法人実在説の有用性?

日本では判例上法人実在説が確立しているので、学者は別として、我々実務家では、遠い過去の「終わった」議論になっているはずですが・・・?
20年2月28日現在の法人本質論に関するウイキペデイアの記事です。

法人本質論とは、法人の制度について、その根本の理由を明らかにしようとするものである。
考え方によって、法人に対する法律の運用に大きな影響を与える。法人の本質には、法人擬制説、法人否認説、法人実在説の対立がある。
なお、法人擬制説と法人実在説の論争は法人税をめぐる議論にも存在するが民法におけるそれぞれの立場と同じものではない[1]。
法人擬制説は、フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーの提唱した考え方で、自然人の平等な権利能力を前提とする民法において、法が特に人格を擬制したのが法人であるというもの。いかなる実体が法人として認められるかは法の裁量によることになる。
結果として、この理論は、二つの異なる論点を含むことになる。
法によって認められない実体は法人ではない
フランス革命モデルからも明らかなように、近代法の草創期においては、団体というのは個人の自由を阻害するものであると考えられた(ギルドなど)。
近代法は、自然人から構成される平等な市民社会を構想したから、このような団体は敵視され、たとえ団体たる実体を備えた社会的存在であっても、法が人格を認めなければ法人ではない、という思想が適合的であったわけである(樋口陽一の「法人の人権」否認論を想起せよ)。
この思想は、法人について特許主義を採用したい当時の国家の思惑とも合致したために、広汎に支持された。日本民法も33条で法人法定主義を採用しているが、これは、法人擬制説の表れと見ることができる。要するに、法人に対して謙抑的な法政策が採用される場合には、「法によって認められない実体は、法人ではない」という論理が強調されることになる。この学説の当初の思惑は、こちらである。
法によって認められた実体は法人である
これに対して、法人に対して拡張的な法政策が採用される場合には、「法によって認められた実体は法人である」というまったく正反対の方向のモメントが強調されることになる。例えば、現在の日本商法は一人会社を認めているが、一人の個人には社団性はない。しかしながら、法がそれを法人と認めるのであれば、仮令社団性がなくとも、それを法人と認めよう、という姿勢も論理的に演繹できるのである。
また、法人というのは、権利義務の帰属点を提供するための擬制に過ぎないのであるから、権利能力さえ認めれば十分で、行為能力まで認める必要はない(代理人の法律行為の効果が法人に帰属するという構成をとれば十分である)、という考え方と(必ずしも論理必然ではないが)結びつく。民法44条が「理事其他ノ代理人」として、理事を代理人と観念していたことは、起草者が法人擬制説を採用していた一つの根拠であるとされることがある。
法人否認説[編集]
法人否認説は、ルドルフ・フォン・イェーリングなどにより主張された考え方で、法人擬制説を発展させたもの。法人という擬制の背後にいかなる実体(真の法的主体)があるのかを解明しようとする。その解明の結論により、法人の財産が実体であるとする説(目的財産説)、法人の財産を管理する者が実体であるとする説(管理者主体説)、法人の財産によって利益を受ける者が実体であるとする説(受益者主体説)がある。
法人実在説[編集]
下記の法人有機体説・法人組織体説・法人社会的作用説をまとめて、「法人実在説」と呼ぶ。法人擬制説に対するアンチテーゼとして、このようにまとめて扱われることが多い。
日本の判例・学説においては法人実在説がやがて主流となった。この結果、法人擬制説に傾倒している日本民法を、法人実在説的に解釈していくということになった。このことも、次の二つの異なるモメントを包蔵する(但し、法人擬制説の二つのモメントとは異なり、同方向のヴェクトルを指している)
たとい法が法人と認めていない社会的存在であっても、それに相当する実体を備えている場合には、(組合ではなく)法人に準じた法的処理をしようということになる(法人擬制説を採るならば、このような法関係は一律に組合契約として処理することになる)。これが、いわゆる「権利能力なき社団」や「権利能力なき財団」であり、いずれも判例・通説の認めるところとなっている。
たとい法が法人と認めている社会的存在であっても、それに相当する実体を備えていない場合には、法人格を否定しようということになる。これが、いわゆる法人格否認の法理である。法人格否認の法理は、判例の認めるところとなっている。

