最高裁非嫡出子差別違憲決定の理由(実態重視1)

最高裁の非嫡出子相続分規定違憲決定がどういう理由によったかを、原文の一部引用で見ておきます。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271

非嫡出子相続分規定違憲決定
特別抗告審決定
遺産分割審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件
最高裁判所 平成24年(ク)第984号,平成24年(ク)第985号
平成25年9月4日 大法廷 決定
しかし,昭和22年民法改正以降,我が国においては,社会,経済状況の変動に伴い,婚姻や家族の実態が変化し,その在り方に対する国民の意識の変化も指摘されている。すなわち,地域や職業の種類によって差異のあるところであるが,要約すれば,戦後の経済の急速な発展の中で,職業生活を支える最小単位として,夫婦と一定年齢までの子どもを中心とする形態の家族が増加するとともに,高齢化の進展に伴って生存配偶者の生活の保障の必要性が高まり,子孫の生活手段としての意義が大きかった相続財産の持つ意味にも大きな変化が生じた。昭和55年法律第51号による民法の一部改正により配偶者の法定相続分が引上げられるなどしたのは,このような変化を受けたものである。さらに,昭和50年代前半頃までは減少傾向にあった嫡出でない子の出生数は,その後現在に至るまで増加傾向が続いているほか,平成期に入った後においては,いわゆる晩婚化,非婚化,少子化が進み,これに伴って中高年の未婚の子どもがその親と同居する世帯や単独世帯が増加しているとともに,離婚件数,特に未成年の子を持つ夫婦の離婚件数及び再婚件数も増加するなどしている。これらのことから,婚姻,家族の形態が著しく多様化しており,これに伴い,婚姻,家族の在り方に対する国民の意識の多様化が大きく進んでいることが指摘されている。
・中略
以上を総合すれば,遅くともgの相続が開始した平成13年7月当時においては,立法府の裁量権を考慮しても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。
[25] したがって,本件規定は,遅くとも平成13年7月当時において,憲法14条1項に違反していたものというべきである。
4 先例としての事実上の拘束性について
[26] 本決定は,本件規定が遅くとも平成13年7月当時において憲法14条1項に違反していたと判断するものであり,平成7年大法廷決定並びに前記3(3)キの小法廷判決及び小法廷決定が,それより前に相続が開始した事件についてその相続開始時点での本件規定の合憲性を肯定した判断を変更するものではない。

最高裁の違憲決定は原理論?空論原理によるのではなく、社会や意識(国際的意識変化を含めて)などの変化を踏まえると平成13年8月以降は社会の実態から見て不公平すぎて違憲であるという判旨です。
私が表現の自由と判例というものに関心を持った青少年期の事件・・チャタレー事件の判例も同様の解決方法でした。
記憶によれば、絶対的基準でいう猥褻というものではなく、日本でも社会意識が変われば、この程度の表現を猥褻とは言わない時代が来るかもしれないが、現時点ではまだ許されないという判旨だった記憶です。
国際基準という超越的基準ではなくその社会ごとの価値観がありそれは時間軸で移動していくものだという意味でもあったでしょう。
マスコミや学者の多くは絶対的基準がある前提での批判的解説や意見があふれていました。
本日現在のウイキペデイアによるチャタレー事件の紹介です。

『チャタレイ夫人の恋人』には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。6月26日、当該作品は押収され[2]、7月8日、発禁となり[2]、翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、9月13日[2]、刑法第175条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和27年1月18日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金25万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和27年12月10日判決)では被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和32年3月13日に上告を棄却し、有罪判決が確定した。
論点
わいせつ文書に対する規制(刑法175条)は、日本国憲法第21条で保障する表現の自由に反しないか。
表現の自由は、公共の福祉によって制限できるか。
最高裁判決
最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。
わいせつの三要素
徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、
通常人の正常な性的羞恥心を害し
善良な性的道義観念に反するものをいう
(なお、これは最高裁判所昭和26年5月10日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)
わいせつの判断
わいせつの判断は事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である。したがって、「この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合またはその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。」
事件の意義
わいせつの意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所がわいせつの判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。国内だけでなく、東京でのこの裁判は、のちのイギリスやアメリカでの同種の裁判の先鞭となり、書籍や映画の販売促進に効果的な手段としてみなされ、利用されるようになった

