格差社会の構造(米中と日本社会の違い)2

中国歴代皇帝は遠方の巨大な国が誼を通じて来たという(信じていなかったでしょうが・・・騙されたふりをして?)相応のお土産を与える仕組みが千年単位で続いていたようです。
ですから日本の遣隋使や遣唐使などもほんのちょっと手土産を持って行けばその何倍もお土産をもらえるという結果になっていたのです。
朝貢といい、朝貢に来る諸国を属国のようにいう人がいますが、平和関係にるという程度の関係だったようです。
今でも外交関係を結ぶと大使が原則として相手国の元首との謁見をするのが原則ですが、その儀式を朝貢と言っていたように思われます。
日本は遣隋使や遣唐使を送っても朝鮮族のように冊封される関係になっていません。
テーマがそれましたが、中国では何千年ものあいだ、政府高官は自己の地位維持に汲々として相手から自国がバカにされるか、どうかなど気にしない国益より私益優先の生き方の社会です。
この種のことを世界中でしていただけでなく、昨日紹介したように事もあろうにアメリカ国内で、中国贔屓の議長との誼を本国にひけらかす目的で現地総領事が行ったようですが、いくら親中派の議員でもこんな露骨な文章をもらってそのまま議案提出するわけにはいかない・・度肝を抜いたでしょう。
これがトランプ氏の目に触れたのか?不明ですが、世界中で行なっていることが逆鱗に触れたのが今回の対中口撃騒動の影の主役のようです。
要するに宮廷内の権謀術数に慣れているものの、世間がどう思うか・・多様な目を読む経験がない中国人材の弱点が表面化したものです。
自由主義には独占の弊害が生じるとしても、だからと言って、独裁が良いのではなく独占禁止法という例外制度であるいは貧困の発生については労働者の団結権や争議権などの諸権利を認めたり、各種保険・福祉制度の充実などで対応する方がしなやかです。
さしあたり中国政府・官僚の宣伝競争の行き過ぎが原因で世界孤立化が進む状態になり、中国始まって以来生き抜く大事な知恵と思っていた行動ルールが世界に通じない過ちに気付いて内部は大騒ぎの状態でしょう。
同時に行われた中国政府報道官個人名による「今回のウイルスは米国軍人が撒き散らした」という意見表明も「こんなことを言えば米国が怒るのでないか?」などの配慮に気が回らない・・同じように。上層部の覚えを気にした点取り競争の結果だったのでしょうか。
上記の通り国際世論を読む能力はないとしても、中国の方が被支配者になった経験豊富な分だけ、米国よりもある程度国際政治適応能力が高い可能性があるかもしれません。
戦後は竹のカーテンで欧米との自由競争条件対等化=発展のチャンスを自ら閉ざしていたし、今はまだ共産主義政治→独裁による桎梏がブレーキになっていますが、共産主義政権が倒れ民主化され米中競争条件が同じになれば、こういう意味では、日本保守系ネットでは中国共産党政権の破綻期待が強いですが、共産党政権が倒れて民主化すると中国の国力発揮の制約がなくなり、さらに上がることになります。
中国が民主化されて人の道・道義を守ってくれるならば、(日本はもともとトップを目指す国はないので)どこが世界のリーダーになっても良いことであれば別に矛盾しませんが・・保守系ネット世論はそこまで割り切っていないように見えます。
ただし国際政治は専制政治に向かないので、(弱者の無言の意向を読み取る能力が中国にない点では米国とどっこいどっこいですので)複雑な国際情勢の読みではトランプ氏同様に日本の政治家を頼る必要が高いでしょう。
日本のネット論者の立ち位置を見ていると日本民族のためにという視点よりは、ともかく韓国、中国憎しという熱意中心のように見えます。
ネット言論人もいろいろですが、時には「アメリカが味方になるから日本の勝ち」「文政権はアメリカに見放されているからザマー見ろ」みたいな意見が散見され、正義の基準など問題にしないような意見もあります。
真の愛国者は正義が自国にあるかどうか及び、現実の国際政治の動向に即しているかが重要です。
正義が日本にあるのに不当な国際力学で正義が通らない場合憤るのは自由ですが、日本に正義がないのに米国の支持が日本にあるから・というゴリ押しをするようでは、長期的にみて日本を危険に追い込みます。
韓国も無茶を言う国のままでは隣国として困ったものですが、もともとそういう民族性だったのか、戦後米国が日本の背後で足を引っ張る存在を必要としてそそのかされてたので、虎の威を借る狐として正義に反する主張を繰り返す習性が身についただけかもしれません。
今になって韓国が米国に梯子を外されると、正義に反する主張をしてきた分に比例して苦難が待っているでしょう。
正義に反したごり押しをしていれば、自分の社会に大きな無理を抱えたままになる・・権力に媚びて無理が通る社会になってしまうと、自国社会の道義を歪めてしまうので結果的に発展が阻害されるので、本当の意味の競争相手・日本にとって脅威にならない点は同じです。
日本も自国主張が正義(時期にあっているかを含め)に合致するかどうかが重要で、米国が味方してくれるからという基準で強気に出るのは危険です。

