憲法改正4(国民投票の非現実性)

ところで各種分野の改革で言えば、全部が全部どころかすべての分野で国民過半の賛成で行なっているものではありません。
いろんな分野で新たなことに挑戦する場合、
例えば石原都知事の都内だけの排ガス規制あるいは、京大の山中教授の再生細胞の研究など一々国民や都民過半の同意がいるとしたら何事も出来ない相談になります。
元々何事でも過半数の国民支持で政治を行うというのは、民主主義者のフィクションです。
正確には複数選択制(実行して良い政策を2〜30個あげて下さい」という程度)の相対多数ということでしょうか?
もっと正確に言えば、信頼できる人を選んでその人に将来像の決定を委ねる「代議制民主主義」であって、選ばれた人は自己責任でまず実行し、代議士 →政党や企業トップは結果責任を取る仕組みです。
民主主義とは「結果責任」を問う仕組みというべきでしょう。
直接決定権など言い出したら、ほとんど何事も決められません。
これから必要な方向性を敏感に察知したリーダーが真っ先に方向を決めて研究開発等の先行投資などを推進していくことで企業や政治が成り立っているのです。
ユニクロがフリーズで急拡大したのは、誰も気付かないことを企画したら大成功したのです。
社会の大方が認めるトレンドの後追いするだけの企業は失敗がなくて手難いようですが、2番煎じばかりでは出遅れるばかりで長期的にはジリ貧ですし、その程度のことをするだけならばトップ不要です。
学問もみんながこの研究が必要認めていない・トレンドでもないことに着眼して、それが何十年後に花開くのが研究の醍醐味でしょう。
政治もみんながこれが良いと定評の決まったことをするばかりでは国家が持ちません・・。
それは指示待ち人間のすることであり、国政を委ねられる代議士等の役割ではありません。
将来の目を持つ人が6割も7割もいるとしたら、(メデイアのいう通りの受け売りする人が大方ですが)それは将来の目ではなく過去の目でしょう。
多くの人(顧客自身が)がまだ気付かないうちに、市場の潜在的ニーズにいち早く気づいて商品を企画生産して供給すると飛ぶように売れる・・政治の場でも先読み能力のある人が社会のリーダー・代議士になれるのです。
政治リーダーであれ、日銀の金融政策、企業トップであれ、(みんなの意見を聞いてからでなく)まず率先して方向性を示すことであって、その結果責任を負う者のことです。
憲法は、衣服の流行や金融政策等と違い超長期に国家の方向性を決めるものであって、そんな長期スパーンで将来の方向性を見通せる人はなおさら少なくなります。
これを国民投票・多数意見・.多くはその時のメデイアの煽るトレンド・・で決めるのは、無理が出ます。
世界の憲法思考の基礎になっているイギリスの2度の革命やフランスの大革命で、国民意思をどうやって確認したでしょうか?
日本も明治憲法や日本国憲法の制定は、社会のあり方の大変革でしたが、(選挙こそしていませんが・・)国民代表たる多くの識者の意見を吸収して成案に至っているのです。
アメリカ連邦憲法は平時に制定されたにも関わらず、国民投票を実施していません。
そもそも国民投票によって憲法を制定した国があるのでしょうか?
明治憲法制定過程と自由民権運動を12月29日に紹介しましたが、自由民権運動は明治憲法成立と同時に消滅してしまいました。
もともと征韓論自体、国内の失業対策・新時代に適応できない不平士族対策を基礎にするものですが、本来は殖産興業・職業教育で対応すべきところ、維新功労者の中で旧弊な人材が、対症療法・対外冒険主義に活路を見出そうとする安易な政策にこだわったものでした。
