政治家と専門家の役割相違2

サンフランシスコ等の入港拒否の住民運動の理由として、入港後乗客が港湾周辺を自由に歩き回るのでは住民が不安を感じるのが当然ですが、非合理な運動だと一蹴して入港→下船を強行するか、住民不安に応えて下船と同時にチャーターしたバスで医療機関や隔離施設一括搬送するなどの手順を示して港周辺の人が心配するような事態が起きないとの説明を丁寧にするか、地元住民の運動を恐れて入港拒否するかは政治家の判断分野dです。
サンフランシスコでは地元州政府が、地元民の声に押されて入港拒否したものの「よそへ行ってくれ」というのではなく、4〜5日経過で漸くすぐ近くの反対の少ない港への寄港を実現できたようです。
感染拡大放置による死者より、不景気拡大による死者の方が多くなるかの判断(ブラジル大統領やトランプ氏はその種の意見のようです)・・その中間のロックダウン方式をとるにしてもどの時点で行うか?どの地域に限定するかどの程度厳しくするかなども政治家の判断領域です。
判断ミスか否かは結果で見るべきで、政治家が政治責任をとることです。
今回の日本政府に対する批判論の基本は専門家(と言っても米国CDCルールに反しているという形式論中心だったように思われます)の立場から現場対応を批判するものだったように見えます。
政治家は結果で評価すべきです。
(これまで書いてきたように例えばNHKニュースはどういう批判かを書かずに「外国で批判が大きい」といい、外国報道機関の方は「日本国内で感染症専門家から批判の声が上がっている」というキャッチボール形式で波紋を広げる方法で、何が批判されているのか?素人には分かりにくい報道の仕方でした。
結局具体的に紹介されていたのは岩田健太郎氏のツイッターと東洋経済のインタビュー記事が基本・・感染症の専門外の官僚が・・これが世界を駆け巡る批判論の根拠になっているらしいということです。
クルーズ船批判論が火を噴いた頃には、「専門知を大切にすべきだ素人集団が決めているのはおかしい」という専門家重視論のイメージでの政権批判報道が多かったような印象でした。
このメデイアの論調に火をつけた?のが岩田氏のツイッターだったように思われます。
直後の3月12日には米国式 統括機関創設を求める学会有志?の共同声明が発表されていたことを6月20日に紹介しました。
世の中専門家の言う通りで良いなら経済政策は経済学者の言う通りで良い筈ですが、そんな主張をする意見は皆無でしょう。
社会運営は一定の論理に支えられながらも利害対立の調整にあるのですから、「実験室の結果で良い」政治など、どの分野にもありません。
新型コロナにかかっているかの判定やその場合の治療方法は専門家に委ねる分野であって政治家は「あいつは嫌いだから、治療するな」と言うことは許されません。
緊急事態宣言の前提事実として、感染がどのくらい進んでいるか、ICUに入った患者の生還率はどのくらいかなどの具体的問題点などは専門家の意見を聞くべきでしょうが、一定の事態が間近に迫っているとしてもロックダウンすべきか日本のように自粛要請で足りるか・・自粛要請にどの程度応じる国民性かの判断は政治家が決める領分です。
自粛を求める産業分野とその効果も専門家が詳しいでしょうが、国民意識のありように合わせて、総合的に見てどの業界を優先するべきかなどは政治家が責任を持って決めていくべきでしょう。
原子力発電やリニアモーターカーの必要性等は科学者が最終決定すべきではなく、政治責任を取れる政治が決めるべきものです。
6月26日リニアモーターカーの工事着工に対して静岡県知事とJR東海とのトップ会談で知事側が工事に必要な準備工事にさえ同意しなかったので、2027年の開通は不可能という報道が出ていました。
問題はトンネル工事によって地下水の流れが変わることに対する反対らしいのですが、その決着は専門家の分析を待つことになったらしいです。
以上を見ると専門家が決めるかのように見えますが、政治家が争点を専門家の決める専門的意見次第と論争の場を限定したことによるものです。
例えば宇宙物理学等では巨大な実験設備があったほうがいいでしょうが、国の経済力から総合して日本が保有する必要があるかは、政治家が決めることです。
PCRの大量検査能力維持、ICUあるいは体外人工呼吸器(クオモ)などの備蓄が多いほうが良いとしてもコロナのような伝染病のために毎年大量のICU設備や訓練された運営要員をどの程度抱え込んでおくのが合理的かは政治が考えることです。
当たり前のことを無視して、メデイアが政権批判していた・・この結果政治妥協の経験のない研究者が決定の矢面に立つような変な結果になって研究者を苦しめていたようです。
神戸大学岩田健太郎教授に関する3月8日現在のウイキペデイアです。