格差社会の構造(米中と日本社会の違い)1

エリートのピンポイント輸入に頼る米国と中国の違いは、異民族支配に柔軟対応するために自前の士大夫階層(一種の官僚機構構成層・中堅人材)がかなり大量存在する=層の厚さが違う感じです。
日本がGHQ支配に柔軟対応できたのと同じです。
日本が中国のように異民族支配を受けた経験がないのにをうまく受けれられたのは、京の朝廷・公卿集団が、次々と勃興して来る武家集団をうまく手なづけてきた長年の経験プラス徳川体制下における外様大名の多様な生き残り経験を活かしたものでしょう。
中央の宮廷官僚だけでなく各地方ごとに、その種人材が多様に存在してい社会であったことが重要です。
中国や朝鮮民族の場合、占領軍・専制支配体制下の生き残り策なので政治工作対象が一点に絞られる単線構造に対して、日本武士団の覇者・幕府は連合政府形態なので同輩が多い点が特徴です。
大和朝廷も諸豪族連立で成立している関係で古来から合議で決めて行くのが慣例でしたが、武家政権になると戦闘場面の延長で指揮官の号令一下のイメージですが、実態はそうでもありません。
戦闘現場での大きな戦略決定・軍議でさえも日々軍議を開いて翌朝(払暁)からの手順を決めて行く仕組みですし、まして内政になると鎌倉幕府は執権政治・・合議で決めて行くのが基本でした。
その合議は、(中流御家人以下の民意吸収能力のある)有力御家人の意向など忖度して決めていかないと政権が浮き上がるリスクがあり結果的に民意吸収能力が問われる仕組みでした。
徳川政権下でも有力諸侯の意見を無視できないというよりは、有力諸侯とは発言力のある諸侯という意味ですし、発言力があるという意味は、中小大名の意向を汲み取り代弁するのに長けた大名という意味であり、時流に関係なく正論であれば良い社会ではありません。
水戸家が尊皇攘夷論では先行していたのに、肝心の維新本番ではほとんど役割を果たせなかったのは、民心や時流の動きとか無関係な主張をしていた・現在の野党的批判論でしかなかったことによります。
水戸家から一橋慶喜を出していて水戸勤王党にとっては期待の星でしたが、彼は名門の一橋家を継いだことで政治力がなくとも知的能力が高かったかもしれませんが、地位による発言力があったという意味でしかなく、中小大名でありながら実力で発言力を持っていた大名に比べて政治力がイマイチだった印象です。
学問と違い政治の世界では、時期尚早の意見を否決されて、自分は1年前から主張していたと自慢しても意味がないのであって、必要時に主張する能力が政治には求められます。
真夏にセーターを着たいと言って馬鹿にされた人が冬になって自分が半年前に言ったことが正しかったというと笑われるのと同じです。
幕末に松平春嶽その他の小大名の活躍、あるいは山内容堂の大政奉還論は、こういう能力があったからです。
大大名は軽率に旗幟鮮明にできないので、こういう中小大名のアドバルーンを利用して形勢を読み時流に乗る体制で、これは鎌倉幕府崩壊時の足利尊氏の動きとも似ています。
明治憲法下の内閣制でも総理は首班と言われたように、同輩のトップでしかないのが特徴です。
占領軍支配に対するにしても、日本は複雑対応人材が多様に存在していたので難局をうまく切り抜けられたのです。
中国は1極支配の単純支配に対応する能力はありますが、国際社会は複雑です。
今回のコロナ禍でも、結果的に個人情報を徹底的監視体制を応用してうまく対応できたというのが自慢のようですが、それを自分で世界に自慢して触れ回ることではありません。
今朝(24日)の日経新聞朝刊6pのフィナンシャルタイムズ提携の署名入りオピニオン紙面には、「自滅した中国コロナ外交の大見出しで、米国ウイスコンシン州議会議長に対して中国政府から「中国の新型コロナ感染拡大に対する取り組みを賞賛する決議案を議会に提出してほしい」という趣旨の電子メールが届き、メールには決議文の案文が添付されていて、その内容は中国共産党がイカに素晴らしく対応したかといった論点や主張が列記されており決議にかけるには怪しすぎたので議長はイタズラだと思って、その議長は、外国政府が、州議会に直接法案の可決を求めるなど聞いたことがない」とこの記事の筆者に語ったということです。
ところがそのメールが中国総領事館からの公式電文だったと分かったという驚きの記事です。
こんな運動をして相手がどう思うか全く念頭にない・・・自分が中央政府にどれだけゴマスリできるかしか眼中にない社会です。
岡田英弘氏の論文を読んだころの印象しか記憶がないので誤解も混じっていますが、魏志倭人伝があてにならない理由として、中国のごますり競争が背後にあって、当時実力者司馬氏と曹操の子孫の政争中で、一方が西域諸国のとりまとめに成功した報告があったので、他方は対抗上東方海上の大国(邪馬台国のことです)が朝貢に来ることになったと誇大報告する必要があり、このためにあちらに千里さらに曲って何千里とものすごい誇張した路程が必要になったという解説です。
同氏は魏志倭人伝の説明通りに地図を書いていくと日本はフィリッピンあたりになるオーストラリア大陸くらいの巨大な遠方の国になってしまうようなイメージをうけて読んだ記憶です。
このように朝貢の歴史といっても権力競争している方が、大げさなお土産を持って来たと披瀝しなければならないので一種の出来レースだったようで、周辺国はちょっとした土産を持っていけばそれを招待した政争当事者が何倍にもして、皇帝の前にお披露目する仕組みだったようです。