これに対して、当時の国際情勢を土台に「安易な対外武力行使より内政充実が先である」として反対する洋行帰りの重鎮を中心とする勢力に負けて下野したものです。
「自由民権運動」という名称だけ立派ですが、内容は、士族の特権保護・既得権擁護救済団体でした。
戦後革新系諸団体文化人も自由民権運動の系譜を引くわけではないものの、名称は革新政党ですが、内容は真逆で社会の変化についていけない人・弱者救済・格差反対を主要テーマ・支持母体とするものです。
だから何か新しいことをするのに対して、まずは批判的スタンス・・結果的に何でも反対になるのです。
戦後教育では明治政府を貶すことがトレンドでしたから、西南の役その他を美化するメデイアの大宣伝や教育下で我々世代が育ちましたが、今になって内容を見ると国内政治的には近代化についていけない人のはけ口として、対外武力行使を安易に主張していた勢力をメデイアがしきりに応援宣伝してきたことになります。
不平士族をバックにした反政府運動(いわば時代に取り残され組みの反動勢力)が西南戦争の終了で完全に時代が変わったことを満天下に知らしめる結果になりました。
(士族中心の西郷軍に対して農民兵を中心とする官軍の勝利が象徴するように士族の依って立つ基礎能力を正面から叩き潰した戦争でした・・関ヶ原の合戦のようでした)
西南の役が源平合戦以来の武士を中心とする社会構造がガラッと変わっていることが、白日のもとに晒された事件でした。
不平士族を足場にする反政府の自由民権運動はこれによって事実上消滅状態でしたが、これによって明治維新体制が固まるにつれて政府内で憲法制定準備が始まると当然政府内で時期方法・条文等に関する意見相違が出てきます。
明治14年に早期制定論の大隈重信が 意見相違で下野したことに勢いを得て、自由民権運動が「早期制定運動」に活路を見出して息を吹き返しましたが、(昨日紹介したように独自意見らしきものがなく「早期制定」というだけの運動でした)憲法が成立すると目標を失って消滅してしまいました。
長期の国家方針を決めるには、諸外国の実情調査・・諸外国の歴史と日本の歴史の違いを比較し、幅広く国内識者意見の吸収などに一定の期間が必須であったことは歴史が証明しているところです。
「外国には憲法があるらしい」程度の情報で早期制定運動をする浅薄な議論を国民も受け入れなかったのでしょう。
ところで、憲法改正論で気になるは憲法とは何か?
当たり前のことですが「憲法」という名称があっても内容が国家の基本に関係ないものは憲法ではないし憲法という名称がなくとも内容的に国家の基本をなすルールは憲法であるというのが一般的考え方です。
いわゆる形式的意味の憲法と実質的意味の憲法の分類です。
例えば、https://ameblo.jp/tribunusplebis/entry-10977674757.htmlによると以下の通りです。
(1) 形式的意味の憲法
 これは、憲法という名称をもつ特定の成文法典(=憲法典)として定義される。実際には、その法典の表題が憲法であり、内容が国家の根本法であり、形式的効力が国法秩序におてい頂点にあるなどの点から、憲法と位置づけられる法典であることをも含意する。
日本国憲法、アメリカ合衆国憲法、かつての大日本帝国憲法などは形式的意味の憲法である。
* ドイツ連邦共和国基本法は、表題こそ憲法ではないが、形式的意味の憲法として扱われている。聖徳太子の十七条憲法はその内容は道徳的規範であり、形式的意味の憲法には含まれない。