2008年 – 神戸大学大学院医学研究科教授(微生物感染症学講座感染治療学分野)、同大学医学部附属病院感染症内科診療科長[1][2][
2020年2月18日 – 2019新型コロナウイルスの集団感染が発生しているクルーズ客船 ダイヤモンドプリンセスに乗船[4]。自身のYou tubeサイト上にて、「ダイヤモンド・プリンセスはCOVID-19製造機。感染対策は悲惨な状態で、アフリカのそれより悪く、感染対策のプロは意思決定に全く参与できず、素人の厚労省官僚が意思決定をしており、船内から感染者が大量に発生するのは当然と発言したものの、翌20日には乗船に関し助言した医師に事実誤認を指摘され、削除した[5][6

6月16日現在のウイキペデイアでは、箇条書きの経歴部分のみで上記部分は以下の通り変更されています。https://mainichi.jp/articles/20200219/k00/00m/010/097000cには(削除前のツイッターかな?)具体的指摘事実が出ていますので引用しておきます。

岩田氏の説明によると、厚生労働省の協力を得て、災害派遣医療チーム(DMAT)の一員として18日に乗船した。18日夕方に下船後、動画投稿サイトで「ウイルスが全くない安全なグリーンゾーンと、ウイルスがいるかもしれない危ないレッドゾーンが、ぐちゃぐちゃになっていて、どこが危なくて、どこが危なくないのか全く区別がつかない」「熱のある方が自分の部屋から出て、歩いて医務室に行っている」「感染症のプロだったら、あんな環境に行ったら、ものすごく怖くてしょうがない」などと訴えた。

この事実指摘自体は当然で元々客船には感染者と何日か前に感染しているがまだ陽性にならない潜伏中の患者などが入り乱れているから、そういう仕分けのために検疫官が乗り込んでいく過程では、誰が感染者かすらまだ区分けできていない状態です。
そもそも気の利いた企業であれば、香港から横浜に着くまでの間に発症者が出たのであれば、日本の係官が乗船する前に隔離くらいしておくべきだったでしょうが、前夜までパーテイをしていたというのですから多分何もしないで従来通りビュッフェなどで大勢一緒に食事をしていたのでしょうか?
3711人にも及ぶ人数の検査・・検体摂取だけでも瞬時に終わるわけでなく、検体採取を経て順次検査機関へ搬送先では1検体ごとに手作業による培養作業が行われ一定の培養時間経過後プロによる読みとり作業を経て判定していくので(最近ではこのプロセスが自動化されていると言う意見もありますが、当時の説明)その間の未判定期間があります。
検体採取後即時に陽性陰性が判別するわけでなく、その間誰が陽性かも不明です。
しかも結果が一斉に出るわけでなく、陽性者が数人〜10人づつ順次結果が出るつど船内の空室に移動してもらうとしても、最初のうちは未検査の人の方が多いのですからどこの船室の前の廊下が安全かなどの区分けできている訳がないと素人としては思いますが・・。

