ポンド防衛の歴史10(成長率格差と英国病)

イギリスは戦前から続いていた国際収支の赤字基調が戦後も変わらず、しかもスターリング地域諸国自体もスターリング地域以外の諸国の経済復興について行けず、全体としても赤字化していきます。
ドイツに追い上げられその内アメリカに追い越され、戦後は再びドイツと日本に追い上げられ、追い越される展開ですから、新興国に追い上げられて低成長に陥っているいる今の日本同様で国内産業構造としては低成長は仕方がなかったでしょう・・。
こんな風に書くと日本も英国病と同じ道を歩むのかの心配がありますが、日本の場合は、日本の国力衰退の結果ではなく、国力は充実していてまだまだいくらでも貿易黒字を稼げたのですが、余り黒字が大きすぎて国際的に許容されなくなっていました。
デトロイトではアメリカの国会議員がハンマーで日本車をたたき壊している様子がテレビ報道されていたくらいです。
仕方なしに、アメリカ国内に工場進出したり、大きすぎる対米貿易黒字を隠すために東南アジアを迂回して輸出する構造=東南アジアへの工場進出が盛んになっていたものです。
この結果東南アジアの工業化が進みひいては、中国等新興国経済が浮上出来たに過ぎません。
日本企業が海外進出せざるを得なくなったことによる、アジア諸国の経済成長ですから、日本のさらなる成長の一変形・バージョンに過ぎないとも言えます。
中国やタイ韓国等によるアメリカ向け輸出は日本の進出企業や日本の部品を利用したダミー的輸出でもあると言われている所以です。
ですから今でも韓国などの輸出が増えると対日貿易赤字が膨らむ構造で、巨額貿易黒字を計上している中国でさえも対日関係では赤字を計上しているので、まさに日本の迂回輸出そのものです。
ただ日本からの輸入は部品ですから、完成品価格の一部に過ぎないので組み立てて完成品にして輸出する中国や韓国.タイは日本からの輸入に比べて輸出の方が大きくなるので、結果的に貿易収支が黒字になっていてアジア全体が潤う構図です。
この分、日本の貿易黒字の構造が変わっているので、従来のような大幅な黒字は完成品輸出の中進国に譲るしかなくなった・・現場系の職場が減って来ると町に活気がなくなることは事実でしょう。
ですからトータルの経済実力が衰退して、大恐慌前後から貿易赤字になりポンド下落に見舞われ続けているイギリスとは原因が違いますので、ただちにイギリスと同じような衰退を始めるとは限りません。
失われた20年と言っても、上記の通り迂回輸出構造に過ぎませんから、リーマンショックまでは巨額貿易黒字の連続だったことも繰り返し書いている通りです。
ただし、原発事故以降の輸出構造の変化・・貿易収支の悪化は、これを一時的に終わらせることが出来るのかについては注目する必要があります。
2011-12-6「ポンド防衛の歴史7(イギリスの耐乏生活1)」以下で書きましたが、英連邦諸国は、イギリスに積み上げた預金をマトモに払ってもらえずに資金不足状態にあったでしょうし、イギリス本体は借金支払に追われて新規投資資金が不足していたこともあったでしょうが、OECD諸国の戦後成長率に比べてイギリスはその約半分以下の成長しかしていません。
名古屋大学教授金井雄一氏の「基軸通貨ポンドの衰退過程の実証的研究」によれば、1950年代と60年代初期の労働生産性上昇率が紹介されていますが、日本が8.6%及び9.0%、ドイツの6.6%と6.6%、フランスの5.5%および6.5%に対して、イギリスは2.9%及び3.4%に留まっていると書いています。

ポンド防衛の歴史9(ポンド管理政策の破綻1)