憲法改正3(特別多数と国民投票が必要か?1)

明治憲法は在野の憲法制定運動が奏功したかのように、自由民権運動が大きく教育されてきましたが、政府が憲法の必要性に目覚めて率先して取り組むようになったので、それに触発されて便乗意見が起きた面も否定できないでしょう。
もともと自由民権運動は、征韓論に破れて下野した板垣らによって始まったものであって、西南戦争まで連続する不平氏族の反乱を煽っていた不平勢力に過ぎません。
西南戦争でケリがついて、不平を言っても仕方がない社会になって沈静化していたのですが、昨日書いた通りいろんな法制度ができてくると、法と法の関係や上位規範の必要が出てきたところで、政府がこれに取り組むようになって内部で色んな意見が出ると早速これに飛びついた印象を受けます。
(私個人の偏った印象ですが?)
政府が先に憲法秩序の必要性を検討していて、政府内の大隈重信は早期制定論でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95によると自由民権運動は以下の通りです。

1873年(明治6年)、板垣退助は征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂し、板垣は西郷隆盛・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らとともに下野した。(明治六年政変)
経緯 自由民権運動は三つの段階に分けることができる。第一段階は、1874年(明治7年)の民選議員の建白書提出から1877年(明治10年)の西南戦争ごろまで。第二段階は、西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)ごろまでが、この運動の最盛期である。 第三段階は、条約改正問題を契機として、この条約改正に対する反対運動として、民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心と明治20年前後の運動である
[1私擬憲法
国会期成同盟では国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと翌1881年(明治14年)までに私案を持ち寄ることを決議した。憲法を考えるグループも生まれ、1881年(明治14年)に交詢社は『私擬憲法案』を編纂・発行し、植木枝盛は私擬憲法『東洋大日本国国憲按』を起草した。1968年(昭和43年)に東京五日市町(現・あきる野市)の農家の土蔵から発見されて有名になった『五日市憲法』は地方における民権運動の高まりと思想的な深化を示している。
「参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、1881年(明治14年)に起こった明治十四年の政変で、参議・伊藤博文らによって罷免された。一方、政府は国会開設の必要性を認めるとともに当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。
注2 ただし板垣らの民撰議院設立建白書は当時それほどの先進性はなく、自らを追放に追い込んだ大久保利通ら非征韓派への批判が主体であり、政府における立法機関としての位置づけも不明確であった。むしろ板垣や江藤・後藤らが政権の中枢にあった時期に彼らが却下した宮島誠一郎の『立国憲義』などの方が先進性や体系性において優れており、現在では民撰議院設立建白書の意義をそれほど高く認めない説が有力である。稲田 2009などを参照。

上記の通り不平士族を支持基盤にしている結果でしょうが、国民悲願の不平等条約改正に対する反対運動が活動の中心であったなど、変化に対して何でも反対・国益などどうでもいいような動き・・今の革新系文化人思想家の先祖のようです。
秩父困民党事件(1884年明治17年)10月31日から11月9日)は不正士族・自由民権団が加担したので、過激になったと言われています。
(条約改正反対とは不思議ですが、これを実現するためには外圧・欧米の要求する近代化・法制度の導入→時代不適合の旧士族が困るので反対したのでしょうか?)
この3〜4年革新系がしきりに強調する近代法の法理とか、近代立憲主義とは、絶対君主制打倒によって生まれたばかりの革命政権では、いつまたちょっとした力関係の変化で「王政復古」するかも知れない過渡期にあって革命家がハリネズミのように緊張していた時代の思想です。
革命直後の「近代憲法」と違い、明治憲法の時でさえ、対外関係上君主が自発的に憲法を制定するしかない国際状況下にあって、もはや絶対王政が復活する余地がなかったし、憲法ができる前から天皇親政などできる能力がなかったので、親政の復活など誰も心配しなかったでしょう。
まして日本国憲法では、「現代民主主義国家」になって憲法の改正発議権が政府から国民の意見を代表する議会に移っているのに、国民が自分で選んだ議会の発議→決議に国民が抵抗するために国民の同意を要件にする必要があるという考え方自体非論理的です。
民主主義国家においては、国民代表の議会が憲法も決めるのが普通で、EU加入・離脱や国自体の合併のような最重要事項について議会の都合で自信がないときに国民投票をするのが合理的です。
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/issue/0584.pdf

諸外国における国民投票制度の概要 国立国会図書館 ISSUE BRIEF N
UMBER 584(2007. 4.26.)
スペインでは、憲法の全面改正ないし特定の条項の改正の場合にのみ国民投票が義務的要件とされ、そうでないときは一院の10分の1の議員の要求により国民投票が行われる(憲法第167、168条)。
スウェーデンでは、基本法2の改正には、国会(一院制)における、総選挙を挟む2回の議決を要するが、第1回の議決の後に3分の1の議員の要求があれば、その総選挙と同時に国民投票が行われる(統治法典第8章第15条)
フランスはこれらとは異なり、国会議員が提出した憲法改正案は国民投票を要するが、政府が提出した場合は、大統領がこれを両院合同会議に付託すれば、国民投票は行われない(憲法第89条)。これまでの事例では、国民投票より両院合同会議による憲法改正の方が多い。
主要国のうち、アメリカ、オランダ、カナダ、ドイツ、ベルギーでは、住民投票は別として、憲法改正の場合も含め国レベルでの国民投票の制度は、憲法上は規定されていない。
フィンランドでは、国民投票についての規定はあるが(憲法第53条)、憲法改正は国会選挙を挟む2回の国会(一院制)の議決で成立しうる(同第73条)。