報道機関の役割(政治家と専門家の役割相違)1

以下に紹介するフロリダの入港拒否の内容を見ると受け入れるとしても、フロリダ州民以外の下船・治療を認めないという自分勝手なものでした。
日本のクルーズ船対応ではそういうことを言わず、世界中の人たちの治療を最後まで見ていました。
日本では、強力指導力発揮する余地がない社会なのに、強力な司令塔設置要求・・低レベル社会で必要な米国基準を持ち込んでその通りやらないと批判すること自体がおかしいのです。
米国内で発生している多くのクルーズ船の結末を、日本メデイア(都合が悪くなったから?)は一切報道していません。
NHKをはじめとして日本メデイアが米国で日本政府が批判されているとして、鬼の首でも取ったように日本政府対応批判キャンペインを張っていたのを6月21日頃のコラムで引用しましたが、メデイアが客観状況の報道でなく政府批判という特定目的をまず設定しその方向でしか報道しない傾向があるように見えるのは問題です。
NHKに言わせれば、批判内容が不明だが、ともかく米国で批判報道が広がっているという客観事実のみを報道しているという言い訳が成り立ちそうです。
この論法は、朝日の慰安婦報道が世界に広まり、それが事実確認無しに既定事実になっていったのと同じ方式です。
報道機関が報道している場合は、それは事実であるかのようなすり替えがある・報道内容の吟味を経ないで大手が一旦流すとそれが事実のように国外メデイアもそのまま報道するあんちょこな姿勢があり、日本メデイアはそれは日本発の報道転載でしかないこと報道せずに「海外で日本やり方が批判されている」と抽象的報道する・・キャッチボールされる仕組みになっている恐ろしさです。
今回は1ヶ月後にほぼ同じ事例が米国で起きたので必然的に比較対照報道された結果、日本に対する誹謗中傷が止みました。
日本国内での安倍政権批判も根拠を失い静かになり続いて検察官定年延長問題に移りました。
その後のクルーズ船の動きや感染結果等が不明なので日付で新しそうな日付のネット記事を探して見るとせいぜい以下のような報道しかありません。
https://news.yahoo.co.jp/byline/abekasumi/20200402-00171007/

まだあったクルーズ船問題!4人死亡、感染者多数?の米ザーンダム号 フロリダから受け入れ拒否
安部かすみ
ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

上記によると(転載禁止と書いてあるので引用できませんが)米国籍・米国企業運営のクルーズ船なのに入港反対ということらしいです。
CDCが如何に強力な権限を持っていても、船の入港下船が地元政府反対で洋上漂流になるとどうにもなりません。
この点は6月29日に書いた通り中央政府が強力な権限をCDCに与えてもどうにもならないのが現在の民主主義国家です。
クルーズ船入港を認めるか下船させるか、緊急事態宣言するか、どの程度の外出規制するか等々の決定は専門家が決める領域でなく政治判断であると書いてきましたが、
日本のコロナ対応も専門家と政治家の役割分担の理念そのものの議論が、この1週間で表面化してきました。
https://www.asahi.com/articles/ASN6S7JGBN6SULZU004.html

専門家会議「純粋科学と違う」 自らの役割に苦悩の日々
2020年6月25日 8時00分

新型コロナウイルス対策についての政府の専門家会議のメンバーが24日、組織の見直しを求めた。
権限や責任があいまいなまま、対策や市民の行動変容など積極的な発信をしてきたことに、批判も出ていた。自らを省みた会見のさなか、政府は新たな会議体の立ち上げを発表した。政治と科学の関係はどうあるべきか。他国も模索している。
「感染症対策というのは、実験室の学問や純粋科学とは違う」。24日夕。日本記者クラブ(東京)で会見した専門家会議の尾身茂副座長はそう述べ、新型コロナ対策の難しさの背景を語った。
感染の拡大防止には人々の行動を変えることが必要になる。誰がどうお願いするか。元々医学的見地から助言するのが目的だった専門家会議は、権限と責任に法的根拠はなかったが、積極的な発信を続けた。迅速に対策を伝えないと、国内で感染が爆発的に広まるとの危機感が、メンバーに高まったためだ。
会見で、脇田隆字座長は前のめりになった理由を「(政府の)諮問に答えるだけでなく、対策をとる必要があると考えた」と語った。

専門家はこれまで学問上判明している限度の説明をすれば良いのであって、(諮問に答えるだけ)それを踏まえてどのような対策を取るかは政治家の分野です。
まして日本の場合、国立感染症研究所の所長・文字通りウイルスなどを顕微鏡で覗く実験が本業の人たちであり、行政機関ではありませんので、利害調節的判断=政治決断するのは畑違いすぎて苦悩の日々だったということでしょうか?

