条約成立後の専門家の役割2

専門家集団の役割と政治について考えてみますと、専門家集団・・地震学会・◯◯学会その他は、特定政治利害実現のために結集したものではありません。
専門家は政治が決めるタメの参考意見を提供すべきですが、専門家は決まった結果をフォローして行くしかない・・条約が出来た以上は、マイナス面を如何に少なくするかの専門的フォローこそが役割です。
地震学会で言えば、原発推進するかどうかは政治が決めることであって、原発にはこう言う危険があるとか、対処方法はこういうことがあるなどと客観的意見を言うまでが仕事です。
原発は危険があると反対したのに原発推進の結果が出た場合、具体的な施行に必要な規則等の制定に地震学者が反対運動しているような動きにあたるのが、国際条約署名後の共謀罪の国内法整備反対論の動きではないでしょうか?
どう言う方向に持って行くかを政治が決めたら、人権侵害にならないように施行規則やガイドラインの整備あるいは証拠法則の適用等の段階で専門家は出来る限りの努力をするべきでしょう。
犯罪の実行行為があってからその前の謀議を割り出して行くのに比べて、共謀段階で検挙してしまうと、実行の外形的準備さえないまま終わってしまうので、本当にそんな計画があったのか、権力によるでっち上げだったのかの区別がつき難いのが確かです。
この種の陰謀で政敵を葬るやり方が、洋の東西を問わず古代から繰り返された歴史です。
我が国で言えば有間皇子の事件や長屋王の事件など知られていますが、(菅原道真のさせんもその一種でしょう)武士の時代以降陰謀によるえん罪はドンドン減って行き、ドンドンなくなって行ったように思われます。
我が国の場合、武士の台頭以降、社会がかなり合理主義的になっていますし、今では証拠裁判主義ですから、古代にのみ存在したえん罪の疑いをそのまま再現するように心配するのは間違いです。
共謀罪を法制化して定義を厳密に決めても、その認定には証拠がいります。
共謀だけで処罰と言うと如何にも内心の意思だけで処罰されるかのような悪印象を振りまいて国民を不安に陥れますが、自分で内心思って考えているだけ・・仮に発言しても相手が共謀に加担しないと成立しません。
他人との話あい・「意思の連絡」が必要ですし、阿吽の呼吸ではなく何らかの意思「表示」が必要です。
※ただし、共謀共同正犯論では、「意思の連絡」と言う単語を使う学説もあればいろいろです。
いろんな説があるとしても、共謀罪は共同正犯構成するのではなく、共謀のみで足りるとすれば、共同意思主体(これの必要説もあれば、意思主体説をとらない説もあります)の成立も不要ですし、確かに共謀の成立要件が少し容易になるかも知れません。
ところで、意思の連絡→意思表示と言っても声に出す必要がありません。
黙示の意思表示と言う民事での概念があって、これを刑事事件の共謀共同正犯事件でも認めた判例が出ていることを、「共謀概念の蓄積(練馬事件)3」Published November 6, 2014で紹介しました。
黙示の意思表示で良いとなれば、共謀の現場に同席しながら、黙って聞いていただけの人が、相手(首謀者)から、「お前これをやってくれ」と言われて声を出して返事しなくとも、そのとおり実行すれば、それは犯行計画に同意したことになるでしょう。
今ではビデオや録音・メールのやり取りその他客観証拠が一杯ある時代です。(15〜16日に書いたように関係者は馬鹿ではないので、こう言うときには当然証拠を残さないようにやるでしょうから・・内通者のいるときだけ有効です。
これに加えて酒席で冗談に言ったこととの区別のためには、会話した場所や状況など共謀に参加するためのある程度の継続的行動記録など客観証拠の裏付けが必要です。
むしろ実行行為やその準備行為に関与したこととの関連で、証拠評価されて行くのではないでしょうか?
銀行強盗計画に関与したかの認定でいえば、何時何分に指定された場所に逃走用の車を用意して待っていたとしても、「何のことか知らないが呼び出されて待っていただけ」と言う場合(末端関与者の場合、謀議が漏れないように用件を言わないでただ待機するように命じることが多い)もあります。
いずれにせよ事前の関与次第等で共謀の有無が決まることが多いですから、継続的な状況証拠の収集が重要で、この辺の詰めをして行くのがプロの仕事です。