上記の通り、日本国憲法を事実上主導した米国自体が、憲法改正は国民代表の議会で行なっている(周知の通り修正◯条という付加方式です)ので日本国憲法に限って事実上不可能なほど厳しい要件にしたのは、まさに憲法前文の「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」半永久的従属支配下におく思想の法的表現です。
国民投票をするならば、そもそも、3分の2の国会議決の必要がないでしょう。
国民投票をするのは、重要事項なので議会だけで決めてしまうのに自信がない時・たとえば49対51の僅差の時に「国民の声を聞いてみよう」という時に限るべきではないでしょうか?
そうとすれば、圧倒的多数の場合には不要な気がします。
国会議決を厳重にして即憲法改正にするか、スペインのように10分の1の提案で足りる代わりに国民投票するかどちらかにすべきでしょう。

立憲主義5と憲法改正2

昨日紹介した通り日本国憲法は超特急審議で制定された憲法ですが、それだけに一般の法とは違って、修飾語がやたらに多いものになっています。

日本国憲法
昭和21年11月3日公布
昭和22年5月3日施行
前文
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

人権は天賦不可譲のものである・・憲法以前のものであるかのような言い方が一般的ですが、そんなことは憲法に書いていません。
11条には、「・・この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」というものであり憲法によって「与えられた」ものです。
そもそも憲法によって保証されてこそ意味があるのであって、日本憲法の及ばない場所ではこの意味を持ちません。
よその国に行って(たとえば中国などで)表現の自由その他すべての基本的人権が日本憲法で保証されていると言っても通じないことは誰にでもわかる論理です。
前文には、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」と書いていますが、この憲法に反する憲法を排除するとはどういう意味でしょうか?
未来永劫、これに反する憲法禁止→改正してはならないという意味でしょうか?
しかし、上記の通り憲法改正手続きが定められているのです。
およそありとらゆる決まりごとは時代の変化によって変わって行くものですが、改正手続き条項がないと硬直化してしまい革命的動乱を待たないと変えられないないのでは困るので、柔軟対応できるように改正規定を設けておく方が柔軟対応できて合理的というだけのことです。
直近の例では、皇室典範の改正論議がありました。
明治維新〜日本国憲法制定当時は、日本の歴史上・院政の弊害に鑑み、生前退位を認めない・・薨去直前の短期間の疾病中には臨時的な摂政制度で間に合う前提で天皇制度ができていました。
多くの人の寿命が90代に伸びてくると、重病にかかっていない・健康?であるが、高齢のために多様な公務に耐えられないような中間的状態が長期間予想される時代がくることは想定外であったからですが、もしも明治の初めまたは日本国憲法制定時に今後永久的に生前退位を認めないという禁止規定になっていたらどうなっていたかです。
このようにその時代に最善と思っていたことでも、想定外の事態で基本方針を変えなければならないことが起きてくるものです。
自分の制定した法の中にこれが最善であり今後「法(原則)の改正を許さない」と書き込むこと自体、「神を恐れぬ」傲慢な考え方であり、古来からの柔軟性を尊ぶ日本民族の発想と大いに違っています。
GHQは自己の支配(再軍備禁止)を永続化するために特別決議の他に国民投票という二重の縛りをかけました。
そもそも、よって立つ日本国憲法制定自体に国民投票を経ていないし、しかもわずかな期間の形式審議で制定しているのに、その改正の場合だけ3分の2の特別決議でしかも国民投票が必要というのも法理論上均衡を失しています。
ところで明治憲法にも3分の2条項がありますが、これは、憲法改正の発議権が国民代表の議会になく「勅命による発議」を前提にしていて、国民代表の議会と政府が対立関係にあることを前提にした制度で、発議権が国民代表になく君主・政府にある側面で根本から違っています。

大日本帝国憲法 明治二十二年二月十一日
第73条
将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

憲法は政府・君主に対する縛り・国民による監視抑制のためにあるという近代思想・まさに近代立憲思想の産物で明治憲法ができていて、「せっかく革命的騒動を経て君主に約束させた憲法をあんちょこに変えられては困る」という西欧の革命政権的立場を色濃く反映しています。
これが「勅命」で発議しても国会の3分の2以上の特別多数の同意がいる仕組み(単純多数だと切り崩されやすいので)の基礎思想です。
ところが日本の場合、実は国民の命を張った抵抗で明治維新がなったものでもなければ、憲法が生まれたものでもありません。
明治憲法の性質は欽定憲法と称される所以です。
国民の要求に応じたというよりは、明治になって次々といろんな分野の法制度を作っていくようになると、その交通整理・・法と法の優劣関係を定める上位規範・基本法が必要になるのは当然のことであって、これに加えて国際交渉上「この程度の約束をして置かないと仕方がないだろう」という対外妥協の必要性(刑罰等の法令・権利義務の整備がないと、悲願の治外法権の撤廃が見込めません→不平等条約改正など)があって生まれたものです。
中国がWTO加盟にあたって国内経済制度上の改正約束を対外的にしたのと同じ流れでしょう。

立憲主義3(憲法と法律の違い1)

ここで憲法と一般の法の関係を考え直しておきましょう。
法律制定の場合には国内の多様な利害調整手続きを経るために、膨大な意見の吸い上げや年数と冷静な議論の積み上げ・・民意吸収があります。
12月7日以来借地借家法制定過程を現最高裁長間の論文で紹介しましたが、一部再引用しますと

「昭和五0年代後半からは、土地の供給促進の観点から法制度としての借地・借家法の見直しが主張されてきた・・全面的な見直しをはかることは、難しい情勢にあった。
しかし、高度成長期を経て経済規模が拡大し、都市化がすすむと、借地・借家法が画一的な規制をしていることによる弊害が一層明らかになってくるようになった。
法制審議会の民法部会(加藤一郎部会長)は、以上のような問題意識から、昭和六O年一O月に現行法制についての見直しを開始する決定をした。」

借地借家法が成立したのは平成3年10月で施行は平成4年8月ですから、必要性が言われ始めてから施行まで約10年です。
ちょっとした法律制定まで行くには、前もっての根回しを経て10年以上かかっているのがザラです。
この法律は、過去の契約に適用がない微温的改正ですが、革命的憲法制定の場合には過去に形成された身分関係に遡及的に効果を持つ(例えば家督相続できると思って養子縁組していた人の家督相続権がなくなります)のが普通です。
このように冷静な議論を経て数年〜10年前後かけて制定される普通の法律に比べて、憲法制定は革命時などに旧政権打倒スローガンそのままで短期的な激情・勢いに任せて拙速に制定される傾向があります。
憲法という名称から、家憲・国憲・家訓のようなイメージを抱くこと自体は正しいと思いますが、いわゆる国憲や家訓等は何世代にわたって後継者が守るべき基本方針を示したものですから、何世代も拘束するに足る数世代の騒乱を治めたような一代の英傑が盤石の地位を確立した後に、(のちに家康の武家諸法度の例をあげます)将来のあるべき国家民族あり方等を考察してこそよくなしうるものであって、そのような英傑でもない一時の支配者が、自己保身・威勢を示すために内容のない事柄を家訓や国憲にしても誰も見向きもしないでしょう。
革命政権〜反乱軍が、政権掌握と同時に出すスローガンや声明程度のレベルのものを、国憲と称するのは羊頭狗肉・名称のインフレ.水増しです。
王朝あるいは数世代以上に続く大事業創業者の残す家訓は、盤石の成功体験に裏打ちされた訓示を子孫に残すものですが、それでも時代の変化によって意味をなさなくなることがあります。
まして、旧政権を打倒したばかりで制定される新政権樹立時に制定される憲法は、旧政権打倒のために(便宜上争いを棚上げして)集まった反体制各派の寄り集まり・連合体である革命勢力は、旧政権打倒成功と同時に各派間のヘゲモニー争いを内包しています。
(本格的革命であるフランス革命やロシア革命では、王政崩壊後革命勢力間の勢力図が目まぐるしく変わっています)
革命の本家フランスの場合、大革命後ジャコバン対ジロンド党.王党派の政争の末に、ナポレオン帝政となり、王政復古〜第二帝政〜共和制〜ナポレオン3世等の動乱を繰り返して現在第5共和制憲法になっていますが、第5共和国と言われるように(一部条文の改正ではなく)憲法精神の抜本的入れ替えの繰り返しでした。
第5共和国憲法は革命的動乱を経ていないので、その分落ち着いて作ったらしく最長期間になっているようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95