レッテル貼りと教条主義1

格差反対とかLGPT・・等の欧米のスローガンをそのまま輸入・主張する政治ではなく、実態に応じてきめ細かく処遇していくのが政治の要諦です。
メデイアでは、政治分野で極右・レイシスト、歴史修正主義者、あるいはオモチュニストなどなどレッテル貼りが横行しています。
レッテル貼りに限らず格差反対その他のキーワードで内容空疎な報道に走るのは日本のメデイア界だけの特徴かもしれませんが、国際メデイア界はキリスト教系が牛耳ってるので、日本のメデイア界でも知らずのうちにキリスト教系思考の影響を受けているのではないでしょうか?
レッテル貼りというか、キーワードで席巻していくやり方はその先の思考停止させ、ある問題を画一処理しようとする傾向があるように思えます。
もともと原理主義的教条論的思想工作の限界がきたので、これを今風にソフト化しただけのようにも見えます。
原理主義というか教条的主張はどうやって始まったものでしょうか?
教条主義や画一主義あるいはレッテル貼りの横行は、ソ連型共産主義が現世権力を握ったことにより思想=学問世界の独占物だったのを一般化したものと言えます。
ファミレスが高級レストランに行けないホワイトカラー層の受け皿になったようなものです。
その後工場生産化・食品や衣料の工場生産・・画一的大量に拡販する仕組みが一般化してきたように、思想を画一化する過程で異論を許さなくなった先進的システムだったというべきでしょうか?
思想は異論を戦わせる過程で相互の主張を止揚することでレベルアップが期待されるのですが、ソ連が始めた思想工作は、論争によって、思考論理を磨くプロの土俵を離れて、党中央の指令貫徹手段・・支配道具として思想を利用するようになって始まったように思われます。
ファミレスやコンビニ店員、あるいは工場労働者同様にソ連党中央の提供する思想・・ファミレスで言えば、食材の温め方?工場では機械操作程度の学習さえきちんとすればいいというのが特徴です。
共産系では学習会が重視され、学習を済ませた人を前衛とか細胞というのは言い得て妙です。
学習といっても党中央の指令伝達手段としての思想教育ですから、例えば中国では毛沢東語録や習近平講和内容の「学習会が基本であり、「こうすればいいのではないか?」などの改良意見を表明する場ではありません。
中国でウイグル族を100万人単位で収容所に入れて中国政府統治の正当性の学習を強制したり北朝鮮で失脚した政治犯が学習強要される仕組みも皆同じです。
共産圏では思想がいろんな工夫を生み出す有意義な道具としての位置付けよりは、支配道具ですから、教条主義や画一思考になるのは当然の結果でしょう。
ソ連が思想教育を世界に共産主義(と言う名のソ連による世界支配・・コミンテルン)を拡散する道具として以降、教条主義・原理主義論が一般化してきたように見えます。
フランス革命以降重視される思想信条の自由論は、表現の自由を核にしたもので、このため憲法学では表現の自由こそが基本的人権の中核という位置付けになっています。
ところがソ連で創始し現在の中国や北朝鮮で行われている思想強制は、表現を規制する線を超えてその前に、そのような思想を持たないように働きかけ強制する・・積極的に人の脳内支配を企図している点がおそるべきところです。
どうしてこう言うことに結びついたのかを考えると、もともとキリスト教徒というか一神教の場合、余計なことを言わねば処罰されないというだけでなく、一神教=唯一者の存在が前提です。
