政党内閣に関するウイキペデイアの記事からです。
大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣を組閣した。この内閣は閣僚の大半が政党所属であった。また原が衆議院に議席を有する現役衆議院議員の初の首相であったことから政党内閣として画期的存在とされた。
特に1925年の男性普通選挙により成立した護憲三派の加藤高明内閣から始まる政党内閣6代の頃には政党内閣は「憲政の常道」として定着した。その背景には元老のなかでただ一人存命していた西園寺公望の意向があった。西園寺はイギリスの立憲政治を理想としており、政党内閣に比較的好意をもっていたからであった。
普通選挙は実現し、有権者は大幅に増加したが、それは政治資金の巨額化に伴うことであった。
その結果、選挙資金を得るためという政治腐敗の増加を招いた。政党間の政権交代は総選挙という国民の審判を通じて行われるのが本来の形である。しかし、この頃の政党は官僚や軍、枢密院などの勢力と結んで倒閣をめざし、それを果たした野党が議会の少数派のままで組閣し、与党という有利な条件のもとで総選挙に勝って第一党へ躍進するという形式が政権交代の基本的形式となった。政党内閣は政党間の対立という困難な問題を処理できないままに1930年代を迎えた。
そこに中国問題の深刻化、昭和金融恐慌、世界恐慌による経済危機、世界的な軍縮の流れに対する軍部の反発など、内外の危機に対して十分に対処しえなかった。その結果、海軍・陸軍、官僚、国家主義団体などを中心に政党政治への不満が高まった。そして1932年5月、海軍青年将校らによる犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)と西園寺が軍部・世論の反対から犬養後継に政党党首を立てるのを断念したことをもって政党内閣は終わりをつげた。
上記を見ると、在野政治家は実務能力が低いのに「憲政の常道」と称して、西園寺が(民意の支持を無視して)形式的な政権交代制を採用していたのが政党の健全な成長の芽を摘んでしまったように見えます。
経験がないなりに実務に基づいて堅実政治をしている与党の支持がせっかく多くなっていても、政変の都度毎回少数野党に政権が変わるので、結果的に野党が国民の支持獲得を目的にせず、メデイア受けする空虚なスローガン頼りで政権攻撃する習慣になっていったように見えます。
メデイアの煽りで(本当は国民の多くが冷めていても冷めている人はデモしませんので)国会周辺が騒がしくなると「民主主義」という言葉の魔力でこのままでは政権維持不能となって内閣総辞職になります。
メデイア頼りの運動の限界を補うために軍部でもなんでも倒閣に利用できるものは利用していった結果軍部がどんどん発言力を持つようになってガン細胞のようになってしまったと見るべきでしょう。
戦後は揚げ足取りで倒閣に追い込んでも次の内閣は(本当に国民支持を受けている与党から樹立されるので、野党の揚げ足取り攻撃は意味がなくなっています。
ところが戦前成功例を夢見て戦前の揚げ足取りの「世論」という名でメデイアとの二人三脚での政権攻撃を戦後も繰り返してきたことになります。
実際に揚げ足取りで倒閣してもその次の選挙で社会党が勝ったことがないので、(60年安保だって政権交代はありませんでした)国民多くは安保反対でなかったのです。
まして政策論争のない揚げ足取りだけでは、政権交代になるはずがありません。
今回も森かけ問題による倒閣運動が盛んですが、政策論争でないので、安倍内閣が辞任しても野党への政権交代になる余地がありません。
内閣弱体化運動=国家に必要な政策遂行能力を弱める運動でしかないのです。
実務経験のない野党は無責任な観念〜原理論しか言えないので、国民が成熟してくると支持が減る一方になります。
そこで元官僚を野党が取り込んで現実野党を目指し・これを売り物に民主党が政権を一旦握ったのですが、多くが官僚の傍流であり、明治初期の板垣らと同じ傾向が出て・第一次大隈内閣同様の大失望を買ってジリ貧になってしまいました。
話題を元に戻しますと、23日まで紹介した小西氏も東大卒・元官僚で・東大教授の名前程度は知っていることを鼻にかける特徴にも現れています。
明治期の政治家が、ちょっと官員さんをやったことを誇って庶民に訴える傾向がありましたが、今でも在野政治家はその傾向を引きずっているようです。
明治初年と違い今では、元「官員さん」東大卒の有り難みが薄れています。
東大卒や国家公務員の中でも2〜3流人材・出世できそうもない不満分子が在野になって政治家になっていたこともあって、戦前の政党レベルが低く「あら探し」しかできない結果政党の根腐れ現象を起こしたことが上記「政党内閣」の紹介でわかります。