戦時中の為替規制は戦時特例としての「管理令」だったのに1947年の制度は、「法」という恒久制度にしてしまったらしいのです。
日本では法と令とは格式が違う・・日本では法は国会の制定したもので、令(勅令・政令・省令・は行政府の定める法の下位規範です。
(格と式の違いについては以前律令制との関係で01/17/06「律令制の崩壊と平安遷都(格式の発達と令外官1)」前後で書きました。)
12月1日に紹介した名古屋大学教授金井雄一氏の「基軸通貨ポンドの衰退過程の実証的研究」によれば、戦時中の規制を為替管理令と翻訳して、戦後規制を為替管理法と翻訳しているのは、上記日本の法と令の格式の違いを前提としてのことなのでしょう。
これは日本法形式の違いであって、イギリスも同じような違いがあるのか(・・法制度の違いを知って翻訳しているのかまでは分りませんが・・)その論文には恒久法になったと紹介されています。
41年の管理令は戦時特別の時限立法だったので「管理令」と翻訳して戦後の47年法は戦時に限る時限立法ではない平時の法なので「管理法」と翻訳を変えているのかも知れません。
これによって域内諸国に関してはポンド利用を強制し、同時にドル・プール制も強化されて、ポンド以外の外貨との交換を許可制にして、ポンド流出防止に成功します。
英連邦諸国に対する法・強権による強制は、経済の実態に合わないと、ナポレオンの大陸封鎖令同様に無理が出てきます。
この体制はアメリカの圧力というよりは、内部事情から徐々に崩壊して行きます。
戦時中と違って、戦後世界全体が自由化に向かっている中で、(たとえば、1950年の「ヨーロッパ決済同盟」設立など戦後の為替交換性回復・貿易自由化の流れは留まるところがありません。)これに反する為替閉鎖体制の維持(スターリング地域全体が域外に対して貿易赤字化して来ていたので、一種の貧乏国・低成長国の集まりとなってしまいました。
貧乏人の集まりでは先がありません・・旧共産主義諸国の経済機構・COMECON・もやって行けないので解体していまい、中国も1980年IMF加盟国になり、未だに孤立しているのは北朝鮮くらいです。
スターリング地域を閉鎖社会にしたままでは、世界からの孤立化にも繋がり、戦後の発展から取り残されてしまいます。
1947年8月に緊急避難的に為替管理政策に戻ったイギリスは孤立し続ける訳に行かなくなって、47年のような一気の自由化ではないものの、おそるおそるの自由化を試行して行きます。
1951年には、公認為替銀行と多くの為替ブローカーに対する為替取引の自由化を部分的に認めるようになり、為替交換が徐々に再開されて行きます。
他方でポンド預金の封鎖勘定と外貨変更自由な解除残高の割合を徐々に変更して封鎖残高のポンドの比重を下げて行ったのですが、自由化が進み始めるとスターリング地域合計の国際収支赤字基調がポンド相場維持に重荷になって来るジレンマがありました。

ポンド防衛の歴史8(イギリスの耐乏生活2)

