ロシアの脅威5(人民圧迫の反動としての残虐性1)

幕末の危機感として西欧列強の脅威ばかりを我々世代は教育されてあるいはメデイア報道で育ちましたが、幕末日本にとってはロシアが最大の危険な国であり、その抑制勢力として西欧列強との多角的交渉があった・・「同じルールでやってくれ」とロシアに言えるメリットを利用していたと見るのが正しいような気がします。
黒船来航ばかり教えられますが、西欧流儀の作法から見れば新興国のアメリカは(今も同じですが・・)少し乱暴な程度であって、基本的にはルールのギリギリまでやる程度でロシアのように問答無用式の実力行使まではしていません。
西欧諸国とその亜流・少し乱暴な米国とロシアの弱小国に対する交渉流儀の違いは、前者の来航は領土欲にあるのではなく、通商の利益を求めて来た立場である結果、交易開始後の商取引・・人間関係の重要さを前提にしているので無茶はしません。
商取引の場合、相手の好感度を獲得するのが重要・・だからこそどこの国・民族でも、他の職業の人に比べて商人は腰が低く愛想がいいし、その分相手の気持ちを汲むのに長けています。
ロシアの進出・膨張の場合は、支配欲の(金の亡者同様で「足るを知らない」)権化になっていることによるもので、商取引に主たる関心がない点が大きな違いです。
今でもロシアの主たる収入源は原油その他の資源しかないことから見て生活様式や価値観が変っていないと思われますが、資源獲得→まず領土・支配欲が先に来ている点が粗暴な言動に走る原因と見えます。
ロシアの場合、人民に対する過酷な支配・・帝政ロシアでは農民といっても「農奴」という表現で知られるように、世界の農民の中で最も最悪の環境下で隷従させられてきた社会です。
前近代においては人口の大多数が農民の社会ですから、農民の待遇が世界最悪ということは支配層と被支配層の関係・・人民大多数は世界最悪の過酷支配を受けていた社会だったことになります。
ロシアの場合、後進国特有の頭でっかちな運動による結果、まだ新政権を担うべき人材不足・・円滑に話し合い解決し運営する能力がない不幸で、政治関係者間では粛清に次ぐ粛清の恐怖政治をスターリン死亡後の1956年のフルシチョフによるスターリン批判まで続けてきました。
恐怖政治の内容は「穏やかな」表現による演説だったとはいえ、以下の通りです。
ソ連では、1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第二〇回大会においてスターリン批判の演説を行い、世界を驚かせた。公開の一般演説ではスターリン(53年死去)の名を挙げなかったものの、それまでのソ連共産党の公式見解である戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は避けられないとする考え)を批判して、西側との平和共存路線への転換をはかり、また暴力的手段によるのではなく議会制度を通して平和的に社会主義への移行することが可能であることを呼びかけた。これは従来のスターリン体制からの大きな転換を意味していた。ただし、共産党一党支配を否定するものではなかった。
http://www.y-history.net/appendix/wh1602-035.htmlからの引用です。
スターリン批判
 それ自体が画期的な方向転換であったが、さらに大会最終日の2月24日から25日にかけて開かれた非公開の会議で、再び演壇に上がって『秘密報告』と呼ばれる報告を行い、スターリンを名指しで批判した。この秘密報告は、正式にいうと『ソ連共産党第二〇回大会非公開会議における演説』ということになっており、その表題も『個人崇拝とその諸結果について』というごく穏やかな名前になっている。この非公開の会議には、1355名の決議権をもつ代議員と、81名の審議権だけを持つ代表、計1436名が出席した。内外の記者、外国代表は退席を求められた。代議員もノートをとることを禁じられた。しかし、その内容が海外に漏れ、アメリカなどの新聞が報道し、世界に衝撃を与えた。スターリン批判の内容は以下の点であった。
