構造変化と格差24(インフレの効果1)

低賃金国で生産出来る産業・業種のままで(高度化しないで)企業が国内に留まることは不可能ですから、(国内で倒産または海外脱出にせよ)その分国内雇用が減少して高失業社会に突入するのは仕方のないことです。
(農漁業だけが例外的に厚い保護を受けて来ました)
汎用技術のままで国内産業空洞化を防ぎ、失業率上昇を防ぐには後進国に負けない低賃金の実現しかないでしょうが、自信満々の中国でさえ、今でもまだ我が国の約10分の一の賃金に過ぎませんから、イキナリこれに合わせて賃下げすることが不可能に近いことは明らかです。
そのうえ、現役労働者の賃下げが簡単に出来ない仕組みを温存する以上は、さしあたり新規参入者を絞り、かれら(中途採用が例外で新卒中心の就職市場ですから原則として就職戦線に参加する中心は若者です)の労働条件を下げるしかありません。
この結果若者の就職難・非正規雇用が増加して、他方で賃金水準が高止まりしている既得権益者・中高年労働者との格差が開く結果になります。
比喩的に言えば、日本全体でイキナリ中国に対抗するために10分の一に賃下げ出来ないまでも1〜2割程度でも賃下げをして急激な国際競争力低下に対応しようとする場合、一律に1〜2割賃下げすれば公平ですが、日本では賃金の下方硬直性に手を付けない前提で処理してきたので一部にしわ寄せが行き格差拡大した面があります。
すなわち全く賃下げのないまま残存する者(既得権者)とその他に分けて、その他にしわ寄せが行く仕組みが、グローバル化以降の我が国の処方箋でした。
その他に対してはリストラにより失業者にし、新卒採用を減らして未就職者を増やし他方で一部非正規雇用化をすることによって、日本全体の人件費率を下げようとして来た場合、一律1〜2割引き下げに比べ社外に出された者や新規参入者の賃金下落率はもっと大きくなるのは当然です。
このような不公平・賃金下方硬直性を死守しようとしているのは、まさに格差拡大を大きな声で主張している労働側勢力ですから、矛盾した関係です。
ここで賃金の下方硬直性に関連した限度でインフレとデフレのもたらす効果について書いておきましょう。
新興国に対抗するために公平に同率生活水準引き下げを図ろうとした場合、例えば10%物価上昇すれば、国民等しく10%生活水準が下がり・・ひいては購買力平価で言えば実質賃金が10%同率で下がったことになるので、あえて賃下げやリストラをする必要がなくてスムースです。
この逆に10%のデフレの場合、等しく10%生活水準が上昇し、ひいては等しく賃金水準が10%上がってしまうので、海外からの低賃金圧力に対して逆効果になってしまいます。
デフレが続くと上記のようにリストラ・解雇等神経を逆撫でするような経済行動や政治が必要になりますが、無理なことは無理なのでうまく行かず、日本経済は苦しくなり、政治も混乱します。
身体で言えば、飲み込む(インフレ)のは簡単ですが、吐き出すの(デフレ化でのリストラや賃下げ)が苦しいのと同じ状態が続いています。

構造変化と格差23(新自由主義1)