中国軍に解放してほしい日本人がいるか? 1

中韓等による日本非難の言語の多くは、自分らが日頃したいと持っている悪行を日本がしたことにすり替える・真逆の意味が多いという理解が今の日本では普通になっているのではないでしょうか?
人民解放論は支配者による搾取構造を前提にして異民族領域への侵略→支配を合理化するものですが、日本は古代から中ソが世界支配を正当化する図式の前提たる搾取構造社会ではありません。
指導者とは何か事業をするときにこれをみんなで心を一つにするようにまとめていく能力のある人のことで私利私欲のために動く人ではありません。
また多くの事業業績は集団協力があってこそ実現できるので、総大将や代表者・・旗振り役・・巨石を移動させるために修羅というもので運ぶのが知られています。
石の上で力を合わせるために音頭を取る人がいますが、彼一人の力で巨石が動くのではありません・・このように各種事業は旗振り役が重要ですが、彼は集団を代表して栄誉を受けるに過ぎないと言う点も民族の常識化しているからです。
この人のおかげで一つの事業を成し遂げられたと思う人が出るとうまく行くし、後世偉人として尊敬されます。
奈良の大仏の像立に成功できたのは、それまで朝廷権威による布教形態を無視して独自布教していたことで弾圧されていた・・・最後は行基の指導力を利用するために朝廷が僧としての最高位を授与していますが・・)行基の指導力だとして今だに尊崇されています。
その他、各分野で中興の祖となどと尊崇される人は、自己利益・豪邸を建てて名をなしたのではなく清廉潔白の権化みたいな人ばかりです。
ところで、民族利益とは何か?
異民族支配に成功することではありません。
搾取構造の最たるものは異民族支配でしょうが、我が国では縄文の昔からこういう不当な利益を目的に行動すること自体意味嫌われる社会です。
みんなで労力提供して稲作の為の灌漑施設を作り、ようやくコメを収穫できるようにした場合に、地域住民みんな利益享受できる共同体利益を増進することです。
卑近な例で言えば、日頃から住む自宅周辺や町を綺麗にして気持ちよく暮らすのもその例です。
千年単位で形成した文化その他を含めた幅広い総合的概念が民族利益というものでしょう。
地方旅行すると、郷土の偉人の顕彰碑や資料館があることが多いのでいつもよく見てくるのですが、地元共同利益アップにいかに貢献するかによって人徳が決まる社会ですし、この逆もあるので日本人では子々孫々に恥をかかせない生き方が基本価値観になっています。
また多くの事業業績は集団協力があってこそ実現できるので、総大将や代表者は集団を代表して栄誉を受けるに過ぎないと言う点も民族の常識化しているからです。
百の地元貢献・もたらした功績で代表者個人が百の対価を得たのでは、不当利得であり、尊敬されません。
その代表者の次順位幹部はまだ名を残せるでしょうが、そのまた下の中堅協力者の努力に報いるには結局は当時は顕彰するしかなかったのでしょう。
ため池を作る場合を考えると巨大な資金負担があり、完成と同時に地元に恩恵があるわけではないので褒美を払う資金が枯渇している点もある上に、ため池の効能は子々孫々が継続的に享受するものです。
ため池も灌漑設備も完成と同時に100%受益できるわけではないので対価も受益に応じて払うのが合理的ですが、当時今のようにストックオプション制度もなかったので、地域住民が将来に渡って受ける受益対価も将来の分割払い・・世襲的地位(将来の家禄が保証されても主家が滅びたらおしまい・ストックオプションと同じ)を付与するのが普通でした。