政治家は発言を抑制すべきか?4(女性プロレスラーと炎上)

政治家は国民の負託を受けて政治活動するのが職責である以上、国会や市議会外でも意見を求められれば、抑制どころか自己責任覚悟で述べるのは職責でしょう。
8月28日の安倍総理辞任表明により、自民党総裁候補が出揃ったところですが、発言抑制どころかどのような日本にしていきたいのか自己アッピールして国民理解を求めるべきが当然です。
一般人は説明責任のないことには、原則として発言を求められることはありませんが、発言する以上は責任を伴う点は同じです。
政治家と一般私人の違いは、発言の影響力の違いによって慮る利害の範囲が違うので政治家の方がより慎重にする必要があると言う効果の違いでしかないでしょう。
大声で話すときとひそひそ話とでは会話内容に違いがあるのは、多くの人に聞かれて良いことか?周囲に迷惑をかけていないか注意するのと同じ・・自己を守る知恵を働かす範囲の違いです。
女性プロレスラーの言動が炎上して自殺した事件があり、一人一人のチョットしたツイッターでも数になると巨大な影響力を持つので批判意見を遠慮すべきかのような解説を読んだことがあります。
しかし、巨大な視聴者相手に影響力を与える言動をすれば、影響を受ける数に比例したプラスマイナスの反応があるのが当たり前ではないでしょうか?
どういう言動で批判が殺到したのか関心がないので、ニュース表題しか読んでいないので内容不明ですが、世の中には不満タラタラで何かきっかけがあれば、衆を恃んで不満をぶっつけたい有象無象がひしめいているので、気をつけるべきという教訓でもあるでしょうが、多くの人に発信すれば、良い反応も悪しき反応も受信者の数に比例することになります。
内輪の会合で述べた会話が漏れたのと、初めっから数百万以上の視聴者相手に述べるのとでは反応力が違う筈です。
以下には母親の主張は記載されていませんが、大方の流れは紹介されています。
女性プロレスラーの母親?の主張は「テレビ局の振り付けどおりにしていただけなのになんで娘が批判されるのか!」という主張だった記憶です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8618e08e8dd1e2b57b67a4bf61f7c8e922ae5195
映画で悪役(強盗や詐欺師など)を務めたからと言って俳優個人が非難されたり、警察に逮捕されるとなれば、母親の意見も一理ありますが、彼女の場合俳優としての演技ではなく、個人キャラとしての発言である以上(名誉毀損発言すれば個人が被告として訴えられる)個人が責任を負うべき・火の粉の対象になるのは当然です。
軍隊前線の指揮官(突撃隊長)になれば、いやいや就任したのであろうとも、職を引き受けた以上は敵の標的にされるのは当然の報いです。
社会党が別働隊としての社青同を育成し、共産党は民青を育成したように大手メデイアは世論誘導意欲が強いものの直接批判を避けるために自社意見代弁者として火の粉をかぶる鉄砲玉役・・とんがった発言者の演技をできる若者を育てていつでも切れるようにしておく・・外注役(ジャーナリスト)として養成し、使い捨て駒を利用するようになっている現状を表しています。
不自由展の主役になったのも朝日新聞そのものではなく、独立したジャーナリスト津田氏であり朝日新聞は第三者のごとく、これの擁護意見を発表しています。
大手の振り付けの場合、一見とんがった意見のようでいて炎上しないスレスレのとんがった発言を工夫して世論反応を試すものでしょうから、事前にかなり練り込まれた発言になっているので「そこまで言って委員会」などの長寿番組が存在できているのでしょう。
専門家としてあるテーマで出演する場合でも専門家として、自分の属している会議の模様などをどこまで話して良いかの事前の心の準備が必要ですが、いろんな分野で日々生起する新たな現象に対してリアルタイム的な話題(昨日出たばかりのニュースに対する話題など)がテーマになるバラエテイ番組等の出演者にとっては、突発事態に対して以前から個人的主張(一家言)を持っていたとしても、以前から思っていたことをどのように発言するかによってその及ぶ範囲に対するリスクに思いを巡らしたことがないのが普通です。
急遽検討するには時間不足ですし、まして以前から関心を持っていなかったニュースに関して「明日の話題に出ますので準備してください」程度の情報では、ありとあらゆる話題にそつなく応答できる人は稀です。
結果的に明日朝の番組での話題・テーマにすることを決めた局のスタッフが、ABCの3方向で議論するとした場合「誰がA方向の議論で口火を切ると誰がB方向で受ける」」など配役を決めるとすぐに手分けしてその発言内容の吟味・・どこまで踏み込んで発言しても炎上しないかの綿密なチェック体制を前提にして、出演タレントとしては安心して(〇〇がこういう発言をするのでその時に)「このように発言してください」と指示される通りすることで即応性のある番組になっているので、際どいところまで言い切っているように見えても滅多に炎上しないのではないでしょうか?
ところが、映画のように一言一句までの指示がない・・(台本を読み込MUリハーサル時間がないので)骨格以外はアドリブに委ねられる余地が多いので個人的思い込みで言いすぎたりやりすぎるとリスクが大きくなります。
このアドリブの境界で名誉毀損その他の炎上が起きるのでしょう。
女子プロレスラー木村花さんのテレビでの言動が炎上したのは、テレビ局のシナリオが不適切だったのかアドリブが行き過ぎたのかも不明ですが、この協会で起きたことではないでしょうか?
普段テレビ局の振り付けどおりそつなく(アドリブ)発言していた「みのもんた氏」の発言を視聴者が同氏の個性のように誤解して?いただけでなく、みのもんた氏自身が、自分が偉くなったように錯覚したのか、熊本地震の時にテレビ局の振り付け(際どい発言に対するリスク管理)のない個人意見を書いて大恥をかいて?そのままテレビ界から姿を消した(表向きの理由はいろいろあるでしょうが)イメージです。
https://www.asagei.com/excerpt/56988
Posted on 2016年4月21日 17:58