民法44条の削除はhttps://www.minnpou-sousoku.com/commentary-on-civil-law/44/によれば以下の通りです

本条は2008年12月1日の法人整備法(正式名称「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」)、法人法(正式名称「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」)、公益認定法(正式名称「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」)の施行により、削除されました。
旧民法44条の規定は、次のとおりです。
旧民法第44条第2項(法人の不法行為能力等)
1 法人は、理事その他の代理人がその職務を行うについて他人に加えた損害を賠償する責任を負う。
2 法人の目的の範囲を超える行為によって他人に損害を加えたときは、その行為に係る事項の決議に賛成した社員及び理事並びにその決議を履行した理事その他の代理人は、連帯してその損害を賠償する責任を負う。
昨日見たttps://www.minnpou-sousoku.com/commentary-on-civil-law44の引用続きです。
2008年の民法改正以降の本条に対応する新規定は、法人法第78条・第117条・第118条です。
また、法人の不法行為能力に関しては、法人法に多くの関連規定があります。
とありますので、略称法人法を見ておきます。
七十八条 一般社団法人は、代表理事その他の代表者がその職務を行うについて第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。
(役員等の一般社団法人に対する損害賠償責任)
第百十一条 理事、監事又は会計監査人(以下この款及び第三百一条第二項第十一号において「役員等」という。)は、その任務を怠ったときは、一般社団法人に対し、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
民法旧規定の「役員その他代理人は」という民法旧規定の「代理人」をなくして、「代表者が」と変更しています。
商法では早くから代表者代表取締役という名称が採用されていたのに対して民法の改正が遅れていただけのことでしょう。
ちなみに現行商法は明治32年法律第48号最終改正:平成30年5月25日法律第29号
ですが、平成17年に会社法部門が独立法になって削除されるまで、商法中に会社法がありました。
私が法学部に入った頃には、すでに代表取締役の文言があったのでいつからそうなっていたかでしょう。
旧商法に関するhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945296/8・・(官報. 1890年04月26日)を見るとロエスレル商法全文が記載されているので、これの186条を見ると「取締役代理権」という文言になっているので、当時は民法同様に代理権という考え方だったようです。
旧商法の施行期間はhttp://www.i-design-lab.jp/companyvalue/corporate-governance/によれば、以下の通りです。

この法律は明治23年に施行されて8ヶ月で施行延期?されたもので、日本で本格的に施行された商法は現行商法(1899年明治32年)になります。
ロエスレル商法草案が脱稿したのが明治17年ですが、旧商法が公布されたのは明治23年、それも8ヶ月で施行延期となり、会社法・手形法・破産法など一部が施行されたのが明治26年、新商法として施行されるのは明治32年と完全施行までなんと15年の月日を要している・・・。
http://www.waseda.jp/hiken/jp/public/sousho/pdf/41/ronbun/A79233322-00-0410175.pdfはロエスレル商法の研究論文ですが、(取締役3名以以上との規定があるが取締訳解の規定が欠けているという流れの中で明治32年の新商法169条、170条で、「取締役各自執行、各自代表」になっているとの紹介があります。
ということは明治32年段階で既に代理ではなく「代表」とする法制度が始まっていることになります。
以上によれば民法の旧条文に代理と書いていることを理由にする(だけではないですが)部分は、法人擬制説は揚げ足取り的主張としてついにで行った程度でしかないので基本法である民法を改正するまでもないと長年放置されていたのではないでしょうか?
必要な議論は、一定の組織集団には独自の経済主体性がある・・だからこそ社会的有用性があって議論しているのですから、・・のでその集団にその名で一定の権利を享受する資格・当事者適格を与えるべきかどうかの問題でしょう。
誰でも集団を名乗ればそういう資格を得られるのでは、社会が混乱するのでどういう資格をどういう集団に与えるべきか→それにはどういう要件がいるか?その基準・要件を国家が決めてその要件・基準を満たしている限り一定の資格を与えるという制度です。
それを法人と言うかどうかは別として、一定の活動能力を与え、活動させる以上は、それに必要な資金や資産の保有者でないと契約も何もできません。

