芭蕉が奥の細道で紹介しているように、(行く先々で豪農が人を集めて待ってくれている)地方周りは結構収入になったのです。
子供の頃に誰の作品か忘れましたが「亂菊物語」という本を読んだことがありますのでその記憶で書いています。
大正昭和の頃でも東京の絵描きが房総半島に出ると、地元の素封家が歓待してくれるので贅沢できたような日記みたいな旅行記のようなものが千葉市立美術館の企画展に出ていました。
水彩画の大下藤二郎だったか?その道の人にとっては大した人でしょうが、無関係な素人にとっては馴染みのあるほどの大家ではないのですが、ざっとこんな風です。
都の文化を地方に伝播する職業・今の地方公演のようなものですが、旅芸人では食えないので、新興大名家のお抱えになって食いつないでいたのでしょう。
こういう受け入れ先になって地方文化の花を咲かせた初期大名では、中国筋の太守大内家が知られています。
大内家の栄華の後というべきか?山口県に家族旅行(鍾乳洞入り口で末娘に抱っこ1とせがまれて長男におんぶしてもらった記憶があるので、末娘が3歳頃か?)した時に雪舟庭園を見学したことがあります。
この記憶が正しければ、雪舟が活躍していた頃と大内家が繁栄していた時期が重なることを知ることができます。
西行や雪舟は京で食えなくなって諸国行脚したのではないでしょうが、下克上の典型?大内家も滅びる頃には、こんな大物を専属で抱え込めるほどの大大名(信長〜秀吉)が成立するには安土桃山時代を待つ必要がありました。
今川義元は偶然?桶狭間の戦いで負けましたが、もともと今川義元みたいな公家風生活・自分が先頭切って突撃する勇気のない大将では国人層をまとめて戦うには務まらない時代に入っていたのです。
それまでは少しでも余裕があれば鉄砲一挺でも多く買う必要がある・・・一人でも多くの兵を養う必要がある時代でしたので、文化といっても細々とした伝来になってきます。
みやこヒトは文化を売るしかなくなった・・宮廷文化人が地方に疎開してそれを売り物にしたので、我が国文化担い手が地方に拡散し草の根に広く行き渡った時代ですが、これが後世日本民族の民度向上底上げに大きな影響を与えたことになります。
何れにせよ文化伝道程度の役割しかなくなった時点で古代から続く大和朝廷支配が実質的に終わったことになります。
盆暮れの付け届けもなくなったころには、25日紹介したように下克上の結果に対する正式承認を得るために、越後守護代の長尾氏や尾張守護代家の奉行織田家などから献金が来るようになります。
朝廷やこれにすがりつく公卿らも含めて安定収入が皆無になり、この程度の臨時官位授与に対する対価収入で、朝廷・廷臣や将軍家が息をつないでいた事がわかります。
朝廷や公卿の強制徴収権がなくなると、任意徴収・寄進に頼るか何かを売る・何かの対価を得ない限り生きていけません。
ところでこのような不明朗な(当時「献金」という用語があったとは思えませんが、25日長尾為景等のウイキペデイア引用の続きなのでこの用語を使います)献金を禁忌したのが徳川幕府であり武家社会の基本ルールでした。
これを明文化したのが禁中並公家諸法度だったのですが、朝廷の方は、従来通り将軍家を通さない官位授与禁止の厳格化くらいに軽く受け止めていたのでしょうか。
頼朝以来のルールは朝廷が勝手に官位授与した場合、(義経の例で有名ですが・・)武家秩序内規違反で武家権力内で処罰を受ける秩序罰でしかなかったのが、朝廷に授与自体を禁じる・朝廷の官位等授与権限は幕府下位の一部門としての位置付けを明文化したことになります。
ここまでは武家法度の制定でなく「禁中」に対する法度制定ですから、禁中=朝廷もその拘束を受けるようになった点については、朝廷側も明白・深刻に受け止めていたでしょうが、本来武家の支配下になかったはずの宗教界の地位授与にまで禁止範囲が広がっていた点を甘く見ていたし、朝廷側の重要資金源でもあったのでおいそれと飲めない面もあったのでしょう。
幕府とすれば、幕府=軍政府にとどまらず国内全政治上の権力頂点に立つ・・幕府が朝廷の上に君臨するからには、武家以外の僧位等の名誉職の授与権も幕府に属することを明確にし、これに反した場合大目に見ることが出来ない事件だったのでしょう。