オーナーと管理者の分配3(武士の台頭1)

パルコや銀座シックスなど、全館統一セールをやるシステムの場合、売り上げの%での支払いで良い(営業マンの一部固定給一部歩合の逆張りで、最低固定金プラス売り上げの%にする)代わりに売り上げ代金を大家?運営主体が直接管理する仕組みになっています。
これを仕入れ管理まで徹底したのがフランチャイズシステムでしょう。
コンピューター処理等利用によって、帳簿管理が精緻になっているからできる事でしょう。
魅力が低いのに出店料納付歩合が高すぎる場合、テナントが応募しないか撤退が続き空きスペースが増える・・市場競争が働きますので、契約内容に政府介入の余地が低くなっています。
奈良時代から明治維新まで農業収入が社会の基本であった場合には、簡単に追い出すわけには行かないので現地実情に通じた現地預かり所・・現地支配人の裁量に委ねるしかなくなったのでしょう。
観応の擾乱に関する本を読んだ時に寺院領だったか、八条院領だったかで洪水被害による減免願いがあちらこちから出ている文書を読んだ記憶(他の文書の付属だったかの思い違いかもしませんが)です。
それにしても、2〜3年連続の凶作とか程度を超える減収報告で怪しいと思ってもどうして良いかわからないときに、源氏や平氏の棟梁に訴えて適当な解決をしてもらう時代に入っていたのでしょう。
平安末期になると武力解決に限らず日常紛争でさえも最終解決は武家の棟梁に委ねるしない状態になっていたので、鎌倉幕府が問注所を公に設けるしかなくなったようです。
秩序・法とは何かですが、正義がこれ!と決めたら強制執行する力をバックにしてこそ成立するものですから力のない政府には法の貫徹が不可能です。
非武装平和論・道徳教育さえすれば違法行為がなくなるならば警察力不要なのと同じで、違法行為を違法と断じて強制排除できる権力確立があってこそ平和が守れるのです。
パックスアメリカーナとかいう通り豊臣秀吉のような「天下人」が惣無事令を出さない限り、各地の小競り合いや大規模戦争は防げません。
政府権力が弱くなり実効性がなくなると、政府権力に頼れない各地で自衛のための武士が勃興したのでしょう。
政治権力の肝は「物事の最終解決を俺にまかせろ!ということですから、朝廷・・摂関家や院、寺社等の荘園領主が、地元武力に保持者に頼むしか解決できなくなると、地元武士で解決不能な大きな争いは武士のトップに頼まないと決められなくなった時点で、朝廷や摂関家は政治権力者の体をなさなくなっていたことになります。
保元平治の乱に戻ります。
平安末期には地元有力者・・元は飾り物の国司にかわって郡司さんが仕切っていたようですが、小作料・年貢?収入の取り立てに始まって不確定要素が大きすぎて、強制力の必要な場面が増えると地下人としてたくましく勃興してきた武士層が郡司さんにかわっていったように思われます。
平安時代から始まっていた武士への管理委託が、平安末期になると荘園本部の管理能力を超えてきたので現場に精通する武士のいいなりになっていたのでしょう。
保元平治の乱では朝廷内両勢力も貴族層である藤原氏内部争いも同じ・・両派に別れて戦ったものの武士の力を借りないと決着がつかないこと自体が、社会の実質決定権が武士の意向によるものに変わっていたのが表面化したことになります。
当時解決すべきテーマは、荘園経営を足元から食いつぶし始めていた武士の台頭(氏長者になっても地元武士団に食われ中央への貢納が減ってきた点)にあったので、この地殻変動に関する本来の争いが後醍醐天皇の建武の新政後の南北朝時代まで続きます。
この減ってきた収入源の奪い合いのため荘園オーナー同士・仲間内で揉め事を起こし、その解決に中間搾取している武士の力を借りたためにさらに武士の力が増大するしか無くなったことになります。
新井白石や松平定信、水野忠邦が、新産業を起こす努力をせずに質素倹約に邁進すると、経済活動が縮小してしまい、結果的に幕府経済の土台を蝕んで幕末に向かって行ったのと同じです。
管理を預かる武士団が中央へ納付する年貢が減る一方で朝廷貴族層の喫緊の課題は朝廷・荘園収入の維持拡大だったでしょうが、これの解決には武士上位者の協力が必要になっていたようです。

健全財政論7(武士の生い立ち)