唯一者の意思に反しないかどうか生活の隅々まで、戒律あるいは教義の網がかぶる傾向があります。
このために監視者?古くは律法者・中世には神学者が教義の解釈を行なっていたが必要だったのでしょう。
神学者というジャンルが学問の先駆けという不思議な社会のようですし、ジャンヌダルクの処刑やガリレオの地動説に対する圧迫・異端審判制度の教具支配が有名です。
このように背教者をあぶり出す仕組みは長い歴史を持っていてスターリンの粛清政治は、世俗権力と宗教権力が一致した結果これを恣意的に乱用したものです。異端審問とスターリンの粛清政治の関連についてはDecember 22, 2016「シビリアンと信教の自由3(共産主義とシビリアン)」で書いたことがあります。
こうした思想統一の歴史の土台の歴史の上にキリスト教に変わって、共産主義という新興宗教と国家が国教として結びついたと見るべきでしょう。
イランで聖職者が世俗権力の上にある点は、共産党が国家の上にある中国の現体制と同じ構図です。
共産主義は唯物論だから宗教禁止と習いますが、旧ソ連や中国にとっては共産主義自体が新宗教だから対立宗教を排除しているにすぎません。
ソ連や中国の支配下にある以上は国教である宗教教育を強制する・まだ理解していないものには強制的に教えてやる→学習会とは国民の思想を強制改造するのが目的の学習強制システムです。
ソ連はこれを自国国民に対して行うのみならず他国にまで浸透工作(カトリック布教活動と同じです)を行うための世界戦略として、コミンフォルムだったかコミンテルンだったか?結成して世界中にその工作をかけていました。
結果的にソ連は制度として崩壊しましたが、今なお(内容から見て共産党と言えるかどうか不明ですが)独裁を信奉している中国ではソ連の自由主義諸国に対する浸透工作をそのまま引き継いでいる様子です。
言論の自由を隠れ蓑にしたソ連工作員の浸透を許したメデイア界ではその後中韓や北朝鮮が「思想の自由・民主主義を守れ」と表向きいいながら、実は原理主義的(枝葉末節の)批判を繰り返して自由主義諸国の政権転覆を狙うのが普通です。
日本メデイアではこの種の枝葉末節的批判の垂れ流し報道や、チャンスをみては爆発的に政府批判を煽る報道が逆効果になる例が増えてきましたが、森かけ報道や日本死ね!の洪水的報道とこれに便乗していた野党のジリ貧を招いている結果を見れば、日本では賢明な国民が多いので根拠のない煽り系報道をすればするほどメデイアの信用が落ちていく傾向が明らかです。
自由主義国でもようやく盛んになったいきすぎたPC批判が起きてきたように見えるのが、その表れです。
日本死ね!というようなスローガンで国民が踊る民度ではないのにメデイア界だけが有頂天になっていた印象です。
メデイア界が国民意識となぜ遊離するようになったのか?
メデイア界という抽象的なものはなくそこで働く人々の意識の問題ですが、日本の国民意識と遊離しているようになっているのが、ネット発達前には見えないようになっていたということでしょう。
国民意識の縮図的構成ではではなく意図的な人材偏向が仕組まれていたのでしょう。
例えば韓国や中国に都合の良いことしか報道しないメデイアの場合、韓国や中国自身が日本世論を読み違えるリスクがあり、かえって韓国や中国のためになりません。