外見有用性と責任2(宇都宮病院事件1)

3月4日に紹介した宇都宮病院事件は、ちょっとずれて牽強付会の疑問がありますが?外見の一種・・あえて言えば医師資格・・あるいは資格信用失墜事例といえるでしょうか?
ちょっと長くなりますが引用して事件概要を紹介して起きます。
ウイキペデイア宇都宮病院事件

私立精神科病院の乱立[編集]
高度経済成長期には、精神科病床は1年間に1万床ずつ増加し続け、1950年(昭和25年)の1万8千床が1955年(昭和30年)には4万床、1965年(昭和40年)には17万床、そして1969年(昭和44年)には約25万床となった。この時期に開院した精神科病院は私立病院である。
1958年(昭和33年)10月2日には厚生省事務次官通知により、精神科の人員は一般診療科に対して、医師数は約3分の1、看護師数は約3分の2を基準とする特例基準が認められ、更に同年10月6日の医務局長通知で、事情によっては『その特例基準の人員数を満たさなくともよい』ことになったために、一般診療科の病院よりも人件費を抑えることができ、そして、措置入院の国庫負担も5割から8割に引き上げられたことで、一般診療科と比較して精神科病院の経営が容易となった。また、病院建設費用にも便宜が図られ、特殊法人医療金融公庫から長期低利融資を受けることができるようになり、病院建設自体も容易になった[4
精神科医の人数は病床の増加に見合ったものではなく、実際のところ増加した精神科病院に勤務する医師の殆どは、内科医や産婦人科医からの転進であった。精神科病院は内科や産婦人科よりも利益率のよい事業のため、医師たちは診療科を精神科に変更したのである。宇都宮病院もこの時期(1961年)に内科から精神科へ事業を変更している[6]。
クロルプロマジンなどの処方箋医薬品で、患者の興奮状態を抑制することができるようになると、少ない病院職員で多数の患者の管理が可能となり、病院の運営経費が少なくて済むとともに、病床数が多い(患者の処遇がベッドも無く『うなぎの寝床』になる状態)ほど、利益を上げられる構造になったのである[8]。
当時の日本の精神科病院の状況を、日本医師会の武見太郎会長は以下のように述べている。
精神医療は牧畜業だ
— 武見太郎、『爆弾精神科医』(p.143)
1983年4月、食事の内容に不満を漏らした入院患者が看護職員に金属パイプで約20分にわたって乱打され、約4時間後に死亡した。また同年12月にも、見舞いに来た知人に病院の現状を訴えた別の患者が、職員らに殴られ翌日に急死した[2]。
1983年(昭和58年)、宇都宮病院に不法収容されていたA氏が、東京大学医学部附属病院精神科病棟を訪れ、宇都宮病院の内情を暴露し、告発する意志があることを伝えると、東大病院精神病棟内に「宇都宮病院問題担当班」を設置し、弁護士や日本社会党と協力し、朝日新聞社宇都宮支部とも情報交換を行う[23]。A氏の証言がきっかけとなり、入院患者2人について、殺人事件が立証されることになる
精神科病院ゆえの閉鎖病棟や閉鎖性により、上記の実態や患者死亡事件は公にならなかったが、事件の翌年1984年3月14日に、朝日新聞朝刊によって報道され、日本の世論の大きな注目を集め、国会でも精神障害者の人権保障の面から、日本国政府の対応が糾された[3]。
地方公共団体の行政(都道府県)による病院監査も不十分であったため、実態の把握ができなかったこと、精神科病院の管理者を筆頭に、病院職員には倫理的な思考能力が欠落していたこと、日本社会の精神科医療に対する理解が、著しく不足していたことも背景としてある[34]。さらに、宇都宮病院には「必要悪」としての社会的存在意義が生じていた。
宇都宮病院では、対応困難と見なされた患者を積極的に受け入れ、収容施設の様相を呈していた[37]。
家族間の人間関係の悪化により、措置入院させられてしまう場合もある。前述したA氏は、兄B氏によって措置入院させられてしまった[38]。
A氏は、宇都宮病院を告発して民事訴訟を起こしており、1998年10月時点で第1審裁判が続いていた[39]が、2013年11月に死去した
A氏は晩年まで宇都宮病院の廃院を訴えて活動していた。

