大政奉還と辞官納地2(王政復古)

大政を奉還しても,「猶見込之儀モ有之候者」なおその先に見込みあるから心配するなと諸候群臣に前日に示したのは分りますが,同じ文書を天皇への上表にそのまま使ったのでは、天皇に対して失礼ですが、消し忘れだったのか意味不明です。
当時の「見込み」は(今は可能性に重心があるの)と違って、単に「この先、どうなるのか気になること・・」くらいの意味だったかも知れません。
その上で,二条城では群臣に対して「いささかの忌諱を憚らずに意見を述べよ」と言ったことになります。
諸候に示した文書では「候者=そうらわば」と仮定形になっているのに対して、天皇に対する上表分では「候得バ」と過去形(この場合の「バ」は「・・ので」という意味?)になっているのも気になります。
心配する向きが多かったので,諸候に意見を求めて欲しいといった内容になります。
確かにこの後朝廷は急いで諸候を京へ招集していますが、形勢・・様子見をするために殆どの大名が上京せず朝廷側で督促のために何回も文書を出している様子です。
11月半ばに島津が3000の兵を率いて上洛し,12月8日にようやく山内容堂が到着して、これを待って翌12月9日が岩倉らによるクーデターとなります。

慶應三年十二月八日
(実際の布告は12月9日(1868年1月3日)ですが、何故か底本では8日付らしいのです・・この日岩倉邸に集まった薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣に示した原稿が出回っているからでしょうか?
・・繰り返しますが,このコラムは私の独自の研究ではなく,ウイキペディアなどからの引用文プラス想像です。
 復古大號令布告

德川内府從前御委任ノ大政返上將軍職辭退之兩條今般斷然被
聞召候抑癸丑以來未曾有之國難
先帝頻年被惱
宸襟候御次第衆庶之所知候依之被決
叡慮
王政復古國威挽囘之御基被爲立候間自今攝關幕府等廢絶即今先假ニ總裁議定參與ノ三職ヲ被置萬機可被爲行諸事神武創業ノ始ニ原ツキ縉紳武辯堂上地下ノ無別至當ノ公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊
叡念ニ付各勉勵舊來驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ盡忠報國ノ誠ヲ以可致奉 公候事

一 内覽 勅問御人數國事御用掛議奏武家傳奏守護職所司代總テ被廢絶候事
一 三職人體(姓名略ス)
一 太政官始追々可被爲興候間其旨可心得候事
一 朝廷禮式追々御改正可被爲在候ヘ共先攝籙門流ノ儀被止候事
一 舊弊御一洗ニ付言語ノ道被洞開候間見込ノ向ハ不拘貴賤無忌憚可致獻言且人材登庸第一ノ御急務ニ候故心當ノ仁有之候ハ早々可有言上候事
一 近年物價格別騰貴如何トモ不可爲勢富者ハ其富ヲ累ネ貧者ハ益窘急ニ至候趣畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者ノ大寶百時御一新ノ折柄旁被惱
宸衷候智謀遠識救弊ノ策有之候者無誰彼可申出候事
一 和宮御方先年關東ヘ降嫁被爲在候得共其後將軍薨去且
先帝攘夷成功ノ
叡望ヨリ被爲許候處始終奸吏ノ詐謀ニ出無御詮ノ上ハ旁一日モ早ク御還京被爲促度近日御迎公卿被差立候事
 右之通御確定以一紙被仰出候事

12月9日佐幕派の占める御前会議終了により公卿が退出した後で、午後にはこれを決行して御所の9門を薩摩を中心とする兵が固めてしまいます。
これによって幕府も幕府寄りの摂関家・上級公卿の役職も全部廃止してしまい政府機関が3職(これが次の政体書で太政官制度になって行くのです)だけになるクーデターでした。
12月9日夕刻からの最初の三職・小御所会議での辞官納地論は社長を辞めるならその給与ももらえなくなるのは当然と言う論理になるのでしょうか?
しかし幕府の仕事に関しては家禄の外に役料制度があり(足高の制)役職に耐えられずに辞職した場合その役料を失うのは分りますが、先祖伝来の領地経営権まで失う謂われがないので、大政奉還と領地返納命令とは論理的に結びつきません。
社長の給与や社宅は返すとしても自宅や先祖伝来の農地・山林まで取り上げられる理由はありません。
国家全体の大政をする能力がない・指導力がない(謙遜の表現に過ぎません)ので覇者の地位を下りると言うだけで、自分の領地経営能力がないと言うものではありません。
経団連会長職をやめることと自分の会社が国家に没収されることとは関係がないことです。
ただ、朝廷(倒幕側)としては大政を奉還されても直轄領がないのでは裏付ける経済が成り立たないので、円満解決では慶喜の思惑通りに諸候会議を天皇の名で主宰するだけで、最大軍事力のある徳川家の意見が重きをなすことになってしまいます。
それでは薩長にとっては、今まで通りでしかない(これが慶喜の思惑でした)ので、ここで道理に反しても徳川家に喧嘩を売って勝負に出た・・徳川領の没収しかなかったとも言えます。
没収が成功すると薩長プラス旧徳川領の税収が新政権の経済基盤になるからです。

