朝廷による氏長者決定2(保元の乱)

朝廷による氏長者決定(保元の乱)2

保元の乱と摂関家凋落に戻ります。
保元の乱に関するウイキペデイアの記事です。

上皇方の投降
合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに忠通を藤氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。
・・・藤氏長者の地位は藤原道長以降、摂関家の家長に決定権があり、天皇が任命することはなかった。忠通も外部から介入されることに不満を抱いたためか、吉日に受けると称して辞退している
摂関家の苦境
摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。
しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、朝廷は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じられている。なお綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」(『兵範記』7月17日条)と留保条件がつけられているが、逆に言えば氏長者にならなければ荘園を没収するということであり、忠通に氏長者の受諾を迫る意味合いもあった。

多分信西の献策によるのでしょうが、なかなかしたたかです。
藤原摂関家の凋落・・これまで天皇家の後継を決めるのに藤原氏が介入してきた力が衰えると今度はこれまでの仕返しをするかのように天皇家が藤原氏固有の家督相続・氏長者を決めることまで介入するようになります。
日本社会ではこういうしたたかな官僚機構というか企画力があったことに驚きますし(明治時代の清朝との台湾帰属をめぐる交渉や李氏朝鮮をめぐる交渉記録を見ると、その着実・したたかさに驚くばかり・・現在安倍総理の大局を見た着実な外交には長い歴史があることを知ります。
ただし、「見え透いたしたたかさ」というか?いわゆる秀才のやることは本当のしたたかさとは違います。
藤原北家嫡流に対する戦後処理は文字通りしたかかでしたが、信西自身の昇進や利権獲得等がやり過ぎたのですぐに失脚することになります。
薩長の無理押しに時の秀才・幕末徳川慶喜が業を煮やして大政奉還すれば実力もないのに文句ばかり言ってる薩長は困るだろうと読んで大政奉還した奇策が裏目に出たのも同じです。
小御所会議でのクーデター・辞官納地・・幕府領地接収の革命的発想が出るとは読みきれなかった・岩倉にしてみれば、お坊ちゃん政治家など赤子の手をひねるようなものだったでしょう。
保元の乱でも賊軍となった藤原氏の役職に基づく(例えば頼長の)荘園は全て没取だが、個人所有の荘園はそのまま・・氏長者としての荘園はそのままということで私有地にまで手を出せないのが古来からの原則でした。
徳川慶喜はその当時賊軍ではなかったので、将軍辞職しても野党になるだけであって徳川家の私有地である領地はそのままなので薩長が天下を治める経済力がないので困るだろうという読み・米国もモンロー主義や今のトランプ氏同様で自分が手を引けば世界はどうにもならないだろうという強引な政策でしたが、何の罪もない徳川家の領地返納を命じられてしまったのは想定外でした。
モンロー主義やアメリカンファーストをやるなら(気に入らないとユネスコ分担金をはらわないとか国連経費を払わない?WTOを揺さぶるなど)アメリカの領土全部取り上げるのは今の国際政治では不可能だからできることです。
私の理解不足かもしれませんが、幕末薩長の主張ほど支離滅裂で無理難題はなかったと思いますが、それでも薩長の世論操作・・ええじゃないかに代表される爆発的お蔭参り騒動・道中貧しい人には食事接待など無償で行われたというのが一般的ですが、たまになら道中の人も無償援助できますが、今朝の日経新聞9p・伊勢神宮の広告?には、1年間に当時の人口の6分の1もの人がお蔭参りに参加していたと紹介されています。
何かの本で読んだのですが、子供ひとりでおかげ詣での旅に出ても道中ちゃんと食べさせてもらってお伊勢参りできたとも紹介されています。
こんな大量の人たちへの炊き出しを途中の農民や茶店の人が自腹で毎日できるはずがないので、資金を出していたバック・薩摩とそのバックの英国があるという論説を読んだ記憶です。
またお伊勢様のお札のようなものが空から降って来たという奇瑞も頻りに宣伝されますが、その印刷費やばらまく資金・・世論操作?という意見を読んだ記憶)が成功してそういう結果になったのです。
育ちの良い秀才であった徳川慶喜はこういう騒然たる社会状況下で大政奉還すれば、どうなるかを読みきれなかったのです。
日本は国政連盟脱退以降孤立化の道を歩みましたが、正義といってもその時の世論動向によります。
日本の正義は西欧が植民地支配しているのに、日本だけなぜいけないんだというものでしたが、(西洋では牛肉など食べるのにクジラだけなぜ?というのと同じ)ともかく、正しいかどうか別として国際世論をバカにしてはいけません。
理屈だけ言えば、何の犯罪も犯していない私有地まで没収するのは幾ら何でも理不尽ですから、徳川・・会桑連合は激昂し、ついに挑発に乗せられて鳥羽伏見の役となり文字通り賊軍となってしまいました。
イギリスで無責任な?EU離脱論横行に業を煮やして、国民投票を実施してみたら、(もしかしたらロシアによるサイバー選挙介入があったとしても?)予想外に離脱論の方が多かった結果、イギリスの迷走が始まったのも同じです。
共通項は今も昔も国内国際世論(外国の世論操作結果も含めて)の読み間違いということでしょうか?

