ピープル2と文字文化普及1

韓国で学歴志向が強いのは,「長かったヤンパン支配に対する憧れ」と一般に言われていますが,先進文化・・中国の知識を得られるのは,エリートだけ・・特権維持のために漢字文化独占にこだわって来たことに原因があり,中世を通じてラテン語にこだわった西欧文化人と意識では共通です。
欧米旧植民地でも,飽くまで英仏語等支配者言語文献を読み書き出来る人だけがエリート・・自国文字に翻訳せず民族に先進文化を移植する努力しなかった植民地の王族(傀儡支配層)も同じです。
シンガポール・香港を始め多くの旧植民地では今でも全て自国文字を持たないままで,意思疎通出来るように庶民まで英語を使えるように拡大・・外来文字・言語文化の大衆化を実現しただけです。
数十年前にシンガポール人が日本人の殆どが英語を話せないのを知って,日本人の多くは文盲・・自分達よりもレベルが低い民族だと誤解しているような記事が出回ったことがあります。
初めてビフテキを食べた庶民が,淡白な食事をしている上流階級を馬鹿にしているようなものです。
「子鹿のバンビ」の物語で,一時期人間に捕われていて群れに戻った若い鹿が,人間社会を自慢してバンビのお父さんから[可哀相なヤツメ!」と言われる場面があります。
ローマ社会が王族・周辺人を取り込むために,周辺未開人の主立ったものにラテン語やキリスト文化を身につけさせて、ローマ名誉「市民」の称号を与えて取り込んで行った過程で生まれた概念に過ぎません。
日本も古代には「漢の倭の奴の国王」とか卑弥呼の時代までは冊封を受けて特権(漢語では現地異民族で特権を受けた人が「王」(出先市場支配人の意味)この一定の取り巻きが地中海で言う市民)扱いを享受していました。
日本列島の民族独自性が強まった結果、自らを「天子」と称し,冊封を受けなくなったのは周知のとおりです。
聖徳太子が頭でっかちにイキナリ無茶を言ったのではなく,日本列島は,古来から充分な社会変化してから改革して行く社会ですので遣隋使以前の百年以上も前からじわじわと独自性が出来上がっていたからこそ,聖徳太子がそのように表現したと言うべきです。
要するにこのころには独自民族意識が確立していたと言えます・・この確立があってこそ,白村江の敗戦と同時に列島防衛意識が列島全体で自発的に生まれたのでしょう。
歴史上白村江敗戦→列島一体感形成と思われていますが,実はその逆です。
その前から独自民族意識が出来上がっていたからこそ、元々さしたる武力を持たない(だからこそ,やおよろず体制で))弱体な大和朝廷が大した抵抗もなく遠くの東国人を九州の防人に動員出来た背景でしょう。
民族意識が成熟していたからこそ(中世の蒙古撃退も幕末の植民地化阻止)出来たと言うべきです。
日本以外の西洋あるいは中国では,同化度合いに応じて特別扱いする・・社会構成員仲間として[市民」と」[ピープル」の二種類が出来上がったと見るべきです。
我国では聖徳太子・遣隋使の頃から,異民族支配下の経験・序列意識がありませんので,市民と言えば単に行政区画としての「◯◯市に住む人」と言う程度の意味しかありませんし,国民と人民の区別もピンと来ない所以です。
異民族支配の道具として名誉市民・・今でも外国の優秀な人材を取り込む道具としてレジオンドヌール勲章やガーター勲章・・ナイトの称号・名誉貴族・名誉学位などの称号を与えて西洋では取り込むのに利用している大もとです。
韓国はシンガポールが英語を庶民に広げたように戦後外来の漢字を庶民に広げる方向を採用するには,(英語に比べて漢字は難易度が高く)無理があるので語順に無理のない日本の漢字仮名交じり文の利用が合理的だったのですが,文化独立性を優先するために,逆に全面廃止・・民族文字・ハングル一本にしました。
これはこれで(民族独立の意気込みからしてある程度の無茶・元気も必要です)見識のある態度です。
中国も外来文化輸入社会として韓国の先輩と言うだけ・・李氏朝鮮のヤンパンと庶民の関係同様に、士大夫層のエリ−トと庶民とでは文化が隔絶して数千年経て来ました。
何回も書いて来ましたが、四書五経・漢詩・詞文などの高尚な文化を継承して来た士大夫層等はホンの一握り(十何億人中数百人〜数千人以下?)であって,庶民とはまるで文化の違う異民族のような関係だったのです。
民度差が国力差になって来た現在社会において,中国でも遅ればせながら,庶民も人的資源として活用する必要に迫られて来ました。
庶民のレベルアップ・戦後文字文化を庶民に広げるには漢文表記は難し過ぎて無理があるものの、(中共政権は中華の栄光が拠り所ですから)香港のように英語文化圏に入るのは沽券に関わるのでそれは出来ません。