当時も人権侵害防止のために院内に公衆電話を設置するルールがあったのか?公衆電話を設置していたらしいのですが、宇都宮病院は患者に小銭を持たせなかったので、外部通報できなかったとも書いています。
宇都宮精神病院事件以降、精神病棟の閉鎖性が改善され、先進的医療を進めていた千葉県内の病院見学を千葉県弁護士会では司法修習生対象に長年継続してきました。
現在はその延長で、研修先病院を医療観察法制定後千葉県で受け皿主力になっている病院に変え(選択科目制ですが)研修を継続しています。
この事件は大々的報道があったことから結果的に医師の信用をいたく傷つけましたが、結果から見ると最大の進展は病院の閉鎖性を改善する・・誤った強制拘束を事後的に露見し易くする工夫・・程度にとどまったように見えます。
認定基準の客観性を担保する科学技術の進歩がない限り、精神病の認定データを周辺関係者による「これまでこういうことがあった」などの経過説明に頼る限り人権侵害リスクを防止するのは困難です。
医師の鑑定書だったか介護関係者の記述だったかの区別記憶が(実務上次々と読んだ記憶でしかないので)今になるとはっきりしないのですが、エピソードと称して親族による説明・・家庭内で起きた非合理な行いを細かく書いて判断基準にしている様子が見えるのですが、親族は他人に比べれば信用できるということでしょうが、今と違って数十年前には家族の関係が濃密でしたので、その分遺産分けの利害もあれば、長年我慢してきた怨念もあるなど逆に利害関係が複雑ですので家族の言い分だけでは危険です。
法律家から見ればこう言うエピソードを主要な間接事実として判断するのでは科学的判定と言えるのか疑問です。
こう言うエピソードがあればこの病気を疑える・診断して良いと言う診断基準の場合、診断が正しいかどうかの判定には、判断の材料にしたエピソードが本当にあったのか?その当てはめにミスがあるかどうかで決まるべきですが、判断の前提にしたエピソードが本当にあったかの検証方法が用意されていないようです。