世襲した方は、地元民から祖先の功績を褒められ立派な人だったと尊敬されるので、自然に自分も先祖に恥じないような行動を心がけます。
名主、庄屋や豪族の地位は上記のように地元の役に立ってこそのものですから役立たずになれば、下剋上にあって地位を失っても仕方ないという社会意識が定着していったのでしょう。
その結果現世利益は名目的であり、名誉で受けるのが99%みたいな対価方式が日本社会で定着したのでしょう。
日本では今の企業経営も同じですが、成功に応じて上位者の給与がちょっと上がる程度(百の功績に対して2〜30くらいの報酬、残りは後世子孫への名誉)であって、功績以上の報酬=搾取率の低い社会です。
せっかく(渇水対策のため池を作り洪水対策の堤防を築いたり)事業に成功しても自分の功績以上に私腹を肥やすなどもってのほか(ある程度の対価は必要ですが)ゴーン氏のように対価以上のものを貪るような恥ずかしいことは社会が許しません。
もともと功績評価は地域の子々孫々にどのような福利を残したかが基準ですから、欲をかくと却って子孫が恥をかきます。
この価値観の違いが大きく出たのが発光ダイオード発明の特許に対する企業の報奨金が少なすぎると争うことになった訴訟でしょう。
日本社会は紙一重程度の技術差の人材がひしめいて、その技術集団意見のすり合わせ・協力・集団成果の上に物事の実現が図られる社会です。
例えば、・・ある商品売上増には営業課長一人の能力によるだけではなく部下の功績も無視できませんので、何かの実績をあげた代表選手だけがヒーロー化されますが、実は集合智の目印になったに過ぎないという考え方が基本です。
何かで表彰された時に約99%の人が皆様の協力を得て・・「おかげ様で・・」と謝辞を述べるのはこの価値観によります。
発光ダイオード訴訟についてhttps://ironna.jp/article/407が発明対価について論点整理してすっきり書いていますので明日引用します。

摂関家支配の構造変化(彰子死亡)

社会変化に関する次の時代の例として如何にも長く続いたかのように見える藤原北家の摂関政治を見ておきます。
例えば、摂関政治が平安時代政治の原型と思われていますが、元はと言えば光明子の設けた紫微中台・・後世の院政機関設置が始まりではないかと私は考えています。
何かの論文で読んだ記憶ですが、この予算は朝廷の予算を超えていた・・全ての人事を含めた政策決定が行われていました。
摂関家・特に北家・道長以降天皇を凌ぐ権力を振るえたのは、藤原詮子、姪の彰子2代が長期間キングメーカーであったことによるようです。
キングメーカーがいなくなって、摂政関白になるのが天皇や上皇の一存になると、結果的に天皇上皇の方が事実上権限が強まります。
道長が伊周との抗争に競り勝って権力獲得できたのは姉詮子の応援があってのことと知られていますが、道長の娘彰子が偶然長寿であったことにより摂関家=北家道長流と言われるほど、藤原北家の独壇場になり、天皇を凌ぐ権力を握れていたにすぎません。
彰子の影響力については、彼女が天皇家の家長として天皇や摂政任命権を長年握ってきたので摂関政治の基礎たる外祖父制度が続いた点については以下の通りです。
藤原 彰子に関するウイキペデイアの記事です。