そこで、漢字を簡体字化・・結局は日本の仮名文字の数段階手前の文字化して大衆化・・一般国民が読み書き出来るように努力するようになりました。
韓国のハングル普及と同じ動きですし、時期もほぼ同じです。
ウイキペデアの記事です
「簡体字(かんたいじ、中国語: 简体字、拼音: jiǎntǐzì)または規範字(きはんじ、规范字、拼音: guīfànzì)は、1950年代に中華人民共和国で制定された、従来の漢字を簡略化した字体体系である」
ところで、・・自民族が修得出来ない自国発祥文字とは何か?と言う基本的疑問に発展します。
民族自らの自己表現道具として生まれて来た言語表記であるならば,[てにをは」の助詞がないと不便ですが,我が国に一般に伝わっている中国の漢文表記は私の子供の頃に良くあった電報のようで,「てにをは」がありません・・。
元々象形〜表意文字の発展は原始形態であって,(絵文字を並べて意思疎通しようとする場合を考えれば分るように)表音文字で補足する方法がないと意思をきめこまかく表現する文字として完成しないと言うべきでしょう。
外国へ行って単語だけ並べて何とか物を買ったりタクシーに乗っているような生活は半端な状態です。
何となく犬猫が「ワン」と言ったり少ない表現で最低の意思疎通しているのに似ています。
以上は,私がフランス・イギリスにへ行ったときに「犬になったみたい!」とおかしく思った経験によります。
これを国民が日常的に行なっているしかないとしたら,知能の発達に大きな影響があります。
ただし犬猫と違い人間にはいろんな発音があるので,文字化出来ない不便だけですが・・・。
文字化しないと形而上的観念の反芻・思考訓練には不便・・知能の発達に甚大なマイナス影響を与えます。
ただし,この辺もいつも書くように素人の意見ですので,(漢字は専門的には前後の文字によって意味が変わるので表意文字ではないと言う分類らしいですし)そのつもりでお読み下さい。

シチズン(文化人)とピープル(無知蒙昧?)1

市民・・都市国家の始まりは,フェニキア人等が地中海沿岸に進出して市場を開いた場合に,現地未開人の夜襲等を防ぐために先ずは柵で囲んで城門を夜間閉じるのが先決だった歴史を物語るもので,都市国家とは異民族地域に進出した場合の現地駐在拠点に始まることを書いて来ました。
このやり方は(私の仮説によれば・・)メソポタミア文明の到達点であった中国古代も同じで,川沿いに荷物・交易品を運び現地有力者と交易場所を決めて交易する・・日帰りは不能なので,現地駐在時に夜襲を防ぐため、日没とともに城門を閉じて夜明けとともに城門を開けて(鶏鳴狗盗の故事のとおり)鑑札のある地元業者だけ出入を認める・・これが普通のやり方でした。
集落の交易点は水運を利用して始まるのが普通ですが,中国の場合水源近くの最上流から始まった不自然さは,中央アジアを通じて山を越えて来た異民族が最初に居着いた場所(山越え後平野部に出たばかりの扇状地)とすれば理解可能です。
中国の場合海岸沿いに都市文化が広がらずに,黄河上流から下流にかけて順次下りながら発展した原因です。
すなわち都市国家形態の社会は先進異民族が遅れた地域へ進出して来た名残と見るべきでしょうし,市民(元は駐在員・長崎出島の居留民のようなもの)と城壁外の民族とは別部族と見るべきです。
ただし地中海世界とは違い西洋大平原の農業・牧畜地帯では都市住民と周辺住民とでは,16年12月29日に書いたように同一民族なのでローマ文化受容者とその他の違いでしかありません。
そこで違いを強調するには,「優れた外来文化(キリスト教)を持って来た人と・これを吸収した者のみ」がローマ市民資格と言えます。
キリスト教は西洋の原住民にとって自分たちで生み出した宗教ではない・隔絶した文化レベル差があったコトからキリスト文化を身につけた教養人だけが名誉?「市民」であり、その他はピープルと言う差別意識が生まれたのでしょう。
インデアンのうちで白人文化を身につけたものだけが、人間・市民扱いされる教育をして来たアメリカのインデアン同化政策はこれに似ています。
欧米植民地支配政策もこの延長で,地元酋長・有力者を留学させて欧米文化を理解させる・・名誉白人扱いで上流社会に出入りさせて,特権意識をくすぐり満足させていました。
自国に帰ると貧しい低レベル環境・文化に嫌気をさして文化施設その他インフラの整ったロンドンやパリ・・気の利いた詩文を口ずさめば受ける高度な社会に早く帰りたいと思うように仕向けて来たのです。
日本古代に国司等になって地方赴任すると早く都に帰りたいと願うのと同じ心境です。
ここで、元々の関心である欧米のシチズンとpeopleとの対置に戻ります。
