶言っても通る分けないよ!」反対意見を主張するのは無理があるので、「行き過ぎじゃないの!」と思っている弁護士は殆ど委員会に入らないと思われます。
この結果、弁護士会の公式意見は、外見上反企業的、反進歩的・・新しい技術や製品が出るたびに「危険だ」と言う反対意見一色になっている印象です。
ただし、建築や医事紛争の委員会は、医療側と患者側の双方の弁護士で構成しているので、比較的抑制的な委員会になっていますし、こう言う委員会もいくつもあります。
(私の属している委員会はこう言う種類ばかりです)
政治要求的色彩の強い委員会・・対外運動系では一方的に反対運動したり、権利要求したりする傾向が多い・・元々対外宣伝したいのですから、これが対外的に目立つのは当然です・・知らない人は弁護士はみんな政治運動ばかりしているのかと誤解しそうです。
以上は私の個人的印象・偏見?ですので、具体的根拠はありません・・念のため・・。
たまたま、4月15日の日経新聞朝刊では、福井地裁で高浜原発再稼働執行停止の仮処分決定が出たと報道されていました。
裁判所は弁護士会の委員会のように特定立場の集まり・構成ではなく、双方の意見を聞くべき組織・・中立機関です。
事件詳細を知りませんので具体的意見は書けませんがので抽象的感想に留まりますが、高度な政治判断を含む紛争の場合、司法がどこまで踏み込めるか、抑制的判断するべきかと言う哲学的な論争が必要な印象を受けました。
重大な国家利益判断の妥当性に付いては、そのときの政治(国民総意)に委ねてその正邪は後世の歴史が決めて行くべき事柄です。
政治判断の訓練を受けていない法律家・・事実認定の専門家でしかない司法機関が国家の命運を決めるような重要政治決断の是非を判定する権利・能力がない・・最終決定権を行使するのは、司法権の濫用になります。
岸政権が改訂した安保条約に関しては、最高裁判所が統治行為理論で判断を回避したのですが、その後の歴史を見ると、明らかに賢明な判断だったと思われます。
統治行為理論に付いては、最近では、「解釈改憲3(憲法秩序の事実上改変)」October 8, 2014で書きました。

格差拡大論2とROE重視論

私は日本企業を韓国のように欧米資本に買収して欲しいとは思っていないし、国内に資本があり余っている・・世界一の資金余剰国ですので、そこまでして外資導入をする必要がないと言う意見を何回も書いています。
国債や株式や債券保有者が日本人主体で何故悪いの?と安全で良いじゃない!と言うのが私の基本的意見です。
「配当を増やさないと外資が嫌う」と言い、(内部留保を悪玉視して)ROE・配当性向重視を煽る報道は一種の利敵行為だと思っています。
日本民族はみんなで一緒に豊かになりたい国・意識の社会ですから、配当収入を上げろと言う主張をはびこらせて、資本収益率を上げる・・儲けを独り占めにするような道徳観を宣伝しているとまじめに働く意欲を低下させて同胞意識を壊してしまわないか心配です。
青木昆陽や二宮尊徳その他何かの知恵を発揮した人が、自分がその結果大富豪になりたいのではなく、無償で全国普及に努力して回るのが日本人でした。
今でも医学技術その他で大儲けしようと言うのではなく、無償技術指導のために海外に飛び回っているのが日本人です。
世界の主要経済プレーヤーである日本の歴史経験、高度成長しても長期デフレでも資本収益率が上がらない・・資本による収奪が進まない・・過去から現在に至る日本実態を調査対象から除いたピケティ氏の経済論は良いとこ取りした歴史論同様で学問としての客観性がありません。
学問的価値があるとすれば、「欧米的強欲経済では・・」 と言う前提・限定が必要です。
いずれにせよ、日本経済を分析していない理論である以上は、日本がそうなっていると言う処方箋が手に入ったと人権派が大騒ぎするのは間違いであって、日本も他山の石として将来気を付けましょうと言う程度の意味です。
そうとすれば、ピケティ理論を持てはやしながら、マスコミがROEや配当性向の上昇を陰に陽に要求しているのは矛盾です。
成果報酬はある程度必要ですが、アメリカのように行き過ぎるのは良くありません。
自由競争社会にする以上は、結果修正・・敗者に対するケアーは必要ですが、成果報酬による格差は一定レベル必要です。
その結果が許容水準を超えているかの検証しないで、先ず格差(競争の結果勝者がよりよい果実を得ること)問題を宣伝するのでは、競争否定観が基礎にあると思えます。
彼らは批判論者は、努力して新技術が出る都度批判して来たもののそれが受けなくなったので、今度は格差反対の大合唱です。
競争による報奨金の獲得を認めれば、報奨金のない人との格差が生じるのは当然ですが、少しの格差も許容しない否定論は競争による地位の入れ替えを否定することになり兼ねません。
もしかしたら、身分や生まれつきの地位で収入が固定されている社会を理想としているのでしょうか?
日教組の支配する学校教育では、徒歩競争等競争結果が出るような運動会種目は大分前からやめるようになったと言われていますが・・・。
競争の差が出るのは可哀相だなどと言ってたら、何の競技も出来ません。
競争否定と言うことは逆から見れば、有能な子供の芽を出すのを否定的に見る・・抑圧する結果になる教育を奨励しているのでしょうか?
能力のある子の能力を引き出すことこそが教育であって、能力発揮を抑圧してもらうために子供を学校へやっているのではありません。
しかし競争社会と言うのは、彼らが大事にする近代化の結果であり、人権保障の結果です。
逆に生まれや身分で社会が固定され、競争出来ない社会に戻ることこそ、反近代化主張です。
ソ連時代の共産党幹部や現在でも中国共産党幹部子弟・・いわゆる太子党が、次世代幹部に昇進する道であり、国有関連企業で幹部登用され、天文学的蓄財を繰り返し良い思いをしていることは良く知られています。
朝日新聞や文化人は中国の生まれによる巨大格差社会を一切批判しませんし、報道すらマトモにしませんので、本来的競争のない社会を理想としているように思われますが、おかしな主張です。
競争は競争として奨励して、落ちこぼれた人は別に救済するシステムを構築すればいいことです。