大政奉還と辞官納地1

大名があえなく失職してしまった流れを見ると、大政奉還後に諸候会議の議長にでもなれると思っていたら直ぐに領地返納命令→朝敵になってしまった徳川慶喜に似ています。
大名の場合巨額の借金を踏み倒していた以上は、(経営能力がないと言うことです)現在の政治感覚から言っても経営責任を取るのは当然だったと思われますが、徳川家の場合どうでしょうか?
慶喜の場合、大政奉還の理由として以下に紹介する通り「・・・政刑当ヲ失フコト不少(少なからず)今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候・・」と自ら、政権担当能力ないことを披瀝しているのですから、政権担当出来ないならばその裏づけたる領地も返納しろと言われたのは一応の理が通っています。
以下は、07/18/05「明治以降の裁判所の設置1(大政奉還)」で紹介したところですが、もう一度大政奉還時の原文を紹介しておきましょう。
大政奉還の上表文
○十月十四日 徳川慶喜奏聞
臣慶喜謹而皇国時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候况ンヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ愈 朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇国ヲ保護仕候得ハ必ス海外万国ト可並立候臣慶喜国家ニ所尽是ニ不過ト奉存候乍去猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候 以上詢


祖宗以來御委任厚御依賴被爲在候得共、方今宇内之形勢ヲ考察シ、建白ノ旨趣尤ニ被思食候間、被 聞食候、尚天下ト共ニ同心盡力ヲ致シ、 皇國ヲ維持シ、可奉安 宸襟 御沙汰候事

上表分最後の「乍去(さりながら)猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候」の文意は(前後の事情勉強不足のため)不明ですので、ここで自己流の推測で書いておきます。
「見込みの儀もこれあり候えば」・・何の見込みと言うのでしょうか?
まさか,奉還してもどうせ朝廷には運営能力などないからその後徳川家に運営を頼むしかないと言う見込みでしょうか?
上表文提出の前日、二条城に諸候またはその代人としての重臣を集めて、この上表分の下書きを披露していますが・・。
上表の前日二条城で諸候に示した下書きの最後は、以下の通りになっています。

十月十三日慶喜諸藩ニ示ス書
「我 皇國時運ノ沿革ヲ觀ルニ(以下上表分とそっくり同じです)・・・乍去、猶見込之儀モ有之候者、聊忌諱ヲ不憚可申聞候。」

同日老中副書

今般上意之趣ハ、當今宇内之形勢ヲ御洞察被遊候處、外國交通之道盛ニ開ニ至リ、御政權二途ニ相分候而者 皇國之御綱紀難相立ニ付、永久之治安ヲ被爲計候遠大之御深慮ヨリ被 仰出候儀ニ而、誠以奉感佩候、殊ニ從前之御過失ヲ御一身ニ御引受、御薄德ヲ被爲表、御政權ヲ 朝廷ヘ御歸被遊御文言等、臣子之身分ヨリ奉伺候得者、何共以奉恐入、涕泣之至候、就而者、此上益以御武備御充實相成不申候而者、決而不相成儀ニ付、各ニ於テ聊氣弛無之、前文之御趣意相貫、御武備相張候樣、一際奮發忠勤、精々可被申合候

老中副書は第二次世界大戦敗戦時の「耐え難きを耐え・・」と似たようない言い回しで,「殊ニ從前之御過失ヲ御一身ニ御引受、御薄德ヲ被爲表、・・・何共以奉恐入、涕泣之至候」と感激した上で、この上は、一致団結して諸候はいよいよ武備を怠らず忠勤に励むようにと言う内容です。

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