民主主義と正義12(政治資金3)

アメリカの場合、12月3日に紹介したジャーナリスト 堀田佳男=文の意見によれば日本よりも個人献金の限度額が少額なのですが、他方でスーパーPACという束ね屋(フィクサー)の団体が公認されていて、集める資金は無制限になっているので一人(団体)で億単位の金を集めて来るようです。
これがくせ者です。
億単位の資金を集めて来る人物やグループの意見を、当選した大統領は無視出来なくなってきます。
「何事もお金次第」というアメリカの特徴を良く表していませんか?
お金次第と言う点は、拝金主義と言われる中国ともどこか似ています。
アメリカでは弁護士も日本のように「・・士」ではなく・・「er・・屋」ですし、医療も金次第という訳で何事もビジネス・・お金になるかどうかが基準の国です。
中国の拝金主義とどこが違うのか気になる人が多いでしょう。
何でもビジネスにしてしまうアメリカ風とは違い、中国人に言われる拝金主義とは、違法であろうとなかろうとお金になりさえすればいいという意味合が強い印象です。
何でもビジネスになるか否かが基準の国では、違法でも何でもお金儲けに走る意味ではなく、(商道徳・・会計基準・スポーツその他すべての分野で)ルールを守りながらも採算が取れるかどうかの視点を重視するものであって、金儲けと言ってもビジネスとしてのルールを先ず重視している点が重要です。
英米法の精神は「ルール・オブ・ロー」と言われる所以です。
これに対して中国の拝金主義とは、金儲けのためにはルール無視でも何でもやる・・中国で粉ミルクにメラミンを故意に混入している事件が相次いで大問題になりましたが・・(金儲けのためには乳幼児の命など問題にしない)こうした傾向をさしていることが多いようです。
日本では何でも士業にすれば、格式が上がるので、◯◯屋◯◯師から◯◯士になりたがる傾向がありますが、この価値観では、採算度外視してでも義に感じれば粉骨砕身して全力を尽くすべしという意味合いが強まります。
採算度外視と言えば聞こえは良いしその精神は尊いですが、何百に1件ならば可能としても採算度外視では資金的に長続きしない=継続化出来ない(スキルアップしない)し、物事が恩恵的になり過ぎる傾向があり、他方で受益者もこれに馴れると労働意欲の減退が起きるなど問題が生じます。
物事はキチンとルールを守った行為である以上は、一定の採算重視を基本とすべきでしょう。
採算が取れてこそ、継続化してスキルアップが期待出来るしコスト削減努力が実を結び、社会の発展が期待されます。
たとえば、消費者問題・・数千円〜数万円の化粧品の不良を訴えるために弁護士費用を掛けられない・・だから弁護士は無償でこれをやるべきだ・・あるいは税で消費者センターを作って応援・化粧品の品質検査などすべきだという方式・価値観が我が国ですが、アメリカの場合、懲罰的賠償やクラスアクション制度があることを何回か紹介してきました。
仮に自分が千円しか損をしていなくとも、全消費者のために裁判をしているという考え方ですから、裁判に勝てば何十億〜何百億円も貰える仕組みです。
巨額報酬が予定されれば、弁護士も慈善事業ではなくビジネスとして十分ペイしますので同種事件を繰り返し受任する方向になって専門技術化が進み、他方で税金を投入しろという運動をしなくとも、裁判に必要な多額の調査研究費用をその報酬から回収出来ます。
うっかりすると巨額賠償になる心配があれば、企業も細心の注意を払うようになってお互いによい社会になります。
慈善事業・手弁当でやって上げていると威張っていると(費用持ち出しでは繰り返すのは経済的に無理ですから、専門化し難いだけではなく)工夫もオザナリになり易いし(無償でも良くやる弁護士が一杯いますが・・正義感だけに頼っていると)スキルの進歩・ノウハウの蓄積が緩慢になり、社会の進歩が遅れてしまいます。
弁護士と企業からの受注に頼る調査研究業者の場合、顧客獲得競争によって需要に応じた施設・要員が絶え間なくリニューアルして行きますが、具体的需要のない所に予め想定して税で多目的な調査機関を作ると需要とのミスマッチが起き易くなります。
何ごとでも税金に頼るばかりの傾向になると、無駄が多くなって国民や企業の税負担が重くなる弊害が無視出来ません。
アメリカのようにビジネス重視社会では税で負担しなくとも、社会に必要なものはそれをビジネスとする者が必ず現れて、原則としてビジネスとして成り立って行く傾向があります。
ただし、人権侵害の場合、相手が個人であることが多いので、懲罰賠償を認めても侵害者には支払能力のない所から、ビジネスロイヤーばかりではどうにもなりません。
アメリカ型ビジネス社会は、こうした分野のみ税で対応して行く精神なのでしょう。
大方の人にとってどうにもならないように見えても、ビジネス的に開拓してく人材が現れますので、どうにもならないとして税負担に安易に切り替えるのは考えものです。
これまでの社会の進歩は、誰も思いつかないような新機軸の創意工夫でビジネスモデルを作った人が大もうけして来たし、社会も進歩して来たのです。
たとえば、最近流行のセクハラやパワハラになると企業相手に出来る場合がありますので、人権侵害もビジネス化の工夫次第とも言えます。
水俣病その他石綿訴訟でも何でも我が国は安易に国の事前規制責任を求め過ぎます。
裁判所も国の責任を認めるのに急で、企業責任の方が従になり勝ちです。
これでは国の関与・事前規制ばかり重視する国になって、役人ばかり増えてしまい活力が殺がれてしまいます。