資格の発達(外見有用性と責任)1

精神科医の精神病認定の恐ろしさから、被後見人等に偏ってしまいましたが、行為能力制度=能力制限制度全般と外見規制時代に戻します。
生まれ育った郷里で一生を終え見知らぬ人と会うことの稀な時代と違い、1日の内に早朝の満員電車に始まり見知らぬ人と遭遇し続けて何かしらの関係を大量に持つのが日常になると、チラッとも見ただけで駅員かその店の店員か救急車かなど即断できないと世の中がスムースに行きません。
初対面の人でも相手がどういうことを出来る人かすぐに分かり迷わずに対応できるためには、一定の資格制度やユニホームがあれば見知らぬ人でも一定の技術やノウハウを持っていると分かり、一定の仕事を委ねられるようになるのでスムースです。
初対面の人に名刺を先ず出すのも、その人がどこの会社の人でどういう職種かが即時に判明することによって、その人に何を頼んで良いかがわかって無駄な時間が省けます。
昨年夏ころ都内大病院の病室に見舞いのために繰り替えし通っていたところ、医師がジーンズにTシャツ姿でしたが、男性の場合作業員が立ち入って病状説明するわけがないので「あ、医師がきたんだ」とわかりましたが、話を始めて内容から判断しないと判断がつかないシステムになっているのには驚きました。
女性医師が来た場合、当初看護師さんが様子を見に来たのかとばかり思っていたら、看護師さんの説明とちょっとレベルが違う・付き添いしている身内の質問内容接し方等からもしかしたら医師かな?とこれも総合判断した次第です。
看護師の場合も昔のイメージ白衣の天使ではなくブルーの作業着式衣服で、いろんなことをするのでベッドメーキング的清拭作業する職種?の人と洋服だけでは区別がつかなくなっているのには驚きました。
たまに来る人には職種区別が分からなくとも良いというのが、大病院の主流的考え方なのでしょうか?
コンビニやスーパー、デパートやデイズニーランド、ファミレス、交通機関など今流行りの「濃厚接触」を前提にしない業態では店員・施設職員と客の違いが外見ですぐわかる方が客にはあり難いものです。
工事現場付近の誘導員もユニフォームと警棒式の赤い?棒を振り回しているので一々何してるんですか?と聞かなくとも、その指示に従って迂回歩行すると安全なのだと瞬時判断ができ、迂回路誘導がスムースに行われます。
対面相手の能力内容が初対面の人にも一定水準の能力保障をしてくれるのが資格制度やユニフォーム着用や名刺であり、〇〇銀行や弁護士等の名称を使用できる許可?制であり、(銀行の看板だけでビル内に入る用事があるかどうかも判断可能)近代社会をスムースに動かせる必須のアイテムです。
こうして交流拡大に応じて各種職業の資格制度・外見の統一が発達してきました。
江戸時代までは武士と町人では衣服や髪形や会話形式からして違う・・家に門構えが許されるか土塀か生垣かなどあらゆる方面で格式が分かる仕組みでした。
京都に行くと土塀でも門跡寺院には、線が入っているなど外観で判断できるのはそれなりに便利です。
外見判断の合理化という意味で見れば、江戸時代の士農工商の区別は身分というより職業分類であったと見るべきでしょう。
(世襲といっても当時も大名家自身の改易や家臣の家禄召し上げ等が結構あったので、大名家家老等の名門でも盤石ではありませんでしたので、本来身分と言えないと思われます)
大手銀行(大大名)でない地方銀行(10万石内外の大名)や相互銀行(3〜5万石の大名)信用金庫(戦国レベルの上流武士・多くは旗本クラス)でも銀行員(金融機関・武士)であれば一生食いはぐれがないという1世代前までの職業観と似ていたように見えます。
身分でなくとも従業員としての雇用安定程度?や格式重視制度はそれなりに意味があったというべきでしょう。
現在に戻りますと一定の規格基準に合致して初めて医師、建築士であり理髪師、調理師、代議士であるし、政党と言えるし、大手企業従業員であれば(せっかく得た地位を安易に棒に触れないので)一定の信用ができるという意味で所属が重視されます。
信用力の高さを求めればその維持のために期待外れのことができない不自由度は表裏の関係です。
外見でまず判断できる社会は省エネ・・効率の良い社会ですが、これを悪用する人がもちろん出てきます。
「看板にいつわりあり」ということですが、〇〇職員を名乗るオレオレ詐欺などもこの一種です。
商人や法人がある人に対して名目だけの外見的資格使用を許している場合、その責任を負う制度を法人制度と同時に採用しています。
法人制度の骨格を決めた基本法であった民法旧規定(公益法人3法成立と同時に削除される前の規定)は以下の通りです。
http://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/koueki/kyuminpou.html

(名称の使用制限)
第三十五条 社団法人又は財団法人でない者は、その名称中に社団法人若しくは財団法人という文字又はこれらと誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(法人の代表)
第五十三条 理事は、法人のすべての事務について、法人を代表する。ただし、定款の規定又は寄附行為の趣旨に反することはできず、また、社団法人にあっては総会の決議に従わなければならない。
(理事の代理権の制限)
第五十四条 理事の代理権に加えた制限は、善意の第三者に対抗することができない。
上記条文は、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成十八年法律第四十八号)
77条にそのまま引き継がれています。

商法

(明治三十二年法律第四十八号)
第九条
2 故意又は過失によって不実の事項を登記した者は、その事項が不実であることをもって善意の第三者に対抗することができない。

会社法(平成十七年法律第八十六号)

第七条 会社でない者は、その名称又は商号中に、会社であると誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(表見支配人)
第十三条 会社の本店又は支店の事業の主任者であることを示す名称を付した使用人は、当該本店又は支店の事業に関し、一切の裁判外の行為をする権限を有するものとみなす。ただし、相手方が悪意であったときは、この限りでない。
(表見代表取締役)
第三百五十四条 株式会社は、代表取締役以外の取締役に社長、副社長その他株式会社を代表する権限を有するものと認められる名称を付した場合には、当該取締役がした行為について、善意の第三者に対してその責任を負う。