悪いことはできないものです。

組織(集団)の存在理由2

戦国時代、落城にあたって勇猛な兵士が敵の前に立ちふさがって主君を逃すようなストーリイがありますが、歴史の実態は城主が責任を取って腹を切る代わりに篭城した城兵や妻子の助命を引き換えに要求するのが我が国の主流的解決法です。
第二次世界大戦の敗北においても、(極東軍事裁判という変な仕組みですが・・・)結果的に指導者が戦争責任を負って国民が皆殺しになるのを防ぎました。
明治維新の江戸城無血開城も同じですが、背後の人民の被害を出来るだけ小さくするための知恵がいつも働きます。
私が育った頃には、上記のように我が国の実態に反して主君が先に逃げるような物語や、経営者はいつも良い思いをして労働者は搾取されるばかりだというストーリーが多かったのは、戦後盛んだった共産主義の思想や西洋の流儀をそのまま日本の歴史に応用して、経営者は無責任だという主張をしたかったからでしょう。
日本の企業経営者や中小業の親方もそうですが、自分が先頭に立って、従業員の何倍も働いているのが普通です。
西洋の貴族のように領地経営を執事に任せて、優雅に遊び暮らしている前提で日本の組織を見ると誤ります。
学者は、西洋のお勉強中心ですから、我が国の実態を余り知らないで議論している傾向があります。
私の場合、小なりといえども法律事務所を実際経営してみると、その月々の収入の増減は経営者が先に負担するので、例えばその月の固定経費が200万円必要なときに、200万円までの収入は全部給与や家賃等の支出等になってしまいますから、月末になってそれだけの収入がないと、経営する弁護士の収入はゼロ・・200万円に達するまでは、ただ働きになる仕組みです。
月の25〜6日経過した時点まで200万円しかないときにはそれまでの仕事は経営者個人にとってはただ働きになり、それ以降の収入だけが経営者の収入になる勘定ですから、最後の数日が勝負になります。
我が国では経営者が先に自分の収入をとってしまう関係ではありません。
中小企業では経営が左前になると自分の手取りを減らして、従業員の給与だけはそれでも払い続ける・それも出来なくなると金貸しから経営者個人名義で借りてでも払い続けるのが普通ですから、倒産すると大変なのです。
我が国では従業員給与が先取りになっている社会・・まずは従業員の生活を保障する社会と言うべきでしょう。
集団利益を守るために責任者(日本では指導者というよりも責任を取る人=「責任者」が正しい表現です)がいるのであって、トップの私腹を肥やすために集団があるのではありません。
海外の方が儲かるからと言って、徐々にシフトして行き、結果的に生産拠点も本社機能もすべて海外移転することになってしまう(日本人の殆どが振り切られる)のでは、何のために集団トップに選ばれたのか分らないことになるのではないでしょうか?
海外本社にトップとその取り巻きだけが移住し、その他集団員の99、99%が置き去りにされる結果になるのでは、その企業の名前は残るかも知れませんが、元の集団構成員にとっては意味がないでしょう。
今朝の日経新聞朝刊第1面「アジア消費をつかむ」の冒頭には、SNSのフェイスブックで日本第2位のサテイスファクションギャランティード(sg)が本社機能もシンガポールに移したと報じられています。
SNS98万人のファンのうち97%が海外顧客だから移転は必然との説明があります。
こういう新興企業がいくら生まれても一握りの優秀な人材が海外移住して行くことになり、国内は底辺層が残るばかりになって国が衰退してしまいます。
中央で通用する優秀な人材が出れば、当然のことながら中央に出てしまうのが普通ですから(たまに名を成してから地方に隠棲する(・・空海→高野山・道元→永平寺のように特別有名になりますが・・・)地方から人材が流出して首都に人材が集まる傾向・地方疲弊の国際版となります。
人材流出による地方疲弊の構図については、10/02/03「地方自治と人材3(憲法38)」前後のコラムで連載しました。
海外進出を賞賛するよりは、為政者としては日本に人材が集まるような工夫が必要です。
儲かるところへ率先して移動して行く発想は、遭難した船の船長と取り巻きだけが、安全な(儲かる)ところへ先に避難したようなものです。
最近話題のイタリアの豪華客船の座礁事故では、船長や従業員が我先に逃げてしまったことが我が国では大きく報道されていますが、イタリアに限らず日本以外では本来当たり前のことかも知れません。
第二次世界大戦ではマッカーサーサーが「アイシャルリターン」と言いながら将兵を残して自分が先にフィリッピンを脱出してしまいますが、我が国の感覚から言えばおかしな行動です。
我が国では部隊の長は「最後まで死守する」・・・と言うと玉砕まで頑張る非合理な歪んだイメージが造られていますが、そうではなく日露戦争の廣瀬中佐・杉野兵曹長の故事のように、部下を見殺しにしない・・自分が先に逃げないという思想です。
第二次世界大戦末のソ連参戦時に関東軍が満蒙開拓団を放置して撤退したことが、未だに非難されているのはこの思想によるものです。
原発事故では吉田所長以下の命がけの大活躍が報道されていますし、現地自治体の人々が自分は逃げないで最後まで避難を呼びかけて回っていて津波に巻き込まれた話がいくらもあります。
2度にわたる蒙古軍撃退も単に嵐が来た結果撃退されたのではなく、地元の武士団・松浦党などが背後の同胞を守るために決死の夜襲攻撃を仕掛け続けた成果によるものであることは誰も疑わないでしょう。
台風が来たのは運が良かったことから神風というものの、運は決死の努力が呼び込むものであることは人生経験で学ぶ事柄です。