フランス共和国憲法(フランスきょうわこくけんぽう、フランス語: Constitution de la République française)は、1958年10月4日に制定されたフランスの憲法典。第五共和制の時代に作られたことから、第五共和国憲法(フランス語: Constitution de la Cinquième République、第五共和制憲法、第五共和政憲法)とも呼ばれる。

もともと政体大変更の場合、旧体制(アンシャンレジーム)と「こういう点が違う」と新政権は大見得を切る必要があって、壮大なスローガンを掲げたくなるもので、いわば政治的プロパガンダ・公約みたいなものです。
フランス革命では「身分から契約へ!」と言われ、我が国で民主党政権獲得時の「コンクリートから人へ」と言ったような自分の主張を、のちに否定変更されにくいように強固な「法形式」にしたことになります。
旧体制をぶち壊しただけでその後自己権力さえどうなるかはっきりしないうちに、一般の法よりも慎重審議を経ていないプロパガンダに過ぎないものを革命体制を強固なものにするために「法」よりも改正困難な法形式の「憲法」と格上げしてきた事自体に無理があるように思えます。
無理に格上げしても実態が伴わなければ、すぐに信用をなくします。
これが、フランス革命後第5共和制に至る憲法変更の歴史です。
例えば明治維新のスローガンは王政復古であり、これを受けて維新直後にできた基本法制は、いわゆる二官八省・・古色蒼然たる太政官と神祇官をトップにしたものでしたが、もしもそれが不磨の大典扱いになっていても、多分10年も経ずして不都合に耐えられなかったでしょう。
日本人は急いで作っても実態が伴わなければ、意味がないことを知っていたのです。
明治憲法は、明治維新・大変革を得た後約20年での制定でしたし、国民生活の基本を定める民法は明治29年(1896)、刑法にいたっては明治40年になってからです。
明治憲法制定までの約20年の間に廃藩置県や司法制度等の制度枠組みを整えながらの漸次的運用・・刑事民事の欧米的運用経験・人材育成などを積み重ねた上の憲法〜民法等の制定ですから、日本の法制定は時間がかかる代わりに安定性が高いのが特徴です。
日本は民主主義などという前の古代からからボトムアップ型・民意重視社会ですから何事もみんな・・法制定に限らず裁判でも社内改革でも、関係者の意見を取り入れて行うので時間がかかりますが、その代わりみんなの納得によるので法遵守意識が高くなります。
例えば家康の禁中并公家中諸法度・武家諸法度は1615年のことで、天下を握った関ヶ原後15年も経過して満を持して発布したものです。
民法については債権法部分について今年5月頃大改正法が成立・約120年ぶりの大改正ですが、これでも骨格が変わらず概ね判例通説を明文化したもの(判例や学説の知らない素人が読んでも分かりやすくした)・・判例や学説の分かれている部分についてはどちらかになった部分がある程度・・と言われています。
以下は法務省の解説です。
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji06_001070000.html