民主主義と正義11(政治資金2)

我が国の場合、12月1日の日経朝刊4面に11月30日付け官報からの情報としての記事によれば、2011年1年間の政治資金収支報告によれば全政党の収入合計が115億円前後でした。
これに比較して(民主党共和党両党の1年間の政治資金収入とは別に特定の選挙資金用としてだけで)アメリカ大統領選ではオバマ陣営だけで10億ドル・約800億円も集める予定というのですから、如何に巨額資金が動くかが分るでしょう。
我が国の場合、総理公選制ではなく、議院内閣制ですから各政党の消長・・誰が総理になれるかは議員一人一人の当落の総計で決まります。
その上小選挙区という狭い地域内の選挙ですし、選挙期間が短いこともあって資金力の差がアメリカほどの影響力を持ちません。
今回の維新の会の公認候補者資格は自前で選挙資金を用意出来ることが条件となっているようですし、この前の選挙では民主党のかなりの人が自己資金での出馬でした。
立候補するのに、アメリカの大統領選挙のような巨額資金を必要としていません。
政党全体での広報宣伝の効果がないとは言いませんし、そのためには一定の資金(これが巨額ではないと言うかは価値観次第ですが・・)が必要ですが、個々人の小選挙区(小さな千葉市だけでも周辺と併せて3選挙区ほどあります)では、マスコミやネットキャンペインによる大規模な宣伝には適していませんので、資金力の差はアメリカ大統領選ほど大きな差になりません。
今日偶然、石原慎太郎氏と新幹線で乗り合わせましたが・・乗車直前に振り向いたら彼が私の少し後ろに並んで立っていたのです・・報道で知っている顔だったので、知り合いと間違って粗忽な私はうっかり「やあ!」と片手を上げて挨拶してしまう所でした。・・・彼は今日から始まった衆議院選挙戦に際して維新の会の党首として、新幹線で移動しながら演説して回っているのでしょうが、大勢での移動だけでも大きなお金がかかります。
議院内閣制では、個々人の当選者数の合計で勝敗が決まるので、アメリカのように全国規模の党首討論やネガテイブキャンペインは、アメリカほどの威力を持たないのが幸いしています。
上記のように狭い千葉市と周辺を併せて3分割したような小さな選挙区では、候補者の具体的な顔が見えますので、草の根の日々の活動が大幅な意味を持っています。
アメリカの現状を見ていると総理公選制にすると、資金力の差で勝敗が決まる弊害が出て来る点に留意する必要があります。
日本でも軍資金・お金を出してくれる人が多い方が良いでしょうが、顔の見える小選挙区では個々人のパーソナリテイーの占める比率が大きいのが特徴になります。
資金力が追々重要になるとしても、個人からの一定額までの寄付しか認めなければ大量の寄付者が必要ですので、特定の大金持の資金に頼れません。
鳩山氏のように架空名義を利用した場合は違法として、厳しく処罰するようにすれば良いのです。
(ただし、親子兄弟の場合は元々関係が深いし特定の利害関係者による金銭による影響以上の関係ですから例外にすべきでしょう・・そうすると兄弟に一旦寄付する名義利用行為が起きますが、それは脱法行為の規制をすれば良いことです。)
以下に現行の政治資金規正法を紹介しますが、個人が2000万円も寄付出来るのでは影響力が大き過ぎます。
こう言う資金力のある人は会社経営者であることが多いでしょうから、この他に会社名義寄付、配偶者や子供、兄弟や従業員名義を借りることもあり得る・・これを禁止し取り締まるとしても、かなり潜脱出来ることを考えれば、一人2000万円では簡単に億単位になってしまうので、個人は一人100万円くらいに制限すべきだと思います。
法人や労働組合の寄付も一応制限されていますが、制限がゆる過ぎる感じです。