組織(集団)の存在理由1

円高になった場合、見込みのあるかどうか分らない生産性向上努力に資金を投じるよりは海外生産比率を上げる方が結果が分かりよいので、外国人株主はその決断をすることに傾きます。
ところが、国民を守らねば・食わせねばならないという命題から我が国の企業は始まっていますので、利益確保ののために安易に海外移転をする企業はありません。
安易に海外移転するとその時点で国民の支持を失うし、同胞意識で成り立っている我が国の宗教的指弾を受ける気配です。
わが国の国民はキリスト教か何教かと聞かれると、無宗教と答える人が多いのですが、実は仏教でもキリスト教でもどちらでも良いと言うだけで、その上位にある「日本教」に骨の髄まで染まっている民族とも言うべきです。
これに反する宗教は、何教であろうと存続できません。
税金が安い等経済的利益優先で本拠地をシンガポールに移した村上ファンドは、その時点で国民の支持を失ったようです。
日本の企業は経営者の利益を出すためのみにあるのではなく、構成員・部落共同体・いまでは従業員を食わせることが第一の使命ですから、本来アングロサクソン・ユダヤ商法流の株式会社・・利益さえ出せればどこで商売しても良いし、儲けるためには従業員を減らせるだけ減らせば良い・・企業利益の最大化を図るために海外に出てしまっても良い・・自国民従業員の数をゼロにしてしまい国民が食えなくなっても構わないと言うシステム向きではありません。
更に言えば、構成員を養えさえすれば良いならば、構成員ごと環境の有利な国外移動しても良いことになりますが、我が国の場合、郷土愛と一体化しているところもあって、そうは簡単ではありません。
出エジプト記のユダヤ・キリスト教やイスラムあるいはフン族・ゲルマン民族の大移動は基本的に考えられない・・我が国の集団意識は、郷土愛意識と一体不離の関係にあるように思われます。
原発に汚染されてもしょっ中大津波が来るとしても、その地を離れたくない意識が強いのも特異と言えるでしょうか?
どこの国民でも一度住み着けばそこが良いので簡単に移動しないのが普通ですが、我が国の場合、稲作農業で、水田を何世代にもわたって作り上げて来た歴史が長いので他民族よりもその意識が強いだけかも知れません。
利益だけに着目する社会・・に戻します。
交通事故等の損害賠償事件をやっていて思うのですが、(得べかりし利益の賠償だから)加害者の方は事業で得るべき利益だけ賠償すれば良いという考えで主張して来ますし、裁判所や法律家もそのような考えが基本です。
しかし経営者としては、収支トントンでも自分が働いていることによって多くの従業員を養っていると思ってますので、経営者が事故で休んで従業員が路頭に迷ったのをどうしてくれるという意識です。
経営者が事故にあって8ヶ月休んでも、事故前の利益が月10万円しかなかったのなら10万円×8だけ賠償すれば良いだろうと言われると頭にきてしまいます。
利益追求を目的とする株式会社組織が本来で、それ以外は間違っているというのではなく、利益追求型の組織ばかりではなく、日本的な組織構成員を食わせるための団体組織があっても良いのですから、この日本モデルを世界に発進して行くべきかもしません。
利益追求型ではないと言うと非利益・公益型・・ボランテイアという対比ではなく、(これが欧米流組織論です)第三の道・・我が国のように組織構成員の生活を守るための組織もあっても良いでしょう。
世界的に見ても企業の外に国や自治体はそうした目的で存在しているのですから、別に目新しい概念ではありません。
学生時代に読んだ本にゲゼルシャフトとゲマインシャフトの対比があったのですが、今は英米あるいはユダヤ流儀のゲゼルシャフトの思潮が幅を利かせ過ぎです。
ゲマインシャフトの意識を復権してこれを私企業にも及ぼしたらどうかというだけです。
企業は金儲けに邁進していれば良くて、時々社会貢献・寄付をすれば良いのではなく、企業自体に構成員に対する責任があるという意識の復権が要請されます。

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