モラルハザードにそれましたが、2012-2-12「 構造変化と格差22(モラルハザード1)」の続き・・格差問題に戻ります。
ここ5〜6年くらい前から、格差社会の広がりは新自由主義経済の結果だという意見が目立つようになりました。
(我が国は格差社会かどうかについてはオキュパイウオールデモに関して書き始めたとおり、疑問を有していますが、それはさておきと言うコラムです)
これは格差が生じたのは負け組の自己責任ではなく、経済政策や政治が悪いという他者転嫁論ではないでしょうか。
環境も無視出来ませんが、他者転嫁論だけでは前向きな解決には結びつきません。
ソ連崩壊直前ころまで流行していた共産主義者による定式的主張・・収入が低いのは搾取される制度の結果であって労働者には責任がない・・疾病も然り、学業成績が悪いのも不良になったのもすべて生育環境が悪い・・政治や社会にすべてを転嫁していた議論の焼き直しに見えます。
刑事事件であれ何であれ、悪い結果はすべて環境に原因があるという教条的議論には飽きるほどつき合ってきました。
環境は、勿論道徳観形成に影響を与えますが、貧しい環境から立派な人が出たり、親が厳しく躾けても不良になる子供は不良になる・・放っておいてくれたからのびのび成長出来たなど結果はいろいろです。
かなりの部分は、環境の影響を受けながらも本人の心がけ・・生まれつきの能力に関係することも無視出来ないでしょう。
人は環境に規定されながらも、主体的に生きて行く存在であると言う戦後流行した実存主義哲学の最盛期に育った私は、今でもそのような人生観で生きています。
私自身戦後の廃墟の中で育った自分に重ね合わせて、主体性を重んじる哲学に相性が良かったこともあります。
実存哲学とマルクス主義・ナチス・ファシストなど全体主義の関係は、03/01/08「西洋近代哲学の発展3(大衆の寄る辺は?1)」で少し書きましたし、刑法理論も似たような主張の団藤刑法学で一貫していることを、12/12/08「社会隔離と医療観察法12 」その他で書いていますので参照して下さい。
これまで連載しているように、グローバル化によって国内生産現場が縮小して単純労働需要・・中間層の職場が減ったことが現在の格差拡大問題の始まりであり、大本です。
格差が生じたとしても経済理論が格差を生み出したのではなく、グローバル化の結果です。
グローバル化の始まりは経済理論によるものではなく、アメリカによる対日輸入規制の強化が日本によるアジアでの生産による迂回輸出を生み出して、東南アジアで雁行的発展が始まった結果です。
グローバル化=国際賃金・生活水準平準化の始まりですが、先進国では賃金の下方硬直性があることから、直ぐに賃下げが出来ないので新規参入の制限→先進国=高賃金国の失業率の上昇から変化が始まります。
企業では、円相場に対応出来るほどの高付加価値生産の出来ない企業が高賃金国に留まる限り、企業としての負け組=倒産または業務縮小になりますが、企業には個人に対するような社会保障制度がないので(補助金行政がこれに該当しますが・・)国内に留まれば倒産・・社会からの退出の憂き目に遭うので、仕方なく新興国へ移動して行くようになっています。

構造変化と格差22(モラルハザード1)

我が国の世界に誇るべき同胞意識・絆を大切にする価値観を守るためには、個体能力差に応じて努力が報われる社会・・結果的に格差が生じるのを認めた上で、その格差がテコの原理のように何十〜何百倍にも拡大しない社会をつくること・・アメリカンドリームの否定こそが、求められていると思われます。
発光ダイオードを発明した人の裁判がありましたが、裁判の結果を見ると不当に安いと思う人がいるかも知れませんが、我が国では
「ある程度の報奨金までが許容されるが、それ以上は所属している会社・・ひいては同胞で成り立っている社会に還元して行くことが望まれていた」
と日本人の中に流れる「法」意識とすれば、判決が妥当だったことになります。
島津製作所のノーベル賞受賞者田中さんの対応と会社の対応は、日本人の琴線に触れる妥当な感じでした。
発光ダイオードの報奨金も適正妥当なところで交渉によって解決出来なかったのか・・・彼も権利主張一本槍で却って居場所をなくした感じですし、会社にとっても有為な人材を失い残念な結果でした。
ソフト化社会の権利主張について2月初めに連載したように我が国・ソフト社会では、権利主張の強すぎる人は生きて行けません。
かと言って,格差の生じない社会を賞賛する人があまり多いと、庶民に対して間違ったメッセージを送ることとなり、努力しなくて良いのかと誤解する人が多くなるのが困ります。
この誤解が広がればまじめに働くのは損だとなって、失業しても直ぐに就職しようとせずに、失業保険は貰える限度まで貰わないと損だという風潮になりつつありますし,生活保護費受給者も増えて来ます。
今よりも何十倍も貧しかった戦後の時代よりも、豊かな現在の方が生活保護費受給者が増えているのは、こうした風潮が広がっている結果でしょうか?
平成23年12月24日の日経新聞朝刊には、被災地では建設需要があって求人が多いのですが、一方で失業保険受給者が多いにも拘らず求職者が少なくて、人手不足のために復興工事を実行出来ないで困っている実態が出ていました。
被災地に限って失業保険の受給期間延長をしていたのですが,これを打ち切る必要が出ているようです。
「失業保険が出る間は働かない方が得だ」というモラルハザードが起きているのかも知れません。
(これは、割り増し退職金等で退職した中高年,あるいは定年退職労働者でも同じで、殆どの人は失業保険受給期間内は転職する気がない様子です)
被災地では失業保険を打ち切ると生活保護申請が増える可能性があって、(失業保険は自治体の支出にはなりませんが・・)震災で弱体化している自治体財政が余計苦しくなるので迷っている様子が報じられていました。