政治資金規正法(昭和二十三年七月二十九日法律第百九十四号)
(寄附の総額の制限)
第二十一条の三  政党及び政治資金団体に対してされる政治活動に関する寄附は、各年中において、次の各号の区分に応じ、当該各号に掲げる額を超えることができない。
一  個人のする寄附     二千万円
二  会社のする寄附 別表省略
三  労働組合又は職員団体のする寄附         
          別表省略

民主主義と正義10(選出母体の支持獲得2)

為政者や政党の行為限界を画するための絶対的な正義の観念がなくなったので、大枠で決めておくために生まれたのが憲法制度です。
アメリカで言えばfor the peopleとは言うものの、何をすればfor the peopleになるのかは、選挙結果次第・・自国民さえ選択すれば侵略戦争でも相手人種殲滅目的でも何でも良いという無定見な国になっています。
アメリカでは、自由主義の限界を画すのが唯一連邦憲法(人権に関しては修正第何条)なのでしょう。
しかし、これでは積極的に何をするかの基準ではなく、人権を侵害しては行けないという法律家的消極基準でしかありません。
結局アメリカでは国内で多数の支持さえ受ければ、戦争をしようと何をしようと、国内の人権侵害さえしなければ、(相手国で)何を(人権侵害)しても良いという正義基準のない国になっています。
自国内でも市民権のある人は保護されるが「市民権」のない人は保護されない・・これが修正憲法が出来るまで黒人奴隷が容認されて来た憲法的基礎でした。
ところで多数の支持と言えば立派な感じですが、実際には大統領選挙資金が天文学的数字になっていることから、資金の出し手次第で正義が変わる国になっていると言っても過言ではありません。
今回のオバマ再選にはユダヤ系の資金が大きく寄与したと言われていて、11月18日当たりから(正確には、オバマ再選直後からイスラエルが対シリアなどで積極化し始めています)激しくなったイスラエルのガザ攻撃に対して、間髪を入れずにオバマはイスラエル支持を打ち出していました。
(その後エジプトの仲介で幸い停戦協定になりましたが・・・23日の報道)
ユダヤとアラブ関係について長期的にアメリカにとってどうすべきかの視点・論理などよりも支持母体への忠誠を示すことの方が重要な様子です。
(アメリカでシェールガスなど採れるようになったので、アラブの石油の価値が下がったとは言え・・露骨過ぎませんか?)
我が国の場合、元々革命がなくとも(民選ではないものの)民のためにある政府でした。
(民のかまどの煙を心配していた仁徳天皇の故事は作り話としても、こうした作り話が必要な国民性・・政府の正当性の維持には国民生活をいつも心配している姿勢を示す必要性・・価値観が、支配的だからこうした神話が作られたのです。
蒙古その他外敵から守るのも為政者を守るためではなく、為政者/領主/武士が犠牲なっても背後の民を守るために戦うものでした。
明治維新も日本民族を守るためには、政治システムを一新しないとどうにもならないという意識から始まったものです。
(だから北朝鮮の将軍様のように、薩長の殿様は政権を手に入れていません)
第二次世界大戦末期の特攻隊員も、自分の利益基準で動く中国的打算社会ならばとっくに逃げてしまったでしょうが、特攻隊員は銃後の家族や一族・村落共同体のために自分の命を惜しまずに大空の彼方へ飛んで行きました。
西洋の近代化・民主主義政体化と言っても政治目的の変更ではなく、選出方法を民選にしたに過ぎませんが、我が国は民選以前にどの階層が政権をとっても民の平安を祈らねばならない社会でした。
何のために、政府があるかの視点が文字を知るもっと前の古代から我が国ではあったのです。
民主主義体制になったことで、信念に基づいて正しいことをやりたくても、却って次の選挙で落ちるのでは困るようになって、「民意」と言えば聞こえが良いものの実際には大衆におもねる政治しか出来なくなってきました。