それをうまく利用して(・・当時陸士や海軍兵学校出身といえば今の東大卒よりもエリートでした)空隙を埋めるように軍部がガンのように育っていったと見るべきでしょう。
戦前政治家は「アラ探し」政治に終始していたので、国民に呆れられてしまい政党政治を自ら葬ってしまった点を反省すべきです。
軍部に頼っていた野党は、(国民を欧米流の単純な2項対立社会化→民族分断を企図していた)GHQ占領政治・・軍国主義批判→国民や政党は被害者という宣伝に便乗し・・またもや時の権力に媚びへつらって「国民や政治家が軍部や権力の弾圧によって窒息させられた」・・・「軍部や治安維持法が悪い」と宣伝してメデイア・言論界が被害者意識強調ばかりしてきました。
挙句に「戦犯批判・靖国合祀を許せない」と中韓まで応援団に引き込んで国民分断作戦に肩入れしてきたのが左翼や文化人です。
今の慰安婦騒動に限らず日本の国難は戦前から今まで、ずっと野党とメデイアの二人三脚プラス軍部や外部勢力引き込みで育て上げてきたものばかりです。
軍部を育てて言論を窒素させて行ったのは野党政治家とこれを応援するメデイアそのものだったことを今日まで見てきました。
戦後ずっと、メデイアの宣伝にさらされている国民の多くが、メデイア界も政治家も戦前権力による被害者だったかな?と誤解している人が多いでしょうが、逆に彼らのほうが弾圧を煽っていた張本人でした。
政府権力者(滝川事件でも背後で就職先を世話するなど尽力していた西園寺公望)の方が、如何にして政党政治を守り育てるかに腐心していた・肝心の民意無視で形式的な政権交代に重きをおいた)様子を紹介します。
簡略にみるには以下の記事が重宝です。
https://hosokawa18.exblog.jp/20192131/
戦前の政党政治はなぜ終焉したか
・・・昭和になってからは 「西園寺公望」 しか元老がいませんでしたから、
昭和における首相は全てこの男一人の手によって決められたのでした。
西園寺は 「政友会」 と 「民政党(憲政会)」 から交互に首相を奏薦します。
若槻礼次郎(憲政会)が金融恐慌の処理にミスって退陣したら、その次は田中義一(政友会)。
田中義一が張作霖爆殺事件で昭和天皇の勘気に触れて総辞職すると、次は浜口雄幸(民政党)。
浜口雄幸がテロによって倒れると、その次は若槻礼次郎(民政党)。
若槻礼次郎が満州事変の処理を巡り総辞職に追い込まれると、その次に首相に奏薦されたのが犬養毅(政友会)。これが 「憲政の常道」 たる 「西園寺ルール」 ですが、首相がテロで倒れた場合は政権交代させてません。
さもないと暗殺合戦が始まっちゃいます。
浜口首相がテロで倒れた後、首相に奏薦されたのは同じ 「民政党」 の若槻礼次郎でした。
このルールでいくと、次の首相は新しく政友会の総裁となった 「鈴木喜三郎」。
鈴木喜三郎もその気マンマンで、首相になる準備を始めています。
しかし西園寺は 「海軍出身」 の斉藤実を次期首相に奏薦。
これで戦前の政党内閣は終わりを告げたのでした。
つまり戦前の政党内閣が終焉した原因。それは・・・
「西園寺が鈴木喜三郎を首相に奏薦しなかったから」
この一言に尽きます。
なぜ西園寺は 「鈴木喜三郎」 を首相にしなかったのでしょうか。
まず 「政友会」 と 「民政党」 の抗争が激しすぎたコトが挙げられるでしょう。
国内・国外で問題が山積みなのに、とにかく彼らは党利党略が優先。帝国議会はお互いのスキャンダル暴露合戦と化しており、日本にとって害を及ぼすレベルにまで来ていました。
そして 「政友会」 があまりにも親軍的な政党と化していたコトも問題でした。
犬養首相は 「憲政の神様」 と呼ばれただけあって、党内のこうした勢力を抑えていたのですが、鈴木喜三郎は親軍派の代表的な人物であり、むしろ軍部よりも強硬意見の持ち主。
「こんなヤツを首相にしたら、日本がファシズム化しかねない」
それに比べて 「斉藤実」 は海軍出身ではありましたが、穏健で常識的な人。
「政党は平和で、海軍は戦争」
決してそんなコトはありません。
この場合は鈴木よりも斉藤を首相にした方が平和を望めたのでした。
天皇機関説事件でも紹介しましたが、政府会は政敵を攻撃するために時の政府が機関説を支持していることを攻撃し政党政治の理論的支柱である天皇機関説を潰す方を選んだのです。
以上紹介して来たように、社会党や民進党が政策論なしに政権や大臣の揚げ足取りに終始する体質は、戦前政党の悪しき系譜・DNAを引きずっていることがわかります。