ネットを舐めてた?みのもんたの上から目線な「熊本地震つぶやき」に批判殺到

みのもんたが4月20日に開設した公式ツイッターが大炎上している。初投稿は「早く飲みたいね!打ち上げまであと何時間?」と能天気そのもの。しかし、その後の「俺なんかの役目はね、広めること。今回の震災もね、熊本だけじゃなくて九州全体だから。支援のやり方も甘い。自衛隊きちんとして欲しいね。あと、過去の震災、阪神淡路、もっと遡れば関東大震災の教訓活かせてないでしょ?‥‥みたいにTVではちょっと言いづらいことも、ここでは言いたいね」という2度目のつぶやきで炎上。手が付けられない状況が続いている。
「みのの過去のハラスメントが不問にされたことについて揶揄したり、現地に行かず、言いたい放題の上から目線な態度、自衛隊をバカにしたような発言についても批判が殺到しています」(芸能ライター)

炎上パターンは、日頃テレビ局の言いたい本音を99%体現しながら、ギリギリ批判の手がかりを与えないように細心の注意を払っているので、テレビ発言の誘導方向に不満な視聴者に不満を言わせない・つけ込む隙を見出せない不満な視聴者がいっぱい発生している時に、ちょっと一線を超えた発言をした時にいいがかり的な炎上が起きるようです。
女性プロレスラーの場合何が炎上したのか知りませんが、普段の発言に不満を持つ人がそれだけ多かったということでしょうか。

政治家は発言を抑制すべきか?3(石垣議員発言)

