感染者増加率・人口比致死数の国際比較1(時間差)

東京都の激増を含めた日本と国際比較・・以下3月20日〜26日〜27日の国際データ比較(推移)をしてみましょう。
以下全て厚労省のデータからです。
厚労省データは最新でも前日正午現在までの統計ですので、昨日最後に書いたニュースの27日22時のニュースは28日発表の厚労省データ(27日正午までのデータ)に反映されていません。
前日正午現在というのは厚労省のデータ作成担当に届いたデータでしょうから、現場で本当に発生した時間から、半日〜数日のズレがあり得ます。
日常業務を考えると東京都内の医療現場で死者を含む医療情報発生後一定期間内(例えば前月分を翌月末までの報告義務に基づく報告書が各地保健所に届き、それが一定期間内に都道府県の部局に届き、それを集計作業し記録化して月次集計表を作り備え置き、年度集計時に日々の記録や月次の集計に誤りがないか点検して年度と月次の確定記録にしていく作業が行われてきたのでしょう。
厚労省への報告は原則として年度あるいは半期や4半期毎の報告で足りたものと思われます。
今回は緊急事態ですので緊急時対応手順で日々報告するようになったと思いますが、(厚労省発表データの形式自体が、その都度違うことを見ても緊急体制下の試行錯誤中であることが窺われす。)それでも上記手順全部を省いて医療現場の医師から厚労省へ直結報告制度化は不可能でしょう。
現場医師や検査機関も担当者自身はその場の処置に忙しいし、(「感染者が出た」という結論だけでなく年齢性別既往症の有無等々同時記載事項がいっぱいあるはずなので)検査機関も医師も病院内の事務処理担当に回すしかないなどそれぞれの分業が決まっています。
簡略化といっても各地保健所経由をなくし都道府県部局へ直接報告へするのが限度でしょう。
患者の特定を防ぐため?として保健所管内単位で発表しているのは、保健所経由が続いていることを間接的に示しています。
都は各地からの報告集計確認を済ませ(年齢性別地域重症軽症等の関連情報確認をし確定記録完成後(当然部局トップの承認印も取得)記者発表用の要約書を作成し(どの程度まで公表できるか)記者会見に臨むのでしょうが、国家的緊急事態とはいえ中長期的に日々発生する性質上突発事故と違い報道発表時間も1日〜2回の午前何時午後何時とかの時刻が決められているのが普通です。
緊急記者会見もあるでしょうが、今はネット時代ですので事実上厚労省へ同時的にネット送信するのでしょうが、これはお耳に入れておきます程度の情報であって公式報告・記録にはなりません。
まして昨日引用ニュースのように夜間随時発表の場合、厚労省のコンピューターに同時記録されるだけで担当役人が翌朝出勤してから見る程度でしょうから、厚労省としては一定期間後の確定値として記録修正するのでしょう。
速報と確定値の違いです。
ですから、28日発表記録でようやく27日12時現在とするのが限界らしく、昨夜の東京都発表が反映されていません。
同じことは国外情報の時差にもあるので、日本の27日12時現在データとはWHOから日本時間12時までに連絡があった分という意味ですから、諸外国におけるその時間までの発生分とは1日程度の時間差がありそうです。
4半期毎のGDPや貿易収支速報、雇用動向などは数ヶ月あるいは半年前後で確定値段階で上振れも下振れもある関係ですが、感染者数や死者発生数のデータでは1日分の誤差を確定数字にしても減る余地がない・・国外統計は増えるしかない単純な関係になります。
3日前のデータ収集による国と、2日前まで発生分の報告になっている国と27日締め切り分の国が混在する場合、後日の確定値の数字の増え方は時間差1日分〜半日分でも時差(タイムラグ)に比例して数字が増える一方であって減る変更余地がありません。
ですから日本の28日発表の27日正午締め切りデータとは、韓国等諸外国の26日正午締め切りまでのデータの可能性が高いので28日付厚労省データ記載の諸外国累積データとの比較は、日本の26日正午締め切り分(厚労省27日発表数字)と比較するのが大体あっていることになります。
28日夕方以下のニュースが飛び込んできました。
https://www.asahi.com/articles/ASN3X5G34N3XUTIL025.html

東京で新たに60人以上の感染確認 台東区の病院で多数
新型肺炎・コロナウイルス
2020年3月28日 16時28分
東京都で28日、新型コロナウイルスの感染者が新たに60人以上確認されたことがわかった。入院患者や医療従事者の感染が相次いで明らかになっている永寿総合病院(台東区)の感染者が、多数含まれているという。1日あたりの感染者数でこれまでで最多となる。同日夜に発表する

今回の東京都の大騒ぎの中核的感染源・クラスターは、上記永寿総合病院の医療従事者の大量感染判明が原因の多くを占めているらしく注目されていたので、報道記者も張り付いている・・公式発表前にニュースとして情報が先に出回っているような書きぶりです。
このように現場密着者が一番早く情報入手し、それが公式手続きを経て記録になっていくまでの時間差が起きる一例です。
この病院の関係者の感染者が出尽くして、都内感染増が落ち着くのを期待したいものです。
https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/story/

元厚労相で前東京都知事の舛添要一氏(71)が25日、自身のツイッターを更新。
舛添氏は小池知事の氏の会見について「小池都知事は今週末に不要不急の外出自粛を要請。1週間遅い。私は20日の段階で『鈍感』だと指摘していた。3連休の人出は多かった。一方、感染者41人増と言っても、病院関係者11人や海外渡航者5人と感染源不明者10人は分けて考えるべきで、都市封鎖という言葉を軽々に使ってはならない。正しく恐れよ」とつづった。