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) – 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。
国母へ
長和元年(1012年)2月14日に皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日に太皇太后となる。この間、長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。
なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。
これは天皇の一種の分身的存在である摂政(およびその退任者)の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾(自己戴冠の問題)を抱えていたからだと考えられている。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた
曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日、法成寺阿弥陀堂内で、87歳で没した(『扶桑略記』『百練抄』など)。同年2月2日に死去した長弟頼通に遅れること8か月であった。翌年には次弟教通も没し、院政開始への道が敷かれた。

上記の通り彰子が道長死後も国母としてキングメーカーの地位にあって摂関政治の実態を支えていたのですが、彼女が死亡するとすぐに摂関家体制の崩壊が始まります。
北家出身の女御に男子が生まれなくなったこととによって外祖父になれない後三条帝就任が、摂関政治弱体化の始まりでした。
その後院政開始の白河帝となった上に、キングメーカーであった彰子死亡後次期摂関白の指名権者が上皇に移ることになり、摂関家は急坂を転げ落ちるように政治権力から遠ざかり儀式要員になっていきます。
彰子がキングメーカーになった根拠と彰子死亡後、上皇にその権限が自動的に移行した経緯は以下の通りです。
院政に関するウイキペデイアの記事からです。

樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場[5]から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。
天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。
師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与[6]を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた[7]・・・・

ゴッドマーザーを失った摂関家は、自己の後任(息子)を任命してもらうのに上皇の関与を求めるしかなくなったようです。
これでは摂関家は院の意のままになるしかありません。
この構造変化が、保元〜平治の乱に繋がり摂関政治が完全に終わりを告げ、摂関政治対抗のために権勢を振るった院政共に時代に取り残されることになったのです。
保元の乱の原因は天皇家内の恩讐や、摂関家内の恩讐など入り乱れていますが、その一つに摂関の後継争いがあった記憶です。
これが鳥羽法皇にいいように操られた(本気で中立を保ったのか不明ですが)ことが複雑化した原因でした。
ちなみに氏長者は、藤原家内の資産継承者の地位決定ですが、保元の乱の戦後処理では後白河天皇から、忠通が氏長者に命じられますが、忠通は藤原一族内への干渉の先例作りをにわかに受けることができず、かなり経過してからやむなく受諾した経緯があります。
次期摂政の地位を息子Aに譲るのにこれまで藤原彰子の指名でよかったのに彰子死亡後は上皇の任命が必要になっただけではなく、保元の乱以降では藤原氏の権勢凋落につけ込んで?藤原一門の家督相続・・氏長者決定にまで朝廷が介入するようになってきたことになります。
ちなみにこの慣例によるかかどうか不明ですが、例えば、徳川将軍任命の宣旨には、源氏長者の任命とセットになっていたようです。

非嫡出子差別違憲決定の基礎2(空襲→都市壊滅)

昭和22年改正時に非嫡出子差別がなぜ残ったか?社会生活の変化がそこまで進んでいなかったのかを以下見ていきます。
日本産業構造の近代化に連れて(タイムラグがあります)生活様式や意識も親族関係の重みも変わっていきます。
明治時代はまだ人口の大半は旧幕時代の意識濃厚であったでしょうが、明治45年を経て大正時代に入ると生まれたときから文明開化の空気で育った新人類(今で言えば生まれた時から「テレビを見て育った世代」最近では「生まれつきネットで育った新人類」)の時代に入っていたでしょう。
文学分野では、明治末から白樺派など(志賀直哉その他財閥2世?のお坊ちゃん文化)が一世を風靡していましたが、芸術系は発表時に現実多数化している生活変化の後追い表現ではなく、先行心情の先取り傾向があるので文学芸術表現が必ずしもその時代意識とは言えません。
大正時代には産業構造的にも都市化=核家族世帯化がかなり進み、家族関係も変わっていました。
法制度は実態の後追いですから、私の職業上のソース・・法制度で見れば以下の通りです。
https://kotobank.jp/word/%E5%80%9F%E5%9C%B0%E6%B3%95-75830