構造変化と格差21(結果拡大社会4)

明治維新以降の近代化の構造変化において、農業から都会人になった人でも経営層あるいはこれに準ずるホワイトカラー層(公務員)に食い込めた人材と底辺労働に組み込まれて行った人材がありました。
これまで書いているように、能力相応の格差は何時の時代にも(古代から)当然存在していたのです。
グローバル化までは、底辺労働でもそれなり生活が安定していた(今でも韓国や中国に比べて何倍という賃金格差があります)のと、我が国では元々上層部と労働者の所得格差が低い社会ですので能力相応に細かく分かれた格差は、大した問題ではありませんでした。
高度成長期に急拡大したホワイトカラーや工場労働者層(中間層)が、今回のグローバル化によって分解されて、本社に残れる5〜10%のエリート以外は中年になると関連会社に出されたり、割り増し退職金をもらって社外に出てしまう・・結果的に非正規雇用の職場しかなくなる不安定な身分に落ち込みました。
(これに連動して幹部候補生としてのホワイトカラーの新卒採用自体が激減です)
高度成長期にこれも拡大した現場労働者(・建設現場労務者・工場労働者)層の多くが、国内製造業の海外進出による職場喪失によって期間工や派遣・フリーター等になってしまいました。
こういう時代にこそ,新たなことに挑戦して新たな仕事を見つけて行くしか国の活路が開けません。
新たなことに挑戦して成功する人と成功しない人がいてこそ、(成功しない人が負け組です)社会変化に国が適応して行けるので、挑戦自体を否定していては民族の将来がありません。
とは言え、全員が変革の旗手になる・・成功するのは無理でしょうし、高度技術者になるのも無理ですから、負ける人の方が多く出るのは当然です。
負ける人がいなければ勝つ人がいない・・「負け組を造るな」の主張は、勝つことを許さない響きがあって、誰も新しいことに挑戦して成功してはいけない社会を理想にしていることになるとすれば、亡国の議論になります。
リクルートの江副氏に始まりホリエモン、村上ファンドなど新しく出て来た人材が直ぐに逮捕されたのは、それなりに指弾される理由はあるのでしょうが、ここ20年ばかりの検察の動きを見ると我が国では「結果として何か新しいことで成功すると、直ぐに摘発されてしまうような印象をもたれる社会」になっています。
昨年末頃に最高裁で無罪になった、ウイニーとか言うファイル交換ソフトを開発した元東京大学助手金子勇さんの例もありますが、新しいことをやると直ぐに逮捕・摘発が続くのでは、(後で無罪になっても)時代の進展に先駆けた能力を発揮しづらい社会になっています。
「負け組を造るな」・・あるいは「格差反対」のキャッチフレーズが流行っていると、本来防止しなければならない大きすぎる格差是正の問題としてではなく、庶民的には、「努力しなくっていいのか」と言う響きで受け入れられ易い危険があります。
(庶民の味方である・・庶民で構成されている警察が、そのように誤解して新規産業に敵意を抱いているのでしょうか)
優勝劣敗があって、その結果をどうするか・・セーフテイーネットの構築は別問題であって、競争→結果の差が生じること自体を否定していては、世界の発展に遅れてしまい、日本の将来はありません。
格差は変化に対する適応競争の結果生じることであって、逆にどんなに努力しても結果が同じでは困るでしょう。
国民全員が社会変化に同じ比率で適応出来ることはあり得ませんから、(個々人の適応力に凹凸があるのは当然です)その結果ウマく適応した人と出来なかった人の差が生じるのは当然です。
問題点・・修正すべき点は中間層が分裂してしまい、(比喩的に50〜60点の人が10〜20点の人と同じ扱いなってしまう)格差が大きくなり過ぎることではないでしょうか?
アメリカンドリームは、結果の格差が巨大であることを賞賛する社会ですが、我が国民性には馴染みません。