フランス革命で支配権を奪取したのは城壁に守られた市内に住む「市民Citizenの政治参加の権利」であって庶民peopleは対象になっていません。
16年12月17日紹介した記事最後にあるように、フランス革命ではブルジョアのための革命である本質を逸早く表明しています。
ブルジョアとは何か?一般に教養と財産のある「市民」と翻訳されている階層ですが、ここで言う教養は・・天動説を含むキリスト教の教えが中世の支配概念です。
これを体系化するために努力していたのがキリスト教神学者であり,西洋の学問は神学が全ての始まりです。
神学は天動説と言う迷妄な理論ばかりが有名ですが,実は芸術表現も神学によるテーマしかなく,我が国のように花鳥風月や個々人の心情描写が始まりではありません。
漸く宗教から解放された後・・近代でも王様の肖像画中心ですし・・ミレーの晩鐘のように風景が絵画に入って来てもなお教会の鐘の音を背景にする程度です。
ウインザー城を見学して驚いたのですが、天井その他あちこちに書いている絵画は、キューピッドその他神話に出て来るらしい人物画ばかりです。
一緒に行った子供が,人間ばかりで夢に出て来そうだと怖がっていました。
フランス凱旋門の屋上にある塑像?も似たようなものです。
ルネッサンス芸術と言っても,(全部を知らないので遠慮して書くとほぼ全部?)キリスト教神話に基づくものばかりです。
日本の例・・万葉集の歌です。
「山部宿禰赤人が不盡山を望てよめる歌一首、また短歌
  天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き
  駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば
  渡る日の 影も隠(かく)ろひ 照る月の 光も見えず
  白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける
  語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は(317)
反歌
  田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける」
赤人は(生年不詳 – 天平8年(736年)ですし、万葉集には自然描写が一杯あります。
数百年下がると日本人らしいきめ細かな感性も歌われています。
「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかねぬる」
上記は藤原敏行(生年不詳〜906〜7年頃死亡)ですが、西洋は近代に入っても肖像画に毛の生えた程度の絵画表現だったのですから,西洋文化の浅さが分ります。
自然現象その他全てが,キリスト教と言う迷妄な宗教・・神学と言う名の学問もどき?に縛られていたのです。
以下は冗談ですが、日本に来た西洋人がちょっとした地震に大騒ぎするのは,未だに地動説を心の底から信じていないからではないでしょうか?
日本では天地(あめつち)が動くことは,万葉の昔から誰でも知っていることです。
古今集仮名序(現代語訳)
「仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された」
「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」
上記に対する江戸時代の狂歌
「歌よみは下手こそよけれ天地の 動き出してたまるものかは(宿屋飯盛)」
ここで西洋庶民(ピープル)の文盲・・無知蒙昧時代が長かった原因・・元々の関心である欧米のpeopleとの対置に戻ります。
フランス革命で支配権を奪取したのは城壁に守られた市内に住む「市民Citizenの政治参加の権利」であって庶民peopleは対象になっていません。
16年12月17日紹介した記事最後にあるように、フランス革命ではブルジョアのための革命である本質を逸早く表明しています。
ブルジョアとは何か?一般に教養と財産のある「市民」と翻訳されている階層ですが、当時のキリスト教に対する批判的文化人であれ,キリスト神学教養が基礎になります・・例えばニーチエFriedrich Nietzsche(1844-1900)の「神は死んだ」と言う哲学はキリスト教神学の理解なしには書けないでしょう)がフランス革命で対象としていた教養人です。
トランプ氏以前のアメリカでは,「民主主義価値観共有」が文化人の資格です。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC