憲法改正・ 変遷2(非嫡出子差別違憲決定)

12月16日の夫婦別姓合憲判決は、まだ判決文を入手出来ませんので昨日私の推測を書きましたが、数年前に出た非嫡出子の相続分差別違憲判断の決定文は公表されていますので、憲法判断に関する最高裁の考え方を参考にするために以下紹介していきます。
非嫡出子の相続分差別を合憲とする前最高裁判決が出た事件当時(当然のことながら、実際の相続開始は、最高裁に行く何年も前に起きた事件です)頃にはまだ社会状態から見て不合理な差別ではなかったが、今回の事件の起きた平成13年頃には、既に違憲状態になっていたと言う・・何十年単位の時間軸で見た・・社会意識の変化を認定した結果の判断が示されています。
この判断方式によれば平成7年に合憲判決が出たときには、まだ非嫡出子差別を許容するのが憲法の内容であったが、憲法がいつの間にか変遷し・・遅くとも平成13年に変わっていたことが平成25年になって、最高裁決定で認定されたことになります。
仮に日本国憲法が占領軍に強制されたものであるにしても、強制を理由に直ちに無効にすることが出来ない・・イキナリ反古するのは対米国外交的にも得策ではないし、乱暴過ぎます。
日本人の社会意識が変遷すれば自動的に憲法で許される範囲→許されない範囲の境界が変わって行く・国民投票で憲法を一挙に変えて行く必要がないと言うことではないでしょうか?
非嫡出子差別違憲・・夫婦同姓合憲の両判最高裁判断を見れば、(憲法の意味を社会の実態を無視して先進国の解釈や哲学をそのまま持ち込むのではなく)社会意識の変遷に合わせて、順次合理的に決めて行くべきと言う私の意見と同じであると思われます。
民度に応じた政治が必要と言う意見を、2015/11/29「民度と政体11(IMF~TPP)」まで連載してきましたが、今朝の日経新聞22pに民俗学者梅棹氏の論文の考え方によって、内部からの自然発展段階を経ている西欧と日本以外・・外部思想輸入による中国やロシア等では、発展の仕方を違った視点でみることが重要である旨の、経済学者渡辺利夫氏の着眼が掲載されています。
ちなみに梅棹氏は「知的生産の技術」などで一般に良く知られた碩学で、同氏のスケールの大きな思考に感激して大阪の万博公園内の民族博物館を妻とともに見学したことがあります。
このように憲法が時間をかけて変わって行くのを待つとすれば、憲法改正はすぐには出来ない・「新しい時代対応は憲法改正してからにしろ」と言う主張は無理がある・・政策反対論を憲法論に言い換えているに過ぎない・・何でも憲法に絡めて反対する「社会党が何でも反対党」と言われていたのと同じです。
憲法が徐々に変わって行くと、どの時点で憲法が変わったかはっきりしないと困る場合があるので、誰かが好奇心で争うと、・何年ころには「遅くとも」変わっていたと言う認定・・この確認作業を最高裁判所がしていると言うことではないでしょうか?
景況感に関しては、景気の谷がいつで、好景気のピークがいつだったと言う景気認定を政府・日銀が後で発表していますが、同じような機能です。
違憲立法審査権と言ってもその程度の意味・権能に理解するのが、合理的で社会が安定的に進歩出来てスムースです。
チャタレー事件で争われた猥褻の概念も、当時はその程度で猥褻になったが、今ではその程度では誰も猥褻とは思わないと言うのが常識的理解になっています。
ただし、以上は一般に言われているだけで警察もその程度では検挙しなくなっているので、本当はいつから意識が変わったのか誰も分らないですが、警察が仮に検挙に踏み切ると、(遅くとも)いつの頃から表現の自由の範囲内に変わっていたかが、判決または決定で認定されます。
以下非嫡出子差別違憲決定の抜粋です。