イギリスによるスターリング地域の為替管理政策は、1931年から終戦までの間、本家の格式を守るために分家の売上も合算して、本家の穴埋めに使っていたようなものです。
新興国アメリカの経済力を背景に世界中に広がりつつあったドル貿易圏の拡大に立ちはだかるスターリング地域・・ポンド交易圏・為替規制の存在を容認出来ないのはアメリカの立場上当然でしたし、他方イギリスがポンド自由化に応じれば当時の支配通貨ドルへの換金ラッシュになるのが必至です。
イギリスのスターリング諸国に対するポンド預かり資産・一種の借金が100億ポンドもあったのに対し、外貨準備が僅か6億ポンドしかない上に国内総生産規模・年100億ポンドから見て換金圧力が大きすぎて、この換金ラッシュに耐えきれません。
結局戦後のイギリス経済は、英連邦諸国の結束維持・・飽くまでじり貧の親戚同士で孤立して頑張るか、より広く拡大しつつある世界自由貿易に参加するかのジレンマに陥っていたのです。
ソ連邦を中心とするCOMECONが貧乏所帯同士で頑張るか、解体して自由主義経済に参加するかの判断と同じです。
(結果的に90年頃にソ連邦自体が解体しましたが・・英連邦の解体進行過程と似ています)
戦後・・アメリカの欧州に対する復興援助・マーシャルプランを通じて、欧州自体が次第に1つの形をとり始めると、イギリスは英連邦諸国との紐帯を捨ててEC→EECの仲間に入るかのせめぎ合いの連続となったのは、その1場面だったことになります。
これが未だに解決出来ずに現在に至っていることになります。
(1973年に漸くEECに参加したにも拘らず、今でもイギリスは統一通貨・ユーロには参加していないなど欧州との関係は微妙なままです。)
アメリカは戦時中から世界中の貿易自由化・・ドルの国際化を求めていましたので、為替自由化に正面から反するイギリスの為替規制・・ブロック経済の象徴とも言うべきスターリング地域の存続は許せませんが、かといって解体・・ポンドの交換性回復をするにはイギリスの資金不足は明白でした。
終戦時のポンド債務残高100億ポンドの内、アメリカ・カナダによる54億ポンドの援助・イギリスが終戦時に保有していた対外債権売却益11億ポンドの合計で不足する約35億ポンドに対して、イギリスの保有していた金・ポンド換算外貨準備は6億ポンドしかなかったので、いきなり交換性回復・自由化をすればたちまちポンドは暴落・破綻・デフォルトになってしまうことが明白でした。
イギリスにはポンド交換性回復能力・経済的裏付けがないのにアメリカが無理な要求していると、せっかくの戦後スキームであるIMF体制の発足が頓挫してしまいます。

ポンド防衛の歴史6(ポンド自由化圧力)

ポンドを自由化すれば、ポンドが強いときにはポンドを買う人が増えて資金が流入しますが・・・ポンドが世界の基軸通貨の地位を退いて久しく弱体化進行中の戦後において、ポンドの換金自化をすれば、ポンドのドルへの交換を通じた資金流出・ポンド預金の払い戻しが生じます。
大戦前から終戦時までにはイギリスのスターリング域内諸国への債務・・域内諸国のイングランド銀行への預金残高=イギリスにとっての対外借金は100億ポンドにも膨らんでしまいました。
第二次世界大戦終結時にイギリスが戦前から保有していた対外債権を売り払ってもポンド換算で僅かに11億ポンドしかなかったために、アメリカ、カナダからの54億ポンドの借款しても、まだ35億ポンドが不足していたと12月1日に紹介した名古屋大学教授金井雄一氏の「基軸通貨ポンドの衰退過程の実証的研究」では書かれています。
11月29日の「自国通貨が逆流した場合」で、円資産の海外保有の増加は、目出たいことではなく対外借金の変形である・国力低下時に払い戻しの債務になるリスクのテーマで書きましたが、ポンド預金が債務に転化して困った事例の1つです。
基軸通貨の地位を滑り落ちて行くとき、それまで外貨準備となっていたポンドのドルへの乗り換え圧力・・ポンド売りの巨大な負担でイギリスが戦後何十年も苦しむことになります。
円も今は元気がいいですが、いつか下り坂になれば海外に出回った分だけ売り圧力に苦しむことになりますから、円の海外保有が増えるのは将来の借金を増やしているようなもので、そんなに良いことではありません。
大幅な国際収支マイナス状態・・ポンド売り圧力下で終戦を迎えたイギリスは、ポンドを自由化すればたちまちドルへの換金ラッシュに見舞われるので、アメリカから求められても容易には応じられません。
イギリスが保有する外貨・ポンド換算約6億ポンドだけでどうやって凌いで行くか解決策が見えない中で戦後経済が始まったので、戦後イギリスの経済はポンド自由化の要求(世界世論)との戦いでした。
戦勝国・・大英帝国の栄光を背に人並みに自由化したいが、そのためにはポンドの買い戻しが必要なので大変だったのです。
敗戦国の日本やドイツは廃墟の中からの復興が始まり・・今で言えば復興景気に沸いたことになりますが、戦勝国のイギリスの方は、借金の返済から始まるので、ナチスにやられた爆撃の後を直すことすらママならない状態で、戦後の用意ドンが始まったのです。
戦争には負けたものの日本は世界中から孤立して戦っていたので、対外債務が多分ゼロみたいな状態で始まったように思えますから、(お寺の鐘まで供出するほど国内資源を食い尽くしていたので、敗戦時にはみんな飢えに苦しむ生活でした・・国民に対する借金・・国債や公的債務は一杯あったでしょうが、対外債務がなかったように思えます)海外植民地を失ったとは言え、逆に身軽に本国だけの一点集中の復興が出来たこともメリットでした。
(軍事費ゼロで始めたことも大きいのですが、これは誰もが知っている通りです)
ドイツに至っては本国さえ西側半分余になったので再建する分が少なかったので日本よりも早く立ち上がれたのかも知れません。
この点イギリスやフランスは、荒廃した本国の改修・再建どころか、日本支配から戻って来たインドシナ半島などの植民地へのテコ入れが必要で、それが不十分だと独立運動などに悩まされるなど余計な出費が続いたのです。
結局維持し切れずに手放しますが、そこまで行くには膨大な出費がありました。