 民主主義と正義9(選出母体の支持獲得1)

フランス革命以降の政治は王族の血統だけで自然に為政者になれる時代が終わり、(それまでの王位継承の争いは血統が正統であるかが大きなテーマでしたが・・)支持母体の支持によるしか為政者になれなくなった以上は、為政者になりたい人(立候補者)は自分が為政者になれば何が出来るか、何をしたいかをあらかじめ支持者に訴えて行く必要が生じてきます。
為政者になりたい人+その選出母体グループにとっては、「何をするか」よりは、次期選挙で他の支持母体との政権獲得競争に勝つことに主眼・目的があり・・そのための方便として有利そうな「何をする」という公約を発表するようになります。
民主政体になると本来の政治目的であるべき「何をするか」が政権獲得の手段になり、何かをするための手段であるべき政権獲得が「目的」になって政治活動の目的と手段が逆転してきました。
公約は政権獲得の方便ですから大した重みもないし、政権を取ったらそのとおり出来るとは限りません。
選挙権者が拡大して大衆化して来ると、大衆受けする公約と選挙資金を提供する層との意見の分離が生じてきます。
この辺はこの後でオバマ政権誕生(再選)と巨額資金の辺りで詳しく書いて行きます。
労働者代表の共産主義政権・・1党独裁政権(これも民主政体の一態様です)が生まれてくると、これに対してアメリカは差別化を図るために自由主義・陣営と言い出しました。
民主主義革命を経ているというだけでは、選出方法が民意(血縁世襲でないというだけです)によるというだけで、民選形態も共産主義独裁もナチス独裁もファシスト独裁もあるので(大分前に書きましたが、独裁も、選出法方法としては世襲ではなく民選ですから民主主義の一種です)価値観が何も決まらないことの証左です。
では自由主義と言えば価値=正義が決まるかと言えば、何を言っても、やっても自由というだけでは何も決まっていない・・逆に予め何も決めないことに価値を見いだす政体です。
そのときどきの多数決によると言っても、その時々の国際情勢等の流れ・風潮次第になるので、定まった価値・正義はありません。
(絶対主義王政に対する相対主義世界の出現と言われる所以です)
共産主義(これは唯一の価値である共産主義を強制するので絶対主義の一種でしょう)の浸透に配慮して、20世紀には完全な自由ではなく、修正資本主義・・社会的修正をする方法が流行りましたが、どこまで修正したとしても自由主義と言う以上は強い者の自由を保障する本質を否定することが出来ません。
社会主義的修正は、強い者が恩恵的に社会保障費用を負担するだけであって、本質は強者・拠出者の意向にかかっています。
強い者の自由が戦後世界秩序だった・・この反作用として核兵器拡散の必要性が現実化して来たことを2012年11月15〜16日頃から書いてきました。
ところで、ソ連崩壊・共産主義政体の失敗で、単一利益代表形態はうまく行かないことが分り、今では先進国の大政党は多くの利害関係者を包摂した政党になっています。
従来は社会党や共産党あるいは自民党と言えばそれぞれが利益代弁する階層が明らかでしたが、こうなると大政党は何を・誰の利益実現を目指すのかさっぱり分りません。
そこでマニフェストの事前公開が盛んになって来たのですが、経済現象は複雑ですし、予め金利を上げますとか下げますと公約出来る性質のものではないのと同様に、世界情勢の変化その他いろんな事象に対して、予め固定した約束をする事自体がナンセンスです。
予め言ったことに責任を持つとすれば「経済危機があれば臨機応変に対処します」「国民第一」などと言う精神論くらいが、関の山でしょう。
その意味では、公明党の「公明」清潔を売り物にするだけで何をするのか内容不明の政党名は時代に合致していたことになります。

