政治運動の支持母体?

私は、反日目的の運動家がそんなにいるはずがない・本気で非武装論が正しいと思っている人・・思わざるを得ない人たちが末端運動家の大多数を占めていると思います・・。
幼稚園や小学校で習ったばかりの料理知識を親に自慢する幼児的素直な思考の持ち主としてみる方が合理的かもしれません。
大学教授となり弁護士を何十年もやっていても幼児的思考に止まることがあるのかの疑問ですが、要はどの階層にもいる負け組の心理状況と芦部説の影響力です。
オーム真理教事件で明らかになったところですが、それぞれの分野で医師や科学者、弁護士など社会全体では勝ち組の有資格者が多く参加していたことが注目を浴びましたが、医師にも科学者にも東大生〜一流高校や一流企業、官僚等にも、その内部ではうまく行かない「落ちこぼれ」が一定率生じるのは当然です。
以前書いたことがありますが、参加資格をいかに厳選しても実務に入ると「伸び悩む」と言うか不適格な採用や合格であったこと起きるのは、むしろ当然のことですが、エリート評価の高い分野ほど不適合になっても自発的退場が難しいものです。
周りは「せっかく〇〇に入ったのに」医師弁護士になったのに・・と言うし、本人も医師や学者、有名企業をやめてしまってどうなるか心配でしょう。
そこまでいかなくともストレスだらけで生きているエリートがいっぱいるので、こう言う人はオーム真理教みたいな「自己実現」を提示されると飛びつきたくなるのでしょう。
法律家の場合、宗教系よりは名だたる憲法学者芦部教授の御託宣ほどありがたい誘引はありません。
東大まで行き更に大学に残れたエリート・学閥のトップに君臨していても、社会的円熟度の低い人には日常生活面では生きにくい世の中です。
社会性がなくとも明治時代の学者は「西洋ではこうだ」と言って象牙の塔にこもって社会を見下していればよかったでしょうが、今はそうは行きません。
弁護士でも円熟度の低い人は一般事件があまり来ない・市場淘汰されるのですが、日弁連内では〇〇系という閥が出来上がっているので、この種の活動に精出している限りその世界では自己実現できる社会です。
こういう人たちの精神的逃げ場として芦部教授の唱えた「自己実現」と並んで重視される「自己統治」という価値優越概念の図式的理解がエリート知識人に染み込んで重宝される所以ではないでしょうか?
総がかり運動その他のネット報道を見るとこれら反対政治運動に参加する発言録からは、自己実現・自己統治の場に参加していることに対する高揚感が伝わってきます。
3月22日に引用したhttp://nota.jp/group/kenpo/?20061016104219.htmlらの続き引用です。

表現の自由=自己統治?
これも、表現の自由ならば自己統治、自己統治ならば表現の自由が成り立つようなイコールの関係にはない。自己統治が民主制ないし民主主義を意味するならば、それを支えている人権は、直接的には(普通・平等)選挙権であろう。平等な選挙が保障されていないところで行われている政治は本物の民主政治とはいえないから、選挙権は、民主主義や国民主権を成り立たせるための不可欠の権利であるといえよう。選挙権は主権的権利などとよばれることもある。これに対して、表現の自由は、直接、民主主義を成り立たせている(主権的)権利ではない。