民法の一部を改正する法律(債権法改正)について
平成29年11月2日 平成29年12月15日更新
法務省民事局
「平成29年5月26日,民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)が成立しました(同年6月2日公布)。
民法のうち債権関係の規定(契約等)は,明治29年(1896年)に民法が制定された後,約120年間ほとんど改正がされていませんでした。今回の改正は,民法のうち債権関係の規定について,取引社会を支える最も基本的な法的基礎である契約に関する規定を中心に,社会・経済の変化への対応を図るための見直しを行うとともに,民法を国民一般に分かりやすいものとする観点から実務で通用している基本的なルールを適切に明文化することとしたものです。」

今回の改正は,一部の規定を除き,平成32年(2020年)4月1日から施行されます(詳細は上記「民法の一部を改正する法律の施行期日」の項目をご覧ください。

立憲主義2と憲法改正1

12月23日の続きに戻ります。
基本的人権であれば、法で規制できないかのような刷り込みもおかしなものです。
証券取引法や独禁法の規制が自由主義経済を死滅させたでしょうか?
道路交通法や自動車の規格規制が車産業を死滅させたでしょうか?
サッカーや野球その他ルールが整備されてこそ、そのゲームが発達するのです。
表現の自由が重要であるならばこそ、本来必要な表現の自由を守りながらの規制努力が可能でありそれをすべきです。
アメリカ大統領選挙介入のロシアゲートに限らず外国政府が国内政治に簡単に介入できている現状に鑑みて言論の自由.信用を守るために、少なくともメデイアその他一定の公的機関で発言発表する前に、外国政府・機関とどういう関係があるかあるいは資金関係の開示義務その他の説明義務みたいなものから入っていくなどやる気になれば、いくらでも規制を進める方法があるはずです。
日本人が国外での日本批判を強める傾向についての問題点は(慰安婦問題でいえば、中国や韓国政府の代弁とはっきりさせるならば、「中国や韓国の意見はそうなのね!」と思って聞いているので正当な評価が可能ですが、日本人として、「慰安婦を性奴隷」であった「現実にあった」と主張すれば、中立の国の人々の受け止め方としては、「日本人でさえ認めているのだから・・」という影響力の大きさ・「客観事実の検証をするまでもない」という方向へ議論が流れてしまう・問答無用形式に流れる効果は半端ではありません。
まして政府から中立を装うメデイアや弁護士が主張すると大きな影響力があります。
これが事実検証もないまま、日本の大手新聞がいうのだから] と国連決議やアメリカ議会決議の流れを作っていった成功例?のように見えます。
「性奴隷」という主張は日弁連公式認定もなく特定弁護士グループがやっていることですが、いかにも日本の弁護士の総意であるかのようにイメージ・誤解させる効果が大きいでしょう。
誤解する方が悪いのではなく、発言者が自己の立ち位置をはっきりさせないと聞き手の多くが誤解する場合には、自己の立場をはっきりせない方に問題があります。
この場合、いわば肩書きを偽って意見表明しているのと似た効果があります。
サッカーその他のスポーツの試合で相手チームから金をもらっている選手が重要場面で失策するようなものです。
このような場合、直前あるいは継続的に大金をもらっていることが発覚すれば、本当の失策か八百長か?という問題が起きます。
所属チーム以外からのお金をもらっている場合、所属チームに届け出る義務を定めておけば問題がほとんど解決します。
メディアや弁護士が外国資金を得ているようなことは滅多にないでしょうが、いろんな意見が何故か特定国の利益に直結しそうな場合には、よほど立ち位置を慎重にする必要があるでしょう。
集団自衛権論でも憲法学者の意見と現実政策論とは次元の違いがありますが、その説明を省略.すり変えをして世論を誤導しようとしているように見えます。
憲法学をストレートに政治論にする意見は、以下に批判されるような偏りが見られます。
立憲主義とは、まずは立法府が必要な法を制定し、行政府がそれを執行した上で、それが違憲か否かの判断を最終的に最高裁判所で決めるものであって、学者が前もって決める権利ではありません。
政治評論家や経済評論家が前もって「〇〇の決断をするのが正しい」というのは自由ですが、政治家や経営者がどのような決断するかはそれぞれの分野のトップあるいは合議体構成員が決めることであり、決断者は有名学者の意見や世論調査の結果に従ったからと言って免責されるものではなく政治責任を問われます。金利政策で日銀総裁が消費税増税で多くの政治家が痛い目に遭っています。
どんな立派な学者の言う通りにしたのであろうと、景気が悪くなれば政治家はおしまいですし、憲法を守っていても外的に侵略を許して責任を免れることはできません。
以下に紹介するように戦後学問世界では自衛隊違憲論一色だったのですが今ではこれにこだわっている人は変わり者扱いですが、学者の誰が責任を取ったでしょうか?
政治家や経営者は結果責任を負うのが社会のあり方です。
実務と学問とは違うからこそ、経済運営であれ公共政策であれ教育政策であれ何であれ、各種専門家は専門分野の見地からみればどうかの意見具申するだけあって、・我々法律家も相談に際して「法的意見はこうですが、あとは経営判断です」というだけです・・最終判断は各種の意見を勘案して国民の負託を受けた政治の場で総合判断して決めるようになっています。
高校時代には学校の教えることしか知らないことから、先生が褒めちぎるプラトンやソクラテスが最高であるかのようなイメージがすり込まれた結果、その頃に習った「哲人政治」をすごい・何故そうならないのか?と単純に思ったものでしたが、大人になってくると専門家というのは、習った視野の狭い分野だけやっと理解できる・・2〜3流の人材がなるものだということが分かってきました。
ファジーな無限の可能性を総合判断する能力にかけては政治家・これもその道の専門家ですが・・に叶いません。
http://www.huffingtonpost.jp/akihisa-nagashima/right-of-collective-self-defense_b_9755976.htmlによれば以下の通りです。