そもそも、許可権を持つ県知事が許可を受ける申請者側・主催者組織のトップを務める組織構造自体がおかしな方式です。
公然たる組織で利益相反の関係など普通はあり得ないのですが、今回は異例すぎて一般の外野では受けとめるのに混乱した面があるでしょう。
私は県知事が実行員会委員長と紹介されていたので、県直営行事の実行委員会かと誤解していたのですが、県主催ではなさそう・独立の主催団体のようですので、代表者が同一の場合利害相反関係が問題になるのが普通ですが、そこは公務員ですので、相応のクリアーをしているのでしょう。
ウイキペデイアに19年の予算が出ていませんが、10年の第1回目の予算は以下の通りです。

第1回トリエンナーレは、2010年開催に向けて準備が進められていたが、2008年秋ごろからのトヨタショックなどにともなう県内の景気後退を受けて、2009年度予算編成では3億1800万円の予算要求のうち4割がカットされる事態となった[7]。2009年3月6日、愛知県議会は総事業費を従来から3割削減した13億8000万円とし、愛知県が8億5000万円、名古屋市が2億8000万円、残りを事業収入で賄うとする議案を可決した[8]。

これだけ巨額予算→公費を出す相手代表者が知事と兼任とはおかしなものではないでしょうか?
仮に不許可処分に対する不服申し立てや、処分取消訴訟をすることになると双方代表者が同じという奇妙な訴訟になるのでしょうか?
実際名古屋市の分担金未払いに対して実行委員会名(原告という意味?)で訴訟提起したと報道されています。
アイチトリエンナーレに対するウイキペデイアの一部引用です。

あいちトリエンナーレ芸術祭実行委員会は5月21日、名古屋市を相手取り3,380万円の支払いを求めて名古屋地裁に提訴した[226]

これが愛知県が不払いであれば、大村知事を相手の大村委員長が訴えることになるのか?というおかしさ?です。
このような不透明な関係があって外野の私などちょっとした合間にちらっとニュースを見ている程度では、知事が不自由展を中止したニュースを見ると権力行使としての中止か主催者の自粛か曖昧なままなんとなく見ていたものでした。
ウイキペデイアでみると実行委員会会長としての中止ですので、主催者側の自発的中止という解釈になるのでしょうか?
名古屋市長に今回の不自由展に対するどのような権力があったのか不明ですが(市の施設を貸しているのかな?)トリエンナーレ全体では、市美術館も会場になっているようですが、トリエンナーレ自体は大規模なイベントで「不自由展」はその一部らしいので市美術館はその会場ではなさそうですが、これもぱっと見た目あるいはニュース程度でははっきりしません。
津田氏が、「権力行使できる立場の政治家」と正確に発言せずに「政治家は表現の自由に対して権力行使できる立場にあり」と逆転した複雑表現をしたのは、河村市長には不自由展会場になっている県施設許可権限がないのを知っていたからあえて如何にも権力行使出来そうなイメージの主張にしたのではないのでしょうか?
政治家には総理大臣も愛知県知事も含まれるから間違いでないと言いだしたら、国民には総理大臣も含まれるから国民は権力行使者に含まれることになり、国民は全て発言抑制すべきことになります。
「総理や知事は政治家だ、だから政治家は権力がある」というのは「逆は真ならず」の典型的まやかし表現です。
政治家には市町村議とその落選中や新規立候補準備中も含めれば膨大な裾野を持っていますが、権力行使できるような職についている政治家は限定されていて「行使する権限のない政治家」の方が多いので、「政治家」というだけで発言を抑制しろというのは論理飛躍があります。
政治家は言論によって政治を動かし、次の選挙での支持を増やしていくのが職業であり、その発言によるマイナス効果もあるが、リスクを恐れず自己責任で発言すべき職業であって、政治家だから発言抑制せよという主張は政治家と権力の違いをすり替える一種のごまかし論法ではないでしょうか?
8月28日の安倍総理の辞任発表に対して、立憲民主党の石垣議員が、ツイッターで難病を抱えているものが総理にする自民党の責任だと批判したことで大問題になり立憲民主党自体が謝罪する事態になりました。
石垣議員は発言を抑制すべきだったのでしょうか?
国民の負託を受けて政治活動する以上は、政治意見を必要に応じて発信すべきであって責任を取るのが嫌だからと発言を抑制するくらいなら政治家をやめるべきでしょう。
発言に責任が伴うので責任を負えるように覚悟して発言すべきというだけで、政治家も個人も発言には責任をとなう原則は同じ・・自己責任をとる覚悟で発言すべきと点では同じです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200829/k10012589761000.html