平成24年(ク)第984号,第985号 遺産分割審判に対する抗告棄却決定 に対する特別抗告事件
平成25年9月4日 大法廷決定
「・・・・法律婚主義の下においても嫡出子と嫡出でない子の法定相続分をどのように定めるかということについては,前記2で説示した事柄を総合的に考慮して 決せられるべきものであり、またこれらの事柄は時代と共に変遷するものでもある・・・・
(3) 前記2で説示した事柄のうち重要と思われる事実について,昭和22年民法改正以降の変遷等の概要をみると,次のとおりである。
・・・戦後の経済の急速な発展の中で,職業生活を支える最小単位として,夫婦 と一定年齢までの子どもを中心とする形態の家族が増加するとともに,高齢化の進展に伴って生存配偶者の生活の保障の必要性が高まり、子孫の生活手段としての意義が大きかった相続財産の持つ意味にも大きな変化が生じた。
・・・・昭和55年法律第51号による民法の一部改正により配偶者の法定相続分が引き上げられるなどしたのはこのような変化を受けたものである。さらに,昭和50年代前半頃までは減少 傾向にあった嫡出でない子の出生数は,その後現在に至るまで増加傾向が続いているほか,平成期に入った後においては,いわゆる晩婚化,非婚化,少子化が進み, これに伴って中高年の未婚の子どもがその親と同居する世帯や単独世帯が増加しているとともに、離婚件数,特に未成年の子を持つ夫婦の離婚件数及び再婚件数も増 加するなどしている。これらのことから,婚姻、家族の形態が著しく多様化しており、これに伴い婚姻,家族の在り方に対する国民の意識の多様化が大きく進んでいることが指摘されている。
・・・エ 前記イ及びウのような世界的な状況の推移の中で,我が国における嫡出子と 嫡出でない子の区別に関わる法制等も変化してきた。すなわち,住民票における世帯主との続柄の記載をめぐり,昭和63年に訴訟が提起され,その控訴審係属中で ある平成6年に,住民基本台帳事務処理要領の一部改正(平成6年12月15日自 治振第233号)が行われ,世帯主の子は,嫡出子であるか嫡出でない子であるか を区別することなく,一律に「子」と記載することとされた。また戸籍における 嫡出でない子の父母との続柄欄の記載をめぐっても・・・平成16年に戸籍法施行規則の一部改正(平 成16年法務省令第76号)が行われ,嫡出子と同様に「長男(長女)」等と記載 することとされ,既に戸籍に記載されている嫡出でない子の父母との続柄欄の記載も,通達(平成16年11月1日付け法務省民一第3008号民事局長通達)により,当該記載を申出により上記のとおり更正することとされた。さらに最高裁平成18年(行ツ)第135号同20年6月4日大法廷判決・民集・・は嫡出でない子の日本国籍の取得につき嫡出子と異なる取扱いを定めた国籍法3条1項の規定(・・・改正前のもの)が遅くとも平成 15年当時において憲法14条1項に違反していた旨を判示し,同判決を契機とする国籍法の上記改正に際しては,同年以前に日本国籍取得の届出をした嫡出でない子も日本国籍を取得し得ることとされた。
・・・・昭和54年に法務省民事局参事官室により・・・公表された 「相続に関する民法改正要綱試案」において,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を平等とする旨の案が示された。また,平成6年に同じく上記小委員会の審議に基 づくものとして公表された「婚姻制度等に関する民法改正要綱試案」及びこれを更 に検討した上で平成8年に法制審議会が法務大臣に答申した「民法の一部を改正する法律案要綱」において,両者の法定相続分を平等とする旨が明記された。もっとも,いずれも国会提出には至っていない。
・・・・当裁判所は、平成7年大法廷決定以来,結論としては本件規定を合憲とする判断を示してきたものであるが、平成7年大法廷決定において既に嫡出でない子の立場を重視すべきであるとして5名の裁判官が反対意見を述べたほかに、婚姻, 親子ないし家族形態とこれに対する国民の意識の変化,更には国際的環境の変化を指摘して,昭和22年民法改正当時の合理性が失われつつあるとの補足意見が述べられ、その後の小法廷判決及び小法廷決定においても同旨の個別意見が繰り返し述べられてきた。
・・・・・・・以上を総合すれば、遅くともAの相続が開始した平成13年7月当時においては、立法府の裁量権を考慮しても嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。
したがって本件規定は遅くとも平成13年7月当時において、憲法14条1項に違反して・・・というべきである・・・。」