「政府が従来の解釈を変更することをもって「解釈改憲だ」とする些か乱暴な議論もありますが、政府は、例えば、1954年の自衛隊発足にあたり、憲法9条2項で保有を禁じられた「戦力」の定義を大幅に変更し、自衛隊を合憲としています。
これこそ解釈改憲といえ、当時、憲法学者の殆どが自衛隊を違憲と断じました。
しかし、今日に至ってもなお自衛隊を違憲とする学者は少数といえます。
なぜでしょうか。
要は、自衛隊が、憲法の要請する法規範論理の枠内に収まるとの国民のコンセンサスが確立したからなのです。
(この現実自体を拒否する方々の議論は、そもそも本論の範疇の外にあるものといわざるを得ません。)
・・・・「要するに、最高裁において、自衛隊を合憲とした政府解釈や自衛隊法が違憲と判断されない限り、また、今回の集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更および安保法制が違憲と判断されない限り、少なくともそれらは合憲の推定を受け国家統治の上では有効だということです。
これらのプロセス全体を立憲主義というのであって、自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて「立憲主義の蹂躙だ」と叫ぶのは、法規範論理というより感情論といわざるを得ません。
もっとも、今回憲法違反あるいは立憲主義の蹂躙と主張している学者の多くは、現憲法が認める自衛権の行使は「47年見解」でギリギリ許されると解している節がありますので、それを1ミリでも超える解釈は受け入れがたいのかもしれません。しかし、この点でも、繰り返しになりますが、憲法が要請する法規範論理に基づいて検証、立論していただかねば、議論は最後まで噛み合いません。」

上記解説の通り私の勉強した当時の憲法学では、自衛隊合憲論は、「烏を鷺(サギ)というようなものだ」という意見が、(司法試験の基本書になっていた)権威ある学説でした。
このコラムは自宅で暇つぶしに書いているので(その本は事務所にあって)そのままコピペ引用ができませんが、その比喩にインパクトがあったのでよく記憶していますが・・。
自衛隊違憲判断の推移は、厳然たる歴史事実(今では「自衛隊は違憲であるから解体すべき」という意見の人はごく少数でしょう)ですが、学者の言う通り自衛隊違憲論を選択した方が正しかった・・結果が良かったとは、国民のほとんどが認めていないでしょう。
無防備の時に韓国が李承晩ラインを設定し竹島が占領したのですが、もしもそのまま無防備を続けていれば、今頃中国は尖閣諸島を簡単に占拠していたでしょう。

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