上記に批判されているように、自己統治などというよりは選挙権の行使とその結果こそ直接的自己統治です。
明治維新以来の習慣で西洋の価値観を持って来れば「最新知識」として威張っていたのですが、これも見方を変えれば、幼稚園等で習ってきたことを両親に自慢する幼児レベルの精神状況だったと評価できないこともありません。
家庭内で幼児や児童が自慢するだけならば親が微笑んでればいいし、社会不適合者・幼児レベルの集団が芸術系で自己実現するだけならいざ知らず、社会関係を持つ運動になると社会の迷惑を考える必要があります。
自己実現のためなら(違法でない限り)何を言い、何をしてもいいという乳幼児的万能思想の人たちが学会で支配的地位を確立し、社会科学分野の世界を牛耳るようになると一般健康人が困ります。
産業革命では西欧が先行していましたが・・テクニカル・皮相分野のことであって、日本社会では何周回(数千年以上)前に経験済みの円熟社会の経験がありません。
日本社会の落ちこぼれ・幼児的段階にある人にとっては、円熟社会経験のない西欧がようやく気がついたばかりの皮相な社会契約とか民主主義や人道(人の道)という概念をありがたい知識として振り回せば偉くなったような気がしているように見えます。
明治維新以来横文字を縦に直せば知識人と言われる時代が続きました・・昭和40年に入ってからこの揶揄が効いたらしく、(パソコン普及の関係もあって)平成に入った頃から日本語自体を横書きする習慣が根付きました。
誰もが海外に出かける時代になり、昭和50年代頃から「欧米では・・」という識者のテレビ発言がなくなりましたが、思想界ではまだ欧米で学んできた思想を国内に紹介した人が学界で重きをなす傾向が続いているような印象を受けます。
学閥を基礎にしたボス支配が続いている・・思想の自由市場がないからだと思います。
逆説的ですが、グローバル化が進めば進むほど、留学先での功績・・ハーバードでこういう実績を上げたなどの経歴が幅を利かすようになるので余計その傾向が続いているように外部からみえます。
日本の社会運営技術の方が数千年以上も進んでいるのではないか?という考え方は行き過ぎると「井の中の蛙」となる危険がありますが、文化面で見れば西洋の油絵の輸入に対して日本画の画風が直ちに確立したように、日本民族独自の思想にもとずく政治思想や哲学を語る人材が必要な時期がきているのではないか?ということです。
文化市場は顧客が必要なのでボス支配が成り立たないので、文字通り自由市場が成立しているので、国民がどのような文化を支持しているかが明らかです。
日本画は学校教育ではすみに押しやられ、美術系教師は洋画中心ですが、お金を出して買ってくれる顧客・・よく売れる・需要があって食っていけるのは日本画に偏っています。
洋画界では美術館買い上げ(学者が東大閥に支配されている?ように)など業界馴れ合いに頼る現状です。
音楽でも義務教育で邦楽を教えません。