憲法改正・変遷1

先進国のありようを後進国留学者が学んで来て、立派な概念を輸入・→「一般国民に教えてやる!」場合に、(遅れた?)国民から見れば急激な・・想定外の大変化になります。
分り易くするために文字・・成文法で書く・・本などを書くからには・・何回も見直すことになる結果、前後整合性のあるように自然に体系的な形式になります。
これを国民に教える・・普及させる人が必要ですから新しく考えるよりは過去の事例を学ぶのが得意な学者が指導性を発揮します。
先進国の場合、他所からの完成品の輸入ではなく必要に迫られて実行してみた結果、生じた不都合に合わせて修正して行くことになる・・徐々に社会意識や実態が変化していくのにあわせて憲法解釈を変えて行くのが合理的です。
この辺の違いは、先進社会であったイギリスの経験論と大陸の観念論と言うテーマで12月17日に書きました。
左翼・文化人は未だに自分たちだけが知っている自慢をするためか?国連情報などを振りかざして「前衛」と言う立場で、国民を指導しようとしているから、おかしなことになっているのです。
この辺はNGOが頻りに「国連報告」と言う箔付けを得て、国内政治に利用している動きの批判を書いているところで、「国連報告のいかがわしさ2(御神託)」2015/11/18以来話題が横にそれていますが、共通の問題ですから、近い内にそのテーマに戻ります。
先進国では、イキナリ他所から有り難い考えを学んで来て改正運動するのではなく、社会実態の変遷に応じて憲法が徐々に変わって行くべきです。
タマタマ今朝の日経新聞朝刊の「私の履歴書」を読んでいると、米国で最先端流通を学んで来て国内で張り切って実践しようとして現場と合わないで失敗した元大丸社長の経験談がのっています。
流通現場に限らず社会と言うものを相手にする場合、相手にする社会意識を無視出来ない点はみな同じです。
例えば非嫡出子の相続分差別が合理的か否か、夫婦別姓を認めないのが憲法違反かに関する意見は、夫婦のあり方に関する憲法意識・・社会実態の変化・・女性の社会進出の流れその他を経て議論が熟して行くものですし、(数学の計算のように頭さえ良ければすぐに答えが出るものではないばかりか、他国の意識を基準にするべきものでもありません。)社会の基本に関する意識の変化は10年や20年で決着がつかないのが普通です。
タマタマ12月16日夫婦別姓に関する最高裁判決が出ましたが、この判決文はまだ入手出来ないもののマスコミ報道によると、観念論によって決めるのではなく、社会実態の変遷を詳細に認定したうえで、夫婦別姓を認める方向へ意識が変わりつつあることを認めながらも、姓の選択権を認めないのが違憲といえるほど社会意識が今なお熟していないと言うもののようです。
裁判所が神様のように御神託を述べるのではなく、社会がどう思うようになっているかの事実認定をする機関と言う立場の宣言です。
選択制を望む国民が多いのに憲法が邪魔しているから改正出来ないのではなく、法律改正すれば足りる・・立法府の自由裁量であるのに反対論が多くて立法に至っていない状況それ自体が、国民意思がなお充分に一致していない状況を表していると判断した大きな理由であると推定出来ます。
国民主権が事実上無視されている状況があれば別ですが、今のところ選挙の公正が保たれているし、政党の勢力分布は、国民意思を大方反映していると見ることに国民が違和感を持っていないでしょう。
別姓支持者も内心意思を分析すれば、別姓がいいかどうか少しは迷っている人がいるでしょうし、自民党支持者もみんなが反対とは思われません・・一人の人間の中で見てもいろんな意向が入り組んでいる状態で法案を通そうとする強い力になり切れていない曖昧な状態が正に国民総意であると思われます。
このような判断過程を経た結果、夫婦別姓を認めるかどうかは、政治・国民意思で決めるべき分野であって国民が決めかねている状態を(上から目線で?)違憲とまで決め付ける・・即ち選択権を認めよと国会に強制するのは、越権?時期尚早と言う判断のようです。
文化人は国民が迷っていることについて(自分が進んでいると思う方向へ)一方的に裁判所が神様のように(一歩先に)決めてくれるのを期待して、訴え提起することが多く、今回の合憲判決に落胆している・・裁判所の後進性?に不満があるようですが、司法機関は過去の事実を公平に認定するための証拠法則などに精通していて訓練をうけていますが、先見性の能力が保障されている訳ではありませんから、社会が進むべき指導力発揮を期待すること自体が誤りです。
近代に確立した法体系・近代法の原理がテロの挑戦を受けていると言うテーマに関して、司法権・・刑事手続が、過去の事実認定手続に特化している・・テロ予防に対応出来ない点がある・・・近代社会で確立した憲法自体部分的に変容して行くべき時期が来ていないか?と言う観点でこの後で書く予定です。
司法権が権限・能力外の、社会が今後どうなるべきかの意見表明をしない・・減殺の社会意識の事実認定に限定する謙抑性があって当然です。
違憲か合憲かの憲法判断は、抽象論ではなく具体的社会実態に即して行なうべき・・憲法学者の空理空論によるべきはなく、日本社会意識・・実態(別姓による実際の不都合の程度を含めて)に即して行なうべきと言う立場でこのコラムを書いています。
国民意識の大半が決まっているのに立法府が怠慢している場合、違憲とすべきでしょうが、まだ曖昧な状態の場合、裁判所が率先して方向性を決めるべきではありません。

憲法改正の時間軸

多くの国では国家の基礎軸を変えるような憲法改正は、革命的騒乱状態の結果新憲法が制定されています。
フランスでは憲法の大幅な改正の都度第4〜5共和制などと、新国名が出来ていますし、タイでもクーデターの後に新憲法制定ですし、エジプトなども新憲法制定は大騒乱の後です。
騒乱まではないとしても、憲法は重みが違いますので普通の法律改正のように毎年のように簡単に改正が決まるような性質のものではありません。
目の前の緊急事態への対応を問われているときに、5〜10年以上かかる「憲法改正してから考えましょう」と言うのでは、「現実対応するな」と言うのと同じです。
まして非武装平和論者の多くが護憲論者でもあり、憲法改正に必要な手続き法の整備に着手することさえ強硬な反対論者であることが普通ですから、なおさら不可能です。
集団自衛権必要説に表向き賛意を示しながら「憲法改正が先だ」閣議決定変更反対・・(前自民幹事長石破氏のような)意見は、結果的に何も出来ない、何もしないで相手のナスがママに傍観しているのが正しいと言う結果を求めていることになります。
結局本音では「中国の好きにやらせておけば良い」と言う意見を持っていることになります。
政治家は学者ではないので、その言うことのもたらす結果に責任を持つべきですから、石破氏は憲法改正まで何もしない方が良いと言うのは、集団自衛権反対論者と同じ結果を求めていることになります。
彼が集団自衛権の具体化をになう新設の安保法制閣僚就任を辞退したのは、正解と言うか、もしも受諾していれば実質反対論者が政策遂行責任者になって矛盾するところでした。
イラクやアフガンへの派兵について考えれば分りますが、「派兵協力するのに賛成だが先に憲法改正が必要」と言えば、実際にはその間に派兵の必要な時期が終わってしまうことは誰の目にも明らかでした。
だから、憲法改正が先だと言うと間に合わないのが分っているので「日本は非協力だ」とアメリカが怒ってしまうので、憲法改正しないでイラク特別措置法が成立したのです。
現に直ぐに解決しなければならないことが起きているときに、本気で効果的な行動をしようとすれば、憲法改正論では間に合わないことは誰でも分っていることです。
今回の尖閣諸島有事に際して、「憲法改正があるまで対応するな」「議論もするな」と言えば、日本はその間何も出来ないし、いろんな準備すら出来ないので、事実上「中国のやりたいようにやらせろ」と言う意見と同じになります。
非武装平和論=護憲論者・・内容如何にかかわらず憲法改正に反対であると言う勢力が「憲法改正が先に必要」と言うのもおかしな意見ですが、「憲法改正が先に必要」と言いながら「自分たちは内容にかかわらず常に反対ですよ!」となれば、集団自衛権反対論者による集団自衛権議論・必要か否かの議論先送り論・思考停止要求と同じです。
こうした批判・思考停止論が日本を支配するので、中国が戦端を開いても日本は殆ど無抵抗なのですぐに占領出来ると言う意見が、親中韓派文化人を通して中韓に伝っていたようです。
日本が防衛するか否かの議論すらして良いのかと言う入り口段階で小田原評定を続けていれば、思考停止状態に陥っている合間に「迅速に占領してしまえば勝負あり」と中国の方針が決まっていたようです。
まさか集団自衛権閣議決定変更にまで進むとは思わなかったようで、中韓では慌てて判で押したように日本の軍国主義精神の復活化がアジア世界に不信感を呼び起こしていると言う紋切り型の日本批判論を展開していました。
日本のマスコミは、これを大規模に引用して(アジアで孤立したら大変じゃないかと言わんばかりに)援護報道していました。
肝腎の東南アジア諸国が中国の強引な軍事行動に恐怖感を抱いて日本の助けを求めている状態ですから、そう言う国々に対して日本の軍備強化が危険だと言う報道を臆面もなくすること自体が、日本マスコミや中韓の非常識さの世界発露となって恥をかいている状態です。
朝日のでっち上げ慰安婦報道や南京虐殺報道に中韓が便乗していた結果、今になって恥をかきつつあるのと同じです。

民法改正2

民法は基礎法で素人も関係するから素人にも分るようにすべきだと言うならば、・・「借りたら返す義務がある」「物を買えば代金支払い義務と売った方は売った物を引き渡す義務がある」と言う現行民法のように基礎的原理だけ書いておいて、詳しくは学説判例によるというのも一方法ではないでしょうか?
結局現民法のような簡潔版で良いとなりますので、抵抗勢力の仲間入りになるのかな?
ただし私がここで書いているのは、条文を冗長にする必要がないと言うだけであって、その他の民法内の各種分野で改正案の検討が進んでいる内容について反対しているのではありません。
どの条文をどのように変更した方が良いかなどの具体的な勉強をしていませんので、反対するような意見を持ち合わせていません。
法律家と言っても毎日の仕事に忙しいので、具体的な改正作業について時々耳に入って来る程度ですから国民一般ではそもそも、民法改正が生活にどのような影響があるのか更に分らない筈です。
学説判例も今ではネット化されているので、その気になれば該当箇所を法学の素養がなくともいろんな角度からの検索が可能ですから、ある程度問題点を抽象化する能力があれば検索が可能です。
「家を建てる契約すればきちんと建てる義務がある」までは良いとして、鉄骨や基礎配筋がどの程度足りないと契約違反になるかまで法律に詳しく書かないのが合理的です。
基本原理だけが法律にあればよくて、その先の微細な基準は何かで調べる程度の手間をかけるかプロに聞かないと分らないのは仕方がないでしょう。
その先の細かいルールを知りたい人が、見れば分るようにしておけば足りる筈です。
数十年前までは六法程度(と言ってもいわゆる六法の外に税法や地方自治法や行政法関連や労働法関連、福祉関連等膨大になる一方でした)までは市販されていましたが、その先の細かい政令や省令等がよく分らない状態でした。
今では、六法全書を買ってもどうせあらゆる法律が網羅されていないことから、六法全書で調べるよりはネットで必要な法律を検索する方が便利な時代になって来ました。
私の事務所でも今年から六法全書を買うのをやめました。
ネットの場合は、政省令や規則・・通達・ガイドラインまで知りたければ直ぐに見られる時代ですから、何もかもを法律でベタにしておく必要がないように思えます。
法律は目次程度の利用(大見出し程度)にしてその関連の政令や省令はどんなのがあると言う例示を書いておいてくれれば、そこから順に詳細を探って行く方が合理的です。
法律が目次程度の役割でしかなく、実際の細かいルールが政令や省令で決まるのでは法治国家と言えないという民主主義信奉論者らの批判が起きます。
しかし大方の方向性さえ国会で決めれば、その範囲内の細かいルールは政省令や規則通達やガイドラインで決めて行くしかないのは現実問題として仕方のないことです。
何回も書きますが、原発の安全基準・・機械設備の設置・運営基準を国会では基本方針程度は示せても微細に渡って議論するのは(機械設備の進歩は日進月歩です)無理でしょう。
国会は原発を発展させるのかやめて行くのか、どの程度の安全を求めるのかの方向性を示す必要がありますが、どのような機械を設置してどのような運転をすべきかまで具体的に決める必要がありません。
新幹線や航空機でも同じで細かい機械仕様書のあり方・ビスは何センチ間隔にするべきかとか、運行マニュアルを国会で議論しても始まらないでしょう。
今の世の中はこう言う細かいマニュアルで成り立つようになっているので、これを国会軽視と嘆くのは時代錯誤です。
むしろ規則やマニュアル作成段階を民主化・・透明化して行く方が合理的です。
ここに族議員等が暗躍しているのですから、法律にしろと言う議論よりはこの分野の透明化をして行く作業を進める方が現実的です。
原発の立地基準作成の民主化とは、候補者名の連呼活動によるのではなく、地震学会その他の知見を合理的に公開で議論出来るような仕組み造りではないでしょうか。

民法改正1

民法の抜本的大改正作業が内田貴元東大教授の努力で進んでいますが、その特徴は判例等で解釈が固まっている細かなルールまで法文に乗せてしまい、素人にも分り易くしようとするものですから、膨大な条文になりそうです。
(まじめに勉強していないので誤りがあるかも知れませんが、結果として膨大な条文になることは多分間違いがないでしょう・・)
新民法改正方向ではあまりにも条文が膨大になり過ぎて却って分り難いのではないかと玄人からすれば言いたくなりますが、この種議論も一種の抵抗勢力と言えるのでしょうか?
「民をして知らしべし」という思想からすれば少しでも分り易くすることは良いことかも知れません。
(ただし、学説判例で決まっている程度ですと柔軟に変化対応出来ますが、法律自体が細かすぎると社会のちょっとした変化がある都度、法律改正が必要になる・・時代変化に対応するのに時間がかかり過ぎる問題があることを7月29日に書きました・・)
今の民法の条文では、そこだけ見ても何のことやらさっぱり分らず、あちこちを総合して、さらに判例等をみないと答えが出て来ない・・法律学の訓練がないと条文だけ見ても訳が分らない仕組みです。
これでは素人にとっては法の意味を理解出来ないままですから、法治国家と言えないのではないかという疑問が生じます。
法治国家とは、国民が法を理解してこれを守るところに意味があるとすればそのとおりでしょう。
そうではなく、国民の代表である議会で制定した範囲のことしか権力行使出来ないようにする・・権力行使制限のために法治国家の思想があるとすれば、庶民全部が法律を理解していなくとも国民代表が理解して法制定に参画・同意していれば良いことになります。
権力の行使が法に違反しているかどうかについては最終的に裁判所が判断してくれる仕組みが今の原理ですから、国民個々人が法の明細を知っている必要はありません。
数日前から書いているように各種分野の規制・規則は専門化が進んでいるので、その職種に関係のない国民がこれを誰でもちょっと見たら分るようにすることにどれだけ意味があるのでしょうか?
原子力発電所の細かな技術基準や放射性治療室入室の規制その他飲食関連の保健衛生ルール・風俗営業法の規制・・建築基準法の鉄骨量やコンクリート等の基準など関係ない人が知っておく必要はありません。
廃棄物を勝手に棄ててはいけないらしいという程度のことを知っていれば良いことです。
業として行なうのに必要な知識を業者が身につけるべきは当然であっても、素人がちらっと見ただけで誰でも分るようになる必要はありません。
消費者はホテルやパチンコ屋、飲食店、航空機搭乗その他行った先の業種が守るべき規制法・マニュアルを知る必要がないし、専門的条項(原発の設計・仕様書に限らず、マンションなどの構造計算書や設計図書など見ても分らないでしょう)を見ても分らなくて当然です。
科学分野だけではなく金融取引のガイドライン等も金融取引に精通したプロ向けに作っているものであって、素人が見たら直ぐに分るものではありません。
一般人が知らないことを前提にクルマの運転免許を取得するには交通法規の専門的知識をテスト科目に入れているし、ボイラーマンその他全て資格試験・廃棄物処理業の許可等はこのような思想で出来上がっています。
建築の場合1級2級の建築士の資格試験があるのもこの原理によります。
これらを法律で決めれば、(その授権による規則・操作手順であってもこれに違反して事故が起きれば刑事罰の対象になる率が高くなります)国民の行動を縛るものだから、細部にわたるまで全て素人にも分るように法律に書けというのは、モーゼの十戒で間に合うような原始的単純社会の復活を望んでいるようなものです。

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