合議制社会とリーダーシップ1

版籍奉還問題に話が大分それてしまいましたが、April 27, 2011「大字小字」2011-5-20「郡司6と国司」等で書きかけていた合意社会に戻ります。
我が国では古来から何事も合議で決めて行く社会でした。
寄り合い・・合議制の我が国では、各種組織や団体には責任者がいても村「長」や市「長」と言う概念がそもそもなかったと思われます。
せいぜい莊屋さんとか名主と言うだけで、村「長」として、何かを号令するような制度設計ではありません。
民主主義かどうかは選出方法に関するシステム論に過ぎませんから、ヒットラーも民主主義の産物ですし、社会主義国の場合、民主主義的選出でも1党独裁ですし、民主主義国の権化のようなアメリカ合衆国でも大統領の権限は強大です。
我が国は水田稲作農業社会でしたので指導者不在・不要でずっと来たので、諸外国とはまるで社会の成り立ち・歴史が違います。
稲作と小麦等畑作・牧畜等との大きな違いは、水田の場合では始まりは小さな谷津田に始まりその内千枚田も出来たでしょうが,戦後の大規模土木工事による土地改良までは,水田は平地でも曲がりくねった地形に合わせた小規模なものが基本であったことによるでしょう。
一望千里と言われる平野部中心になった今の大規模水田の場合でも、水田と水田には僅かに段差があって,一定グループごとに大規模用水からポンプでくみ上げて上(高い方)から順に水を引いて行くやり方は同じ(規模が反歩単位に変わっただけ)です。
ちなみに、大規模水田は(農機具の発達だけではなく)人力によらない大規模な用水工事が出来るようになって可能になったものです。
千葉の場合で言えば,マトモな川がないので遠く離れた利根川から、延々と巨大なパイプラインを引いて,九十九里浜方面まで潤しているのですが,こんなことは人力・スコップ・ツルハシ等で掘り下げて行く戦前にはとても構想すら出来ない大事業でした。
これだけ大量に水を引くには大きな井堰を造ることから必要ですが、昔は大川の本流自体にこんな大規模工事をする技術がなかったことになります。
こういう小刻みな農作業の場合、号令一下何千人が一斉に動くやり方はあり得ません。
最も人手のかかる田植え(機械化以前の千年単位続いた方法)でも、隣・・上の段と下の段の水田では(4〜5枚下になると)水の入り方で田植えの時期が違ってきます。
(戦後の土地改良前の小さな水田の場合直ぐに水がいっぱいになったので数日で5〜6枚の田に水が行き渡ったものですが,それでもその一団の水田所有者達だけが同じような時期に田植えするだけです。
当時(戦後の土地改良以前)は水田の規模が小さかったので,せいぜい家族にちょっと多くした程度の応援を得たグループで,それぞれ自分の水田で一斉に田植えするくらいです。
各農家のいくつかの水田自体が、早く水の入る場所とか遅く入る場所など分かれているので、これにあわせて順番に土を起こしたり・大分土が水に馴染んでから田植えして行けば良いので、一斉に農作業する必要がありません。
応援する方(臨時労働力)も1つの部落の内の農家ごとの田植え時期が少しづつずれているので順次応援に動ける仕組みでした。
これに比較して西洋等の見渡す限りの起伏のある一枚の畑(・・これは水を引かないので水平を保つ必要がないので可能なのです)の社会では一斉に何百人で農作業するのに適しています。
何事も一斉に大規模にやった方が規模の利益があるのは、万事共通ですから規模が大きければ大きいほど良いとする価値社会だったでしょう。
我が国の農作業をする単位は、家族労働に毛の生えたようなものが基本でしたし,水の管理と行っても数十戸単位くらいが適当な単位で戦後の機械化までやって来たので大きな単位は意味がないとする価値社会でした。
土地改良により耕地が大規模化しても、その代わり田植え機械やトラクターなどの機械化が進んだので今でも家族労働で間に合う点は同じですし、千葉の場合で言えば利根川から引いている両総用水からの引水作業も一定数の農家で1つのポンプを利用して順番に水を自分の田に水を引いて行く作業をしています。
戦闘集団もこうした細かい単位の積み重ねで大きくして行く仕組みでした。
刀や槍で戦う時代にはこれでちょうど合っていたのでしょう。
小さな集団で動く社会では,号令は必要がなく季節感やその周囲の空気で動けば自然に行動が一致する社会でずっと来たのです。
音楽の分野で見てもお琴や尺八の合奏あるいは雅楽では、お互いに気を合わせれば良いのであって指揮者が不要です。
小集団と小集団の意思疎通には阿吽の呼吸ばかりではうまく行きませんので気持ちの擦り合わせ・・合議の繰り返しが重視されてきました。
世界中(先進国しか知りませんが・・)で、我が国のように古代から現在まで何もかも合議制で来た民族がないように思えますが・・・。

政治=実行力

大統領制の場合でも指導力を発揮しやすいと言うだけで、大統領でも法案の成立には議会通過が必要ですから、結局は議会に対する根回し能力が必須であることは結果的に議院内閣制と変わらないかも知れません。
とは言え、地位の安定性と言う面ではまるで違いますので、大統領と議院内閣制とは指導力の発揮のしやすさに置いては格段の相違があるでしょう。
対外的にパッとしなかったジョンソン大統領の時代に法案通過率がものすごく高かったことが有名ですから、どこの国でもどのような体制でもリーダーシップを発揮するには自分の地位の安定性の外に根回しの重要性を無視出来ません。
掲げるスローガンさえ正しければ強力な政治をやれる(ならば学者で十分)のではなく、正しい時代認識とそれを実行する実行力=根回し能力が必要です。
民主党には、学者系が多いこともあって、この実行力が欠けている面もあります。
実行力とはテーマが正しいだけではなく、それに向けて賛同者を増やし反対者に対する説得懐柔能力です。
我が国の最近例では、小泉政権のやり方が大きな参考になる筈です。
郵政民営化は当初自民党内でさえ賛同者が少なかったのに、彼はついにこれを成し遂げてしまいました。
見事と言うほかありません。
私はこうした政治家こそが今の日本に必要だと考えています。
小泉元総理の場合、賛同者中心にして敵対するものをたたきつぶして行く方向でしたから目立ったのですが、反対者の説得・懐柔・切り崩し策に重点を置くと裏方の仕事になるので目立ちませんが、恨みを持つ人が少なく長期政権になります。
自民党はこれが得意でしたが、こればかりにエネルギーをつぎ込む政治ですと本来の目的・テーマがあやふやになって易きにつく・・無原則・事なかれ主義的な政治になってしまいがちです。
東西冷戦終結・中国の経済解放後グローバル経済化が始まり、バブル崩壊後は、従来の政治社会のあり方を大幅に切り替えていく必要性があったのですが、自民党による根回し中心・惰性的政治の繰り返しでは、(せいぜいバラマキしか出来ず)ドラスチックな方針切り替えに向いていなかったので、政権交代になったと言うのが私の見立てです。
政権交代の基本的理由がそうであったとすれば、その理由に合わせて行動するべきです。

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