2020年8月29日 0時58分安倍首相 辞任へ
安倍総理大臣の辞任表明をめぐって、宮城選挙区選出で、立憲民主党の石垣のりこ参議院議員は、みずからのツイッターに、「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物を総理総裁に担ぎ続けてきた自民党の選任責任は厳しく問われるべきです」と投稿しました。
その後、SNS上には「病気と闘っている人への侮辱だ」などという批判の書き込みが相次ぎました。
これを受けて、枝野代表が、自身のツイッターで、「申し訳ありません。執行部として不適切であるという認識を伝え、しかるべき対応を求めました」と陳謝し、福山幹事長が石垣氏を呼んで注意したということです。
その後、石垣氏は、同じツイッターで「疾病やそのリスクを抱え、仕事をする人々に対する配慮が足りなかったと反省し、おわびします」と謝罪しました.

石垣議員は発言を抑制すべきだったのでしょうか?
抑制の問題ではなく発言には責任がついて回るから自分の主張していることと党の方針と合致しているかの整合性チェックすべきだったという当然の帰結でしょう。
謝罪しようとしまいと、石垣議員は難病等で困っている人をそのような目で日頃見ている人格がわかってしまった事実は消えません。
日頃から何か攻撃材料があったらその機会に攻撃する目標を探しているような鬱屈した気持ちというか、冷ややかな目というものを感じた人が多かったのではないでしょうか?
いわゆる「とんがった」意見を言えば、とんがっている分不快に感じる人が増えます。
津田氏のようなジャーナリストは、全般的支持不要なので、とんがった発言で国民の0、何%の支持層に訴求できる点では熱烈支持層獲得に便利です。
そういう「とんがった」意見の宣伝のために一般的支持のある作品(多分学芸員が選定したのはそういう無難な作品だったのでしょう)を排除して公費投入すべきかは民主国家の大きなテーマです。
少数意見芸術作品排斥されるべきでないということと、「自由市場ではこういう隘路があって生き残れないので国費等で補助すべき」かは別問題です。

政治家は発言を抑制すべきか?2

施設利用の展示会の場合、一般的意味の権力行使者は、施設使用許可権利者=県知事・・県施設利用の場合〜権限委譲によって下位に移転しているでしょうし、下位職員からの積み上げがないと県知事が直に権限行使できないでしょうが・下位職員に対する任命権や決裁等を通じて法的影響力行使権限が保証されていますが、市長には県施設利用許可に対して(間接的にも)なんらの法的権限もありません。
・・だからこそ河村市長は現場で座り込みするしかなかったのです。
市長が県施設に対する権力行使できる立場でないこと明白ですが、いかにも権力があるかのような表現をするには、市長が、不自由展に関する特殊関係(これが外野の人間には不明です)で何らかの「権力行使」できる特別な立場にあったと言う内情に関するイメージが膨らむような表現です。
この重要部分の説明をしない・・どういう立場で関与していたかを曖昧にしたまま・・「よくわからないが権力構造に絡んでいるのか?」というイメージだけ増幅する発言の疑いがあります。
昨年の騒動時には、私も河村氏氏が不自由展にどのような関与しているか不明であるが県の権力構造関係者のようなイメージで読んでいましたが、その気で読んでみると
報道されているのは「知事が委員長で河村氏が実行員会委員長代行」というだけで、内部的発言力は別として許認可等の外部権力行使できる人としては何の権力も有していないことに気づいた次第です。
実行委員会の仕組みの解説がないまま、

