GHQによる農業国家化の強制→都市住民復活に対する疑問もあった?上に、短期間での大改正でしたので時間をかけて多くの意見を聞く必要性を感じず?嫡出非嫡出子の差別が合理的という判断になったのでしょうか?
1年余りの期間が如何に短かったかについて、以下民法制定過程や最近の改正に要した期間と比較しておきます。
17年成立した民法中債権法改正案審議は、以下のとおり審議会で公式テーマになって(そこまで行くにはその前に学会や実務界での議論を経ています)からでさえ、約10年もの歳月を要しています。
http://www.kokusen.go.jp/wko/pdf/wko-201903_14.pdf
明治政府が民法を制定するに当たって参考にしたドイツ・フランス・イギリスを含むヨーロッパなどの先進国では、近年、民法改正の検討が進められています。例えば、ドイツは2000年に民法を改正しています。こうした状況のなかで、日本でも2009年10月から、法務省法制審議会において民法(債権法)の改正について検討が進められました。審議結果を踏まえて2015年3月に民法の一部を改正する法律が閣議決定され、2017年5月に成立したという事情があります。
しかも実際に施行されるのは19年からです。
もっと前の元々の民法を作るのにどれだけの期間がかかったかを見ておきましょう。
このコラムで06/04/03「民法制定当時の事情(民法典論争1)」や刑事法制制定過程のシリーズで明治維新以降の法制定過程を紹介しましたが、民放制定に要した期間だけ見るにはあちこちの引用が必要なので、他人様の文章の引用です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/
日本政府法制顧問のフランス人法学家ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらが、1879年から1886年ごろまでに起草した日本の民法草案のひとつ。1890年に公布された旧民法(明治23年法律第28号及び第98号、財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編・人事編全1762条)のうち、「財産編」と「財産取得編」の原案
現行の民法(明治29年4月27日法律第89号、明治31年法律第9号)が施行された。
明治23年民法・・ボワソナード民法(これが旧民法と言われるものです)は約11年かかってようやく成立にこぎつけたものですが、一回も施行されないまま現行民法が約10年かかかって明治29〜31年に成立しその後施行されます。
以上見てきた通り、国民生活の根幹をなす民法の成案作りには約10年はかかるのが普通でしょう。
これを戦後混乱期にわずか1年余りで法律になったにしては内容がよくできているのではないでしょうか?
先に書いたようにもともとこのように改革すべきという意見の積み重ねが実務界であったからだと思います。
この種の意見は、戦後農地改革のシリーズでも(戦前から耕地整理の必要性や地主による搾取構造改革案が先行していた)書いたことがあります。
敗戦前の家督相続の場合、非嫡出子どころか長男以外ゼロ相続でしたから、これを半分でももらえるようにしたのはかなりの前進だったという意見もあったのでしょうか。
明治の民法がなぜ家の制度を骨格にしたかといえば、当時の産業構造がなお勤労収入による人がごく少なかったことによるでしょう。
明治2〜30年頃の民法制定当時の関係者は、武士の時代〜徳川時代だけでも約260年間も続いた家を基準した収入構造・大名や武士層は家禄収入基本で生きてきた時代の人が多かったでしょう。
明治維新から2〜30年経っても八幡製鐵などの近代工場で働く人は人口全体の例外だったでしょうし、明治30年で30歳の人は明治元年生まれ、その人たちの多くは、幕藩体制下の生き方しか知らない親に教育されて育った人たちです。
まして親世代が4〜50歳の人であれば家庭内の会話・・幕藩体制下の価値観そのものだったでしょう。
家に縛られている時代の名残の強い意識・生活習慣が色濃く残っていたから家の制度を骨格に据えたものと思われます。
小説の描写なので事実かどうか不明ですが、日経新聞小説でサントリー創業者の伝記風物語の連載を愛読しましたが、そこには当時の家族・親族関係が描写されています。
ウイキペデイアで見ると鳥井信治郎氏は明治12年生まれですから、同氏の青少年期の描写はちょうど民法制定作業開始から明治31年制定までと歩調を合わせた当時の社会状況を描写していたことになります。
戦後民法改正時(昭和22年)の社会状況と言えるかどうか不明ですが、私が育って物心ついた頃(昭和24〜5年前後頃)生活していた地方(地方の意識変化が1〜2世代程度ズレている?)の原風景と小説の描写はそれほど変わっていません。
その頃(昭和20年代中葉?私の小学生1〜2年?)の記憶ですが、明治20年頃(小学校制度が全国に行き渡った程度?)とは違い一定率の高校進学があったでしょうが(私には高校大学の区別もわからない年令でした)進学しない人もいます。
私の10歳くらい上の世代(農家次男坊以下)は新制中学卒業後小僧さんとして都会の商家などに住み込み奉公に出る習慣・盆暮れに農村地帯に帰ってくるのを見て育ちました。
就職と言わずに「奉公に出る」という表現が耳に残っているので、地方ではまだそういう意識だったのでしょう。
ちなみに明治30年生まれの人が昭和22年にようやく50歳ですから、その当時の周りの意識はそんなものでした。
鳥井氏の育った頃とは進学率・・当時は小学校普及段階?・・が大幅に違いますので小僧に出る比率が低くなっていたが、(進学率上昇が遅れる地方では)まだそう言うライフスタイルが残っていたというべきでしょうか?
未成年婚姻の場合に同意を要する父母として、戦前民法では「家にある父母」と限定していたように、明治30年代の民法制定時には核家族が例外であったから判断基準が家の内外(今の言葉で言えば生計の同一性)が重要指標でしたが、戦後高度成長後の我が国では核家族化が急速に進み、且つ相続財産の大部分が、先祖伝来の継承資産ではなく、夫婦恊働働によって形成した資産が中心になっています。
2019年7月7日の日経朝刊1ページには、農業票のテーマで「1960年には1175万人いた農業人口が、80年には3分の1の412万人、2018年には145万人」と出ています。
しかも担い手は65歳以上中心です。