「国民生活をインフレから守るベシ」との経済官僚の古くからの気概(DNA)は、大恐慌によって金兌換制が廃止された以降中央銀行と言う組織に委ねられるようになりました。
ちなみにインフレは消費者である国民にとっては収入が目減りするので損であり(他方で必ず得するもの=供給側企業)、デフレはこれと反対で消費者が得する関係であることについては、5月18日その他のコラムで書いています。
経済官僚(元は武士です)にとっては、貨幣の質低下→インフレ=国民生活混乱阻止に対する強固なDNAの歴史があるので、中央銀行はインフレにはすごく敏感ですが、デフレに対しては鈍感なのは、中央銀行制度成立の歴史によるものです。
ここで少し話題がそれますが、武士が国民生活を守るのに何故敏感であるかということについて書いておきます。
武士と我が国以外の多くで採用されて来た専制君主制の兵士との違いが大きいと思われます。
2012/08/09「貨幣維持1」でちょっと書きましたが、専制君主制の兵士とは違い我が国の武士は、地元血族集団・領民保護のために戦うべく自然発生して来たものであって君主のために徴兵されたものではありません。
戦闘集団として効率的に戦うためにその時々にもっとも有利なグループリーダーを推戴しているうちに、一時的に推戴された指導者の立場が強くなって行ったに過ぎません。
古くは源氏についたり平家についたり、鎌倉末期には北条についたり足利についたり、室町期には南朝についたり北朝についたり、戦国時代には各地土豪がその時々のリーダーの元に離合集散を繰り返して次第に越後の国や甲斐の国あるいは尾張の国などの国内統一になって行ったことは周知のとおりです。
最後の離合集散が、関ヶ原だったと言えます。
関ヶ原以降は圧倒的な武力を背景に徳川氏が、中国の思想を借りて来て専制君主のような主張(忠孝を強調)して勝手に専制君主に変質しようとしていた(最後まで成功しません)に過ぎません。
いくら借り物の儒教道徳を教え込んでも、草の根から興った武士の本質を変えられませんから、地元民(先祖代々の一族の集まり)を守るためには中国からの輸入概念であるニワカ主君の命に反することが武士にとっては本来の正義であり、謀反でもなんでもありません。
これが大塩平八郎の乱の思想的背景ですし、彼が謀反を起こした極悪人ではなく、「義士」として歴史評価されている所以でしょう。
この意味では応仁の乱以降下克上の時代と頻りに学校で習いますが、学校教育は江戸時代以降のかっちりした主従関係を前提にした誤解であって、一族・・その背後にいる郷土の親類縁者を守るにはどちらについたら生き残れるかの瀬戸際の判断でそれまで従っていた有力者から別の有力者に乗り換えるのは、謀反でも何でもありません。
下克上に関するこの種の意見を02/24/04「与力 (寄り騎)6(主従とは?2)」、09/22/04「源氏でなければ武家の棟梁になれない」の不文律はあったのか?3」に書いたことがあります。

明治維新と上級武士層の没落

明治維新はフランス市民(ブルジョア)革命と違って支持階層から言えば、下級武士・無資産層による社会革命の一種であったと言えますので、この結果四民平等意識の徹底(・・・今でも世界中で日本ほど平等意識の強い国がないのはこの歴史に由来するのです)に役立ったと言えます。
他方から言えば明治維新は経済原理による革命ではなく、民族意識の覚醒・・政治的理由・・黒船到来とアヘン戦争に端を発した植民地化の恐怖への対処が中心だったと言えます。
西洋のブルジョアージーによる市民革命とは違い、明治維新では大名や上級武士層が没落して中抜きが進んでしまい、1君万民制度(天皇家を除く四民平等)になってしまったのは、現象的には下級武士によって維新が遂行されたことによるのですが、これだけではなく、大名や上級武士層は夷狄から国を守る戦力としては無力であったことが明らかとなり、他方で新しい社会構造に必要な人材でもなかったことによるのです。
無駄飯食いのリストラ策が廃刀令であり、(兵力維持には武士は無用となり、士官学校の創設と国民皆兵策)行政組織としては廃藩置県・・大名の知藩事からの放逐・・中途退職割り増し金に該当するのが金碌公債の交付でした。
中には、維新後に金碌公債を元手に西洋貴族のまねをしていわゆる士族の商法をやった人(元大名)も少しはいたものの、その多くは失敗に終わり、基本的には産業・商業資本家に転化出来ませんでした。
彼らはその後どうなったかですが、一部優秀な武人は士官学校に進出した人もいたでしょうし、知的に優秀な人は高級官僚(榎本武揚など)になったり知的階層への転出母体あるいは、地方公務員層として生き残れた人が少しだけいたと言うことでしょうか?
明治維新後の近代工業国家への脱皮成功は、既に産業資本家が育っていたからではなく、岩崎弥太郎のように時代の機運に乗じて勃興した(国家助成と合体した)新興事業家と江戸時代から育んでいた知的レベルの高さ・手工業技術の下地があって成功したことによるものです。
日本の明治維新以降及び戦後の経済大国化成功の秘訣は、共に江戸時代以降の知的レベルや・技術の蓄積によるものであって、それ以上のことはないとも言えますので、知的レベル・技術力の維持こそ我が国の基礎であることは、これからも同じでしょう。
ただし、技術力だけで生きて行けるか(個人で言えばエージェンシーの必要性)は別問題ですので、この点はこの次以降リーダーシップに関して書きます。

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