非武装平和論の利益帰属主体は?1

社会党が方針転換するには党内に異論があったでしょうが、この時点で社会党内ですら自主防衛権否定論は少数説になっていたことになり、社会党内でさえ異端の少数説が憲法学者の世界では多数説として生き残っていることが分ります。
このように憲法学者は社会党でさえ支持しない国内で浮き上がった主張を維持する存在になっていたにも拘らず、集団自衛権に憲法学者の多数が反対していることを以て、「国民多数の反対を無視して強行した」とすり替えてマスコミが宣伝しているのですから不思議な論理です。
元々彼ら憲法学者の多くは、(憲法を字義どおり・・制定者の真意をそのまま守るために?・・解釈合憲の便法を認めず)社会党が認めた自主防衛権さえ反対しているのですから、集団自衛権にも反対するに決まっていますので、彼らが反対声明を出しても本来何ら新しいことではありません。
こう言う勢力が国内でマスコミの応援を受けて実態以上に声が大きかったことが、日本に対しては何をしても構わないと言う周辺国の侮りを受け、竹島に対して毅然とした態度を取らないことが尖閣諸島に対する領土要求を誘発し、反撃の心配がないことから気楽な反日批判を誘発して来たのです。
中ソをバックにして日米安保条約を根底から否定して来た反米左翼・文化人が、アメリカの非人道的占領政治を一切糾弾しないばかりか、アメリカ軍による制定憲法に対する護憲勢力化しているのは一見矛盾です。
彼らはアメリカ支配を拒否しているだけであって、中ソによる日本支配を期待していたとすれば、日本が異民族支配に不満を持たず無防備無抵抗主義・・弱体なままのが方が便利です。
このためにインド独立に関しては、ガンジーの無抵抗運動の結果独立出来たかのようなマスコミ宣伝や教育されて来ましたが、実態は違います。
独立の戦いが続いていてその終盤に無抵抗の運動も参加したに過ぎません・・欧米系マスコミは独立運動に負けたと言いたくないのでガンジーを大げさに報道しているだけでインドではそんな意識はありません。
黙っているだけでどん欲な欧米諸国が植民地を手放す訳がないことは、(ベトナム戦争で有名ですが・・ビルマ、インドネシア、アルジェリアその他全て独立戦争または内乱的動乱状態を経て独立出来たのが)歴史事実です。
ソ連が東欧諸国を人道的配慮だけで独立させたとでも言うのでしょうか?
ハンガリー動乱やチェコやポーランドの事件など戦車で蹂躙して来たことを歴史から抹殺してしまい、なかったことにするのでしょうか?
話を戻しますと、「無抵抗主義・弱い者は何をされても仕方がない」と言う教育が戦後70年もやられて来たので、世代が入れ替わって民族の誇りを失ってしまった筈と周辺国は安心したのでしょうか?
まだ無理があると思っても、彼らに協力的な民主党政権時の内にやるしかないと言う判断もあったでしょう。
骨抜き教育の必要性は、ソ連が崩壊してロシアになり主役が中国に変わっても、根本方針は変わりません。
民主党政権には社会党政治家であったときの反米・非武装論者が、民主党員に衣替えして多く流れ込んでいることから、イキナリ対米冷却化路線に進んだことから、周辺国が(日本内部の呼応勢力?の有力化に)俄然勢いついたのです。
ロシアが北方海域での軍事活動を活発化させると同時に列島を周回する軍用機の威嚇行為が繰り返されるようになり、韓国では大統領自ら竹島上陸・・天皇に対する国家元首の発言としてはあるまじき暴言を吐いた上で、ひいては壱岐対馬侵攻作戦すら取りざたされるようになりましたし、これに呼応して中国は、尖閣諸島への侵犯行為を激化させて行きました。
領海侵犯して来た不法中国人を検挙した海保の果敢な行為に対して民主党政権は、侵犯行為のビデオを公開しないで、根拠なく釈放を命じてしまいました。
さすがにノーテンキな日本国民も日本列島を取り巻く三方からの一斉侵略・威嚇行為が露骨になったことで、日本世論が騒然として来ました。
旧社会党の非武装平和論・・何をされても抵抗しない?政策を踏襲するかのような民主党政権・・何をされても検挙すらしないと言う基本的政策にノーを突きつけた国民意識が、当時自民党総裁選挙でマスコミから、泡沫候補扱いされていた安倍政権誕生の原動力になったと言うべきでしょう。
日本国民は無抵抗主義を放棄して断固違法行為に対抗する意思表示をしたことになります。
日本民族は西欧の民族主義が始まるずっと前の古代から・・白村江の海戦敗北以降日本列島を上げての列島防衛意識の高まり・・戦う前提として国家体制の再構築(大化の改新)に邁進し、防人制度・・東国人中心に編成されていた・その地域まで協力していて破綻しないで、機能していたこと・中世での蒙古襲来時の団結力・秀吉の切支丹禁令もカソリックの侵略体質に危険を感じたことが原因があった・・・幕末ペリー来航時の庶民に至るまでの国防意識の高まり・などなど、民族防衛意識は世界一高い民族性です。
平和なときが続けば、幕府ご家人が朝湯を楽しんだりして骨抜き状態に見えましたが、幕末に「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船のシャレ)たった四はいで夜も寝られず」(上喜撰・・当時の高級茶の名称・・カフェインの作用で眠れないのに引っ掛けた傑作です)と歌われたことから知られるように、イザとなれば、すぐに民族防衛DNAが覚醒し復活する体質です。
戦後70年にわたって占領軍によって強制されて来た民族の骨抜き政策・教育効果が、表面のメッキ程度に留まっていた・・日本民族のDNAは損なわれていなかったのです。

選出母体の支持獲得3と政治資金1

我が国古来からの価値観による政治よりは、民主化進展の結果却って選挙資金次第で正義の基準が動くことになってしまった政治家が多くなっているのではないでしょうか?
我が国の場合元々「民のための政治」という・・日本教とも言うべき宗教的意識が古来からあるので、この辺の価値観はいくらお金が重要になっても表層は別として深層意識では動いていない筈です。
我が国では古代から宗教自体が、五穀豊穣・民の平安(蒙古退散)を祈るばかりでした。
小沢元民主党代表が嫌われるのは、(何でも陰謀説によれば・・・)アメリカによる陰の動きがあったかも知れないとは言え、「お金次第」と言う価値観が露骨に出過ぎること・・我が国古来からの価値観に合わないからではないでしょうか?
小沢氏が自民党を飛び出した若い頃にはそれなりの意見があって、期待している人が多かったのですが、残念なことです。
彼は自分の意見・信念を通すには、数の力が必要・・そのためには軍資金が必要という論理になったのでしょうが、残念なことにお金の論理が全面に出過ぎてしまった面が否定出来ないでしょ。
野田政権は選挙すれば負けるので、消費税に関して民意を問うべきときに問えずに解散をジリジリと先延ばししてきましたが、ついに11月16日に解散決意表明になりました。
これは、自己保身・民主党の命運よりは解散表明によって赤字国債関連法案を通さないと日本のためにならないという古来からの日本教・・最後の最後で日本的正義を無視出来なかったと見るべきでしょう。
この点で彼は最後の最後で偉かったと思います。
ただし増税の必要性については、そのときのコラムで書いたとおり私は否定的ですが、ここでは彼が自己保身よりも国家利益と信じることに邁進する正義感に敬意を表しています。
明治維新のときに国内戦争していると、西洋の餌食なる心配から徳川家が身を引いたのと同じです。
民主国家においては、代議士の関心は先ず選挙に当選することにあると言われます。
どんな立派な意見を持っていても当選しなければ何も出来ないのですから、政治家たらんとする者の関心の第一は、当選出来るかどうかになるのは当然です。
選挙の洗礼をくぐるためには代議士は自分の意見よりも民意を重視することになるので、選挙権者を有産階級に限定しない普通選挙時代になった民主国家としてはそれ自体は良いことです。
しかし、実際には選挙資金のあり方が最も重要です。
アメリカ大統領選挙のように巨額資金を必要とする場合、民意によると言っても実際には広報宣伝活動に民意が左右されるので、資金の多寡で結果が決まって来るとすれば、選挙の結果が民意だというのはほぼ茶番になります。