「表現の自由に対して権力行使できる立場」

と表現されているので、そもそも実行委員会が県の組織なのか県組織内でどういう権力を持っていたかすぐ理解できる人がどの程度いたかです。
内部関係の権力関係では、実行委員会がトップでしょうが、芸術監督という中間管理職をおく以上は、具体的演出等については特段の問題が生じない限り芸術監督におおむね委ねるべきはその通りでしょう。
〇〇製作委員会の映画なども、映画の具体的演出内容は映画監督に委ねて細かく口出ししないのと同じです。
しかし本件では実行員会からのクレーム・内部論争ではなく、公費で補助すべき対象か否か・・外部からの批判論争ですので、ここで内部論争の力関係を持ち出しても意味がないはずです。
河村氏が実行員会員として委員会で発言しているのではなく、(実行委員会と芸術監督との対立ではなく)外部の一般政治家として発言しているように見えます。
権力構造の視点で分解してみると、市場相場より安い施設使用許可権(補助決定)・権力行為は、施設管理者が持つものであって実行員会は、施設利用者・主催側の内部組織の頂点に位置する企画・実行委員会のようなもので、具体的実行は監督に委ね報告を聞いて承認する程度の役回りのようです。
内部権限は実行員会の実力次第でどこまで具体的関与するかは決まってくるのでしょうが、何れにせよ施設利用の許可を求める側の内部組織ですから、公的補助を決める政治権力が実行員会にあるわけではありません。
ちなみに、「権力」というコトバも社内権力闘争などいろんな組織内力学をいう場合があります。
個人的感想ですが、私が素人的に知っている感じの意味・・権力の「権」とは「仮の」という意味で理解しています。
(素人の思い込みですが、権現様・・この世に仮に姿を現した神様、権大納言、権帥、権大僧正等々は正式官位でない、仮の地位を表す・今でいえば部課長待遇の〇〇のような官名に使われてきたものと理解しています。)
近代産業革命に並行して発達した物理学の力学概念に便乗して「仮に力学の関係に例えれば」・という意味で政治学で「力」関係に応用して「仮に」表現することになったに過ぎず、どこの分野に応用しても本来間違いではありません。
しかし、津田氏の発言は、不自由展に対する河村氏の批判論に対する反論として

「政治家は、表現の自由に対して権力を行使できる立場であり、もう少し発言は抑制的であるべきだと思います」

と反論した文脈で理解すべきです。
上記は内部発言力の意味ではなく、一見して外部からの政治権力介入を意味していることになりそうです。
しかも「政治家は・・」という無限定な表現でありながらも「表現の自由に対して権力を行使できる立場であり」という表現から、表現の自由に権力行使できる政治家限定の意味も含んでいます。
正確に言えば「・・権力行使できる政治家は・・」というべきところ「政治家であれば全員発言抑制すべき」のような逆張りの表現をしたところが味噌です。
「逆は必ずしも真ならず」と言いますので、政治家であれば権力行使できることにはならないので、訴訟での認定では、「良く読めば分かるはず」となるのでしょうが、ちらっと読む程度の大多数の人にとっては、政治家はこういう発言をしてはいけないのか?という印象を受けるのが普通でしょう。
争点は具体的な「不自由展」に対する論争なのに、「表現自由」という一般論に広げて焦点をボカし、しかも権力を持つ人だけに対する批判を政治家一般に広げた表現にして、いかにも河村氏が表現の自由に対する権力行使しているかのような印象を広める効果を狙ったように見えます。
河村氏が表現の自由展に対してどのような権力も有していないことを知っていたから「・・権力を持つ河村氏という正確な表現をしなかったのではないでしょうか?
組織内権力関係・・ついでに実行委員会な役割に戻しますと、展示方向などを決める委員会(その下に芸術監督という現場監督みたいなものがあるものの)実行委員会と名がつけば、展示会の運営実行企画組織であり許認可を受ける申請側の組織位置付けが普通でしょう。
この場合の権力行使者は施設管理者であり、施設許可権限行使→許可取り消し若しくは特定展示品に限っての使用許可取り消しというものでしょう。
これをやったのが東京都美術館の権限行使であり、今回は県知事(条例等で美術館館長等に権限委譲?)が許可権者を兼ねているので、(これの行使をすると県が許可していたこと自体が問題になるので)これをせずに借りる側の委員長として委員長専決・中断して世論の動きを見ようとしたようです。

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