日本の人権状況を良くすることは、結果的に日本のためになるのは間違いないですが、援助交際している女子高校生比率が3割でも13%でも、事実に基づかない過大主張すると人権擁護になるのか?
仮に女子高校生の援助交際が国連勧告によって少し減ったとしても、実態以上に不名誉な評価を受ける日本国民の総損害はどうなるのか?
人にはいろんな意見があっても良いのですが、今回の騒動の結果、外務省が抗議し、特別調査官が、13%の数字に根拠がないことを認めて今後この数字を使わないと文書で回答して来たようですから、多分ネット世論だけではなく、国際世論でも、事実に基づかない悪宣伝が総合的に日本のためにならない・・マイナスの方が大きいと言う考え方が常識なのではないでしょうか?
人の信用も組織の信用も同様で、事実を曲げて表現する人や集団は信用がなくなります。
意見を言うときには、事実は事実として正確に紹介し、この事実からこういうことが導かれると言う意見であれば、聞いた人がその推論が正しいか、自分は別の推論をするとか合理的判断が出来ます。
その推論方法のうち、たとえば、特定事実から導かれるABCD4種類の考え方の内、どれを選択するかを多数決で決めるのが民主決定ルールです。
今回の国連特別調査官記者会見は、前提事実を断定する根拠を明らかにしないまま、結論・・自分の主観を事実であるかのように公表したところに問題があります。
パンでもすき焼きでも前提になる量や単価や品質等を正しく表示していて、どちらが良いかを決めるのであって、業者が品質を偽装していると・・和牛でないのに和牛(絹でないのに絹・国産でないのに国産品とか)と表示していると本物の和牛や絹、国産品で作っている業者に比べて割安なので客が間違って選んでしまいます。
消費者だけではなく、政治政策選択についても同様で、多くの人は政治選択の前提になる事実そのものを知るチャンスがないので、大多数の人はマスコミ等の報道が「事実とすれば・・」と言う仮定で考える習慣になっています。
目の前に出て来る食品でさえ、添加物の有無や国産か中国製かを確認出来ない・・業者の表示を信用するしかない状態ですし、ましてや政治問題・・町内と違って県や、国単位になると、遠くの事実・・あるいは近隣に出来る工場でも外から見ているだけでは、何をしているか、どう言う危険物を扱っているかについて詳しくは知りません・・。
ですからマスコミ報道や当事者の事実説明以外に、国民は判断すべき前提事実を直接知ることが出来ません。
直接説明を聞ける人は周辺住民のホンの数%もないですから、結局はマスコミ報道によるしかないのです。
大事故・大災害にあった人でも当事者はそのときは目の前の現象対応に夢中で、後でマスコミ報道を見て何があったのか分るのが普通です。
消費者が業者の品質表示を信用するしかないのと同様に、政治決断・・民主的決定もマスコミ報道を前提に・・事実として多くの人が判断しています。
報道以外に国民が直截知ることが不可能ですから、報道されていたことが虚偽やデッチ上げ、ヤラセでもよいとなると、国民が自由な判断が出来ません。
真実を知る権利がない状態においても、投票権さえあれば、民主国家と言えるでしょうか?
思想信条の自由や、民主主義が機能するためには事実報道が正確であることが必須であり生命線です。
今回の援助交際の報道も私自身立ち会っていないので、そう言う記者会見があったとしたら・・と言う仮定でこのコラムを書いています。
「援助交際をしたことがある女子高生が何%いる」と言う客観データがないと言う報道を前提で書いています・・このように、前提事実が報道に頼っていることが多いのです。
国連特別調査官が、何を調査したのか・・特定グループ中心に意見を聴取しただけで「調査した」と言う安易な発表・記者会見をしたらしいことが発端です。
国連特別調査官と言う権威をまとった人物がマトモな調査もしないで一方的に特定グループの主張する結論を事実であるかのように記者会見し、しかも統計に基づくかのような具体的数字を発表したことが日本人に対する衝撃を広げたのです。
それが国連報告になって行くと世界中の研究者やマスコミはそれ以上の調査不要の「事実」として引用して行くことになります。
一旦国連報告になってしまうと、これは事実ではない・・・・「ない」証明は「悪魔の証明」と言って、不可能であることは、我々法律家の世界では、公理のようになっています。
これが「国連で決着済み」と言われて困っている慰安婦騒動の基礎構造です。