条約成立後の専門家の役割1

組織暴力団でさえなければ、(偶発的に集団化した場合・・または一旦解散して別組織にした場合や、本体そのままで別組織を立ち上げた場合などまだ組織暴力団の指定を受けていない状態)犯行計画が分って証拠まであっても、やられるまで放置すればいいと言う時代・・国民意識ではなくなっています。
暴力団だけではなく一般人でも、犯行グループをネット募集するようになった場合に、これが予め分っても彼らが誘拐や殺人を実行するまで放置しておいて良いという社会意識ではないでしょう。
共謀罪の立法化は組織暴力団・テロ集団ではなくとも、第三者と計画した段階に至れば、処罰が必要と言う世界全体の総意が成立した・これは政治決着であって法律家がどうのこうの言うのは範囲外の分野です。
どの集団階層の利益擁護であろうとも、利害集団のために運動するのは、その時点で政治運動分野です。
ですから、法律家である日弁連が組織暴力団をかばっているのではない・・個人犯罪まで処罰するのはおかしいと言う意見だとしても、こうした犯罪予備軍のために何故運動するのか理解不能です。
そんなバラバラの予備軍(予備軍の人はいまは幸せな恋人同士・・またはまだ恋人がいない状態ですから、自分が将来ストーカーになると予想はしないでしょうから、(この段階の人に聞いたらほぼ大多数がストーカーなんて悪いことだと言うでしょう)大した応援団になる筈がありません。
あるかないか分らない支持母体を当てにして熱心に反対運動しているとはとても思えません。
だから、バックの抽象的な人権擁護のために活動していると言うのでしょうが・・。
人権擁護の心配ならば近代刑法の理念に反すると言う抽象論ではなく、どう言う場合に侵害のリスクがあるかを具体的に主張すべきではないでしょうか?
共謀罪が法制化された場合の人権侵害が心配ならば、・・しかし、共謀罪制定は国際条約上避けられないとすれば、法律家は犯罪化の前倒しの必要性にあわせて、共謀の概念定義の緻密化や証拠法則の充実等を提案して行くべきです。
車は危険だとしても、社会に反対しないでガードレールを作れ、信号機を整備しろ、歩車道の区別をしろなど言うのと同じ方式で良いのではないでしょうか?
いわゆる公害企業も同じです。
石油製品生産に反対するのではなく、公害防止技術の発展を期すれば良いことです。
10月30日にちょっと書いたテロ組織「イスラム国」を支持するのかどうかの問題に戻します。
私自身もこれまで何回か書いていますが、西欧が中東やアフリカ地域で現地諸部族の居住地域に関係なく・・と言うよりお互いに反目するように民族を分断する形で勝手に引いた国境線を変更すべきと言う動き自体は当然だと思っています。
欧米が植民地支配に便利なように作った秩序否定の主張を支持したい気持ち・・日本で言えば戦後秩序の否定)とは別に、彼らテロ組織が支配下に入った少数民族を奴隷化すると言う宣言等を見ると、西欧の植民地支配の悪い点を拡大しようとしているようですから、これを支持したいと思う人が少ないのではないでしょうか?
仮にテロ組織「イスラム国」を全面的支持している人がいてもそれはそれで個人の勝手ですが、今この時点で、日本国がアメリカを中心とした世界秩序に反抗することが得策かは別問題です。
中国やロシアも国内異民族による激しい抵抗問題を抱えているので、反テロの動き自体は世界の強国に限らず、独立運動を抱えるインドネシアやフィリッピン、タイあるいはミャンマー等多くの国の一致した動きですから、日本がこの条約の履行を渋ることは、これら多くの国を敵に回すことになります。
国際条約に適合する国内法成立に反対していて、国際的に意見を通しきれるか・・日本が国際政治で孤立しないかのせめぎ合いが国際政治問題であって、日弁連はそう言う政治を決めるための集団ではないので、その判断は政治が決めるべきです。

