統計「不正?』騒ぎと性悪説の法家思想1

従業員500人以上の大企業調査手法の変更は今の内閣が始めたのではなく、04年から東京都調査分からはじまりその後大阪などに広がっているというのですから、現場工夫で合理化していった・・規則あるいは法改正かの必要性に気付かなかった可能性さえあります。
(私が知らないだけか不明ですが)全数調査や訪問方法などの末端ルールが法の定めになっているとは想定しにくいのですが、政令か省令か、あるいは細則?要綱?ガイドラインなのか主務官庁である総務省の通達に反していたのかさえメデイアははっきりさせていませんでしたが、2月14日日経新聞朝刊5p焦点②には、調査方法変更には総務省の承認を求める義務違反でないかの書き方が出てきました。
以下素人意見ですが、元々統計や世論調査はサンプル調査が原則と思われますが、全数調査ルールがいつ決まった手法かの報道がないのですが、例えば地方県で五百人以上の企業が2〜3社しかない場合に1社だけのサンプルで2〜3社平均を出すのでは統計的意味がないので全数調査にした意図がわかります。
例えば銀行とスターバックスの2社の場合、銀行員給与を調べて、スターバックス店員給与を同率で推計計算するのは無理があるでしょう。
ちなみに現時点の500人以上企業数の県別統計をネット検索するとデータが古いですが、以下の統計が出てきます。
http://www.gender.go.jp/kaigi/senmon/kihon/kihon_eikyou/pdf/02_2_chosakai_todoufuken.pdf

図表13都道府県別従業者規模別企業数図表
(備考)総務省・経済産業省「平成24年経済センサス-活動調査(企業等に関する集計産業横断的集計)」より作成。

表が大きいので引用を省略しますが、東京神奈川大阪愛知福岡等を除くと千葉でも10社しかなく青森は1社しかなくその他は概ね2〜3社しかありません。
ところが経済成長によって世界企業(東京等の大都市集中)が数え切れないほどになっている現在全数調査は物理的に無理になってきたし、対象先が千社以上もあれば業種ごと(同業種の賃金傾向はほぼ横並びです)のサンプルを作れるので偏る不都合はありません。
報道によれば東京都だけで現在約1500企業もあるというのですから、全数や全戸戸別訪問(大手の場合訪問してお願いして(お茶を飲んで)帰るだけでその場で聞き取れる(一定期間経過後もらいに行くのかな?)ものではないし、本社担当者と面談しても、何(雰囲気?)が分かるか不明でその割に手間がかかり過ぎて非効率なのは誰の目にも明らかです。
ここで言いたいのは政争の是非ではなく、昔から日本社会は理念で一刀両断でビシッと末端まで貫徹していく怖い社会はなく、現場の必要に応じて緩やかななし崩し修正していく社会であったということです。
革新系の主張は秦始皇帝に始まる専制支配体制強化に役立った法家の主張のように理論だけで貫徹・解決しようとする傾向があり、(有名学者の動員大好きです)理論どおりでないのはどこかに邪(ヨコシマ)な癒着?「不正」があるはずというスタンスによる政権追求パターンですが、不正を前提にした観念的主張が日本の社会実態にあっていないので国民支持が広がらないのです。
メデイアは頻りに「統計不正は国家根幹の政策を誤らせるから大罪だ」という大上段議論を展開していますが、東京、大阪等のコスト削減策が統計を歪めたのか?の実態議論があまり見えません。
出回っている議論を見た印象では、サンプル調査した以上実数ではないから・・例えば3分の1しか調査しないならば、実数値に直すには3倍する必要があるのにそれを怠っていたから、(大手企業の賃金が高いのに「その人数がすくなく出ていた)平均賃金が実際より下がっていたので統計数値を歪めたということらしいですが、それは東京都が3割のサンプル調査に切り替えるのと同時にその計算方法をセットでしなかったミス(法理論ではミスも違法の一部ですが「不正」とは言いません。
あたかも政治が絡んだ不正であるかのような内閣追及騒ぎですが、どこの政府でも賃金が下がっていると発表したくないのが普通ですから、敢えて時の政権が賃金統計を低く出す奸計をめぐらしたと思う人は皆無に近いのではないでしょうか?
先秦時代の法家の思想・・元々性善説に対する性悪説から始まっているのが法家思想ですから(日本は財布を拾ったらほぼ90%以上の人が届ける性善説の社会とすれば、届けない10%の人ももちろんいます。
懐に入れてしまう少数派の人にとっては「庶民が自由な判断でやって正しいことなどあるはずがない」・「決裁なしにやること自体が不正」という思い込みがあるのは仕方がないのでしょうか?
高学歴の研究者意見に従うべきで現場工夫を敵視する傾向が見えます。
野党や文化人やマスメデイアは「良いことをしても役割外のことをすれば処罰する法家的思想」・・形式論・・その根底に性悪説に基礎を置いている印象です。
彼らは権力批判道具として民主主義や自由を主張しますが、内面では他人の自由を認める懐の深さがない人の集まりではないでしょうか。
中ソ等の専制的独裁制を尊崇する所以です。
米国の場合民主主義というものの、文化の底が浅いというか、エリートや強力なリーダー重視社会で基本的に庶民の知恵を尊重する歴史がありません。
権力構造は国民間の猜疑心・「性悪説」を前提にしていますし、国民も規制に違反さえしなければどんなに家賃を引きげようと金融でいくら儲けようと勝手」(暴利は許されない意識もない)という論理で突き進むようです。
この結果一握りが巨額収入を得て多くの人が路頭に迷おうとそんなことは法に触れない限り気にしない社会になっているようです。
アメリカは民主主義国家を標榜していますが、「人民による人民のための・・・」というリンカーン演説は政治的レトリックに過ぎないとみるべきでしょう。
その結果、ノーベル経済学賞をもらった?金融理論そのまま、シリコンバレー等で高額所得者が高額で住居を購入するとその取引事例を基礎にした高額値上げが従来の居住者に通告され、払いきれない古くからの居住者が路上生活者に転落していく流れが起きているように見えます。
日本のように「そうは言ってもね・・」という修正要素(日本の各種改正が遅々として進まない・民族社会に応じた進歩にはこれが一番必要)が働かない社会です。
私が常々批判している「秀才が国を滅ぼす論」の一場面です。