オバマ対ロムニー」を裏で操るフィクサーの正体
PRESIDENT 2012年6月4日号
著者
ジャーナリスト 堀田佳男=文 PANA=写真
によると
「08年の選挙でオバマ候補は、約7億5000万ドル(当時約710億円)を集めた。史上最高額である。一方の共和党マケイン候補は約3億7000万ドル(当時約350億円)で、オバマ氏のほぼ半額に甘んじた。」

とあります。
12年選挙では10億ドルが目標というのですから巨額過ぎます。
資金力の差がマスコミやネット動画等を動員したネガテイブキャンペインその他世論誘導に大きな威力を発揮します。

民主主義と正義10(選出母体の支持獲得2)

為政者や政党の行為限界を画するための絶対的な正義の観念がなくなったので、大枠で決めておくために生まれたのが憲法制度です。
アメリカで言えばfor the peopleとは言うものの、何をすればfor the peopleになるのかは、選挙結果次第・・自国民さえ選択すれば侵略戦争でも相手人種殲滅目的でも何でも良いという無定見な国になっています。
アメリカでは、自由主義の限界を画すのが唯一連邦憲法(人権に関しては修正第何条)なのでしょう。
しかし、これでは積極的に何をするかの基準ではなく、人権を侵害しては行けないという法律家的消極基準でしかありません。
結局アメリカでは国内で多数の支持さえ受ければ、戦争をしようと何をしようと、国内の人権侵害さえしなければ、(相手国で)何を(人権侵害)しても良いという正義基準のない国になっています。
自国内でも市民権のある人は保護されるが「市民権」のない人は保護されない・・これが修正憲法が出来るまで黒人奴隷が容認されて来た憲法的基礎でした。
ところで多数の支持と言えば立派な感じですが、実際には大統領選挙資金が天文学的数字になっていることから、資金の出し手次第で正義が変わる国になっていると言っても過言ではありません。
今回のオバマ再選にはユダヤ系の資金が大きく寄与したと言われていて、11月18日当たりから(正確には、オバマ再選直後からイスラエルが対シリアなどで積極化し始めています)激しくなったイスラエルのガザ攻撃に対して、間髪を入れずにオバマはイスラエル支持を打ち出していました。
(その後エジプトの仲介で幸い停戦協定になりましたが・・・23日の報道)
ユダヤとアラブ関係について長期的にアメリカにとってどうすべきかの視点・論理などよりも支持母体への忠誠を示すことの方が重要な様子です。
(アメリカでシェールガスなど採れるようになったので、アラブの石油の価値が下がったとは言え・・露骨過ぎませんか?)
我が国の場合、元々革命がなくとも(民選ではないものの)民のためにある政府でした。
(民のかまどの煙を心配していた仁徳天皇の故事は作り話としても、こうした作り話が必要な国民性・・政府の正当性の維持には国民生活をいつも心配している姿勢を示す必要性・・価値観が、支配的だからこうした神話が作られたのです。
蒙古その他外敵から守るのも為政者を守るためではなく、為政者/領主/武士が犠牲なっても背後の民を守るために戦うものでした。
明治維新も日本民族を守るためには、政治システムを一新しないとどうにもならないという意識から始まったものです。
(だから北朝鮮の将軍様のように、薩長の殿様は政権を手に入れていません)
第二次世界大戦末期の特攻隊員も、自分の利益基準で動く中国的打算社会ならばとっくに逃げてしまったでしょうが、特攻隊員は銃後の家族や一族・村落共同体のために自分の命を惜しまずに大空の彼方へ飛んで行きました。
西洋の近代化・民主主義政体化と言っても政治目的の変更ではなく、選出方法を民選にしたに過ぎませんが、我が国は民選以前にどの階層が政権をとっても民の平安を祈らねばならない社会でした。
何のために、政府があるかの視点が文字を知るもっと前の古代から我が国ではあったのです。
民主主義体制になったことで、信念に基づいて正しいことをやりたくても、却って次の選挙で落ちるのでは困るようになって、「民意」と言えば聞こえが良いものの実際には大衆におもねる政治しか出来なくなってきました。