共謀罪と犯意2

労働分野でいろんな働き方が増えているように社会全体で非定型化が進んでいますので、犯罪認定も定型行為をするまで放置しておけなくなります。
領土侵犯が漁船や不法移民の浸透によるように・・・数十年前から社会問題化しているイジメや虐待、スローカー等も非定型化繰り返しによる新たな分野で、定型行為発生まで放置することは許されません。
中国漁船が単なる密漁か侵犯のデモンストレーション行為かあるいは、避難を装って侵犯目的で上陸したのか、本当の避難行為か・・主観的意図を重視せざるを得なくなるのが現在です。
こうなると、昭和30年代まで一定の勢いを持っていた主観派刑法学の見直し・・復調が始まるし、その智恵を再活用する必要があるかも知れません。
この後で社会防衛思想の復活傾向を書いて行きますが、これも主観派刑法学基礎思想の復調に連なるように思われます。
私が大学の授業で習った刑法の先生は主観派刑法学の先生でしたが、司法試験では客観派の団藤教授の本を基本書にして勉強したので、主観派のことは授業で聞いた以外には詳しく分っていませんが、復活すれば懐かしいことです。
共謀罪法反対論の論拠になっている「近代刑法の理念に反する」と言う意見は、このような客観派と主観派で過去に争って来た論争の違いも下地になっていて、現在主流を占めている客観派から見れば、主観派刑法学・新派の復権が危険だというのが、反対論の論拠になっているのかも知れません。
(今の実務家は、殆どが客観派刑法学の経験しかないと思うので・・共謀罪は近代刑法原理に反するという主張は客観派刑法学の理念に反するという意味かもしません。)
これでまでの司法実務では、共謀罪が出来ても主観要件だけでは認定が困難過ぎることから、昨日まで書いたように実際には共謀罪で立件出来るのは、内通者から逐一の会話録音やメール情報等が入手出来たときなどに限定されてしまう結果、「1万件に1件も立件出来ないのではないか」と言う私のような意見の論拠にもなります。
要は、現行の殺人予備罪同様にもしも証拠のきちんとあるときでも実行するまで待つしかないのではなく、万1証拠のそろったときに適用出来るように法整備して準備しておくだけ・・備えあれば憂いなしと言うことではないでしょうか?
共謀罪は法律自体に危険性があると言うよりは、運用の問題・・実務で濫用が起きないようにする、健全な司法インフラ充実の有無や、弁護側の努力等にかかっていることになります。
個人的犯罪・・ストーカー等や秋葉原事件のような事件では共謀することは滅多にないでしょうが、共謀罪の客観証拠収集にひっかかりやすいのは組織暴力団やテロ組織です。
遠距離移動が多いので、組織人は毎回顔を突き合わせて相談出来ないので、ついメールや電子機器による連絡に頼り勝ちですし、組織多数者間の共謀になるとそのうちの一人でも、精巧な録音装置をポケットに忍ばせておくとこれが証拠になります。
録音機器や連絡メール等電子的記録等にどこまで犯意と言える事柄についての計画=特定犯罪実行の共謀と言える程度の痕跡が残っているかにかかって来ます。
共謀罪制定反対論者は、具体的な犯罪計画があって、その経緯に関する(15〜16日に書いたようにうまく検挙出来る事件が万に1つしかないとしても)客観証拠があっても、計画段階であるかぎり処罰すべきではないと運動していることになります。
犯罪を犯すのは社会弱者?であるから彼らが気持ちよく犯罪計画出来るように運動しているとでも言うのでしょうか?
ストーカーは一方的思い込みも含めて広くいえば恋に敗れた人ですから、一種の弱者に違いないですが、違法行為を個人で妄想する段階を越えて第3者と計画するようになった段階=共謀するようになれば、危険性が高まり、許された一線を越えていると思われます。
個人が思いつきでイキナリ反抗に及ぶのに比べて、他人と共同して行なうようになるとその危険性はより高まります。
組織暴力団員の組織としての犯罪も、社会的弱者が徒党を組んだ結果の一態様と言えます。
全て犯罪者は基本的に社会弱者ですが、(いじめっ子も家庭内不遇その他弱者であることが多いのですが・)原因究明は犯罪を減らすために必要と言う別次元の問題であって、弱者ならば、犯罪を犯しても良いと言う論理にはなりません。
犯罪=処罰と言う社会ルールが古代からどこの国にもあるのは、社会弱者であっても1線を越えれば処罰すべきだと言う世界全体に共通する古代からの合意です。
ストーカー犯罪が頻発している外、秋葉原事件等個人的大事件もたまに起きます。
組織暴力団ではなくとも共謀・・一定数以上の計画に発展した段階では、(秋葉原事件は個人犯罪ですから、共犯者の必要な共謀法では防げません)その計画が証拠によって裏付けられる場合に限って何らかの社会防衛行為の準備が必要です。