格差拡大論とピケテイ理論1

頑張って功績・成果を上げた人には報奨金・恩賞(必賞必罰)が必要なことは、古代から世界中が認めて来た万古普遍の原理です。
中国現在の問題点は、巨万の富みの蓄積が太子党・・(個人努力に関係のない)生まれによる格差・・それも程度問題を越えて巨大化していることから、世界中が眉をひそめているのです。
巨大な不正が生じている中国への批判を一切しないで、格差の殆どない我が国で格差ばかり強調するマスコミ論調は、主張とは別の思惑がある・・額面どおりに受け止める人が少ないのではないでしょうか?
中国に限らずアメリカの場合、既に強欲資本主義の弊害が出ているので修正の必要があるかも知れませんが、日本の場合、むしろ頑張った人への報酬が少な過ぎる弊害に関する議論が始まろうとしている段階です。
青色発光ダイオードを発明した中村氏に対する報奨金が少な過ぎた例がそれを示しています。
ちなみに、世界一の自動車産業トップトヨタ社長と日産のゴーン社長の年俸比較すると以下のとおりです。(2015年3月15日現在のコピーです)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150130-00059303-toyo-bus_all
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初公開! 「役員報酬が多い」500社ランキング
東洋経済オンライン 1月30日(金)5時30分配信

「日本企業の高額報酬で有名なのは日産自動車のカルロス・ゴーンCEOだろう。その日産役員の報酬は平均すると2億1300万円で6位だ。カルロス・ゴーンCEOの報酬は9億9500万円。ゴーンCEOを含め、5人が1億円以上の報酬を得ている。一方、世界トップクラスの自動車メーカーであるトヨタ自動車の平均役員年収は8194万円で、ランキングでは46位となっている。豊田章男氏の報酬額は2億3000万円だった。」

世界トップ企業トヨタの役員に成っても、平均年収8000万ちょっと(・・社長報酬を含めた平均ですから、並みの役員の年俸は5〜6千万円まで行くか行かないかでしょう。)これから約50%前後の所得税等公的控除を引かれると定年間近に数年程度役員に成ったくらいでは、とても富豪の仲間入りは出来ません。
この程度の社会の現実を見ないで、アメリカの例を引いて格差社会批判を訴えても、実態を反映していない・・文化人が欧米基準を持ち出すのが好きなことを繰り返し書いて来ましたが、未だにこんなことをやっているのです・・・。
これでは、これまでの能力主義批判の焼き直しではないかと思うひとが多いでしょう。
人権派が折角飛びついた格差論に殆どの国民が反応しないので、困っていたところにピケテイ氏が格差論を発表したので、革新系文化人は大変な応援団が来たとばかりにこれを有り難がっています。
ピケテイ理論は日本の統計的実態を全く見ていない・・日本の歴史推移を対象に入れていない点を直ぐに専門家によって反論されている点に気が付かないか、敢えて無視している論法です。
大分前に読んだので正確な内容は直ぐに忘れてしまいましたが、(たまたま3月16日日経新聞朝刊23ページの左下の時事解析欄にピケティ説は日本に当てはまっていないと言う解説と実証的研究者の名前が出ていました。
以前読んだのは、ここに紹介されている学者だったかも知れません。
折角関心して読んだのに、高齢化すると誰の意見だったかもすぐに忘れてしまうのが難点です。
理論分析は別としても、実感的にそんなに格差のない社会であると思う人の方が多いでしょう。
日本は古代から名誉や信用を重んじる国民性ですから、強欲の方に走ったのでは、肝腎の名誉が毀損されてしまいます。
発光ダイオードの中村氏も我欲のために裁判したのではなく、後進研究者のために一定の報償が必要と言う道を切り開くために頑張ったと言う立場でしょうし、(実際この事件を契機にルールが整備されて行きました)ノーベル賞金の一部を世話になった徳島大学へ寄付したり名誉回復に熱心です。
アメリカで被害を受けた服部君の事件であれ何の事件であれ、自分の利得目的で裁判や政治運動するのではなく、今後同じような被害者を出さないように・・と言う動き方がほぼ全ての社会です。
日本では、目先の金よりも名誉・信用を何故重視するかと言えば、繰り返し書いているように、子々孫々に影響する長期的人間関係を重んじるからです。
日本人は強欲資本主義の仲間入りしない・・世界標準とは違う国民性ですが、これは自慢して良いモラルですから、この優れたモラル基準を世界に広めれば良いのです。
トヨタ社長は一定の生活水準が満たされれば、あとは自分の取り分・収入が世界何番だと自慢するよりは、日本社会に貢献している名誉を重視していることになります。
日本人は世界長者番付何番の何人がいると自慢するよりは、長者番付けが低くともトヨタ社長のような経営者がいる方が誇りです。
ゴーン氏や孫正義氏は、使い切れないほどの収入があってもさらに収入を得てその大きさの誇示こそが重要と言う(日本人から見れば子供じみた)価値観なのでしょう。
日本独自標準・・資本収益・配当率の低さに対する欧米資本家の不満を代弁して、ROE重視経営(資本家への還元を増やせ)をすべきだとマスコミが繰り返しています。

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