とあるようにこの病院関係増加が大きな要因であって、感染源不明の大規模感染が起きていたわけではないと指摘されていたものです。
小池氏が都知事選を有利に運ぶために危機を必要以上に煽って・敵対関係にある都議会自民党と抗争している場合ではない・・都議会自民党との休戦に持ち込むために危機を煽ったかのような主張がそのうち出て来るのでしょうか?
東京封鎖騒ぎの裏で、同時進行的にあれだけ小池氏憎しでこり固まっていた都議会自民党との手打ちが決まったのは偶然にしては不思議です。

住民登録制度5(改正と運用定着の時間差)

本籍だけで管理していて住民登録制度がないと国民の現況把握が出来ず不便ですので、政府の方でも次第に現状把握方式を充実して行きました。
と言うよりは、元々人民の現況把握の手段として出先の把握だけではなく親元でも把握しようとたことが、寄留地把握と本籍把握の二本立て制度の始まりとすれば、徐々に現況把握制度を充実強化に励むのは当然の成り行きです。
本来過渡期の把握手段である本籍制度は、寄留値把握制度が充実した時点で御用済みになっていた筈です。
March 5, 2011「寄留地2(太政官布告)」March 6, 2011「寄留者の管理と神社1」で紹介したとおり大正3年には寄留法が出来、昭和27年に戸籍管理と切り離した住民登録に関する法律が施行されているのですが、法律が出来たとしても直ぐには実施・・浸透しませんので、住民登録が一般化して来たのは(私のおぼろげな記憶によれば)昭和30年代半ば以降頃に過ぎません。
私の子供の頃にはまだ住民登録制度が定着していなかったのか、あるいは身分証明制度がなかったからか、どこかに行く・・例えば修学旅行先の旅館で食事を出してもらうためには、米穀通帳持参(1981年に廃止=昭和56年)の時代でした。
法律と言うものは作ればその日から実行出来るものではなく、準備に年数がかかります。
民法応急措置法の精神(家の制度廃止)によって戸籍制度も抜本的に変わるべきでしたが、これに基づき昭和22年に戸籍法の改正が行われましたが、実際に核家族化に向けた改正の準備が出来たのは昭和32年頃で、(昭和32年法務省令第27号・・33年から施行)でした。
これによって全国の戸籍簿を各市町村で徐々に書き換えて行き、(これによる改正前の戸籍を改正原戸籍と言います)全国的に完成したのが、漸く昭和41年3月でした。
(完成の遅れた市町村ではそのときまではまだ古い戸籍方式の登録が行われていたのです)
それまでのいわゆる原(ハラ)戸籍を見れば分りますが、戸籍謄本の最初に前戸主と現戸主が書いてあって、その妻子や戸主の兄弟姉妹(結婚して他家に入ればその時点で除籍)とその妻子・孫まで全部記載されています。
分家して独立戸籍を興さない限り一家扱いで、弟の妻子まで家族共同体に組み込まれる仕組みでした。
コンピューター時代の到来に基づき、コンピューター化に着手したのが平成の改正で、この結果横書きに変わりましたが、コンピューター改正前の戸籍も改正前原戸籍と言いますので、今では相続関係の調査に必要な戸籍には、昭和の原戸籍と平成の原戸籍の2種類があることになります。
登記のコンピューター化が始まっても全国の登記所がコンピューター化し終えたのは、20年前後かかって全国で完成したのはまだここ数年の事でしょう。
昨年春離婚した事件で、都内錦糸町の数年前に買ったばかりの高層マンションの処分に際して、当然コンピューター化していると思っていたら、購入時の登記では権利証形式(以前紹介しましたが、コンピューター化した場合・権利証から登記識別情報に変わっています)だったので驚いた事があります。
寄留法が30年も前から施行されていたと言っても、住民登録制度が始まってもその日のうちに国民を全部登録出来るものではないどころか、国民の届け出習慣の定着・政府側の実態把握の完成等に時間がかかり国民全部を網羅するには15〜20年程度は軽くかかってしまった可能性があります。
その完成を待って昭和42年の住民基本台帳制度(・・これが現行制度です)が出来たと思われます。
このように改正経過を見ると戦後の戸籍法制度改正は昭和41〜2年頃までかかっていたので、それまでは制度的には過渡期で戦前を引きずっていたことになります。
国民の意識も急激には変わらないので、このくらいの時間経過がちょうど適当だったのかもしれません。
私の母は明治末頃の生まれですが、私の長兄が結婚した時に戸籍から長男が抜けてしまってるのを知って、とても驚き寂しそうに私に言っていたのを思い出します。
今になれば結婚すれば新戸籍編成になって親の戸籍から自動的に除籍されるのは当然のことで誰も驚きませんが、昭和30年代には親世代にとっては(まだ自動的に抜けるようになった仕組みを知らない人もいて)子供が「籍を抜いてしまった」と衝撃を受ける時代だったのです。
明治始めの戸籍制度は即時(半年後程度)実施制度でしたが、これは元々生まれてから家族として籍(人別帳)にあったものを無宿者として積極的に除籍していたのを、今後は除籍しては行けない・・一旦除籍してしまった無宿者をもう一度籍に戻すだけだったので、即時実施でも家族意識に変化がなく問題がなかったと思われます。
戦後の核家族化への改正は、(同居していても結婚すれば)積極的に籍から抜く強制だったので、意識がついて行けない人には抵抗があったのでしょう。
戦後改正は天地逆転するほどの意識改革であったこともあって、実施・定着には時間がかかったのです。
我々法律家の世界でも現在通用している最高裁の重要判例は、昭和30年代後半から40年代に集中しているのは偶然とは言えないかもしれません。

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