スターリンが1934年の第17回党大会以降、自らに対する個人崇拝を「わがまま勝手に」押し進めた。彼はレーニンの「集団指導」を無視し、党大会や中央委員会を開催しなかった。
社会主義体制達成後も階級闘争は続くという誤った理論から、反対派を「人民の敵」として捕らえ、銃殺するという大量テロル(粛清)を行った。
その手先となったのはベリヤらであった。その下でテロルを実行した人びとはそれが社会主義圏説に必要だと単純化していた。(取調官ロドスの例)
スターリンは軍事的天才ではなかった。ドイツとの戦争ではその侵入を予測できず大きな損害をこうむる原因をつくった。地球儀で作戦会議を開く有様だった。また、軍隊の有能な指揮官に対しても粛清をもって当たった。
民族大虐殺にたいしても責任がある。
スターリンは国内をほとんどあるくことなく、農村の実情を知らなかった。
『スターリン小伝』『全ソ共産党小史』などで自画自賛した。
中国ではまだ毛沢東批判はタブーですが・・。
このおそるべき恐怖政治を世界に及ぼそうとしていたのが、コミンテルンの民族国家よりも世界共産化思想という名目でのソ連による世界支配の野望でした。
国内では、民族同胞親兄弟よりもソ連共産党思想への忠誠を上位に置き、内部にスパイ網を張り巡らせて親兄弟をも密告させて粛清していく・これを国際的に拡大したのコミンテルン思想です。
ソ連に本部を置きその指導のもとに、世界に民族や同胞よりも共産主義というなのソ連政府に忠誠を誓う「細胞」浸透させていく仕組みでゾルゲ事件で知られる日本や米国(ルーズベルト政権)も世界中の支配層や軍部内に汚染がひろがっていきました。
ソ連支配は国民に過酷な分、少数民族にはなお過酷でした・・支配下に入った少数民族に対しては、文字通りの過酷支配・・気にいらない少数民族をそっくりリシベリア送りにするなど過酷悲惨な支配の連続でした。
例えば14年のロシアによるクリミア併合以来関心の高いクリミア半島の住民構成の変化をウィキペデイアで見ると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E5%8D%8A%E5%B3%B6
「クリミア・タタール人は、2001年の国勢調査ではクリミア自治共和国の12.1%、クリミア半島全域の10.2%を占めるに過ぎないが[32]、クリミア・ハン国が成立した中世後期以降にクリミア半島内でキプチャク系のノガイ族の遊牧民とオグズ系のトルコ民族、南部の山岳地帯や海岸部に住む元キリスト教徒の諸民族の子孫が混交して形成された土着の民族である[33]:74。1944年にヨシフ・スターリンの政策で中央アジアに強制移住させられ、ソ連末期の1980年代末からクリミア半島に帰還し始めた[34]
以上のように原住民・土着民族(100%近いのが本来でしょう)が今では帰還が進んでも10、2%を占めるに過ぎない状態です。
ソ連支配下でシベリアに何かの嫌疑?を理由に民族丸ごと強制移住させられてしまった歴史があって最近帰還が進んでいるというのですがそれもやっと1割しかいません。
帰還できるようになったのは、スターリン批判後徐々に民主化が進んだ結果でしょうが、多分ソ連崩壊後ウクライナ領になって大幅に進んでからのことでしょうから、・・再びロシアに併合されるとこの先どうなるか・・多分ロシア人の人口比が大幅に上がるのか?・・分かりません。
北海道が仮にソ連領になっていた場合、ほとんどの日本人がシベリアに送られてその7〜8割が過酷な強制労働による病死等でなくなっていた可能性が大でしょう・・そして北海道にはロシア人の人口が多数派になっていたかもしれません。
日本のように日露戦争報復意識のない単純併合されただけのバルト3国やカフカスなどでも、ロシア人比率が上がっています。
以下ウィキペデイアによると
ラトビアの例
▼民族構成
ラトビア人が62%。(バルト人)
ロシア人が27%。(東スラブ人)
リトアニアの例
人口の83.1% がリトアニア人である。少数派としてポーランド人(6.0%)、ロシア人(4.8 %)、ベラルーシ人(1.1%)、ウクライナ人(0.6%)などがいる[51]。

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