共謀罪反対論と日弁連の政治活動の限界1

今回の共謀罪制定反対運動は、人権擁護に関連する運動でしょうか?それとも日弁連の制度目的を逸脱した運動でしょうか?
30日に紹介した判例のように考えれば、弁護士の目的とする人権擁護に密接に関連していますが、単なる法技術問題を越えて国際信義の問題になっているから、そこまで法律専門家が絡んで行って良いかに疑問があります。
10月22日に紹介したように日本政府は2000年国連の組織犯罪防止条約に署名し2003年5月に国会承認も受けています。
2003年以降は国内法整備の国際法的義務(条約を守る義務)を負っている状態です。
国会で同意した条約は、国内法に優先するのが法体系上の原則ですから、国内法で言えば法律が国会で制定されたが、これを実施する省政令規則等の施行準備が遅れているような関係です。
こうした状態に関しては、憲法改正手続法がないと憲法改正権・主権が事実上行使出来ない状態になると書いたことがありますがそれと同じです。
国際的に見れば関税引き下げの約束をした後で、いつまでたっても、関税法の改正をしないし、税関職員にそのマニュアルを与えないので、現場では従来どおり関税をかけているような関係・・日本は条約違反をしている状態です。
条約成立後の段階で国内法制定になお反対するのは、国内議論を尽くして成立した法律・(条約)に対してなお反対運動しているのと似ています。
判例の許容する「目的を逸脱していない」のは、成立後の法律に飽くまで反対政治運動することまで含むのでしょうか?
成立した法律に従うべきではないと言う運動は法律家の運動としてはおかしなものですから、法律が成立してしまった以上はこれに従うしかないが、(例えば消費税率アップ反対運動していてもアップする法が成立してしまった後に、消費税納付拒否を主張するのは、法律違反行為の煽動です)法律の廃止運動を意味していることになるのでしょうか?
元日弁連事務総長であった海渡氏が著者だったか編集関係者の本を立ち読みすると、成立後の秘密保護法の廃止運動をするのは国民主権の一種であるから許されていると言う意味のことが書いてありました。
憲法改正論で書いたように、作る権利のある国民は改廃する権利もあるのが原則です。
しかし国際条約に署名してしまった後に条約の義務による国内法整備に反対するのは、条約違反行為をすべきだと主張しているのと同じではないでしょうか?
そもそも、共謀罪反対論者が、組織犯罪防止条約の履行=国内法整備に反対することによって、どう言う法律効果を狙っているのかが見えません。
条約内容に反対ならば、その条約改正運動をするのは分りますが、ただ国内法整備だけ反対するのは上記の消費税納付拒否・違法行為主張と同じではないでしょうか?
条約改正運動としてみれば、成約後14年も経過して大多数の国が履行をしている状態で、共謀罪の取締りをしないように変更する国際政治力などないと見るのが普通です。
飽くまでも条約の履行を拒むと言うことは、将来的には条約からの脱退を目指すことになるのでしょうか?
条約に参加するかしないか・・飽くまで反対を続けて修正or脱退に持ち込むリスク・・その場合の国際的孤立の可能性を含めた判断は、高度な政治判断であって人権擁護の使命とはあまりにも遠く離れ過ぎた政治運動のように思われます。
共謀罪制定が国際条約上の法的義務になってしまっているならば、日弁連は国内法制定過程で人権擁護上必要な法案意見(安易な共謀認定がえん罪を生まないような歯止め・証拠上の意見など)を充分主張して行く・・その実現目的範囲内での政治運動程度が目的の範囲内で合理的です。
日本が2000年に条約に同意してしまった以上・しかも世界の大方がこの条約に参加している以上は、いまは反対運動出来る時期が終わり・1種の条件闘争段階ではないかと思われます。
日弁連の10月号委員会ニュースには、このためにか?条約自体に反対出来ないとも書いています。
その上で凶器準備集合罪等が日本にはあるから作らなくて良いと言う論を展開しているのですが、この論法は無理があることを23日以降書いてきました。
共謀罪法制定が国際的に避けて通れないとすれば、日弁連の本分であるえん罪防止に役立つような条文制定作業等に意見を入れて行く努力に集中して行くべきではないでしょうか?
特定秘密保護法に関しては抽象的な反対運動ばかりしていたので、法案作成作業については蚊帳の外におかれたまま成立してしまったように思われます。
これについて、日弁連は充分な国民的議論もないまま国会通過したと批判していますが・・・。