工事現場付近の誘導員もユニフォームと警棒式の赤い?棒を振り回しているので一々何してるんですか?と聞かなくとも、その指示に従って迂回歩行すると安全なのだと瞬時判断ができ、迂回路誘導がスムースに行われます。
対面相手の能力内容が初対面の人にも一定水準の能力保障をしてくれるのが資格制度やユニフォーム着用や名刺であり、〇〇銀行や弁護士等の名称を使用できる許可?制であり、(銀行の看板だけでビル内に入る用事があるかどうかも判断可能)近代社会をスムースに動かせる必須のアイテムです。
こうして交流拡大に応じて各種職業の資格制度・外見の統一が発達してきました。
江戸時代までは武士と町人では衣服や髪形や会話形式からして違う・・家に門構えが許されるか土塀か生垣かなどあらゆる方面で格式が分かる仕組みでした。
京都に行くと土塀でも門跡寺院には、線が入っているなど外観で判断できるのはそれなりに便利です。
そういう意味で見れば、江戸時代の身分というより(当時も大名家自身の改易や家臣の家禄召し上げ等が結構あったので家老等の名門でも盤石ではありませんでした)今で言えば大企業従業員としての雇用安定程度)?や格式重視制度はそれなりに意味があったというべきでしょう。
現在に戻りますと一定の規格基準に合致して初めて医師、建築士であり理髪師、調理師、代議士であるし、政党と言えるし、大手企業従業員であれば(せっかく得た地位を安易に棒に触れないので)一定の信用ができるという意味で所属が重視されます。
信用と不自由は表裏の関係です。
外見でまず判断できる社会は省エネ・・効率の良い社会ですが、これを悪用する人がもちろん出てきます。
「看板にいつわりあり」ということですが、〇〇職員を名乗るオレオレ詐欺などもこの一種です。
商人や法人がある人に対して名目だけの外見的資格使用を許している場合、その責任を負う制度を法人制度と同時に採用しています。
法人制度の骨格を決めた基本法であった民法旧規定(公益法人3法成立と同時に削除される前の規定)は以下の通りです。
http://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/koueki/kyuminpou.html

(名称の使用制限)
第三十五条 社団法人又は財団法人でない者は、その名称中に社団法人若しくは財団法人という文字又はこれらと誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(法人の代表)
第五十三条 理事は、法人のすべての事務について、法人を代表する。ただし、定款の規定又は寄附行為の趣旨に反することはできず、また、社団法人にあっては総会の決議に従わなければならない。
(理事の代理権の制限)
第五十四条 理事の代理権に加えた制限は、善意の第三者に対抗することができない。
上記条文は、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成十八年法律第四十八号)
77条にそのまま引き継がれています。

商法

(明治三十二年法律第四十八号)
第九条
2 故意又は過失によって不実の事項を登記した者は、その事項が不実であることをもって善意の第三者に対抗することができない。

会社法(平成十七年法律第八十六号)

第七条 会社でない者は、その名称又は商号中に、会社であると誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(表見支配人)
第十三条 会社の本店又は支店の事業の主任者であることを示す名称を付した使用人は、当該本店又は支店の事業に関し、一切の裁判外の行為をする権限を有するものとみなす。ただし、相手方が悪意であったときは、この限りでない。
(表見代表取締役)
第三百五十四条 株式会社は、代表取締役以外の取締役に社長、副社長その他株式会社を代表する権限を有するものと認められる名称を付した場合には、当該取締役がした行為について、善意の第三者に対してその責任を負う。

行為能力制度3(定型から実質へ)