朝廷による氏長者決定1(将軍宣下)

氏長者を朝廷が命じる例としては以下に見えます。
綱吉に関するウイキペデイアからです。

官歴

延宝8年(1680年)
5月7日、将軍後継者となり、従二位権大納言。
8月21日、正二位内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下。

将軍宣旨に関するウイキペデイア

近世に入ると朝廷の権威が失墜して、代わりに禁中並公家諸法度などによって朝廷にすら支配権を及ぼして「公儀」の体制と「封建王」的な地位を獲得した徳川宗家でさえ、その支配の正統性は天皇による将軍宣下に依存しなければならなかった。
事実、徳川宗家当主が家督相続直後には単に「上様」と呼ばれ、将軍宣下によって初めて清和源氏という権門の長である資格を証明する源氏長者の地位を公認され、同時に国家的授権行為が行われる事によって「公方様」あるいは「将軍様」となりえた事が示している。
そして、実際には「封建王」的存在として朝廷すら支配していた徳川将軍でさえ、将軍宣下と上洛参内の時には天皇を「王」、将軍を「覇者」とする秩序に従っていたのである。
征夷大将軍の辞令(宣旨)の例(徳川家宣)(「月堂見聞集」)
權大納言源朝臣家宣
右中辨兼春宮大進藤原朝臣益光傳宣
權大納言藤原朝臣基勝宣
奉 勅件人宜爲征夷大將軍者
寳永六年四月二日 修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘奉

(訓読文)
権大納言源朝臣家宣(徳川家宣、正二位)
右中弁兼春宮大進藤原朝臣益光(裏松益光、正五位上)伝へ宣(の)り
権大納言藤原朝臣基勝(園基勝、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
宝永6年(1709年)4月2日 修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、正五位上)奉(うけたまは)る、

吉宗のウイキペデイアには、宣旨をのり伝えた貴族の記録(日記?)が出ています

徳川吉宗 征夷大将軍の辞令(宣旨)(光栄卿記、享保将軍宣下宣旨奉譲)
權大納言源朝臣吉宗
左少辨藤原朝臣賴胤傳宣、權大納言藤原朝臣俊清宣
奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者
享保元年七月十八日
修理東大寺大佛長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘 奉
訓読文)
権大納言源朝臣吉宗(徳川吉宗)
左少弁藤原朝臣頼胤(葉室頼胤、正五位上・蔵人兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣俊清(坊城俊清、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
享保元年(1716年)7月18日
修理東大寺大仏長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、従四位下)奉(うけたまは)る、

※同日、内大臣に転任し、右近衛大将を兼ね、源氏長者、淳和奨学両院別当、右馬寮御監、牛車乗車宮中出入許可及び随身の各宣旨を賜う。

ただし、ここでいう源氏長者は、武家の棟梁という意味でもなく源氏(皇族から臣籍降下した・・・武家に限らず嵯峨源氏〇〇源氏という貴族を含めた)全体の代表的名誉職みたいなもので、藤原氏の氏長者・私的総資産継承する実利権とは意味が違います。
・・・源氏長者が伝統的(例外がありますが)に「淳和奨学両院別当、右馬寮御監」に任ぜられてきた役職併記がその意味でしょう。
念のため。

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