政治の世界も言うだけではなく、政策実現には多くの関係者を動かすに足る相応のプロの能力が必要ですから、互角の政治力のあるもの同士で選挙戦を戦うこととこそが選挙制度のあるべき姿です。
政治力が互角とした場合・・ドングリの背比べの中から、どの方向の政治をする予定かを国民が選挙で知り、気に入った方を選ぶのは民意重視・重要です。
言わば、5段階のテストがあって、最後の決勝戦はこれらを勝ち抜いた一定の実務能力がある前提の人だけが参加する選挙は、実務能力=公約実現能力がある前提で「やりたい方向性」だけ述べれば良い決勝戦です。
本来決勝戦は実務実現能力がある前提ですから、(日本では、利害調整が済んでから発表するのが普通です)候補者がこの方向でやると言えば実現出来る前提で主張しているとみんなが期待してしまいます。
繰り返しますが、鳩山氏の「少なくとも県外へ」の主張がまさか実現出来ないカラ鉄砲とは思わずに投票した人は、民主党への信頼を裏切られてしまいました。
ヤンバダム反対運動も民主党が政権をとると一旦中止を表明しましたが、紆余曲折の結果遂に再実施になった・・・一時停止したので時間の浪費とコストアップになっ終わりましたが、結果的に何だったのが問われねばなりません。
利害調整を経た民意の代弁ではなかったからイザ実行しようとなってからの利害調整のやり直しでは、何も出来ない結果に終わるのです。
築地市場移転反対論者がいたでしょうが、移転の動きが具体的に動き出してから歯車の逆回転をするのは大変・・白紙状態で意見を決めるときに比べて何倍もの反対エネルギーがいります。
権力さえあれば何で出来ると言う権力行政信奉者であってこそ、簡単にやりなおし宣言を出来るのでしょう。
嘘つきほど相手を直ぐに嘘つきと言うように、エリートの集まりで自分が民意を汲み取っていないから民主党と言うのかも知れません。
民主党が政権を握ってみると原発事故対応を巡って菅総理の実務能力不足が指摘されていましたが、いろんな場面で利害調整無視の強権的発言が多過ぎた・・実務能力不足・民主党の党内勝ち抜き戦のレベルが低過ぎる・党内序列・・幹部になって行く過程が予選としての機能を果たしていないことが分りました。
政策実現する実務力がない場合マトモな提案も出来ないので、必然的に何でも「反対または政府批判やこんなことが許されるのか!」と言う程度の思わせぶり質疑をするしかない・・前向き提案が出来なくなって行くしかないのでしょう。
これでは政党ではなく、オンブズマン集団と変わりません。
私の司法試験受験時の口頭試問では、各科目共に禅問答のような応答で終わったのを覚えていますが、大先生が「キミそれで良いんだよ!と言われて合格しましたが、前提になる実務的細かい試験に合格していた前提があるからです。
実務的能力試験を通過している以上は、あとは価値観が狂っていないかどうかだけ判断すれば良かったのではないかと言えます。
芸術家トップクラスになると人格や哲学的立場がないと行き詰まり苦しむことが知られていますが、この逆に着実な技術修得がなく、発想や着眼力さえあればその気持ちどおりに作品で表現出来ることはありません。
作家でも映画監督でも一定の訓練を経てからデビューするものです。
政治で言えば、この最終決戦に予選や地区大会等の実務テストを経ない・・政治経験のない人がマスメデイアの応援で突如出馬して大量得票を得るパターンが、美濃部都知事〜青島氏や石原氏以降続いていました。
青島氏などは全て実務官僚のナスがままで、何ら個性的政策実現が出来ないで都庁を去ったと評価されています。
官僚上がりの市長や都知事では代わり映えしない・・「アメリカ式素人政治が良い」とマスメデイアが応援したのですが、却って素人政治家は何も分らないので事務方の言うがママになっていたことになります。
行政に精通した官僚上がり政治家の方がトップになったときに自分が役人であったときに実現出来なかった抱負を実践する意欲がある・・新機軸を出す抱負を語る場合必要な実務に精通しているので、本当にやれる限度の改革提案になるのは当然ですが、(使い慣れた部下も一杯いるし)実際に手堅く実行するのが普通です。
青島氏や石原氏は(実務が分らないので?)殆ど都庁へ出勤しなかったと言われています。
日本の野党はこの辺を誤解している・・政治には能力不要・理念さえ高邁な理念さえ主張すれば良いと思っているから、日本の野党がいつでもうまく行かないのです。
評論家と実務家は違うのですから、地道に政治訓練を経て一人前に・・廻りを動かせるようになってから、自分はこうしたいと言うべきでしょう。
組織の人材抜擢に当たって、AB比較する場合の基準としてAとBどちらの方が廻りが骨身を惜しまず動くか、動かないかが人望が重視されることが多い・政治家選抜はまさにその点を最重視すべき分野です。
高名な美術評論家がそのとおりの絵画や音楽を創作出来るわけがないのと同じです。
民主主義などと言う頭でっかちな観念論以前に、我が国では古代から時間のかかるボトムアップ方式でやって来ましたし、その代わり一旦決めればみんなが守るしみんなが実行に協力する優れた方式です。
ボトムアップに長く参加して実務訓練を受けているうちに、まとめる能力のある有能な人は自然に頭角を表して来ます。
民主主義と言うスローガンよりは、民族共同体にある多様な利害調整を経て決めて行く・・正義を造り上げる過程が重要です。
社会党やその流れを汲む民進党は、「人権を守れ」などのスローガンで満足してしまい、具体的意見吸収経験を欠いているエリート意識が災いしているので、実務上出来ないことをスローガンを掲げてしまう傾向があります。
地に着かない頭でっかちな西欧の人権思想のいびつな応用が捕鯨反対運動に典型的に現れていますが、(曰く「クジラはほ乳動物だから捕獲を許さない」と言うのですがこの馬鹿さ加減に日本人の多くが絶句するでしょう)観念論を上から普及するとこう言うバカな結果になる典型です。
アメリカでは国内利害調整シテ政治をするほどの民度に至っていない・・庶民に言いたいことを言わせると収拾のつかないレベル・・まだうまく行かないので意見調整しなくても良いように専断的な効力のある大統領令が発達して来たのですが、これをもっと大変な筈の対外的政治にもそのまま適応して来たのがアメリカの歴史です。
ペリー来航でも分るようにモノの進め方は強引そのもので、このやり方のママ現在に至っています。
アメリカが対外的に(根回し不足のまま)無茶を要求していても行き詰まらなかったのは、いつも戦争で勝っては自己の未熟な正義を押し付けても(相手が)ばかばかしいと思っても腕力に優るアメリカに世界が従うしかなかったことによります。
アメリカの国力低下に比例して無理が利かなくなって徐々に多角交渉に頼るしかなくなったのですが、ニクソンショック頃にはまだ圧倒的国力を背景に議事主導権を握れましたが、国力低下に伴い徐々に思うように行かなくなって行きます。
基本的に1対1の一方的取引〜国力背景の主導権を握る交渉経験しかないアメリカにとってはクリントン〜オバマ以降うまく行かなくなったことに対する(国民の鬱積したストレス)鬱憤ばらしがトランプ旋風の下地です。
トランプ氏及びその支持層が最強国だったときの1対1の取り引き外交に戻りたいのは、願望としては自然の成り行きですが、選挙戦で
は願望だけで勝てても実際の政治が単純願望どおりに出来る筈がありません。