2〜30年前頃から意思能力に問題があるために資産等を守り人間として尊厳ある待遇を受ける必要がある人の大多数が、認知症患者に変わり後見人を必要とする家族の受け止め方や社会意識も大きく変わりました。
将来生涯単身者が増えて、認知症患者の見守りがどうなるかにもよるでしょうが、この数十年の認知症患者の大多数は、兄弟間の遺産争いの当事者ではなく、多くの場合妻が元気な場合夫であり夫死亡後の場合介護者は子であり被後見人等は母親です。
介護に困っても今は精神病院と違い介護施設が充実している上に、娘を中心とする子らは母子間で兄弟間のような争いが滅多になく、他の兄弟の目もあるので、母親を精神疾患がないのに監禁ために精神病院へ入れる必要がありません。
意思能力に問題がある場合でも、ある程度の能力があるが健全な判断能力に欠ける場合に対する保護は従来準禁治産宣告でしたが、私が弁護士になった頃には、準禁治産者として浪費者のほか瘖唖者などが定型として例示されていましたが、(耳が聞こえなくとも十分な判断力のある方がいます)聾唖というだけで準禁治産の宣告する方式は問題がありすぎたので昭和54年に聾唖者盲人定型をなくしました。
このとき浪費者という実態不明の定義を残したのは実質認定だから良いだろうとなったのでしょうか?
54年改正前の旧条文がネットではなかなか出ませんので自宅にある昭和8年版六法全書によって、引用しておきます。
昭和8年版六法全書民法編です。

民法11条 心神耗弱者、聾者、盲者、浪費者ハ準禁治産者トシテ之ニ保佐人ヲ付スルコトヲ得
このように、明治以来定型が法定されていたのですが、昭和54年に浪費者を残して削除され、

民法第11条
心神耗弱者及ヒ浪費者ハ準禁治産者トシテ之ニ保佐人ヲ附スルコトヲ得

となり、これが平成11年

現行民法(1999年改正2000年施行)

(後見開始の審判)
第七条 精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、未成年後見人、未成年後見監督人、保佐人、保佐監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、後見開始の審判をすることができる。
第十一条 精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、保佐開始の審判をすることができる。ただし、第七条に規定する原因がある者については、この限りでない。

平成11年改正後障害や限定行為能力の決め方は、定型障害で能力制限するのではなく、「精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分」という原則定義一本になり具体的認定が必要になりました。
明治民法制定時に行為能力不足者も権利能力の主体にするとその権利を失うリスクが高まるのでその保護の必要性があったものの、能力不足の判定能力(科学?)が追いつかないのでまず心神耗弱という原理を掲げた上で、その認定がなくともさしあたり誰も外見でわかる定型的場合を掲げたのでしょう。
それにしても表現がキツすぎました。
例えば禁治産宣告の改正前の漢文式表現では「心神喪失の常況」というのですから、禍々しいことこの上ない「おっソロシイ」表現でした。
今で言えば認知症→認知能力の欠如という意味ですから、我々高齢者は徐々に視力、聴力が落ち結果的に文書に限らずいろんな情報に穴が空くので結果的に判断も誤る・誰もが将来そうなる流れが可視化されます。
認知能力低下といえば高齢化に伴い徐々に身体機能が落ちていくのは仕方ないよね!となりますが、「心神喪失です」と言われるとまるで何の理解もできない廃人のイメージでした。

権利能力と行為能力の峻別2(未来の夢か?)

