左翼・マスコミは、何か災害や事件があると先ず責任者を捜し出すことに精出す傾向があります。
避難指示の出し方に落ち度があるとか、防災対策は政治の責任であり、救援物資に「済みません」と感謝するのは筋違いであるとか、政府こそが謝るべきであるし、イスラム国テロによる人質事件は安倍総理の責任であり、その追及こそすべきであって親が謝るべきではない・・こんな振る舞いが求められるのはとんでもない後進性の現れであるかのような印象で報道します。
西洋法理を信奉するマスコミや文化人の立場からは、大震災の事故があって被害者が出ると事前の避難訓練がなかったとか、避難指示の拙劣さなど学校や幼稚園・・企業経営者などの責任追及に精出すのが、先進的であり鋭い?能力があることだと思い込んでいるようです。
西洋的行動であることはそのとおりですが、西洋的と先進的とは同じではありません。
日本人の古来からの考え方・智恵は、何か大事件が起きると、個人責任追及に時間を割いて見せしめを探し出して吊るし上げて満足するよりは、起きてしまった結果をみんなで悲しみ、みんなでこう言う不幸をなくすために地道に克服努力して来たのではないでしょうか?
アメリカ式に戦争責任を追及して吊るし挙げて満足する社会ではありません。
日本以外の諸国では民主化したと言っても「リーダーを選ぶところまでが民意重視」ですが、選ばれた(民主化されていない国の場合はもちろん)リーダーが独断で引っ張って行く社会ですから、リーダーが結果責任を負うことになりますし、(この辺のことはアメリカの大統領制のコラムで紹介しました)その責任追及が必要ですが、日本では政治家はリーダーではなく、世話役・ご用聞きとしてみんなの意見を集約して行動するボトムアップ社会ですから、結果はみんなで責任を負う(・・みんなの智恵が足りなかったと反省する・・)仕組みです。
戦国武将が城明け渡しに際して腹を切るのは、代表として犠牲になる意味であって、命が助かったその他の兵は感謝こそすれ、その恨みを買ってはいません。
一揆の責任者として責任をとった佐倉宗吾郎だって同じで、彼がみんなを煽動したのはなく、一揆を起こせば最後は誰かが責任をとらされること分っていて衆議に従って責任者に祭り上げられただけですから、犠牲者として一揆参加者・子孫の尊敬を逆に集めています。
この辺の意味を中国や韓国やアメリカでは理解出来ないので、ナチス同様に戦犯を作り上げて処刑したことで日本国民を分断したつもりになっているのですが、(ドイツとは違い・・)逆に戦犯は日本人の代表として「見せしめに処刑された」意味に日本人が受け取っている・・これをいつまでも辱めることを許せない心情を理解出来ていないのでしょう。
諸外国基準で戦勝国が日本の政治家を血祭りに上げて「あなた方国民は悪い政治家のせいで酷い目にあっていた」と言われても釈然としません。
飢饉があると為政者批判しているよりは、宮沢賢治の詩にあるようにみんなで悲しみ、その次の再発を防ぐ工夫こそが求められて来た社会です。
「雨ニモマケズ」
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ
我が国は古代から、飢饉や天災があれば、為政者批判に力を注ぐよりは先ずは助け合い、(よその国では助け合いよりは略奪にハシリます)その経験を生かして備荒食物の作付けなどの智恵を発揮した人が(サツマ芋普及に関する青木昆陽の事例は有名ですが、梅の作付けやソバ奨励もその一種です)全国に教えて歩く人が出るような仕組みです。
江戸時代には上杉鷹山その他藩政改革者あるいは佐久間象山や二宮尊徳のような農政改革者が多く出ますが、その前任者の政策批判して責任追及に熱心な事例をあまり聞きません。
津波被害があれば、先ずは助け合いに精出して救援された方は感謝します。
落ちつけば今後のことをみんな考える・・一定間隔での避難用高層構築物設置など、被害最小化のためにどうするかの工夫こそが重要です。
建設的意見よりは、責任者探しをして・損害賠償を求めるやり方は建設的議論にならないばかりか国民間の不信や報復の連鎖・・自己弁護に終始したり亀裂を生み出すばかりでマイナスです。