5月11日に書いたように大和朝廷成立前と違い隣の領域との争い・・国内戦自体がなくなって来たので公式武力の必要性が各地領域内ではなくなっていた・・形式化していたものの、他方で新田開発の多発によって領域内の私荘園が発達して来て、この荘園同士の争いが起きてきます。
・・耕地が広がるに連れて水利権その他争いの種は尽きなかったでしょう・・
郡と郡の大きな争いよりは、郡内のマイナーな争い中心の時代になるとその長としての(軍事力を背景とした)調整能力が問われるようになってきます。
この過程で、信望を集めて地歩を固める郡司と逆に信用を失い領内の別のリーダーに信望を奪われるケースも出て来る筈です。
こうして、元は郡司でも何でもない新興武力集団が桓武平氏系統や清和源氏系統の地方に下った人材に接近して行く素地が生まれ、中央直結武士団が次第に地方で地歩を固めて行くのです。
藤原氏の政権独占がつつくと将来に希望のない皇族も臣下に降下して却って、地方に根を下ろして新しい生き方を求めようとなって行きます。
双方の思惑が交わって源平等の武家の棟梁が地歩を築いて行きます。
701年頃大宝律令を施行してから、約230年以上経過した承平天慶の乱の頃には、古代豪族の私兵がそのまま活躍出来る時代ではなく、新たな武士層として進化したものしか活躍出来なくなっていたことになります。
古代勢力が時代に合わせて変身しない限り一掃されていたことから見れば、律令制導入の結果かどうかは別としてこの時期の国内統一政策・・中央集権か政策の試みによって、一旦(と言っても230年以上も定着していれば充分な成功です)は古代豪族がそのままでは力を落として行った結果になっていたと見るべきでしょう。
日本のマスコミその他教養人はいつも日本は大変だ大変だなどと被害妄想的宣伝が好きですが、(最近ではデフレで何が悪い?のテーマで書いたことがあります)200年以上後に中央集権体制が徐々にほころびが出て来たからと言って失敗だったとは言えないでしょう。
中央集権化・・王朝化が進むと政治的駆け引き能力の巧拙で勢力の浮沈が決まって行きますので、藤原氏以外の中級貴族がたまに昇進すると応天門の変(貞観8年(866年))で大伴氏の末裔伴(大納言)が没落しますし、その後右大臣まで昇進した菅原道真も、延喜元年(901年)に失脚します。
彼も古代士族で知られている土師(はじ)氏の系列で、中級貴族として生き残っていましたが、祖父の代に土師氏から菅原氏に改氏したもので道真の母は古代豪族で知られる大伴氏の系列でした。
政争の繰り返しの結果、上級貴族は藤原氏でも北家一系統だけ・・道長の時代には藤原一門内政争に変化して行くようになっていました。
地方で荘園自衛のための武士団が成長してくると、国府の権威によって武士団を実動部隊として利用するようになって行ったし、他方で国司としての荘園はないので自前の兵を充実させる必要がなかったとも言えます。
これは国全体の軍事力としても同じで、前九年の役(1051年)から安倍氏滅亡1062年まで)以降すべて大規模な征討軍自体、源平などの軍事統率力を利用して恩賞目当てに地元武士団が参加する・・一種の傭兵隊を利用して行くものに変わって行くのです。
(これに先立つ承平天慶の乱(承平5年・935年〜天慶2年・939年)でも、結局は地方軍事力で解決しています。)
平将門による国府襲撃を見ると地方の実動部隊化している武士団が国府の権威を無視した攻撃をすると国府軍は簡単に負けてしまう脆弱なものでした。
国府はせいぜい警備員程度の武力しか持っていなかったからです。
中央で見ると藤原氏などが源氏の武力を利用していただけで自分の屋敷を自前の武力で守っていなかったのと同じです。