戦後航空機製造技術者らが飛行機を作れなくなったので、新幹線技術に挑んで成功したことが知られていますが、これでも日本を「自由経済」主義社会の一員と言っていました。
日本で言われている自由とか人権尊重あるいは平和主義と言っても、アメリカの手の平の上にいる限りの自由であって、観音様の手のひらの端まで飛んで帰ってきた孫悟空みたいなものです。
アメリカの手の平から経済力ではみ出しそうになった日本は、プラザ合意以降アメリカの手先・中韓の攻撃に曝されるようになりいわゆる「失われた20年」を経て現在に至っています。
最近の日米関係好転の原因は、日本がアメリカによるジャパンパッシングに懲りて飽くまで「良き同盟国として)アメリカの手のひらから出ないことを明らかにし、他方中国がリーマンショック以降アメリカの主敵として躍り出た結果、攻撃相手が日本から中国に変わっただけのことです。
以下敗戦以降のアメリカによる日本の思想支配について素描します。
今になると常識化していますが、日本を対米戦に追い込んだアメリカのルーズベルト政権は容共主義者の塊・巣窟であったと言われていますが、これも反対の立場によればフェイクニュースに惑わされていることになるのかな?
ルーズベルト急死によりその政策をそのまま引き継いだ副大統領トルーマンは多分その体質をそのまま引き継いでいたと思われますが、本国では隠れ共産主義政権だったので堂々と共産主義浸透教政策をできなかったのですが、米ソ協調の戦後体制を作った直後は、日本占領統治も昨日紹介した連合軍・・主に米ソ共同統治の方向を公然実行できたことになります。
日本占領政策は共同関係である以上は、双方の思想教育を公平に行う体制になったのは結論的に見て当たり前です。
(この辺・以下は私の個人意見であり事実か否かの検証までしていませんが・・)
ただし連合軍の進駐とは言っても、米軍以外は連合軍の体裁を作るため代表を派遣していただけで米軍が実戦力の100%を占めていたので実際の占領政策は現場を握る米国(マッカーサー)の思惑通り進められたことは間違いないでしょう。
戦後すぐの東京裁判でも外形上インドその他連合国も加えましたがストーリーはアメリカ主導でした。
イラク多国籍軍でもアフガンでも主戦力の米国が決めるのを参加国が追認するだけになるのが普通です。
1月13日前後に日本国憲法制定過程で連合軍の形式を重んじて結成された極東委員会をコケにしてGHQ主導で決めてしまった動きを紹介しましたが、日本での赤化政策の遂行もソ連との共同統治に名をかりた当時の米政権の(容共体質)本音がそこにあったと見るべきです。
占領政策を担当する民政局長にホイットニー着任後G2・マッカーサーと対立関係に入っていくイメージが知られていますが、ホイットニーの率いる民政局は着々と日本の教育界やメデイア界→思想界を赤化して行きます。
民政局各個人の思想傾向については性質上公式記録には出てきませんので、周囲の評価に過ぎず客観性がないですが、民政局はいわゆるピンカー達が支配していたことが知られています。
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110417/1303041243によると以下通りの人物評です。
GHQは民政局(GS)のほかウィロビー少将率いるG2と呼ばれる治安、諜報活動を受け持つ組織があり、この二つは激しく対立していました。
ホイットニーの部下のケーディス大佐はリベラリストであり、ユダヤ人です。ウィロビーはドイツ系米国人でした。こうした関係も二つを対立させる要因となっており、ウィロビーはホイットニーやケーディスらを「ピンカーズ」と呼んで毛嫌いしていました。
ピンカーズは共産主義者という意味です。
GHQ憲法は共産主義者の手によって作られたものです。
アメリカの機密文書公開を根拠に、対日政策がユダヤ系・共産主義者主導であったかのような意見が紹介されていますので以下に引用します。
私は自分でアメリカの公文書そのものを見に行く暇も能力もないし、以下に紹介するブログ発信者自体が何者か不明です。
アメリカの公文書紹介がフェイクかどうかチェックできる人は滅多にいないでしょうが、「フランクフルト学派」の説明その他も概ね普通に見えるものの、フェイクというものは真偽織り交ぜて本当らしく見せるのが普通ですので、「ちょっと見」ではその区別できる人は滅多にいないでしょう。
以下、各自御自分の能力に応じて信じるかどうか決めていただく前提で紹介しておきます。
https://ameblo.jp/gwh28/entry-12125624098.htm
2016-02-06 10:42:00
かまくら保存の会様のフェイスブックより
1990年以降、ワシントンの国立公文書館でCIAの前身にあたるOSSの機密文書が再調査されています。
まだ全部は公開されていないようです。これによると「日本計画」といわれる対外基本戦略が作成されていることがわかっています。このOSSが知識人向けのマルクス主義と言われる「フランクフルト学派」の巣窟になっており、マルクーゼ、ホルクハイマー、E・フロムなどがいます。
このOSSはコミンテルンの方針に従っていたわけでもないこともわかっています。
日本計画は1941年12月の日米開戦直後から準備され、日本の敗北を見越し、日本をいかに軍事的に壊滅させ、以下に戦後の日本社会を攪乱させるかを目的化したものです。天皇を象徴とする方針もこのとき立てられ、伝統の力を利用して、国内を対立させ、軍事力の膨張を抑える方向へと誘導するというものです。これらはマッカーサーにも伝えられています。
・・・OSSの計画は「社会主義は軍国主義の破壊を通して、ブルジョア民主革命を達した後に得られる」という2段階革命論であり、一気に天皇打倒するのではなく、他の改革を待って廃絶させる段階を待つというものです。以前書きましたが、憲法の「国民主権」「天皇は国民の総意に基づく」というのはまず第一段階のことなのです。ソ連が強行に皇室の廃止を求めたのに対してGHQは計画通り遂行していたのです。皇室の数を制限して立ち枯れ作戦も第二段階を意識してのことでしょう。憲法九条も次の革命のときに軍隊がなければ革命を起こしやすいという目的で作成されました。
戦後日本の言論の自由・学問の自由といっても「アメリカの容認する範囲の自由」と言う枠があったのを我々戦後世代は子供の頃から教えられず、素朴に「自由な国だ」と信じ込んでいたキライがあります。
資本主義・自由主義とソ連型の共産主義・国家管理型社会を理想化する二方向教育がゆるされていたので、言論の自由がある社会に見えていただけです。