近代法理の変容6(故意・過失から業界標準へ)

責任分野については、意思(応用としての過失)責任主義が(今世紀に入ってからではなく)20世紀に入ってから、いろんな分野で結果責任主義に変容していることは、不法行為法(自動車事故に関する自賠責法の立証責任転換などで事実上)に始まってあらゆる法分野で顕著な事実です。
契約関係においても、今では過失責任主義・債務不履行責任追及よりは、何かと瑕疵担保責任が強調されるようになっていて、裁判では過失の有無よりは瑕疵があるかどうかが争点になる事件が増えています。
内心の意思がどうであったかの探求よりは、作られた製品やサービス・技術水準・客観的性能が契約時の水準に達しているかどうかでどちらが責任を負担するかを判断する時代です。
原発事故についても、設計に関するどの分野での過失責任かを論じるよりは、結果として被害が起きている点をどう解決するかの議論です。
債務不履行構成のときには、誰の意思能力を基準にするのかについて問題になるので、「通常人の能力」を基準にして過失の有無を判定していました。
いろんな分野で専門化が進んで来ると、一般人の能力を基準にするのでは無理があるので、業務上過失と言う犯罪類型を作って業務従事者としての標準的注意義務を基準にするようになりました。
長年交通事故は業務上過失罪として処罰されてきたことをご存知の方が多いと思います。
今では個人の意思能力がどの辺にあるべきかを基準にするのではなく、専門業種ごとにトキの科学・技術水準を基準に判定する分野が多くなっています。
今、アメリカで大問題のエアバック・・タカタ製品について言えば、メキシコ工場製であれば、メキシコ人の能力を基準にすれば、日本工場製品より歩留まりが悪くてもメキシコ人には過失がないことになるでしょう。
しかし、今の時代は個人や集団の資質・過失の有無を議論するのではなく、期待される性能を有しているかどうかで責任を問われる時代です。
この辺の変化は医療事故に関する損害賠償分野で先に進んで来たように思いますが、今はいろんな分野でこうした考え方が取り入れられています。
哲学的に考えても近代法が理想としたカントの想定するような自立した意思を確立している人は稀ですし、仮に自我を確立していても、専門外では商品知識が乏しいのが普通です。
一般に業者と消費者とでは、情報の非対称性が言われています。
それはそのとおりですが、情報さえ対等になれば良いものではありません。
仮にある量販店である製品を売っていて商品知識の高い店員であっても、自分がある店に行って自分の扱っているのと同じ商品を買う立場になるときには、その店の示す約款を承諾をするしかないのですからどうにもなりません。
ネットで何かやろうとすると直ぐに同意文書が出て来て、それに同意しないと前に進まないような仕組みですが、殆どの人は一々読まないで同意をクリックしているのが普通でしょう。
このように、日常的に本来の意味の自由意思を発揮出来ないことが多くなって来て、消費者保護法等が発達して来ました。
今どき自由意思があるか、意思能力があるかの議論をしても始まりません。
市民社会から近代工業の発展→大衆社会の到来→経済的には消費社会化到来については、これまで何回も書いてきました。
最早、日本は近代社会ではなく現在社会です。
法理や基本ルールはその社会での必要性・・有用性があって成立したものです。
社会を律する理念がその当時の社会実態と無縁に成立するものではありません。
現在社会には現在に適した法理が生まれつつあり、この分、近代法の原理が侵蝕され、(全面的と言う意味ではなく部分的に侵蝕されていると言う意味です)これに反する結果が生じるのは当然です。
逆から言えば、中国や韓国では社会全体にまだ(約束を守るべしと言う)近代合理的社会に到達していないことが分ります。
(政府トップの大統領や裁判所でさえ、こう言う意識で公言していることを昨日書きました)
約束を守るルールが未発達の民族は、その裏側として当然噓も平気で言いますし、その前提としてでっち上げもやりますので、約束を守り噓を言わない近代人と思って付き合うと、しょっ中裏切られたような気がするのは仕方がないことです。
また約束を守れる期間は民度によって、数分から、1時間だけ10時間、10日間、1ヶ月、1年〜10年〜20年〜次世代への恩返しと広がって行きますが、動物類はホンの数分だけと言うことが多いものです。
シーワールドで、シャチやアシカなどの演技を見ていると、動物には動物への対応の仕方がある・・芸をするたびに餌をやって手な付けているのが普通です。
「昨日お腹いっぱい食べさせたから良いでしょう」と言うのでは、芸をしません。
「河野談話さえ出せば・・」とその場しのぎのことをいわれて協力すると、今度はその上を要求して来るのは、どの段階のレベルでしょうか?
朝三暮四の故事にあるとおり、目先の利益ばかりで行動する傾向のある中韓両国相手には、この基準で対応すれば良いことで、近代人相手のつもりで長期的視点で世話しているのに、恩知らずだと怒っても仕方がないことです。
目先の餌で対応して行くしか能がない国民レベル・・相手と割り切って行動すれば、かえって御し易い民族であって損をすることはあり得ません。
反中国、嫌韓のネットでは中韓と付き合うなと主張していますが、右翼人材は相手に対する愛があると言うか対等に考える前提があるからそうなるのであって、企業は中間層やトップ人材ばかりでなく、底辺層・現場労働者もいないと成り立たないのですから、世界の底辺層が近くに大勢いると思って、有効利用すれば済むことです。
シーワールドで人間が踊っても誰も見に行きませんが、シャチやアシカがショーをするから人が集まるのです。
民間企業は、中韓の人材・能力レベルを見極めて、能力に応じて有効利用するために進出していると思いますので、右翼が企業のことまで心配してやる必要はないでしょう。

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