 民主主義と正義9(選出母体の支持獲得1)

フランス革命以降の政治は王族の血統だけで自然に為政者になれる時代が終わり、(それまでの王位継承の争いは血統が正統であるかが大きなテーマでしたが・・)支持母体の支持によるしか為政者になれなくなった以上は、為政者になりたい人(立候補者)は自分が為政者になれば何が出来るか、何をしたいかをあらかじめ支持者に訴えて行く必要が生じてきます。
為政者になりたい人+その選出母体グループにとっては、「何をするか」よりは、次期選挙で他の支持母体との政権獲得競争に勝つことに主眼・目的があり・・そのための方便として有利そうな「何をする」という公約を発表するようになります。
民主政体になると本来の政治目的であるべき「何をするか」が政権獲得の手段になり、何かをするための手段であるべき政権獲得が「目的」になって政治活動の目的と手段が逆転してきました。
公約は政権獲得の方便ですから大した重みもないし、政権を取ったらそのとおり出来るとは限りません。
選挙権者が拡大して大衆化して来ると、大衆受けする公約と選挙資金を提供する層との意見の分離が生じてきます。
この辺はこの後でオバマ政権誕生(再選)と巨額資金の辺りで詳しく書いて行きます。
労働者代表の共産主義政権・・1党独裁政権(これも民主政体の一態様です)が生まれてくると、これに対してアメリカは差別化を図るために自由主義・陣営と言い出しました。
民主主義革命を経ているというだけでは、選出方法が民意(血縁世襲でないというだけです)によるというだけで、民選形態も共産主義独裁もナチス独裁もファシスト独裁もあるので(大分前に書きましたが、独裁も、選出法方法としては世襲ではなく民選ですから民主主義の一種です)価値観が何も決まらないことの証左です。
では自由主義と言えば価値=正義が決まるかと言えば、何を言っても、やっても自由というだけでは何も決まっていない・・逆に予め何も決めないことに価値を見いだす政体です。
そのときどきの多数決によると言っても、その時々の国際情勢等の流れ・風潮次第になるので、定まった価値・正義はありません。
(絶対主義王政に対する相対主義世界の出現と言われる所以です)
共産主義(これは唯一の価値である共産主義を強制するので絶対主義の一種でしょう)の浸透に配慮して、20世紀には完全な自由ではなく、修正資本主義・・社会的修正をする方法が流行りましたが、どこまで修正したとしても自由主義と言う以上は強い者の自由を保障する本質を否定することが出来ません。
社会主義的修正は、強い者が恩恵的に社会保障費用を負担するだけであって、本質は強者・拠出者の意向にかかっています。
強い者の自由が戦後世界秩序だった・・この反作用として核兵器拡散の必要性が現実化して来たことを2012年11月15〜16日頃から書いてきました。
ところで、ソ連崩壊・共産主義政体の失敗で、単一利益代表形態はうまく行かないことが分り、今では先進国の大政党は多くの利害関係者を包摂した政党になっています。
従来は社会党や共産党あるいは自民党と言えばそれぞれが利益代弁する階層が明らかでしたが、こうなると大政党は何を・誰の利益実現を目指すのかさっぱり分りません。
そこでマニフェストの事前公開が盛んになって来たのですが、経済現象は複雑ですし、予め金利を上げますとか下げますと公約出来る性質のものではないのと同様に、世界情勢の変化その他いろんな事象に対して、予め固定した約束をする事自体がナンセンスです。
予め言ったことに責任を持つとすれば「経済危機があれば臨機応変に対処します」「国民第一」などと言う精神論くらいが、関の山でしょう。
その意味では、公明党の「公明」清潔を売り物にするだけで何をするのか内容不明の政党名は時代に合致していたことになります。

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