共謀罪6と立法事実3

今になって見ると社会防衛思想は元ナチスの思想であったか否かは別として、個人の人権擁護一辺倒ではなく社会防衛の比重が大きくなって来ているのを否定出来ないのではないでしょうか?
個人のプライバシイ保護も重要ですが、エボラ出血熱騒動を見れば分るように、必要に応じて渡航の経歴を聞いたり隔離したり(罹患者は何か悪いことをした犯罪者ではありませんが・・)人権が制約される場合が多くなっていることを否定出来ません。
我が国のデング熱の場合もそうでしたが、どこの公園へ行ったかなどのデータによって危険地域が分るなど・・「個人の勝手だ、どこをどう歩いて来ようと答える必要がない」と言う人は滅多にいないでしょう。
安全・安心社会はみんなで協力して作って行くものであって、個人にとっても有益ですし、害悪ばかりではありませんから要はその兼ね合いです。
みんなが自宅前の道路など綺麗に掃除すればみんなが気持ちがいいのですが、掃除する人には負担が発生するようなものです。
全体と個の関係は一方だけ主張すれば、済むものではありません。
戦後と言うか、文化人と称するグループは個の負担になることを全て「悪」と主張し過ぎる傾向があります。
この後でも書きますが、防犯カメラをプライバシー侵害と批判的に書くのがはやっていますが、公衆道路や商店街で人に見られて悪いようなことをしなければ良いのであって、その程度を知られる被害と何かあったときに犯人が被害者に近づき暴行を加えたりひったくったりした犯行状況、その後逃走する経路が分るメリットなどとどちらを選ぶかの問題です。
時々再審無罪事件が起きますが、我が国ではこうした事件は全て政治的捜査によるものではなく、末端警察の捜査能力不足や思い込みによるミスが基本です。
(あるいはDNA鑑定能力の精密化によって違いが分ったなど・・)
政府の歪んだ検挙方針(政治弾圧目的・秘密警察)や末端機関の不正・気に入らないものを検挙するなど濫用行為の被害にあった人は、戦後70年間皆無です。
このように司法権の独立は信頼されていますので、共謀だけで処罰すると司法権の独立のなかった19世紀までの絶対君主や専制君主制時代の恐怖政治の再来があるかのように言い立てるのは、亡霊を騒ぎ立てるようなもので時代精神にあっていません。
犯罪成立要件の決め方で見ても、20世紀に入って(今や前世紀ですよ!)車や原子力・航空機など危険物が出て来ると全く事件が起きていない前段階の細かい規制→犯罪化が必要になり、個人生活でも無免許運転や危険運転行為や飲酒運転等を事故(傷害等の結果)が起きなくとも処罰するようになって来ています。
これらいろんな分野で犯罪化の前倒しが進むのは、人権侵害になると言う批判を聞いたことがありません。
犯罪成立要件の前倒し化や、自己申告義務化が進んで来ていても、これを社会が受入れて来たのが現在社会です。
交通事故を起こした場合、直ちに報告義務が法定されていますが、これを自白の強制として憲法違反と争う人もいましたが、最高裁は(被害者救護の必要を理由として)自白を強制するものではないと(ちょっとこじつけっぽいですが・・)これを退けていますが、近代刑法の精神違反だと言う批判を聞きません。

道路交通法
(交通事故の場合の措置)
第72条 交通事故があつたときは、当該交通事故に係る車両等の運転者その他の乗務員(以下この節において「運転者等」という。)は、直ちに車両等の運転を停止して、負傷者を救護し、道路における危険を防止する等必要な措置を講じなければならない。この場合において、当該車両等の運転者(運転者が死亡し、又は負傷したためやむを得ないときは、その他の乗務員。以下次項において同じ。)は、警察官が現場にいるときは当該警察官に、警察官か現場にいないときは直ちに最寄りの警察署(派出所又は駐在所を含む。以下次項において同じ。)の警察官に当該交通事故が発生した日時及び場所、当該交通事故における死傷者の数及び負傷者の負傷の程度並びに損壊した物及びその損壊の程度、当該交通事故に係る車両等の積載物並びに当該交通事故について講じた措置を報告しなければならない。
(罰則 第1項前段については第117条第1項、同条第2項、第117条の5第1号 第1項後段については第119条第1項第10号 第2項については第120条第1項第11号の2)

上記のように報告しないと刑罰まで決まっている・・一種の自白を強制されているのですが、誰も文句を言いません。
日本社会では、交通事故を起こしたのは仕方がないとしても「ひき逃げ」してしまった!などは、人間として最低ランクの評価を受けるのではないでしょうか?
事実上自白強要されるのは憲法の基本精神に違反しているから、「自白を拒んだのは偉い」と評価するよりは、日本では一刻も早く救急治療を受けさせる必要性と潔く自己申告する方に価値をおいているのです。
近代法の精神に違反するかどうかの命題ではなく、どこまでの変容を社会が受入れられるかの問題であることが分ります。

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