ポンド防衛の歴史5

イギリスは1939年対ドイツ戦開始後数次にわたる為替管理政策の結果、域内の基軸通貨国としてウマい汁を吸って来たので、戦後もこれを維持をしたかったし、するしかなかったのがイギリスの立場でした。
(いきなり解体すると100億ポンドものポンド預金残高・債務の決済をしなければならないので破産してしまいます)
自由貿易主義のアメリカは戦争中からスターリング地域の解散・解体を求めていたので、(アメリカ主導のIMFの基本合意が出来たのは戦時中でした)アメリカに助けてもらっているイギリスとしては戦争が終わるまでは特別扱いを許されるとしても、戦争が終わった後もいつまでも為替規制によるブロック経済を存続し続けることは不可能な政治情勢でした。
IMFを国際通貨基金と訳しているように、国際的な為替規制ルール不備が貿易戦争・・ひいては大戦の引き金になった反省で戦後の最も重要なスキームとしてアメリカ主導で戦時中に基本協定が成立していることから分るように、為替規制が必要なときのルール化が創設目的でした。
学校では戦後体制として国際連合の創設しか教えられませんが、国際連合は政治の枠組みであって、政治を規定する経済の枠組みの創設がその前提として重視されていたのです。
ですから、IMFは国連が出来ると直ぐに国連の正式機関として位置づけられます。
国際通貨基金が実効性を持つには大きなグループであるスターリング地域の解消・・なわちポンドの為替規制の解除・自由化が求められていたのです。
大戦突入の経済要因としてブロック経済化と教科書で習いますが、その技術的基礎は為替規制にあったからです。
ブロックの名称をイギリス貨幣の名称である「スターリング地域」というのは、まさに通貨の共通化・・貨幣交換性拒否による閉鎖経済を意味することになるからです。
IMFは戦時中の1944年のプレトンウッド協定で合意された戦後の経済枠組みで、発足は1946年3月29カ国で創設・・日本は52年加盟と同時に理事国になっています。
私たちは、ミッドウエー沖海戦・レイテ島沖海戦やノルマンディ上陸作戦等の戦争現場ばかり目を奪われていますが、連合国内部(血は水よりも濃い筈の英米間)では、戦後経済のあり方に関する熾烈な経済戦争・政治交渉が続けられていたのです。
アメリカは悲惨な戦争の原因がブロック経済化にあると考えていたことは・・これが戦後アメリカ支配下の我が国の歴史教科書の基本思想になっていることからも明らかです。
これに加えてアメリカは戦時中に連合国援助向けに拡大した供給力のはけ口として戦争が終われば世界市場の自由化・拡大を求めていたので、閉鎖経済の象徴のようなスターリング地域の存続はアメリカの意志・思想だけではなく、経済利害にも反していたのです。
イギリスはいつかはポンド交換性を回復をするしかないことも分っていたので、前回紹介したようにケインズによる「国際清算同盟案」を策定したりして努力していましたが、スターリング地域内での借金が増えるばかりで解体・ポンド交換性回復の具体案が出来ないまま終戦を迎えたのです。

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