足腰が弱くてもその他の機能が一人前の人がそのために移動できず、能力を100分の1しか発揮できないのではその人だけでなく、社会にもマイナスなのでそれを補完するためにエレベーターその他バリアフリー化が進んでいます。
尿失禁ために外出に支障のある人がオムツの発達で自由に外出できるようになるのもその一つでしょう。
こうした部分故障で全体能力制限のバリアー解消に成功した最初の発明がメガネの利用でしょうか?
補聴器や義足の発達や車運転も重いハンドルさばきを軽くして、力の弱い女性が運転しやすくしたのもその一種ですし、出歩き易くするために女性用トイレ整備が進んだのもその一例でしょう。
このように違いを前提にハンデイを与えたりいろんな受け皿を用意するのは人類の知恵ですから、今はまだ外形で分かる範囲の工夫でしかないですが、将来的には例えば短気な人が実は脳内のある物質不足によることがわかり、その補給可能になって人格が温和になったり、ある物質の不足で記憶力減退していく原理がわかり不足物質の補給によって、あるいはある神経回線の伝達能力が落ちる原因を除くなどによって劇的に記憶や判断能力が上がる・数学的処理能力差も同様の原理で未来的には部品や神経伝達回路系の補修交換できる時代?がくるようになるかもしれません。
こうなってくると固有の人格と思われてきたものでさえ、部品レベル差でしかないと言う時代がくるのでしょう。
数時間以上落ち着いて本を読んだり物事の観察できない原因がわかるなど・・。
この栄養を脳のある部分に補給すると文化芸術の理解力が上がり、別の栄養素で創作能力が上がり、思いやりが深くなるなど・・・。
将来その人の本来的属性と思われてきたいろんな分野の部分の故障(病気)を直すだけでなく、気質まで変えられるようになってくると、現在眼鏡や補聴器で能力不足を補正できるように部分障害の有無で全体評価するのは間違いという時代がkrう可能性ありあります、
そう言う時代が来れば権利能力と行為能力を分離する現在の思想は、超長期的に見れば意外に合理的な先見の明のある意見かもしれません。
ただし現在のところ、人の個性・違いを前提にせず人類皆同じ・だから努力したものもしないものも同視すべきという方向に結びつける主張とすれば無責任です。
老荘思想は、そんなあんちょこなものではないのでしょうが、若い頃に読んだ印象では、一見斬新奇抜で「目から鱗」のようなイメージを受けたものですが、それは一服の清涼剤あるいは、薬味程度の意味しか持たないで思想界の主流になり得なかった所以ではないでしょうか。
色々言えばキリがないので、この辺でやめて、現在の法常識に合わせて行為能力に入っていきます。
法の下の平等という意味は、結果平等を保障するのではなく同じ能力なら、家柄身分性別等によって差をつけるのが不平等として許さないという説明が一般的です。

憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

民法では基本法ですので法人のように事業ごとに行為能力を細かく決めていませんが、権利の主体であっても赤ちゃんは自分でその権利を享受するために行動する能力がありません。
あるいは臨時に体力の衰えた傷病者、精神障害者などもその保護(医師介護者)が必要です。
この解決のために赤ちゃんだけでなく一定年齢まで自分で権利を守れない定型的場合を想定してその保護者が必要として行為能力制度設定をしたものと思われます。
ひとつには年齢による保護・未成年制度であり、もう一つは年齢を問わない無能力者制度(是非弁別能力欠如)です。
無能力制度は精神病にかこつけた人権侵害がありうるので、専門医の診断が要件になっています。
ただし精神医学というのは科学ということになっていますが、患者の行動や、幻覚・幻聴・幻視等の訴えの聞き取りとその解釈が中心で、客観的データが少ないのが特徴です。
認知症の検査でもこのような質問にこのように応答したという医師やテスト要因が書き込んだデータだけで、血液検査や脈拍体温や、摘出した細胞などの標本を残す他の医学部門データとまるで違います。
上司に毎日叱責されてストレスで何日も眠れないなどと医療相談すれば、その相談だけで?うつ病診断になるイメージです。
専門家は表情などよく見ていると言うのかも知れませんが、いずれにせよその医師の判断重視である点は変わらないでしょう。
強制措置入院には2名以上の医師による診断が必要とされていますが、客観データなく経験豊富な医師の意見一致なら間違いないだろうという程度の担保しかありません。
これが強制措置入院隔離病棟となると、医師の診断が絶対化して思いがけない牢獄現象になります。
客観基準がないまま専門医というだけで聖域化してくると悲惨な事件が起きます。
精神病院の人権侵害事件では、宇都宮病院事件が著名で詳細はウイキペデイアに出ていますので以下、骨子だけ紹介しますが、ようは隔離・収容しておくだけで治療らしい治療をしない前提なので入院患者や一人当たりの医師や看護師数が一般病棟より少なく済むことに目をつけてバンバンと入院患者を増やしてこれに応じて専門家と言えない一般内科医を大量採用して、終身?監獄のような(患者を暴力で制圧する)運営をしていたという事件だったようです。
行為能力制限には、このようなリスクもあるという程度で宇都宮病院事件の紹介は外見に頼るリスクのテーマの時に回します.

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