構造変化と格差21(結果拡大社会3)

我々弁護士の世界も同じで、過払い金バブルを経験して来て良い思いをして来てここ数年独立したばかりの経験10年前後の弁護士には厳しい試練が待ち構えている様子です。
(弁護士の世界には、日本経済の停滞に苦しむ現実が20年近く遅れて到来している感じです)
産業界ではこれを打開するために海外進出するのが普通ですが,弁護士業界もこの護送船団として一緒に進出するべきだという意見もあるでしょう。
部品等の下請け工場は,ついて行ってもそのまま生産出来ますが,弁護士の場合には出て行くときにだけ日本企業のアドバイザーになれるかも知れませんが、その後現地定着して現地の人を顧客に弁護士業をして稼げるようになることは考えられません。
トヨタやユニクロのように自分が国際競争力を持っていて自分のために海外に出るなら別ですが,他業界の進出について行くのは無理があるでしょう。
この点はおまけについて行っただけで自分自身の顧客を海外に求めたのではなく、海外進出した日本人客相手に海外に出て行った銀行やデパートと同じ結果になる筈です。
この問題は別の機会に譲って、格差問題に戻ります。
経験4〜5年前後の弁護士は修習生のときから大量増員による厳しい就職戦線を知っていますので、(さして良い思いをしたことがなくて)可哀想と言えば可哀想ですがその代わり弁護士になってからの厳しい現実には驚かないでしょう。
同じく一般の人も40台以降の若者は、大学卒業ころからの就職難で日本経済の厳しい現実を前提に生きてきましたので,今の中高年よりは打たれ強いと思われるので,今後彼らが中高年になると中高年の自殺者が減って来るのではないかと思います。
バブル期までに5〜60点レベルでも大企業に就職出来た人たちは、途中でリストラに遭えばその後は非正規雇用・・20〜30点レベルの仕事に転落してしまうのが普通です。
運良く大企業に就職出来た人たちは、今になってそのリスクに怯えた生活(うつ病等の多発や自殺率の上昇原因です)をしていますし、最近の新卒の場合、5〜60点クラスではマトモな正規社員としての就職がなく、残りは始めっから非正規雇用が待ってるだけの社会になってしまいました。
勝ち組負け組・・負け組を造るなというキャッチフレーズが我が国でここ10年前後流行っていますが、競争=淘汰とその結果による格差が今に始まったことではなく、明治以降ずっと適応と淘汰の繰り返しであったことは同じです。
たまたま経済大国化してから、中程度の賃金労働現場が拡大して誰もが就職出来て(大量生産社会は未熟練労働者の職場を拡大したので,言わば底上げ社会でした)良い生活を出来るようになりました。
これが普通になると「人皆同じ」のキャッチフレーズが、本当の社会であるかのような錯覚にとらわれる時代でもあったのです。
負けるのが可哀想という変な優しさが浸透して、2〜30年くらい前から運動会の徒歩競争は勝ち負けがはっきりするから廃止するという話を聞いたことがありますが、どうなっているのでしょうか?
優しいことは良いことだという風潮下で負け組を造らない社会に変質している点が、このようなアッピールを大きくしている面を否めないでしょう。
これまで書いて来た高度技術・ソフト産業時代が来ると、少しの能力差が結果では大きな差になる社会になったことを無視出来ません。
20〜30点の人に相応の仕事があり、3〜40点の人には工場労働、5〜60点の人(中間層)が5〜60点の事務系の仕事に就ける社会が大量生産型社会であるとすれば、7〜80点以上が高度産業・事務系に従事出来て5〜60点の人も最末端の10〜20点の人と同じ非正規雇用しかない社会になれば、中間層が消滅し格差が広がるのは当然です。
中間層向きの仕事がなくなった・・あるいは縮小した以上は,中間層が存続出来ない・あるいは縮小して行くのは当然です。
政治の世界では中選挙区制から、一人しか当選しない小選挙区制に移行したのがこれと軌を一にしていると言えます。
(地方議会はまだ中選挙区制のままですが・・・まだ国際競争の厳しさが直接及んでいない間接的な社会だからでしょう。)

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