民主主義と正義8(他者排除3)

西洋諸国はフランス革命後も植民地支配の推進競争に精出していたのですが、植民地制度ほど人種差別を前提にした制度はありませんから、・・人種差別拡大を目的にしていたのと同じことです。
フランス革命後の西洋の人権思想と言っても自分たち仲間だけの権利実現をしたと言う程度でした。
この状態でも民主主義化に成功した先進国として自慢していたのですから、民主主義化と正義実現とは何の関係もなかったことが分ります。
民主主義とは言い換えれば、為政者選出母体の拡大に過ぎなかったすれば、選出母体のために最大利益を図る政治思想が極まって行かざるを得ません。
選出母体の利益を図る政治が正当化されて行くと対照的に代表選出能力のない被植民地では世界規模での隷属化が進行し、国内的には有産階層しか選出資格のない先進国では労働者の地位低下・就労条件の悪化が際限なく進みます。
選出母体の最大利益追求進行の反動として、先進国では被抑圧者の抵抗・労働運動が始まり、労農代表が必要という思想が広まりロシア革命・・ひいては世界中で多くの共産主義を目指す国家が生まれました。
政府としては国内労働者に反抗されると妥協して行くしかない・・鉄血宰相と言われたビスマルクの福祉政策になって行きます。
革命後の政治の動きを見れば、革命によって王族の利益から国民の最大福利に政治目標を切り替えたのではなく、選出母体と政治利益を受ける階層の変更・王族から有産階級への拡大でしかなかったことが分ります。
西洋では革命前後を通して旧来どおり他者に対する思いやりのない価値観のママであったからこそ、フランス革命以降の政治運動のテーマは、選出母体変更・参画運動と同義になりました。
(労働運動→ロシア革命も自己利益追求のための政権参画運動の一種でしたし、今でも政党の政治活動は政権交代を目指すことが第一義であって、そのための公約です)
労働運動家でも第二次政界大戦までは自国内の地位上昇が主たる動機であって、植民地住民の悲惨さの救済には向かっていません。
むしろ儲けの分配争いとなれば、トータル利益が大きい方がよいので、労使ともに海外進出=植民地争奪戦に積極的でした。
この状態を表現したのが、レーニンによる帝国主義理論でした。
日本も海外市場が必要だったことは同じですが、その方法としては植民地支配・異民族の隷属を目指すのではなく、日本古来からの動植物との共生方式の応用でした。
大東亜共栄圏・・植民地解放を公的に主張し始めたのは、日本政府が世界で最初でしょう。
大東亜共栄圏構想は、政治的に見れば市場開拓のために東南アジアに進出する口実に過ぎなかったとしても、公的に主張しこれに沿う実践をしたことに意味があります。
ビスマルクも必要があって福祉政策をやったに過ぎないのであって、本心から労働者のために福祉政策をしたとは言えないでしょうし、リンカーンの奴隷解放宣言であれ何であれ、(彼の本心はどうであれ、)政治と言うものは、必要に応じて支持を得るための口実であれ何であれ、主義主張として公式に主張したことに意味があるのです。
日本の大東亜共栄圏構想は東南アジア進出の主張・口実に過ぎなかったという否定論・私たちが学校の歴史教育で習った否定論は、論理の建て方に問題があります・・。
政治的主張とはすべからく選挙に通らんがため・・戦争に勝たんがために公約したりするものあって、政治家本人の古くからの信念である必要はありません。
「彼が本気でそう思ったのではなく、政治目的実現のための方便として主張したのだから意味がない」と言う連合国の論理による我が国での教育は偏った論理の押しつけです。
これまで書いているように、日本は実際にその前から統治下に入った朝鮮や台湾から収奪するどころかより多くの資金を投じて教育したり、現地工場を建てたりして現地民生向上を目指して実践してきた実績があり、太平洋諸島や仏印その他で英仏蘭の植民地軍を追い出した後は現地人の教育をしたり民生技術を教えたり地域の発展のために実践してきました。
西洋諸国の植民地経営の原則であった愚民政策の逆を実践してきたのが、日本でした。

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