モラール破壊9(法家の思想3)

アメリカの標榜する民主主義社会とは、極論すれば「多数でさえあれば,内容がでっち上げでも何でも決めて良い」「決めたらそれが正義」という社会です。
(実際には「そんな無茶はありません」と言うでしょうが、仮にそうなっても誰も文句言えないシステムであることを書いています・・)
憲法という歯止めがあると言う人がいるでしょうが、でっち上げデータに基づく法制定・裁判のリスクに対しては、憲法違反の問題にはなりません。
極東軍事裁判のように戦勝国が占領支配下で好き勝手な裁判システムを作り、裁判という形式さえ踏んでいればその認定は正義ということになります。
日本語で言えば茶番劇そのものです。
「制度を活かすも殺すも人次第」というのが我が国のコンセンサスですが、そこには「法手続きさえ履践していれば結果はどうでも正義だ」というあんちょこな正義の否定があります。
アメリカが好きな人選をして形式的な裁判手続きをしたというだけで何故正義になるのか日本人のほぼ誰一人納得していないのが現実でしょう。
内容の当否を問わずに・・手続きさえ尽くしていれば正義と言う英米法のデュープロセスオブローの思想は、世界の覇者になった英米が好きなようにルール・・国際標準や国際法廷を組織出来ることを前提にしたルールです。
会計/税制・子どもの奪い合いに関するハーグ条約その他の全ての分野でアメリカの主導する世界標準が幅を利かししています。
強者の自分の都合に合うように(内容の善悪を区別しないで)ルールを作りさえすれば、これを守らないのが悪であると言うのが・・英→米支配の世界ルールになっているのです。
これでは専制君主や独裁権力が恣意的に価値観を決めて支配しているのと同じで、強者支配の貫徹道具にしかなりません。
私が大学に入ってルール・オブ・ロー「法の支配」を教わったときには初めて聞く新しい観念でしたが、(今では高校生でも常識かも知れませんが・・)「手続きさえ整備されていれば内容はどうでも良い」となれば、古代中国の韓非子が唱えた法家の思想とどこが違うの?と言う疑問が出てきます。
韓非子の言う法の支配は制定内容が(当時は国民の意見を聞く時代ではないので)独裁者あるいは専制君主の意向次第ではあるものの、(その時代なりに正式な君主の命令・・日本で言えば詔勅や御法度になるのには、一定の手順が決まっていたでしょう)部下〜国民は予め決めた法のとおり盲目的に執行する・・法律・命令どおりかどうかで賞罰を決める思想である点は近代以降(英米主導)の法の支配と共通です。
法家の思想は、法(マニュアル)がなくて君主がその場その場で判断していると以前に言ったことと考えが変わることがあって周囲が混乱するから、予め法=マニュアル化しておけば周囲にとって行動基準が前もって分って、合理的と言うに過ぎません。
その代わり事前に決められたルールに従っていれば内容の当否を問わないし、逆にルール違反していれば内容が正当であっても処罰すべきだというのが韓非子の主張でした。
03/05/10「中国の法形式主義1(法家の思想)」のコラムで韓の昭侯がうたた寝したときに衣の係ではない冠の係が気を利かして衣を掛けたことで、却って処罰されたという故事を紹介しました。
もう一度紹介しておきましょう。

 誰加衣者(タレか衣を加フル者ゾ!)

   昔者、韓昭侯、酔而寝。典冠者見君之寒也。
   故加衣於君之上。
   覚寝而説、問左右曰、
  「誰加衣者。」
   左右対曰、
  「典冠。」
   君因兼罪典衣与典冠。
   其罪典衣、以為失其事也。
   其罪典冠、以為越其職也。
   非不悪寒也。
   以為、侵官之害、甚於寒

(括弧内は私の独自訓読です・・オモへラク、侵官の害(越権行為)、寒より甚だし)

紀元前3〜4百年前(韓昭侯・在位B.C.362-333の人です)から中国では命令・ルールの是非を論ぜずに、ともかく法を盲目的に守ることを良し・・守らない方を悪とする思想でやって来たのです。
所謂「悪法も法なり」というソクラテスの意見と同じです。
ソクラテスのこの言葉が日本で誰でも知っているほど何故有名になっているかと言うと,我が国では「悪法は法の効力を持ち得ない」という自然法的原理が行き渡っているから・奇異過ぎて理解不能な感じがするからちょっと読むと心に引っかかって忘れられないからです。

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