借地法(読み)しゃくちほう
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
大正 10年法律 49号。借地人の権利の強化を目的とした法律で,借家法とともに制定された。借地人保護の法律としてはすでに建物保護ニ関スル法律があったが,本法は,借地権の存続期間延長と継続をはかり,その反面土地所有者に地代増額請求権を与えたものである。 1941年の一部改正 (法律 55号) によって,東京など一部の地域に限定されていた適用区域を全国に拡大した・・。

都市住民が増えていたことがこのような法律を必要とするようになっていたことがわかります。
大正時代には、大都市化の進んでいた東京だけ対象の法律でしたが、1941年から全国適用になっています。
そこで敗戦によって家の制度がなくなり親族相続編が抜本的改正が行われたにも関わらず、嫡出非嫡出の差別がなぜ残ったか?の疑問です。
敗戦直後都市住民の多くは空襲によってほぼ全部燃えてしまい・・空襲にあったのは東京だけではありません・・千葉市のような小さな町でもほぼ灰燼に帰したばかりの空襲写真展を時々見ますし、全国小都市にあるお城がほぼ空襲で燃えてしまった(空襲を受けずにそのまま残ったのは姫路城や松本城などほんのわずかです)ことでもわかるでしょう。
家もなければ食の手当てもできない→生活できないので故郷の実家を頼って田舎に帰っている世帯多数でした・・。
私自身都内で生まれましたが、東京大空襲にあって住む家もなくなったので母の故郷に戻りそこで成長しました。
GHQの当初占領政策は、日本の工業生産を認めず農業生産しか認めない方針であったことを何回も紹介してきました。
戦後直後は工場関係壊滅したばかりかせっかく空襲を免れた工場機械までGHQの命令で中国や東南アジアへ強行搬出されている時代でしたので、工場労働が縮小する一方で強制的に原始時代に戻ったような時期だったことになりそうです。
農業→家族労働同時代に逆行が始まっていたとすれば、非嫡出子・多くは正妻のいる農家や家業に関係しない子を前提にすれば、半分で良いのではないかという考えが多数だったのでしょう。
戦後民法改正時には、日本を今後江戸時代の農業社会へ退行させるという今考えれば悪夢のような恐ろしい政策がGHQによって実行されている最中だったのです。
以前にも紹介していますが、重要なことですので再度引用しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/連合国軍占領下の日本#貿易で7月7日現在検索すると占領政治は以下の通りでした。

産業解体
SCAPはドイツと同様に日本の脱工業化を図り、重化学工業産業を解体した。初期の極東委員会は賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めなかった。
マッカーサーも1945年(昭和20年)9月12日の記者会見で「日本はこの大戦の結果によって、四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である。」
と発表し、他のアジア諸国と同様に米国および欧州連合国に従属的な市場に解体するべく、極度な日本弱体化政策をとった。

欧米の植民地レベルに落とす政策・・奴隷解放運動をした運動家を奴隷の身分に落とすのと同じやり方・・植民地解放運動した日本を植民地にしてしまう・・日米戦争に引きずり込んだ米国の真意・目的がここに現れていることを何回か紹介してきました。
極東委員会は復興を認めなかった(焼け野が原にしておけ)だけですが、GHQは残っていた工場までスクラップ化を進めたのです。
引用続きです。

こうして各地の研究施設や工場を破壊し、工業機械を没収あるいはスクラップ化し、研究開発と生産を停止させ、農業や漁業や衣類を主力産業とする政策をとった。工業生産も、東南アジア諸国などへの賠償金代わりの輸出品の製造を主とした[12]。
1945年(昭和20年)に来日した連合国賠償委員会のポーレーは、日本の工業力移転による中間賠償を求め、賠償対象に指定したすべての施設を新品同様の状態に修繕し、移転まで保管する義務を日本の企業に命じた。1946年(昭和21年)11月、ポーレーは最終報告として「我々は日本の真珠湾攻撃を決して忘れない」と報復的性格を前文で明言し、「日本に対する許容工業力は、日本による被侵略国の生活水準以下を維持するに足るものとする。右水準以上の施設は撤去して有権国側に移す。」とした。軍需産業と指定されたすべてと平和産業の約30%が賠償施設に指定され、戦災をかろうじて免れた工業設備をも、中間賠償としてアジアへ次々と強制移転させた。大蔵省(現在の財務省と金融庁)によると、1950年(昭和25年)5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である。

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